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粘る稀ながん患者の独善的コラム

2009年12月14日 (月)

上手な悩み方

職場で回覧されていたメンタルヘルスに関するリーフレットに「悩むなら「上手な悩み方」をしましょう」という記事があった。
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悩むなら 「上手な悩み方」をしましょう!

職場には悩みはつきないものですね。同じ「悩む」なら「上手に」悩んで乗り切りたいものです。悩みの「下手」と「上手」はどう違うのでしょうか?下手な悩み方とは、1.ヤミクモに自分を責める、2.どうどう巡りの思考をする、3.情報不足です。

ヤミクモに自分を責めるというのは、自分に対する無意味な仮説を立て過ぎることです。「自分には無理なのではないか?」「自分が悪いのではないか?」といった悲観的な仮説は意識的に止めることが大切です。

次に、どうどう巡りの思考をやめて、進むための思考に切り替えてみましょう。
状況を客観視し、思考を整理して、考えを明確にするためにノートと筆記用具を用意します。きちんと聴いてくれる人を確保することも有効です。
そして「自分がどうしたいの?」「問題点はどこか?」「打てる手は何か?」などの開かれた質問をしてみて下さい。何に悩んでいるかを言語化したり、書き言葉にしてみると複雑に思えた悩みも、意外に整理されます。また、自分で書いたものに、アドバイスをするつもりで、回答を書いてみると、客観的思考ができ、悩みを別の切り口で見直すことができます。

3
つ目が情報収集のアクションです。情報不足や不確かなまま、無駄に悩んでいることも意外に多いものです。社内情報、インフォーマルな情報、公的機関、社会資源、同じ悩みを抱えている人からなどです。そこから視野が変わったり、解決の糸口が見えたり、勇気付けられたり、専門的なアドバイスがもらえることが、非常に有効です。

最後に、悩む時はエネルギーが必要ですから、いつも以上にしっかり睡眠をとり、食事することを心がけてください。また、飲酒しながらの思考は厳禁です。酒は一時的に気を大きくして悩む気持ちを和らげますが、思考は止まり、捉え方が歪みます。高じればアルコール依存症など、別の問題も抱えることになりますので、絶対に避けるべきです。

「悩むこと」を恐れずに「上手に悩むこと」にチャレンジしてみてください。
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これは職場での悩みに対するものであるが、がん治療での悩みはもっと深く、かつ、深刻なことが多い。

もちろん、中には傍目からは脳天気とも思えるほど、悩みが見えない方もいるが、悩みを見せていないだけかもしれないし、真実、悩んでいないのかもしれない。確かに、標準的治療の普及により、それなりの病院ならば、治療に大差はなくなりつつあるので、悩むよりもおまかせという態度も悪くはないのかもしれない(私の価値観とは異なるが)。

このような方は別として、このメンタルヘルスの記事は、がん患者(家族)の悩み方にも当てはまるところが多いようである。

1.ヤミクモに自分を責めない

がん関係の掲示板を見ると、何故、がんになってしまったのかとクヨクヨとしている人が結構いらっしゃるようである。
しかし、現在までの研究では、様々な生活因子とがんの間に明確な関係がわかっているのはタバコだけである。
その他の、例えば、食生活については、ある研究では特定の食品とがんの関係が見られたとするものもあるが、別の研究では認められなかったとされたり、というのが実態である。タバコを除けば、がんに関係する生活要因はない、ないし、あったとしても研究により結論が異なる程度の影響しかないというのが穏当なところである。なお、巷でよく言われるストレスであるが、そもそも「ストレス」とは何者かも不明であるし、どのようにして「ストレス」を測定するのか(本当に「ストレス」を測定しているのか)なども確立していない。不明かつ測定方法もきまっていないものと、他との関係などがわかるわけはない。
つまり、スモーカーの肺がん患者を除けば、なぜ、がんになったかなどというのは現在の人間の知恵ではわからないのだから、悩む甲斐がない。
なお、スモーカーの肺がん患者であっても、肺がんになる確率が高かったというだけであり、もっとヘビースモーカーでも肺がんにならない方もいるし、逆に、タバコを吸われない方でも肺がんにかかられる人はいる。つまり、「個々」のスモーカーの肺がん患者についてすら、タバコが肺がんの原因であった可能性があるとは言えても、原因であったとは断言できず、タバコの影響ではなく単に運が悪かっただけということもある。
いずれにしても、がん患者になってしまった以上、これをクヨクヨしてもなんらプラスはない。現実を受け入れたうえで、もっと前向きなことに悩むエネルギーを向ける方がメンタルヘルス上も実利上もプラスであろう。

また、治療に関しても、後になって、あの時このようにしていたらと思うことはある。
もちろん、このような反省をし、次に同じようなことが生じたらこれに活かすことは大事である。しかし、これで己(ないし他人)を「責め」てもプラスはない。たんなる八つあたりにすぎない。
そして、たいていの場合は、別の選択をしていたらより良くなったのではないかという思いはすぐにわくのであるが、別の選択肢ではより悪かった、とか、大差がなかったという見かたは意識的に行わなければ気がつかないものである。

いずれにしても、すでに起こったことについて己を責めてみても仕方がない。
それが、どのように認めたくないことであったにしろ、起こったことは起こったこととして認める。これが第一歩であろう。

そして、必要ならば、どうすればより良かったのかということを「反省」(後悔ではなく)して、将来、同じようなことが生じた場合(生じてほしくはないかもしれないが)により良き対応を行うべく努める。
なにも、がん治療あるいは職場の悩みに限らず、生きていく上での一般的なことであるように思える。

2.どうどう巡りをしない。

メンタルヘルスのリーフレットに書いてあるどうどう巡りと、私の考えるどうどう巡りには違いがあるようである。

つまり、
状況が客観視されず、思考が整理されず、考えが明確でない段階の悩みならば、どうどう巡りしようにも、感情的に困っているだけで頭(知性)は働いていないのだから、考えがそもそも進みようがない。進まないのに巡れるわけはない。
どうどう巡りというよりは、足踏みとか停滞というのが適切ではないか。

私の考えるどうどう巡りというのは、状況を客観視し、思考を整理して、考えを明確にした上で、あり得る選択肢がどれも不満であり、かつ、それぞれ別の一長一短を有している。このような状況で、ある選択肢について、○○という面では良いがXXという面では悪いと悩んでいるうちに、XXという面では良い別の選択肢に考えが移り、でも○○という面では悪いといつの間にか悩みが変わってしまう。しかし、○○という面で悪いと悩んでいると、また、元の○○という面では良い案にいつの間にか戻ってしまう。
このようなネガティブセレクションにおける複数の選択肢の間でのどうどう巡りである。

いずれにしても、状況を客観視し、思考を整理して、考えを明確にすることは、上手な悩み方の初歩であることは間違いない。

例えれば、山歩きをして道に迷った時に、やみくもに進んだところで同じ付近をぐるぐる歩いているだけか、場合によっては、崖から転落してより事態を悪くする可能性が高い。
多分、第一にすべきことは、状況の整理だろう。地図を見る、置かれている天気を確認する、日暮れまでに残された時間を確認する、持参の食料や服装などの装備を確認するなど出来るかぎり置かれている状況を客観視してみる。その上で、この地点までは確かに来ているから、迷ったとしたら、この付近で、多分自分がいるのはこの付近か、あるいは、別のこの付近だろう。とか、天気は悪くないので慎重に引き返すことは可能とか視界がないので下手に動くと藪蛇かもしれない、などといろいろと整理してみる。
その上で、リスクやベネフィットを考えて方針を決める。
山歩きなどほとんどしたことがないが、間違いなくあわてて、本能的に動き回ってもリスクが大きいだけでベネフィットは少ないだろうことはないだろうということは見当がつく。

これまでの私なりの経験によると、悩みや出くわした問題の9割以上が、状況を十分に客観化できれば(かなり複雑なものだと当初に思ったものを含めて)自然と解決してしまう。

ところで、きちんと状況を客観化しても解決しない(私の言うところの)どうどう巡りにはどのように対処すれば良いのか。

私なりの答えは「悩まない」ということである。
つまり、客観化しても悩む場合は、どの解決策をとっても不満が残り、かつ、解決策の不満の程度が同じということである。
まずは、一回、本当に同じくらいの不満度か確認してみる。もしも、そうであれば、無理やりに悩むのをやめる(としても、脳は潜在的に考え続けている)。
適当な時間(場合に応じて、数日だったり数時間だったり)を置いて、再度、各解決策案の不満度が同じか確認する。
もしも、相変わらず同じ程度であるならば、どの解決策をとっても大差がないということで、エイヤと決めてしまう。方法は占いでもよいが、主治医に、自分なりに悩んだ内容(自分なりの客観化、整理、残っている解決策案)をきちんと伝えて、主治医におまかせしても良いのかもしれない(そもそもどの解決策案も同程度と言うことまでは自分なりの整理が出来ているのだから)。

3.
情報収集

情報は悩む上で重要である。
そもそも、
情報不足や不確かであるがゆえに、無駄に悩んでいることもあるだろう。
少し知識があり、知ってさえいれば悩むことなどなかったということも多いだろう。
また、悩むに当たって、置かれている状況をより良く客観視するためには持っている情報は多いほうが良い。
とりえる解決策を考えるとしても、いくつかの解決策のパターンを知っているのと無知なのでは雲泥の差が出てくる。

ただし、世の中には、質の悪いというかトンデモな情報もあふれている。
トンデモをトンデモと承知した上でどうするかは、ある意味で自由であるが、トンデモをまっとうなものと信じていては、このような情報は持たない方が有益である。

まずは、公的なサイトなどで基本的な情報をおさえることが最低限必要であろう。
最低限の知識もないのにトンデモに挑戦しようとするのは身の破滅のもとである。
それ以上に、まず押さえるべき情報源は主治医であろう。治療において、患者自身のデーターを最もよく知っているのは主治医であるし、治療に「責任」をとるのも主治医である。まさしく「ファースト・オピニオン」である。
もちろん、主治医は神様でもないし、絶対的なものでもない。間違ったことをしないとは限らないし、最新の知識を有しているとも限らない。
必要ならば、セカンド・オピニオンとして他の専門医の意見もきいてみる(あくまでも、セカンドであり主治医がファーストである)。そして、意見が同じならばより納得が深まろうし、違えば、セカンドの意見も踏まえて主治医に質問すればよい。
この場合、ネットを使用することは否定しないが、ネットというのは玉石混交であり、かつ、その特定の患者について情報に乏しい人からのコメントであることを忘れてはならない。正直に言って、あまり知識がなく、したがって、患者に関する情報も不十分にしか提示出来ない程度の方がネットに頼ることにはかなりの危険性を感じることが多い。

4.「開放的」に悩む

確かに悩むにはエネルギーが必要である。体から見ればエネルギーが吸い取られてしまう。
このためだろうか、悩んでいると、精神状態が暗くなり、より悩みに嵌ってしまうという負のスパイラルに入ってしまいがちである。

経験的には、悩むならば開放的にするほうが良い。
話し相手がいれば、口に出して悩む。また、メンタルヘルスの記事にあったノートに書いていくというのも同じことである。
出来るだけ「脳内」のみで悩まないようにする。
口に出すならば、かなり意識して「明るく大きな声」で話す。

食欲がなくとも、意識して、悩むためには食べることといつもよりも食べるように努める。

このような「逆張り」はそれなりに疲れるものであるが、結果としてはそのほうが得策だろう。

昔、飲酒について言われた言葉がある。

最初は「人が酒を飲む」。ここで終われば人格者であるが滅多にいない。
普通はついつい飲みすぎて「酒が人を飲む」ようになってしまう。望ましくはないが、凡人はついついこうなってしまう。
そして、最後には「酒が酒を飲む」状態に陥ってしまう。これは、アル中への第一歩である。

これを変えると、
「人が悩む」。人間生きていれば悩みはないわけはない。
さらに、悩みが深いと
「悩みが人を支配する」。意識して、人が主導権を奪い返さなければならない。
そして、
「悩みが悩む」。どうどう巡りの泥沼状態である。悩みに疲れるだけで前進することはない。このような負のスパイラルに陥らないように、陥ったら、とりあえず、泥沼だけらは抜け出す、そのための意識的な努力が必要だろう。

2009年12月 7日 (月)

本当らしい話

肝機能がやはり低下しているようで、今ひとつ物を書く気力が継続しない。
事業仕分けとセカンド・オピニオンの比較は書き始めているものの中々筆が進まない。

ということで、今回も軽く書いた記事でお茶を濁させていただく。(軽いといってもこのブログとしては軽いということなので・・・)

先日、日本の脳研究の一流の研究者の講演を聴く機会があった。講演自体は、現在行っている研究についての、わかりやすい(といっても非専門家の私には難しい)説明だったが、講演後の質疑での、脳研究と倫理についての答えがおもしろかった。

私なりに聞いた答えをまとめるならば、現在の脳研究では、きわめて限定した実験課題に対して、集団間に差がわかる程度のものでしかなく、個人の特徴なり、(集団であっても)一番生活における差がわかるというような段階に達していない。脳研究によって個人の考えていることとか、感情がわかるということは何十年先かならばともかく(たぶん、何十年か先であっても)不可能であり、その意味では、一般の方が心配されているような状況ではない。もちろん、一般の方に不安を持たれている方がいるのは事実であるので、学会などにおいて倫理指針の検討などは行っている。

現時点において、それ以上に問題なのは、エセ脳研究とでもいうものである。

脳科学の成果をうたう「脳の活性化に○○が効く」などという大衆向けの本は論外である。そもそも、「脳の活性化」といっても、単に脳のある部位の血流の増加を測定しているにすぎない。そもそも、血流の増加が「活性化」といえるのか。
(ちなみに、テレビで活躍中の茂○氏は確かに脳研究関係の研究所に研究員として所属したいたことがあるのは事実であるが、一人前の研究者になれない(ろくな論文も書いていない)まま、執筆そしてマスコミで活躍ということであり、「脳研究者」というのは、かなりの過大表示らしい。ある程度、脳研究に心得のある「脳研究評論家」とでもいうのがふさわしいらしい。)

研究者側において、今、一番重要なのは、「本当の話」と「本当らしい話」を峻別すべきことである。
例えば、教育との関係で「臨界期」ということがよく話題にあがる。これは、ある機能にかかる脳神経ないし神経ネットワークの成長について活発な時期(臨界期)とそうでない時期があるというものである。この仮説によれば、小学校低学年前後が外国語をきわめてよく学習するというような日常体験されることがうまく説明できる。
そして、よく「臨界期」が存在することは脳科学で証明されているかのようにとらえられる。
しかしながら、事実は、「マウス」の「視覚」に関する神経細胞の成長において臨界期が存在することが(ほぼ間違いなく)示されているだけである。これが本当の話である。そして、人間においても同様であるというのは、(生後一定期間、医療の必要から目を使えないように制限された幼児の視力が害されるという本当の話も加えるならば)「本当らしい話」であるが、「本当の話」かどうかはわからない。
これが、学習一般にまで当てはまるとするのは、本当らしい話とまでもできるのだろうか。
確かに現在の脳研究でわかる「本当の話」は極めて限定された範囲にとどまるのであり、研究の結果解明された「本当の話」をもとに「本当らしい話」を考えることは研究者自身においても楽しいことではあるが、研究者である以上、「本当の話」と「本当らしい話」を峻別しなければ結局信頼性を失ってしまうだろう。

(以上は私の記憶をもとに書いたものなので、誤解とか理解不足による誤りがあるかもしれないので、その点についてはお断りしておく)
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ふと考えると、がん治療に共通すものがある。

まず、「○○という健康食品ががんに効く」(ただし、○○が本当に健康食品なのか、つまり害はないのかすらわかっていない場合が多い)の類の大衆向けの本は論外であるということは同じである。
もちろん、憲法上、出版の自由は守られるべきであるが、このような本を平気で出す儲け至上主義の出版社、あるいは、このような本を臆面もなく並べる本屋・・・言論の自由を主張するならば、公共の利益に反しないという条件遵守にもつとめるべきだろう。

そして、よく言われる「免疫力」。脳の活性化と同様に意味不明な言葉である。
脳の活性化と称しても、具体的には、血流が増えているというだけである。しかも、茂○氏は研究評論家にすぎないので、本当に血流が増えているか調べていないのは当然として、○○教授にしても、あの測定数では誤差範囲での差しか認められないはずであるということは、その分野の脳研究者では常識らしい。しかし、血流が増えることを活性化と呼ぶのだったら、腕立て伏せをすれば「腕が活性化」するということになる。
免疫といってもその内容は複雑・多様である。免疫力を高めるといっても、具体的にどの免疫を高めるのか。また、本当にその免疫が高まったということをどのようにして確認しているのか。さらに、それが、本当にがんに効くのか・・・。ひょっとして風邪を引いて白血球数が増えると免疫力が向上しがんが直るかもしれない(というわけはない)。

そういえば、茂○氏とか○○教授と同様の人がいらっしゃるようである。
なかには、わけのわからないご老体の町医者さんが医学博士の肩書きを使って、がん治療の第一人者になっているものも見かける。
しかし、最高のエセ学者は、免疫の基礎研究者にすぎず人間の診断・治療をしたことがほとんどないのに、免疫でがんが直ると業界の宣伝マンをつとめている新潟大学のアホ教授だろう。
基礎研究者としては優秀な方たったらしいが、今では名実ともに単なるアホになっている。アホ・アホ・アホ・・・ちなみにこれが阿保教授であると断言はここではしていないので名誉毀損にはあたらないと思うが。

ところで、「本当の話」と「本当らしい話」の峻別である。

脳研究は過去10年程度の間に急速に進んできたとはいえ、複雑な脳の謎に比べると、科学的に解明された「本当の話」はまだまだかなり少ないらしい。
同様に抗がん剤治療についても、この10年程度の間に、いくつかの新薬が出たり、EBM(エビデンスに基づく治療)や標準的治療ガイドラインの作成など進歩してきたものの(患者に成り立ての頃のウェブ相談の内容を思い出すと本当に治療レベル変化してきている)、その効果はとても十分といえるものではないし、EBMの大事さが主張されてもきちんとしたエビデンス(本当の話)は多くはない。

エビデンスといっても、マウスなどの実験結果は人に当てはまるとは限らない(というより、マウスで効果が認められても人ではほとんど効果がないことのほうが多い)し、実験管での培養細胞などは、十年後の治療につながる可能性は(低いながらも)あるものの現実治療では、まず意味がない。すべてのがんに効くと称する天○液のサイトに、効く証拠としてあげられていた数少ない論文(それも三流学会誌)が培養細胞実験だったのには、さすがに中国人の面の皮の厚さを感じた。

話を戻すが、結局、抗がん剤について(治療に意味のある)エビデンス、すなわち、本当の話は治験結果ということになる。
そして、日本での治験は欧米に比して圧倒的に数少ないし、質も高くない。
ほとんどが後追いだけであり、しかも、すでに海外では次の薬の治験(場合によっては、次の薬の治験も終わっており、次の次の薬の治験)がなされている一週遅れというものがほとんどである。

しかしながら、頑迷かつ責任回避至上主義の厚生労働省は、海外と日本人では人種が違うので、人種差がありえて、海外の治験結果が日本でも本当の話(ないし、極め本当らしい話)とはみなせないとしている。
なお、どの程度の人種差がありえるのかということについて、きちんとしたエビデンスはもっていない。承認遅れで困るのはがん患者であり、厚生労働省ではないのに、承認して人種差による副作用が出たらというようなリスクをとりたくはないということてある。

それにしても、治験というのは、薬量などが固定されたポイント・データーにすぎない。
しかも、そのポイント数は少ない。例えば、ほとんどの治験はファースト・ラインの患者を対象としており、セカンド・ライン以降の治療に対する治験がなされているものは極めて少ない。
つまり、ほとんどのがんにおいて、セカンド・ライン以降の抗がん剤についての「本当の話」は厳密にはわかっていないのである。
ファースト・ラインに対する本当の話や医師の知識・経験、さらには、ファースト・ライン治療に対する当該患者の効果・副作用に基づき「(もっとも)本当らしい話」を考えて行われるしかないということである。(もちろん、本当の話に基づくものしか受けたくないので、無治療を選択するのは自由であるが。)

よくよく考えると、別に脳研究なり抗がん剤に限らず、世の中に厳密な意味での「本当の話」はほとんどない。数少ない「本当の話」を基に「極めて本当らしい話」や「本当らしい話」を作りだし、それに応じて、物事を決定していることがほとんどだろう。

しかし、一歩間違うと「本当らしさ」がほとんどない話を信じてしまったりする。
やはり「本当の話」をそれなりに理解した上で、どの程度「本当らしいのか」を推し量り、間違いだった場合のリスクも覚悟しておくべきものなのだろう。

<つまり、その与太話をまさか本当と思っていないよね~>としか言い様がないものを「本当」と信じるアホ教授のような御仁も世の中にはいる。

そういえば、どれだけ承認遅れにつながり、がん患者の利益が脅かされようと、海外治験は国内では本当の話とは認められないし、それがきわめて本当らしい話であっても(その薬がマスコミなどで取り上げられていない限り)それによることはしないという厚生労働省の態度は、がん患者である私からみてホントウ~(???)としか思いようがないが、残念ながら、これは「本当の話」なのである。

お詫び
一部伏字にしていたとはいえ、ある研究者の名前を間違っていたようなので修正しました。
(2009.12.8)

2009年11月30日 (月)

新型インフルエンザワクチン

肝機能が低下しているためか、今ひとつ、物を書いたりする積極性がない。
本当は、前記事の「セカンド?・オピニオン」を受けて、セカンド・オピニオンと事業仕分けの比較などをしてみるかと考え、断片的な部分はいくつかできあがっているのだが、全体をまとめようとしても筆(キー)が進まない。

ということで、簡単なネタを一つだけ書いて、今回は誤魔化させてもらう。

デフレで値下げしても物が売れない現在、正価販売にもかかわらず「品切れ」があちらこちらで起きているという商品が新型インフルエンザワクチンである。

しかし、それだけの魅力がある商品なのだろうか。

いくつかのマスコミ報道に目立たないように書かれている事実を信頼すれば、その性能は、新型インフルエンザに対する免疫力(記事からは、ここで言う免疫力の内容が不明ではあるが)が、所定の基準まで上昇する方が70%ということなので、約1/3の方には性能不十分ということらしい。
また、免疫力が上昇した方も「罹患しない」ということまで保証されるわけではなく「罹患した場合、重篤化する確率が低くなる」としか言えないらしい。
もちろん、この程度の効果をどのように評価するかは、個々人の価値観であるし、個々人への効果としては不十分であっても、その合計値たる社会的には意味ある効果ということもありえよう。
しかし、マスコミ報道を見ていると、新型インフルエンザワクチンを自分の子どもに投与してもらおうと必死になっている方も相当にいるらしい。子どもを思う気持ちを批判するつもりはないが、ワクチンの効果についての「事実」をきちんと理解した上なのだろうか。ワクチン(1/3の方には想定されるほどの効果がないワクチン)を受けさせて「これで安心しました」と暢気なことをマスコミに答えている姿を見ると、ワクチンは油断を生んで逆効果にならないかとすら心配してしまう。

効果については、とりあえずこれくらいでさておくとして、がん患者を長くやっていると、効果だけではなく副作用についても注意する習慣がついてしまう。

予防ワクチンは、少なくとも該当病気については、健康な者に投与するものである。健康な者に投与するものである以上、なんらかの症状を呈している「患者」への薬以上に安全が重視されるべきものであることはいうまでもない。

では、新型インフルエンザワクチンに対して求められる安全性(副作用)がどの程度であるべきかだろうか。
これについては、多分、専門家の間では、おおまかな相場があるのだろうが、少なくとも、新型インフルエンザ自体の危険性よりも高いことは許されないだろう。
であれば、日本では、これまでのところ、新型インフルエンザにより、重篤化する方が罹患された方数千人に一人、残念ながら亡くなる方が数万人に一人程度らしいので、ワクチンの副作用は、これよりも低く、重篤な副作用一万人に一人、死亡十万人に一人以下であることは最低であるはずである。

では、実際の副作用は・・・。治験では問題がなかったらしい。ところが、マスコミ報道をよく見ると、治験者数は、数百人ないし千人程度らしい。
万人に一人の有無を確認するのに、数百人とか千人の治験で意味があるのか。つまり、治験が目的に照らせば不十分きわまりない。このようないい加減な治験で何故認可がされるのか。
少なくとも、目の前の死と向かい合っているがん患者の抗がん剤治験に求めるハードルとあまりに違いすぎる。いつもながらの、厚生労働省の科学・医学無視のその場対応である。このような輩が国民の命に関与して良いのだろうか。

なお、一人の重篤な副作用には、重篤でない副作用が数十倍あるから(←これが事実かどうかは知らないが)問題ないということを言う専門家もいるかもしれない。
しかし、そのような専門家がいれば、専門家落第である。なぜならば、極めて稀な副作用であるならば、例えば、千人に一人の割合で副作用が出る特異体質の人がいて(千人に九百九十九人はでない)、そのうちの十人に一人が重篤化するというシナリオのほうがありそうであるからである。であれば、千人の治験では、このような者は見つからないか、あるいは、一人程度なので「たまたま」「変動の範囲内」で済まされる可能性が高い。
なにせ、千人規模の治験をしながらパーセントオーダーの副作用をイレッサでは見つけることができなかった我が国の治験審査能力であるから。

あまり「本当の事実」のみを書くと悪いので、一言、救いをいっておけば、「『国産』のインフルエンザワクチン」はこれまでのものを少しだけ変えただけであるので、これまでのインフルエンザワクチンの経験も参考にすることができるかもしれない。であれば、治験は補完的なもので十分だろうから、数百人ないし千人でも良いのかもしれない。
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しかし、輸入インフルエンザワクチンとなるとどうだろうか。
製造方法は全く異なるし、免疫付加剤という添加薬も入っているらしい。
これは、これまでのインフルエンザワクチンとは全くの別物と見たほうが良いだろう。

このような薬を特例承認という手抜きで健康人に投与して良いものだろうか。
厚生労働省の役人の良心に問いたいと書きたいところであるが、彼らには、能力も、判断力も、常識も、良心もないのは周知の事実である。

強毒性のインフルエンザならばともかく、罹患者のうち、重篤化数千人に一人、死亡数万人に一人の新型インフルエンザに対する「不完全な予防薬」に対して、特例承認とは・・・。であれば、すべての海外承認の抗がん剤に対して特例承認をしないとバランスに失するとしか思えないが、その場対応しかできない厚生労働省の税金の無駄な役人にはいっても詮無いことか。
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いずれにしても、不完全かつ証拠のない予防効果と不完全な重篤化低減効果をどのように判断するか。あるいは、副作用に対して不十分なデーターしかないことのリスクをどのように判断するかは、個々人の価値観である。

しかし、そのための「事実」はきちんと知らされているのだろうか。
確かに、マスコミ報道を細かなところまで読んで、かつ、いくつかの報道を総合すれば、ここに書いたことくらいは確かに把握できる。

とはいうものの、普通の方々は、ワクチンを投与しさえすれば「万全」、副作用の可能性も念頭にないというのが実態であろう。

そして、厚生労働省はその間違いを放置したまま、ワクチン投与へと、特例承認など無理を積み重ねようとしている。国会議員と無知な大衆に迎合して・・・。
積極的に虚偽をつかなくとも、他人が誤って認識するのを自分のために利用すれば、これも「詐欺」である。
厚生労働省の役人は馬鹿であると思っていたが訂正したほうが良いかもしれない。詐欺師であると。

それにしても、真実を国民に報道することが役目といっているマスコミが何故、このような安全性についての事実をとりあげず、ワクチンのボトルの大きさなどという枝葉末節についてしか報道しないのか。ついでにいっておけば、ワクチンボトルの大きさについては、数ヶ月も前から医師の間では問題視されていた「周知」(←患者の私も知っていた)のことにすぎないのに。
やはり、日本のマスコミの質はマスゴミにすぎないらしい。
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ふと、ここまで書いて気がついた。
国内の新型インフルエンザ感染者の数は、千万人(つまり国民の十人に一人)までになっているにもかかわらず、ワクチンの投与は遅遅として(遅遅としか)進んでいない。

ひょっとすると、厚生労働省のわずかな良心が、投与スケジュールをなるべく遅くなるように頑張って、全ての国民がインフルエンザにかかりワクチンの意味がなくなるまで先延ばししようとしている・・・わけはないか。

ちなみに、私ならば、国産の新型インフルエンザワクチンならば投与を受けても良いが、輸入の新型インフルエンザワクチンならば、かなり考え込むだろう。

2009年11月16日 (月)

国見の歌

ニュースを見ていたら、オーストラリアのウルル(エアーズ・ロック)への観光登山について報道されていた。
なお、ウルルは「世界(地球)最大の一枚岩」と呼ばれることもあるが、実際には、同じオーストラリアのマウント・オーガスタに次ぐ「地球『第二』の一枚岩」である。

このウルルは原住民アボリジニの聖地であり、そもそも一部の祭司(呪術者?)以外が登ることは禁ぜられていたのが、アボリジニの組織がオーストラリア政府にレンタルし、観光登山がなされるにいたっている。
多額のレンタル料(及び国立公園への入場料の一部)がアボリジニに支払われており、アボリジニ自身も、これらを貴重な収入源としているため、観光客による登山を仕方なく認めているというのが現状である(観光登山に反対するアボリジニももちろんいる)。

聖なる山への聖なる登山(したがって、呪術者による)ということを考えていると、万葉集の国見の歌を思い出した。

国見の歌として広く知られているものは、万葉集巻一第二歌、つまり二番目の歌である舒明天皇が香具山に登り詠まれたとされている
「大和(やまと)には、群山(むらやま)あれど、
とりよろふ、天(あめ)の香具山(かぐやま)
登り立ち、国見(くにみ)をすれば、
国原(くにはら)は、煙(けぶり)立ち立つ、
海原(うなはら)は、鴎(かまめ)立ち立つ、
うまし国ぞ、蜻蛉島(あきづしま)、大和の国は」
である。

この歌については、内陸の香具山から見えるはずもない「海原」とか「鴎」が歌われており、現在の香具山以外の場所(奈良盆地以外)で歌われたものなどという指摘もあるようだが、古代宗教歌謡が後付けで天皇などに寄託されたにすぎない古歌謡について、本当に舒明天皇の御製かとか、本当に香具山からかなどということは、そもそもからずれた議論としか思えない。

この歌は、「王=呪術者」が聖なる山に登り、国誉めをし、その聖なる力(呪力)により、地を鎮め、国の繁栄を予祝したものであろう。
また、このような見方について言えば、この国見の歌は万葉集第二歌であるが、第一歌の雄略天皇御製とされている
「籠()もよ み籠持ち 堀串(ふくし)もよ み堀串持ち

この丘に 菜摘ます子 家告()らせ 名のらさね

そらみつ 大和の国は 

おしなべて 吾こそ居れ しきなべて 吾こそ座せ 

吾をこそ 夫とは告らめ 家をも名をも」
についても、草摘み・菜摘みという神事に当たっている聖なる女性に対する妻問いの歌であろう。

このような理解は、字書三部作(『字統』、『字訓』、『字通』)や多くの著書を書かれている漢文学者・古代漢字学で著名な学者の白川静氏に基づくものである。
しかし、甲骨文字・金文などの古代文字から詩経などの中国古典、さらには、万葉集などの我が国の古代歌謡までを、骨太かつ一貫的な視野のもとに解釈されるそのものの見方は、さすがに、漢文世代の最後の碩学と称されるにふさわしいものと感じている。

少なくとも、近代になって、まったく異なる古代の社会に、登山(観光登山にしろスポーツ登山にしろ)やピクニックとしての草摘みを当てはめて解釈しようとすることが愚であることは疑いないであろう。
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とは言うものの、私は古代人と違って呪力などを信じる気になれない(もっとも、いかがわしい新興宗教よりはマシな気はするが)。

また、山派というよりは海派に近い人間らしく、山にはスポーツにしろ観光にしろあまり登る気にならない。例外は、子どもの頃の遠足などでの低山と、まだ病気のことがわからない10年くらい前に富士登山競争(駅伝ではなく、一人で麓の富士吉田から山頂まで走る)に3回ほどチャレンジした程度であろうか。

しかし、確かに高いところから見る景色は気持ちがよい。
普段、見ている川などがどこからどのように流れているか、とか、丘の向こうはどうなっているのかなど、現地でいくら間近に見ていてもわからないことが一目で見える。
もちろん、樹に隠れている場所もあるし、天気が悪ければ見晴らしは良くないだろう。
逆に大所高所からでは、現地で見える細かなことはわからない。

いずれにせよ、高いところに上りたがるのは人間の潜在的拡張欲なのかもしれない。
「そこに山があるから登るのだ」という言葉の裏側に人間の本能が潜んでいるということだろうか。
そういえば、国際宇宙ステーションなど有人宇宙開発は、現代科学技術版の国見なのかもしれない。すると、宇宙飛行士は現代の呪術者か・・・気のせいか確かに凡人とは異なって見えてくる。
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治療について知識を持つことも山に登っていくことと似ている。
知識・情報を持つほどに、自分が受けている治療の内容・目的や、がん治療の中での位置づけが見えてくるし、他の治療との関係(適応がないのか、将来的に受ける可能性があるのか、その効果や確からしさ)なども見えてくる。

他方、自分の感じている細かな事項などは一般的な副作用などに溶け込んでしまい、本人(や家族)にしかわからない生々しい痛み・だるさその他の主観的な副作用が景色の中に溶け込んでしまう(一般化してしまう)。

もっとも、患者なり家族ならば、自分のことである主観的な副作用からは逃げようがない。つまり、自分自身が感じている治療に加えて、山からの景色という客観的かつ俯瞰的な知識が増えるということになる。

客観的・俯瞰的などという無機質の知識が増えても意味がないと思われるかもしれないが、少なくとも私自身は、自分自身の状況を客観的に理解できることは、主観的な副作用という(本人にとっては)自分特有のものに向かい合うときに極めて有用である。

もっとも中には、トンデモの洞窟に入ってしまいながら、名山の上にいると信じ込んでいるオメデタイ方もいらっしゃるらしい。
山に登るならば、地図の読み方程度の知識は必要である。

また、登るためにはそれなりに体力をつかうことは必要である。
努力なしに知識を得ようとしてもそのようにうまい話はない。

などと書いてきたが、患者は多少詳しくなっても医学の素人(中には素人以下の医師もいるが)であり、山登りでいえば低山の山頂から景色を眺めている程度でしかないのかもしれない。

医師は体系的な医学教育を受け、その後、臨床経験を積んできているのであるから、患者と比べて、かなり高いところから眺めを見ているはずである。
また、見えたものを理解するすべも多いだろう。

もっとも、抗がん剤治療についていえば、高山の上にいるはずの医学部教授殿が、古びた知識とそれに基づく自分の経験だけに頼り、どうみても「ひどい」治療をしていることが珍しくなかったのは、ほんの十年前である。
例えていえば、山の上から周りを俯瞰するのではなく、自分の靴先(それも古靴)だけしか見ないということになろうか。

このようなことの反省としてEBMの重要性がいわれてきたわけであるが、このようなことを承知しているはずなのに、EBMを歪曲してとらえて、批判に努めているU村医師のような変な人もいる。

たしかに、EBMを矮小化して、「エビデンスに『基づいた』治療」ではなく、エビデンスの基となった「治験と全く同一の治療」しかしない(しかできない)医師も多いし、そのような能力のない医師への批判は理解できるが、それはEBMへの批判ではないはずである。

ちなみに、「治験と全く同一の治療」しかしない(しかできない)医師は、山に登って生の景色を理解し、そして、その景色の中で人が生きているという現実を理解できないのかもしれない。
リアルな景色ではなく、無機質な地図しか理解できないとも言えよう。

理想的な医師は高山の上という広い視点・豊富な知識や経験、さらには、景色がどのように変わりつつあるかということ、つまり、最新の情報も踏まえつつ、他方、個々の患者という(高山の上からの眺めではなく)現地の様子も知った上で治療を行う。
このようになるのだろうか。

さて、がん治療、特に抗がん剤治療は(以前よりも進んだとはいえ)十分な効果があるとはいいがたい。
つまり、山の上から見える眺めは、荒れ果てた未墾の地ばかりである。
しかも、厚生労働省の馬鹿な役人は、全て自分たちが決める範囲を逸脱してはならないというおせっかいなパターナリズム主義(間違った社会主義)の信者らしいが、であれば、その責任として、満足な医療を提供しているのかと見てみると、医療全体としてはそれなりかもしれないが、抗がん剤治療については世界から一周(どころか二周)遅れの恥ずかしい現状を変えるつもりはなさそうである。

日本のがん治療については、山の上に登って見渡せば、国誉めの歌ではなく、荒れ果てた廃墟を見て嘆く歌しか出てきそうにない。

2009年11月 2日 (月)

トロッコ

国語の教科書で使われていた(使われている?)芥川龍之介の短編である。

あらすじは、「少年は線路の敷設工事をしている工夫たちがひくトロッコを操縦してみたいと思いました。工夫たちに手伝わせてくれないかと頼みます。工夫たちは笑って許してくれました。少年は楽しくて仕方がありませんでした。夢中になってトロッコを動かしました。いつのまにか遠くまで来てしまいました。工夫たちから、突然、もう帰んなと言われます。少年は急に不安になりました。宵がはじまります。夜になります。少年は泣きながら一人で走って帰りました。家に着くなり大泣きしてしまいました」。そして一行空けた後「良平は(略)今では或雑誌社の二階に、校正の朱筆を握っている。が、彼はどうかすると、全然何の理由もないのに、その時の彼を思い出す事がある。(略)塵労に疲れた彼の前には今でもやはりその時のように、薄暗い藪や坂のある路が、細細と一すじ断続している。…………」というものである。
(参考:http://www5b.biglobe.ne.jp/~michimar/book/akutagawa_20.html
もっとも、短編であるので全文を最後に載せておくので読んでほしい。

ただし、これは青空文庫からのコピペであるが、ふりがなは略したので、青空文庫で無料で読むほうがわかりやすいと思う。
青空文庫「トロッコ」http://www.aozora.gr.jp/cards/000879/files/43016_16836.html

ところで、中学の国語の時間、この「トロッコ」の授業で、最初に「この話を二つに分けるとすれば、どこでわけるか?」と質問され、「工夫たちから、突然、もう帰んな」と言われるところと、誤って(?)答えたという記憶がある。

もちろん、正解は、過去と現在をわける「一行空けた」ところなのであるが。

今から思い返すと、やはり「突然、もう帰んな」というところで分けるほうが、より深い意味で正解のように思われる。

子どもは親や社会に見守られながら遊び、一人前になると独立しておのれの力で生きていくということは、動物(人間を含む)のほとんどに見られるものである。

人間ならば、開発途上国などで「半大人」として、日本人から見れば、過酷な仕事(手伝い)を分担させられているところもあるし、仕事は免ぜられていても「勉強」にかりたてられる国もあるが、大人と子供の対比としてみるならば、これは普遍といえるように思われる。

芥川の「トロッコ」では、子どもの世界で遊び、守られていた良平が、「突然、もう帰んな」の一言で、他人に守られることもなく、「去年の暮母と岩村まで来たが、今日の途はその三四倍」に一人で立ち向かうということに投げ出されてしまったのである。

そして「薄暗い藪や坂のある路」を走り戻り、やっと家(子どもの生活)に駆け戻る。

時間が経過して、大人となっておくる「塵労に疲れた」生活、それも、「突然、もう帰んな」と投げ出されて帰った細細とした薄暗い坂のある一すじの路と同じなのである。

たしかに、形式的には、子ども時代と大人、伊豆と東京の違いはあるが、「突然、もう帰んな」までが、遊び見守られる「子ども」であり、その後は、自分ひとりで細細とした薄暗い坂のある一すじの路をたどらざるをえない「大人」なのである。
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しかしながら、社会全体が豊かになるにつれて、平均的な生活リスクが低減してきたし、福祉の名のもとに、大人に対しても一定水準の社会保護が与えられるようになってきた。

さらに、親がいくらかの資産を持っていれば、その子どもはそれによる保護すら期待できるようにもなっている。

この結果、大人になっても、子どもと同じく、社会が見守り、自分を保護してくれるもの(あるいは、保護されるのが当然である)という風潮が広がりつつあるように思える。

もちろん、社会的公正のために、保護を与えられて当然の方はいらっしゃるが、身体・精神能力など普通の方にも、このような方々が増えつつあるように感じる。

社会の子ども化・幼児化というのだろうか、国民には遊ぶ自由と守られる権利があるとでもいうかのように。

古代ローマの「パンとサーカス」に打ち興じ、周辺から迫る危機やローマ社会自体の腐敗を見ようともしなかったローマ市民という愚民。
行く末は、ローマ帝国の崩壊だった。

日本が崩壊しようと、全体国家になろうと、中国ないし米国の属国となろうと、多分、そのころまでは生きてはいないだろうが・・・
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手術で完治が見込める早期がんならば別として、ほとんどの進行がんでの治療は、患者からみても、多分、医療関係者から見ても、十分なものとは言い難い。もちろん、十年前と比べると、一定の進歩はあるものの、とてもではないが、十分などという水準には、かなりの差がある。

例えていえば、良平が楽しんだ行きの蜜柑畑を駆け下る快適な楽しい道ではなく、帰りの泣きながら走った道であり、大人の良平がたどっている細細とした薄暗い坂のある一すじの路、それも、いつ行き止まりになってしまう道である。

そして、それでも、最初の頃は、標準的治療という一つの道しるべがたってはいるが、まもなく、それもなくなってしまう。

新薬により多少は道は良くなったが舗装道路というよりも田舎の山道てしかない。
ネットにより治験結果などが調べやすくなり、その意味では、地図が整備されつつあるが、まだまだ、まばらな点情報にすぎない。

また、標準的治療という道しるべがなくなった以降の治療は、右に曲がるのか、左に曲がるべきかのはっきりとした根拠はないことも多い。ひょっとすると右に曲がったとたんに断崖から落ちてしまうかもしれない。場合によっては、そこから動かずになりゆきにまかせるのがベストであることすら多いだろう。(標準的治療も断崖につながる可能性はあるが、平均すれば、現時点の信頼性の高いデーターからは、これが一番遠くまで行ける。)

にもかかわらず、蜜柑畑を下る快適な道でなければ納得しないし、かつ、そのような道を連れて行ってもらうのが当然という患者もいるらしい(ネットなどを見ると)。

なんとなく、(遊びで)楽しみ、かつ、周囲の社会はこれを見守ってくれるのが当然という「子ども」から抜け出していないようである。
そして、ある日、「突然、もう帰んな」の一言にあって狼狽してしまう。

よく考えて欲しい。
相手が子どもだと思っていれば、たとえそれがより遠くまで延びる道であるとしても、リスクがある道に連れて行くだろうか。

もちろん、患者は医師に比べれば素人に過ぎない。
しかし、自分に可能な範囲で勉強し、医師からの情報を理解しようと努め、医師の助言のもとかもしれないが、精一杯自己決断する。
そのような大人でなければ「細細とした薄暗い坂のある一すじの路」を歩こうとすることすら許されないかもしれない。

しかし、大人になっても「子どものままであり続ける人」さらには「子どもであり続けることが権利であると思う人」が増えつつあるように思える。

がん患者ならば、せいぜいその本人の余命の長さにしか影響しないが、これが、社会全体に広がれば、この社会はどうなってしまうのだろうか・・・

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トロッコ

芥川龍之介


 小田原熱海間に、軽便鉄道敷設の工事が始まったのは、良平の八つの年だった。良平は毎日村外れへ、その工事を見物に行った。工事を――といったところが、唯トロッコで土を運搬する――それが面白さに見に行ったのである。
 トロッコの上には土工が二人、土を積んだ後に佇んでいる。トロッコは山を下るのだから、人手を借りずに走って来る。煽るように車台が動いたり、土工の袢天の裾がひらついたり、細い線路がしなったり――良平はそんなけしきを眺めながら、土工になりたいと思う事がある。せめては一度でも土工と一しょに、トロッコへ乗りたいと思う事もある。トロッコは村外れの平地へ来ると、自然と其処に止まってしまう。と同時に土工たちは、身軽にトロッコを飛び降りるが早いか、その線路の終点へ車の土をぶちまける。それから今度はトロッコを押し押し、もと来た山の方へ登り始める。良平はその時乗れないまでも、押す事さえ出来たらと思うのである。
 或夕方、――それは二月の初旬だった。良平は二つ下の弟や、弟と同じ年の隣の子供と、トロッコの置いてある村外れへ行った。トロッコは泥だらけになったまま、薄明るい中に並んでいる。が、その外は何処を見ても、土工たちの姿は見えなかった。三人の子供は恐る恐る、一番端にあるトロッコを押した。トロッコは三人の力が揃うと、突然ごろりと車輪をまわした。良平はこの音にひやりとした。しかし二度目の車輪の音は、もう彼を驚かさなかった。ごろり、ごろり、――トロッコはそう云う音と共に、三人の手に押されながら、そろそろ線路を登って行った。
 その内にかれこれ十間程来ると、線路の勾配が急になり出した。トロッコも三人の力では、いくら押しても動かなくなった。どうかすれば車と一しょに、押し戻されそうにもなる事がある。良平はもう好いと思ったから、年下の二人に合図をした。
「さあ、乗ろう!」
 彼等は一度に手をはなすと、トロッコの上へ飛び乗った。トロッコは最初徐ろに、それから見る見る勢よく、一息に線路を下り出した。その途端につき当りの風景は、忽ち両側へ分かれるように、ずんずん目の前へ展開して来る。顔に当る薄暮の風、足の下に躍るトロッコの動揺、――良平は殆ど有頂天になった。
 しかしトロッコは二三分の後、もうもとの終点に止まっていた。
「さあ、もう一度押すじゃあ」
 良平は年下の二人と一しょに、又トロッコを押し上げにかかった。が、まだ車輪も動かない内に、突然彼等の後には、誰かの足音が聞え出した。のみならずそれは聞え出したと思うと、急にこう云う怒鳴り声に変った。
「この野郎! 誰に断ってトロに触った?」
 其処には古い印袢天に、季節外れの麦藁帽をかぶった、背の高い土工が佇んでいる。――そう云う姿が目にはいった時、良平は年下の二人と一しょに、もう五六間逃げ出していた。――それぎり良平は使の帰りに、人気のない工事場のトロッコを見ても、二度と乗って見ようと思った事はない。唯その時の土工の姿は、今でも良平の頭の何処かに、はっきりした記憶を残している。薄明りの中に仄(ほの)めいた、小さい黄色の麦藁帽、――しかしその記憶さえも、年毎(としごと)に色彩は薄れるらしい。
 その後十日余りたってから、良平は又たった一人、午過ぎの工事場に佇みながら、トロッコの来るのを眺めていた。すると土を積んだトロッコの外に、枕木を積んだトロッコが一輛、これは本線になる筈の、太い線路を登って来た。このトロッコを押しているのは、二人とも若い男だった。良平は彼等を見た時から、何だか親しみ易いような気がした。「この人たちならば叱られない」――彼はそう思いながら、トロッコの側へ駈けて行った。
「おじさん。押してやろうか?」
 その中の一人、――縞のシャツを着ている男は、俯向きにトロッコを押したまま、思った通り快い返事をした。
「おお、押してくよう」
 良平は二人の間にはいると、力一杯押し始めた。
「われは中中力があるな」
 他の一人、――耳に巻煙草を挟んだ男も、こう良平を褒めてくれた。
 その内に線路の勾配は、だんだん楽になり始めた。「もう押さなくとも好い」――良平は今にも云われるかと内心気がかりでならなかった。が、若い二人の土工は、前よりも腰を起したぎり、黙黙と車を押し続けていた。良平はとうとうこらえ切れずに、怯ず怯ずこんな事を尋ねて見た。
「何時までも押していて好い?」
「好いとも」
 二人は同時に返事をした。良平は「優しい人たちだ」と思った。
 五六町余り押し続けたら、線路はもう一度急勾配になった。其処には両側の蜜柑畑に、黄色い実がいくつも日を受けている。
「登り路の方が好い、何時までも押させてくれるから」――良平はそんな事を考えながら、全身でトロッコを押すようにした。
 蜜柑畑の間を登りつめると、急に線路は下りになった。縞のシャツを着ている男は、良平に「やい、乗れ」と云った。良平は直に飛び乗った。トロッコは三人が乗り移ると同時に、蜜柑畑のを煽りながら、ひた辷りに線路を走り出した。「押すよりも乗る方がずっと好い」――良平は羽織に風を孕ませながら、当り前の事を考えた。「行きに押す所が多ければ、帰りに又乗る所が多い」――そうもまた考えたりした。
 竹藪のある所へ来ると、トロッコは静かに走るのを止めた。三人は又前のように、重いトロッコを押し始めた。竹藪は何時か雑木林になった。爪先上りの所所には、赤錆の線路も見えない程、落葉のたまっている場所もあった。その路をやっと登り切ったら、今度は高い崖の向うに、広広と薄ら寒い海が開けた。と同時に良平の頭には、余り遠く来過ぎた事が、急にはっきりと感じられた。
 三人は又トロッコへ乗った。車は海を右にしながら、雑木の枝の下を走って行った。しかし良平はさっきのように、面白い気もちにはなれなかった。「もう帰ってくれれば好い」――彼はそうも念じて見た。が、行く所まで行きつかなければ、トロッコも彼等も帰れない事は、勿論彼にもわかり切っていた。
 その次に車の止まったのは、切崩した山を背負っている、藁屋根の茶店の前だった。二人の土工はその店へはいると、乳呑児をおぶった上さんを相手に、悠悠と茶などを飲み始めた。良平は独りいらいらしながら、トロッコのまわりをまわって見た。トロッコには頑丈な車台の板に、跳ねかえった泥が乾いていた。
 少時の後茶店を出て来しなに、巻煙草を耳に挟んだ男は、(その時はもう挟んでいなかったが)トロッコの側にいる良平に新聞紙に包んだ駄菓子をくれた。良平は冷淡に「難有う」と云った。が、直に冷淡にしては、相手にすまないと思い直した。彼はその冷淡さを取り繕うように、包み菓子の一つを口へ入れた。菓子には新聞紙にあったらしい、石油のがしみついていた。
 三人はトロッコを押しながら緩い傾斜を登って行った。良平は車に手をかけていても、心は外の事を考えていた。
 その坂を向うへ下り切ると、又同じような茶店があった。土工たちがその中へはいった後、良平はトロッコに腰をかけながら、帰る事ばかり気にしていた。茶店の前には花のさいた梅に、西日の光が消えかかっている。「もう日が暮れる」――彼はそう考えると、ぼんやり腰かけてもいられなかった。トロッコの車輪を蹴って見たり、一人では動かないのを承知しながらうんうんそれを押して見たり、――そんな事に気もちを紛らせていた。
 ところが土工たちは出て来ると、車の上の枕木に手をかけながら、無造作に彼にこう云った。
「われはもう帰んな。おれたちは今日は向う泊りだから」
「あんまり帰りが遅くなるとわれの家でも心配するずら」
 良平は一瞬間呆気にとられた。もうかれこれ暗くなる事、去年の暮母と岩村まで来たが、今日の途はその三四倍ある事、それを今からたった一人、歩いて帰らなければならない事、――そう云う事が一時にわかったのである。良平は殆ど泣きそうになった。が、泣いても仕方がないと思った。泣いている場合ではないとも思った。彼は若い二人の土工に、取って附けたような御時宜をすると、どんどん線路伝いに走り出した。
 良平は少時無我夢中に線路の側を走り続けた。その内に懐の菓子包みが、邪魔になる事に気がついたから、それを路側へ抛り出す次手に、板草履も其処へ脱ぎ捨ててしまった。すると薄い足袋の裏へじかに小石が食いこんだが、足だけは遙かに軽くなった。彼は左に海を感じながら、急な坂路を駈け登った。時時涙がこみ上げて来ると、自然に顔が歪んで来る。――それは無理に我慢しても、鼻だけは絶えずくうくう鳴った。

 竹藪の側を駈け抜けると、夕焼けのした日金山の空も、もう火照りが消えかかっていた。良平は、愈気が気でなかった。往きと返りと変るせいか、景色の違うのも不安だった。すると今度は着物までも、汗の濡れ通ったのが気になったから、やはり必死に駈け続けたなり、羽織を路側へ脱いで捨てた。
 蜜柑畑へ来る頃には、あたりは暗くなる一方だった。「命さえ助かれば――」良平はそう思いながら、辷ってもつまずいても走って行った。
 やっと遠い夕闇の中に、村外れの工事場が見えた時、良平は一思いに泣きたくなった。しかしその時もべそはかいたが、とうとう泣かずに駈け続けた。
 彼の村へはいって見ると、もう両側の家家には、電燈の光がさし合っていた。良平はその電燈の光に、頭から汗の湯気の立つのが、彼自身にもはっきりわかった。井戸端に水を汲んでいる女衆や、畑から帰って来る男衆は、良平が喘ぎ喘ぎ走るのを見ては、「おいどうしたね?」などと声をかけた。が、彼は無言のまま、雑貨屋だの床屋だの、明るい家の前を走り過ぎた。
 彼の家の門口へ駈けこんだ時、良平はとうとう大声に、わっと泣き出さずにはいられなかった。その泣き声は彼の周囲へ、一時に父や母を集まらせた。殊に母は何とか云いながら、良平の体を抱えるようにした。が、良平は手足をもがきながら、啜り上げ啜り上げ泣き続けた。その声が余り激しかったせいか、近所の女衆も三四人、薄暗い門口へ集って来た。父母は勿論その人たちは、口口に彼の泣く訣を尋ねた。しかし彼は何と云われても泣き立てるより外に仕方がなかった。あの遠い路を駈け通して来た、今までの心細さをふり返ると、いくら大声に泣き続けても、足りない気もちに迫られながら、…………

 良平は二十六の年、妻子と一しょに東京へ出て来た。今では或雑誌社の二階に、校正の朱筆を握っている。が、彼はどうかすると、全然何の理由もないのに、その時の彼を思い出す事がある。全然何の理由もないのに?――塵労に疲れた彼の前には今でもやはりその時のように、薄暗い藪や坂のある路が、細細と一すじ断続している。…………


青空文庫より(ただし、ふりがなは略)
http://www.aozora.gr.jp/cards/000879/files/43016_16836.html

2009年10月26日 (月)

世界史と日本史

歴史というと大学入試の悪影響で「暗記」という印象が定着してしまっている。
つまり、「歴史年表」が歴史と勘違いされてしまっているのではなかろうか。

私自身の意見では、年号暗記などどのような意味があるのだろうか。ほとんどの歴史的出来事が一年や二年、早まっていても遅くとも、その後の世界に大きな違いをもたらすとは思えない。
それよりも、その出来事が、なぜ(それまで歴史、周辺地域の状況)おこったのか、そして、どのような歴史への影響(その地域にかかわらず周辺地域も含めて)があり、別の歴史的出来事の誘因の一つとなったのか。
このような歴史のダイナミズムや国・地域を越えてのつながりということの理解が大事なのではなかろうか。

このような観点からいえば、世界史と日本史というものは一体としてとりあげられるべきだと考える。
日本は世界の歴史の中では、一番辺境に位置しており、日本で生じた出来事が世界の歴史に影響を与えたことは、明治以前には、ほとんど無かったので、世界史の中で日本を無視することはありえても、日本史を考える上で、世界史(少なくとも東アジア史)的視野を欠いてはならないはずである。

例えば、飛鳥から奈良時代の日本史ならば、当時の朝鮮半島やその背後にある中国を念頭に入れて見なければ、本当の理解はできないであろう。
もっとも、このような古代史については、十分な史料がなく、日本はもとより朝鮮半島に関しても、あいまいであるということも事実である。このため、日本国(大和政権)内だけでなく、国際的な背景も、といっても限度があるかもしれない。しかし、逆に考えれば、史料が少ないのであるから、日本書紀のような後世に、かなりの恣意がこめられつつ編纂された史料のみでなく、朝鮮半島・中国の史料も踏まえなければ、偏りのある歴史となってしまうだろう。

少し別の切り口をあげてみよう。
海外と日本ということを考えると、外国から、直接侵略を受けた数少ない出来ごとの一つが「元寇」である。
また、外国からの技術導入により日本の歴史に大きな影響を与えたものの一つが「鉄砲伝来」である。
この二つにつながりがあると言ったらどう思うだろうか。

「元寇」はモンゴル帝国の拡張運動の東の端での出来事である。
ところで、この拡張運動による進出は、東側だけではなく、ロシアなど東欧諸国、イスラムなどの西アジアまで広がっている。
そして、鉄砲の基本たる「火薬」は、このときに、イスラム経由でヨーロッパに伝わったものである。
つまり、両者ともに、モンゴル帝国の拡張運動に伴うものというつながりがあるわけである。

蛇足になるが、鉄砲伝来の頃のヨーロッパ諸国の海外進出には、キリスト教の布教という精神的な理由づけがあった。
このキリスト教の布教運動は、宗教改革に対するカトリック側の対抗であり、ルターの宗教改革を広げる技術背景であった印刷技術は、そもそも宋代の中国からヨーロッパにもたらされた木版印刷が基底にあるといわれている。

江戸時代の鎖国政策についても、それ以前に、イギリス・オランダなどが日本と交易を開始しており、航海技術的にはヨーロッパがこれに干渉することは可能だったのにもかかわらず、400年間の長期間にわたり維持することができた。
そして、江戸末期になって、急速に欧米からの干渉が強まり、これを引き金の一つとして明治維新が起こった。
このようなことについては、鎖国を許したヨーロッパの状況や、これに干渉するにいたった欧米の状況を理解しておかなければ、井の中の蛙になってしまうだろう。

残念ながら、歴史が歴史年表におきかえられ、世界史と日本史が区別される日本では、グローバルが当然のようにみなされながら、井の中の蛙か、井の中のことをしらない蛙しかいないように思う。

このような日本では、クォリティペーパーを「自称」する全国・大部数の新聞ですら、北朝鮮問題というと拉致問題とせいぜい日本の国防問題としての核実験程度としてしか報道がなされず、北朝鮮からの武器や軍事技術輸出を通じての、ここも核開発を進めているイランなど中東問題への影響、そして、それが石油エネルギー供給として世界のエネルギー問題につながっているというグローバルな視野はみられない。(そして、核問題については、現在の核不拡散体制は核兵器所有国(先進国)にあまりに有利であり権利を害されているとの開発途上国の潜在的な思いがあるだけに複雑)
このような視野なしに、米国(という実質的な主役)の動向など、極めて国際的な問題である北朝鮮問題を報道しても「井の中」の報道にしかならないはずである。
もっとも、日本にはクォリティペーパーを自称する新聞はあっても、その実態は大衆紙であるし、これが、現在の日本人のクォリティにちょうどあっているのだから仕方がないか・・・
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ところで、日本のがん治療報道も、グローバルな視点がまったくない「井の中の蛙」報道である。というよりも、単なる初期の研究(これまで、このような研究が実を結ぶのは百に一つもなかった)など、はっきりといってドウデモイイばかりであり、蛙の価値もないので「井の中のミジンコ」報道というほうが正解かもしれない。

これは、新聞記者と称する方々が、少なくとも、がん治療については「井の中のミジンコ」程度の知識しか持っていないことの反映であろう。

少なくとも、日本のがん治療は、外科手術の技量を除けば、ほとんどの田舎レベルである。
このため、国内の学会のレベルは低く、世界的な発表は海外の学会でしかなされない。この代表がASCO(米国臨床腫瘍医学会)であり、乳がんならばSABCS(サンアントニオ乳がんシンポジウム)である。
日本国内での発表をいくら拾っても、田舎レベル以上のものがあるはずもない。

もしも、本当に一流紙であり、がん治療についての報道を行うならば、「今年のASCO」から」とか「サンアントニオ乳がんシンポジウムに見る乳がんの最新治療」などという記事が載らないのだろうか。
(ちなみに、内容は学会に参加した医師に書いてもらえば良いのだから、志しさえあれば、ミジンコ記者であっても問題ない。)

グローバルな視点を持たないから、日本のがん治療の田舎レベルの「悲惨」な実態がわからない。
私がこれをいっても、信頼性がないだろうから、日本の乳がん治療の大先生のブログを引用してみる。
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「罹患率、死亡率ともに「欧米型」の疾患と言われる乳癌は、日本での臨床試験はいつも海外の後追いである。米国ではASCO(米国臨床腫瘍学会)とSABCS(サンアントニオ乳がんシンポジウム)の二つの学会で世界の最新情報が報告される。最新情報とは多施設共同ランダム化比較試験の結果である。最近の特徴は、「日本以外の諸国が参加するグローバル試験」結果が続々と報告されることである。なぜ、日本以外なのか? その理由の一端はがんじがらめの規制にある。たとえば、今年のASCOのプレナリーセッションで発表された「PARP1阻害剤」の試験は、抗がん剤治療群 vs. 抗がん剤+PARP1阻害剤」のランダム化比較試験である。この試験では、抗がん剤治療群が、対照群であり、「PARP1阻害剤」を上乗せすることで、効果持続期間や生存期間がどれぐらい延長するのかというのが、この試験での検討課題であった。結果は会場からどよめきが起きるほど見事なものであった。次の段階では、さらに症例数を増やし、観察期間を延長し、「PARP1阻害剤」の真の実力を評価する第III相試験に進む。当然、global trialとなるだろう。日本からも参加すれば得られた結果は、速やかに日本の乳癌患者の治療に利用できることになる。しかしそうはいかない。試験に使用された抗がん剤は、カルボプラチンとゲムシタビンであり、いずれも、我が国では乳がん治療薬として承認されていない。承認されていない薬剤は対照薬として使えないことになっているので、この2剤が承認されないかぎり参加できないのだ。今回も日本からの参加不可能ということになれば日本は3周遅れ、ということになる。以前、このような積み残しをまとめて承認しよう、ということで、「抗がん剤併用療法検討委員会」(黒川清委員長)というのが開かれ、何品目かを手続きを簡略化して承認したことがあった。しかし、あれから3-4年が経過し状況は、全く改善しておらず、周回遅れ、積み残しの山だ。
では、日本からの情報発信はどうなっているのか? NSASBC01試験では日本発のエビデンスを構築することはできた。これは、世界の標準薬CMF vs. 日本の汎用薬UFTのランダム化比較試験である。患者団体の激しい妨害により、試験の進捗は大幅におくれ、結果が得られた時には、既にCMFは世界の標準薬の座を失っていた。ホンダがF1から撤退したように、日本の腫瘍医療は、臨床試験から撤退せざるを得ないかも知れない。臨床試験ただ乗り論でglobalからのバッシングを受けることにもなりかねない。」
(
オンコロジストの独り言 http://watanabe-oncology.spaces.live.com/ 2009628日記事)
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個人的には「臨床試験ただ乗り」してくれれば問題ない。

ところが、二周遅れの治験をしなければ、健康保険承認がされない。

このような現状すら知らないで、混合診療の可否を報道するマスコミ。
やはり、「井の中のミジンコ」である。

2009年10月19日 (月)

情理

八ツ場ダムや羽田空港国際化(成田空港)という最近の地方自治体と民主党政権の軋轢をみていると、「情理を尽くす」という言葉を思い出した。

私が思うに、日本人は交渉事において、「結論」(の論理的妥当性)よりも「過程」(プロセス)のほうに重点を置く傾向がある。
その一つの表れが、「情理をつくす」という表現である。

「情理をつくして」説得されたのだから仕方がない、とか、「情理がつくされていない」などと使われる。

おもしろいのは「情理」という言葉が「情」と「理」という相異なる二つの要素を満たすことを要求している点である。

今までのところ、民主党政権は地方自治体に対して「情理」をつくしているようには、少なくともそとめからは見えない。

単に「マニフェスト」で約束したからということだけであり、この場合、マニフェストが国会議員選挙という政党からの一方的約束であり、直接利害を被る地方自治体や住民との関係においては無意味なはずであるに、それを持ち出されて、十分な説明もなく断行しようというのは「情理をつくしている」とは思えない。

少なくとも「情」の面で不十分であるのは確実として、「理」の面でも説明がつくされているのだろうか。

八ツ場ダムでは無駄遣いと抽象的な言葉を聞くのみで、ダム建設続行(追加投資とある程度の治水・利水効果)に比して、ダム建設中止(後始末のための投資)のほうが無駄使いは少ないのか、私は聞いたことはない。
もちろん、このような評価は、計算で使われている仮定を少し変更すれば、いくらでも変更できるものではあるが・・・
個人的に気になっているのは、本当に温暖化が進行すれば、日本でも豪雨型の気象は増えるのではないか。そして、それが問題となってから、対策をとろうとしても、それには長時間がかかり手遅れとなる事態である。

成田・羽田空港のほうは、もっとわけのわからない展開である。
どうして、「羽田・成田の一体的な運用」という意味不明な説明で、森田千葉県知事は納得できたのか。一体的といっても、「成田を主体として、夜間や成田では能力が不足する部分だけを羽田で運用」ということから「羽田を主体として、羽田では能力が不足する「お余り」を成田で運用」まで、ものすごく幅があるのに、なぜ、納得できたのか。

これについても、本当に日本に国際ハブ空港が必要なのか。そのために、どれくらいの費用を投じるのか。さらには、競争相手が外国にいるのだから、それだけの費用を投じたとして、ハブ空港化する可能性はどれくらいなのか。
そもそも、衰えつつあるとはいえ、日本の経済力からは、韓国なり中国にハブ空港が出来ようと、日本への直行便が減るとは考えにくい。つまり、日本人だけに限れば、ハブ空港になろうと、なるまいそれほど変化はないのではないか。
つまり、欧米から日本以外のアジアへ向かう人が、日本経由なのか、他のアジアの国経由なのかにより、どの程度の損得があるのか。

このように思うと、民主党政権は「情」も「理」もつくしているとは残念ながら言い難い。

もっとも、あまりに民主党のことを悪く評価していると誤解されるといけないので(あまり良く評価していないのは確かではあるが)、一言、書いておけば、「情理をつくす」には時間がかかってしまう。
旧自民党体質の社会を変革し、自民党にダメージを与えるためには、スピードが重視される。このためには、情理をつくす暇がないのかもしれない。

もっとも、悪くいえば、民主党は「情理」をつくそうとすると、これまでの検討の浅さや概念だけの議論(机上の空論)のボロが出ることをおそれているだけかもしれないし、他方、地方自治体の「情理」の理は実は「利」であり、単に、補償金名目で金を落とせということをいっているだけなのかもしれないが。
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ところで、患者も医師に対して、「治療内容」(の妥当性)よりも「過程」(プロセス)のほうに重点を置く傾向がある。

多少、医学的にみれば治療内容に難があるものであっても、家族の方が「親身になっていただいた」と感謝の気持ちをあらわす。
逆に、医学的にみれば治療内容に問題はなくとも、「ぞんざいに扱われた」と不満をのべる。

もちろん、医師側には医師側の「情理」がある。このうちの「理」は、医「学」的な正しさである。「情」は、患者側からは感じ取られにくいが、患者を治したい・治せないとしても少しでも良くしたいというピッポクラスス以来の医師の心である。

中には、お金儲けが第一のトンデモ医師がいないというわけではないが、多くの医師には、強弱はあるかもしれないが、この「情」はほとんどの医師が持たれているように思う。
そうでなければ、責任の重さ・勤務の厳しさに照らして、割の合わない勤務医などはやっていられないだろう。例えば、勤務医などは辞めて、法律で定められている職場の定期健康診断などのバイトだけ、という気楽・かつ、ジジイ医者にもつとまる仕事に転職するほうがどれだけ増しだろうか。

しかし、実医療において、医師からみたにしろ、患者からみたにしろ、「情理」をつくすことは困難である。

まず、患者側からみた「情理」のうち、「情」については、医師はこの意味の「情」につくすと、情に流されることとなりがちであり、結果として、患者のマイナスとなってしまう可能性が強い。
このため、専門職として、この意味の「情」にはかかわらない態度が暗黙のうちに備わってしまっている。
また、「理」については、そもそも患者側に「理」を理解できるだけの努力をしていない方が多い。理解できる能力がないのに「理」がつくされているかどうか、納得できるとは思えない。
蛇足ながら言えば、家族の多くは、患者に対する「情」は満ちあふれているのに、患者のための「理」(知識)を学ぼうとする方は少ないように思う。「理」がなくして「情」だけに基づく「好意」はトンデモ治療など、患者にとってのマイナスに結びつくこともあるかもしれない。

医師から見た「情理」のうち「情」については、志は残っていても、激務の中でどれだけ実医療で行うことができるだろうか。どうしても「理」(教科書的内容・標準医療・平均的な可も不可もない治療)に傾いてしまうのは仕方がないように思う。

いずれにしても、「情理」をつくすには時間がかかる。そして、現在の健康保険制度のもと、医師にそれだけの時間は与えられていない。
これは、それだけの健康保険料と税金(のうち医療に充てられる額)しか国民が払ってこなかったことが第一原因である。

といっても、現在の健康保険制度では、そのために個人が追加負担をすることは禁じられている。
であれば、患者側でなしえることは、「情」(患者側の価値観、受けたい治療についての希望)をきちんと整理し、「理」(きちんとした知識)について少しでも増やすべく努力をするという、患者側にとってできる限りの「情理」をつくす。

そうすれば、医師だって人間である。これに応えて、可能な範囲で、情理をつくそうとしてくれる可能性が高まると思うが、患者側からの一方的な希望だろうか。

2009年10月 5日 (月)

「友愛」への懸念

鳩山総理大臣の好まれる「友愛」であるが、私はこの言葉を耳にするたびにかなりの違和感を感じてしまう。

「甘っちょろい」「おぼっちゃん」言葉への感情的な反感があることは事実である。これだけならば、単なる好みの問題でしかない。

しかし、その国の為政者(本当は、党首は単なる幹事長の操り人形(ないし幹事長から委任されたことのみ自由)という話もあるようだが)が、為政の理念として発する現在の場合には、次のような懸念が出てしまう。

1.現実社会(世界)では、単なる「友愛」は「損」という事実
2.一歩間違えば、「友愛」が「集団主義・独裁」に変質する可能性
3.にもかかわらず、これらのリスクを隠す甘い響き

「友愛」自体が立派な理念の一つであることを認めることにやぶさかではない。
ただし、残念ながら現実の世界は麗しい理念のみで生きていけるものではない。
一番わかりやすい例は国際政治である。これは美しい言葉を使いながら、いかにして自国の利益を確保するかというパワーゲームである。
例えば、日本の核保有のお隣の国(得意技:捨て身の瀬戸際外交)に「友愛」を訴えるだけではラチが開くとは思えない。
「友愛」を単なる「タテマエ」とするのならば別として、友愛を示せば友愛が返ってくるという「おぼっちゃん」的発想ならば、右の頬を打たれて左の頬を出したら今度はバットで殴り倒されるのが落ちである。
もちろん、現実に根ざした、十分にあり得るいくつかの選択肢の中から選択する際に友愛の理念を重んじるとか、友愛に根差したアイデアをもとにしつつ、あくまでも現実に適用可能な政策にこなせれば初めて実行するという範囲であれば「理念」に基づく政治として評価はできるが。
なお、念のために言っておけば「損」を承知で鳩山個人が「友愛」に基づく私生活を行うというならば、「立派な」おぼっちゃんとして、ある意味で高く評価する。しかし、この場合「損」をするのは鳩山個人の範疇である。一国のヘッドとしてならば、「損」をするのは、鳩山個人ではなく国民であることを忘れてはならない。

それよりも、「友愛」という理念について心配なのは、これを自分自身に課すものとする限りにおいては、現実生活での「損」をいとわなければ、一つのあるべき姿なのかもしれないし、少なくとも他人が批判すべきものではありえない。
しかしながら、「友愛」には「友愛」が返ってくる、さらに進んで、「友愛」には「友愛」で応えるべきである、そして、「友愛」精神を持つべきであると、他人に「友愛」を強いるならば極めて危険である。
というのは、「友愛」の名のもとに、「社会」に対して「個人」が犠牲を払うことが倫理上の必然となり、個人軽視の集団主義に陥る可能性が高いからである。また、一部のマイナスの上に他方の利益をもたらそうとすること(これは、立法・行政の一つの本質)を、その当否をきちんと議論することなく、「友愛」という言葉だけで反対を封じていくならば、ある意味で「独裁」となろう。
例えば、子どもに対する支出を増加させ、そのかわり、扶養控除の廃止という形での増税や公共投資の減少を行うことの正当化を「友愛」という言葉のみですませて、これに反対するものは「友愛」の理念に反すると、一国のトップが批判するということを仮定すればわかりやすいであろう。私自身は、なんらかの少子化対策が必要であり、そのための公的資源配分の変更自体という一般論には賛成するものの、その対策が費用に見合ったものか、とか、移転元となる部分の公的支出の削減や国民の負担増加が対策の効果と見合うものなのかについて、きちんと議論されるべきものであると思う。
「友愛」という理念自体は立派なものではあろうが、その現実的な内容はアイマイなものであるし、なにをもって友愛とするかということは個人ごとに大きく変わるはずのものである。
このような個人の価値観とも深く結び付く言葉を一国のトップが(個人としてではなく)、現実政治の理念とすることには、どうしても違和感を感じてしまうのである。

そして、このように一歩誤ると危険な言葉にもかかわらず、その甘い響きによりその危険性をみえなくさせ、さらに、他人からの批判が許されないものとされる極めて大きなリスクを有することを感じさせなくすること、これが一番の心配である。(戦前・戦時中の大東亜「共栄」圏とか八紘一宇という、きれいな理念が戦争の現実を隠したことを考えてほしい)

私なりにまとめてみれば、「友愛」は個人が自分自身に課す言葉としては倫理上優れたものであろうし、さらに、これをその個人の損となるかもしれないことを承知の上で実践するならば、ある意味で、立派なことであろう。
しかし、「友愛」を他人に期待したり、他人に強いるならば、単なる自己中心的な人間となってしまうだろう。

私は「友愛」ではなく「You I」であると思う。そして、「友愛」はIに求めるものであり、Youに要求すべきものであってはならないと考える。
そうでなければ、YouとIはあい異なる、しかし、互いに人間としての価値は同一であるという、人類が過去の歴史の中から見出した教訓を無にしてしまいかねないかもしれない。
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ところで、「友愛」というのは一つの理念であるが、がん治療においても「理念」があるはずである。
いや「理念」というと言葉が大げさすぎよう。
どのような「治療」を受けたいのかという、個々の患者の「理想」というべきものである。

このようなものがなければ、自分自身の治療に対して、自分自身が主体的に判断していくことは不可能であろう。
もちろん、標準的治療とか教科書的治療、あるいは、おまかせ治療で良いというのであれば、このような理念・理想は不要であるし、単なる不満の元かもしれない。
しかし、標準的治療の先を行く(行っていると思われる)ような治療や積極的な治療を希望するならば、なんらかの「理念」なしには不可能である。

がん治療でも「理念」は重要ではあるが、しかし、自分自身の治療で実際に適用しようというときには、いろいろと注意が必要である。

まず、第一にどのように立派な「理念」であっても、現実の医学水準・社会条件から、それを適用することは、マイナス(特に医学面で)かもしれないことである。
現実を踏まえて、「理念」を押し通した場合のプラス・マイナスをきちんと知らなければ不幸かもしれない。
建前だけは麗しいトンデモ医療にはまってしまうのは、このような人が多いようにも見られる。

次に、医者側にも、医療者としての理念がある。
医学的にマイナスである可能性が高い治療は拒否するだろうし、そこまでいかなくとも教科書から離れた治療には消極的であろう。また、自分の知識・経験では困難な治療、これまで行ったことがない治療もハードルが高いであろう。また、医学的に妥当と思っていても、自分がおかれている健康保険制度などの制約の前に行えないこともあるかもしれない。
このようにあい異なる相手にもかかわらず、自分の理念にしたがってくれる(したがうべきである)と信じて、理念を押し通そうとするならば、医師との軋轢と不満だけが高まってしまうことになるだろう。
では、どうすべきか。
相手を自分とあい異なる存在であるということを認識したうえで、自分の理念を説明し、これに手を貸してくれるように説明・説得する努力をするということにつきるのではなかろうか。また、この際には、自分の理念の結果が、医療の現実を踏まえると、医学的にはマイナスかもしれない(あるいは、この程度のプラスが期待される)ということを十分に理解していないと、説得力はかなり欠けてしまうだろう。

がん治療において、医師と患者はYou Iである。
あい異なる存在が、相手があい異なる存在であることを踏まえたうえで、双方の理念を理解し、出来るかぎり、その理念がかなうように努める。
これが、がん治療において、実現するのは大変なことではあるが、あらまほしき「You I」であると思うがどうだろうか。

2009年9月28日 (月)

日本社会 -観念と現実のあいだ-

前回、話題として使わせていただいた「タテ社会の力学」(中根千枝、講談社学術文庫)の一節に「観念と現実のあいだ」がある。
正直なところ、この内容と「タテ社会」にどのような結びつきがあるのかはっきりとは理解できないのではあるが・・・
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日本人は、自分たちの社会が力学的に規制されているということを、無意識に体得しているのではなかろうか、と私は思う。なぜならば、社会的評論(識者・評論家などといわれる人々のみでなく、一般の人々の社会現象への対応を含めて)というものが、あまりにも観念的なもので、現実の上をうわすべりしていることと、そうしたあり方を、むしろ当然のことのように受けとめているからである。
(
)日本における社会評論というものは、主観的で独りよがりになりやすく、問題を対岸の火事のように扱い、説得力もなく、問題の解決に役立たないものが多い。たとえば、余の関心を集めたなげかわしい社会問題に対して、道徳的批判を熱心にして、その後で「要するに教育(制度)が悪い。これをなおすべきだ」ということがよくきかれる。この種の意見は、もちろん、教育関係者以外から出されるのが常で、文部省がけしからん、とか、学校教育の内容が悪いことを指摘する。
もちろん、こうした指摘は十分意味のあるものと思われるが、それでは、実際に、どうしたら教育をその方向に改革することができるか、()どれほどの関係者のエネルギーと時間がかかるか、あるいは、それでもできるのかどうか、という問題となると、ほとんど戦略をもちあわせていない。
さらに、たとえ、教育制度や内容を変えることができたとしても、それが実際にどのくらいの効果をもつものであるか、といった予測においては、まったく希望的観測の域を出ない。日本人の教育に対する期待は、並はずれて大きいような気がする。()
とにかく、実情にメスを入れて方法を論ずるのではなく、「こうあるべきだ」という謳い文句や、「こうすべきだ」という主張の吐露に力点がおかれるのが、日本における社会評論の特色である。実態をどのようにしたら、どこまで改善できるか、またできないか、という実態の把握をもとにした具体的方策に関する問題は、彼らの関心の枠外におかれているようにみえる。
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前の記事にも書いたように、この本の初版は1978年なので少なくとも30年は観念主義的社会評論が続いてきたらしい。

もちろん、実態に入るべきことを強調しすぎると、現場の人間しか発言権がなくなってしまう。
また、現実に足を引っ張られてしまい「あるべき論」が出来なくなってしまうかもしれない。
しかしながら、あまりに現実を踏まえない(あるいは、都合のよいように無視した)社会評論「しか」ないというのは、また、それが生活に直接影響を及ぼす問題に対するものの場合は・・・かなり問題かもしれない。

観念論的社会評論家が不用とは思わないが、他方、現実を分析・把握して、意味ある(可能性の高い)処方箋を示す現実的な評論家もいないとバランスを欠くだろう。
そして、現実的な評論家が個別的なものを対象としないといけないことを考えると、観念論的社会評論家は現実的な評論家の1/10とか1/100しかいらないだろう。「現実としても」現在の社会評論家の99/100は口先だけ、あるいは、外国など他人の説の紹介だけという無用の代物でもある。

最近のいろいろな問題へのマスコミの報道ぶりとそれに対する国民の反応(それとも予想される国民の反応に媚びるマスコミ報道とその予測どおりの反応しか示さない日本国民)を見ていると、国民が現実を離れた「観念」に振り回されて満州事変から太平洋戦争へと進んでいったことの二の舞を、近い将来に演じる(演じつつある)のではないかと心配するこの頃である。
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しかしながら、この「あまりにも観念的なもので、現実の上をうわすべりしている」という風土は、がん治療に対する姿勢にもあらわれている。

例えば、混合診療というと「治療に不平等が出る」とか「国内データーがないという安全問題」を持ちだす。
しかしながら、未承認抗がん剤や健康保険適用外抗がん剤といっても、その価格はピンからキリまである。場合によっては、効果も安全性も不明な「がんに効くと称する健康食品」よりも安価である場合もある。
さらに言うならば、不平等が問題ならば、早期に健康保険適用にすべきというのがあるべき意見のはずであるが、現在の健康保険制度(国内データーに固執する。これも国民の保険費を使うのだから一つの立場ではある)を変えるべきであると、現実に即した意見にはならない。少なくとも、健康保険制度という現実がある以上、それに対する自己責任ペースの自己防衛権を奪うのが正しいことであろうか。
安全性にしても、海外データーはあるのだから、不確実性があることを見込んで、どの程度の効果があるのか、逆に副作用はという現実的な議論は聞いたことがない。
そして、一時期、未承認抗がん剤で騒いでいたがん患者のほとんども、現実についてきちんとした知識もなく、単に「海外で使用されている最新の抗がん剤」という観念的な憧れだけによっていたのではなかろうか。いつの間にか、根本的な解決もないまま騒ぎが収まった今となっては、このように考えざるを得ない。

最近、言われているがん治療の均てん化も同様である。
別に中央と地方の格差是正の必要がないというつもりはない。
しかし、「均てん化」の内容がよくわからない。
良くも悪くも(中央も地方も)標準的治療が普通となってしまった現在、何を均てん化するのだろうか。
もしも、標準的治療が無効になってしまった次の治療というのならば、たしかに中央のほうが熱心な医師はいるかもしれないが、しかし、これは人口が多い=医師が多いということの反映でもある。中央に住んでいれば、優れた医師にめぐり合えるわけではない。
さらに言えば、この情報化の現在において、医師が得られる情報量はその努力次第であるし、経験という意味では、一人の医師当たりのがん患者数には大きな差がなかろうから、これまた、大きな差はないだろう。
逆に在宅医療環境などは、住宅状況に恵まれた地方の方が上かもしれない。

単に「均てん化」というだけで、具体的にどのような差があり、それがどの程度のマイナスなのか、また、それを解消するのに効果的な施策と必要な資源(金・人)といった現実を踏まえたものを遺憾にして私は知らない。
なんとなく中央のほうが優れているという「思いこみ」(←どの程度正しいのかは別として)に基づき、「憧れ」を語っているだけのような気がする。

また、良くネットの掲示板に見る最先端医療への希望にしても、本当にどの程度の効果が見込まれるのか(自分に対して有効なのか)という現実を調べようともしない方があまりにも多いように見える。

さらに、がん治療に限らず、救急医療とか産科医療(多分、この次は外科?)など日本の医療において改善が必要なことが叫ばれる。
しかし、そのための具体的な解決策はあまり聞かない。また、行われつつある具体的な解決策についても「どこまで有効なのか」ということは聞かない(多分、本質的な解決にはつながらないことが明らかになることを恐れてかもしれない)
なんとなく、「人の命は地球よりも重い」的な観念が大本にあり、(人の命のためには)救急医療体制の充実が必要であるということを言いさえすればよいと思っているのではなかろうか。
少なくとも、現在の問題を具体的に改善するというならば、どの程度問題解決に有効なのか、他方、そのために必要な「人・物・金」はどうするのかという、現実を踏まえたものでなければならないと思うのだがどうだろうか。

なお、私は、現在の健康医療制度を維持するため(だけでも)には、健康保険料の50%とか倍増(あるいは、それに相当する増税)が必要であろうと思っている。
ひょっとすると、合理化など医療の合理化で10%ぐらいの捻出は可能かもしれないが、疲弊しきっている現在の医療を通常に戻すためには、最低でも、それ位の金(それによって人が増える)は必要であろう。

もちろん、負担水準をこれ以上あげることができないという意見が多いだろう。
であれば、健康保険の性質を「セーフティネット」として最低限プラスアルファ程度のものにするしかないのではなかろうか。
観念ではなく、具体的な現実に即した議論が必要であると思うがどうだろうか。

かなり話を発散させてしまった。

私なりに思うがん治療とは、観念(どのような治療(←抽象的)を受けたいのかという理想)は絶対に必要である。これなしには、患者本人(他人とは異なる自分)の価値判断や決断ができないだろう。
しかし、観念のとおりに世界があるわけではない。期待される効果と予想される副作用、経済的な負担、時間的な負担という現実をきちんと把握する。
そして、把握された現実を観念に照らして、一番後悔が残らないと判断された選択肢を選ぶ(それがどの程度不本意なものであっても)ということを続けていきたい。

2009年9月21日 (月)

タテ社会

女性研究者の草分け的存在である中根千枝氏の「タテ社会の力学」(講談社学術文庫)を読んでみた。
初版が1978年らしいので30年以上前の本になるが、一部の例示が古臭い(例えば、ほぼ死語に化している「亭主関白」)ほかは、全体として、いまだに現在の日本にも当てはまっているように感じる。日本社会の本質をついた名著なのだろう。

ところで、タテ社会というと、体育会系の上級生絶対という軍隊的集団を思っていたが、中根千枝氏のタテ社会は、これよりももっと広い集団を意味していた。

きちんとした定義付けがなされていないので、私なりの理解となるが、外に対して閉鎖的(境界がある)であり、内部には構成員には序列(順位)があるという集団を意味しているようである。
ちなみに、これに対して、個人と個人の結びつきがもととなり、それが網の目のように広がっているものをネットワークとしている。

このタテ社会では、集団内は柔軟なつながりであり、序列を守る(礼節を守る)限りにおいて、個人の「わがまま」は許容される。また、集団内に小集団がある場合には、集団の上位の指示よりも、小集団内の上位の指示が重要視される(社長の言葉は尊重するが守るとは限らない。他方、現場監督の指示には絶対服従する)こともある。
かえって、ルールベースの西欧社会のほうが上位の指示(ルール)に服従する。
また、このような意味で、タテ社会では、上位は下位に対して、「圧力」をかけることはできるが、「権力」をふるうことに対しては、下位の反発を受けることが多い。

以上は、タテ社会における集団と個人の関係であるが、当然、集団と集団の関係ということもある。
まず、集団とその中の小集団(個人が直接所属している)の関係であるが、<集団と小集団の統合は、制度的というか、慣習的な約束によって行われる。つまり、大集団内のルールは集団単位のもので、個人の小集団への統合のあり方とは質を異にするものである。小集団内の人間関係はルールというよりも、条件、個々人の相対的な関係によって規定され、個々人を直接しばるものであるが、大集団内の集団関係には、条件によって容易には動かない制度的ともいえる慣習化したルールが存在している。そしてこれは個々人には間接的にしか働かない性質のものである>
他方、集団とソトの集団の関係は<各レベルにおける上下関係を守ること、そして各集団の既得権を相互に侵さないことである>
さらに、(単位となる)小集団について、<日本の小集団は欧米の個人と同じような性質をもっている。・・・欧米の人々が個人(個としての単位)の尊厳を保つために、抵抗を示すと同じように、日本の小集団はそれを部分とするその上位集団や隣接集団に対して、単位の独立性を強く主張し、抵抗を示すのが常である。これは、小集団において個人がその部分として統合されることに抵抗をあまり示さないことを想起すると興味深い>

これらをまとめたのが、
<
筆者がタテの関係という用語によって意味する一つの重要な人間関係は、下位の者が上位に従属することなく、うまく組み合うことである。そして、ソトに対しては上下の礼節を忘れないことである。したがって「タテ」という用語によって一般にイメージ化されやすい、どちらかというと非人間的なオーダーは、とくにソトに対しての秩序であり、・・・人と人というよりは、むしろ集団と集団の関係にあらわれるのである。内部における実際の人と人の関係の特色は、むしろ「組む」ということにある。>
ということであろう。


もちろん、以上は、私にとって、特に注目されたことをあげただけである。
現在の会社内の、あるいは、政治(政界)の動向を見ていると、本当に30年経った今でも「たしかにあてはまる」という内容が、このほかにも多く書かれている。
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ところで、日本の医療をタテ社会の観点でみるとどうだろうか。

まず、医療界という大きな集団がある。そして、この集団がたしかに「隣接集団に対して、単位の独立性を強く主張し、抵抗を示」していることは、人間の命を預かる医療は「医学は聖域である(ソトから制約されない)」という意識にみられるようにかなり強いように思える。
そのためか、刑事訴訟などになると(私が見ても濡れ衣的事件が多いように感じるが)「感情的」としか見えないような拒絶反応を示す。なお、念のために言うと、医師がシュリンクしてしまわないように、変な捜査や起訴に異議をとなえるのは当然であると思っている。ただ、ここで言っているのは、(それが正当なものであるとしても)その反応ぶりが理性ではなく感情が先走っているようにしか見えないということである。
また、(多少ならば)へんな医師がいても、これをかばっているような体質がありそうに見えることが多いのは、小集団が内部の構成員に「わがまま」を許すことと共通していよう。

この大集団の中の小集団であるが、実際の治療にあたっての医療チームではなく、「医師」「看護師」などの職能別になっているように見られる。
したがって、医師は看護師に対して独立性を主張することとなり、つまり、一人の患者の治療を「協力」して行うのではなく、医師が看護師に「指示」するという関係が生まれてしまう。
いろいろなレベルで、日本はチーム医療がうまくいっていないとか、病院間(例えば、地域がん拠点病院と診療所間)連携がうまくいっていないというのも、このへんに原因がありそうである。

そして、がん治療について、「現実」を見てみよう。

「患者が治療の『主役』」などという耳触りのよい言葉が時折聞こえるようになってはきたが、本当にこのような治療が実現しているのは稀であろう。

大きな理由の一つは、患者が「主役」をはるのには、あまりにも力不足であるということである。知識不足はある程度仕方がないとしても、それをいくらかでも高めるような努力すらしない、与えられた情報も都合のよいようにしか受け取らない、おまかせしかしないのに勝手に予想したような成果が出ないと感情を害する・・・
たしかに、患者側にも努力すべき点はある。

しかし、それ以上に強いのは、医師という小集団の構成員として、(看護師などの医療関係者ですらない)患者を、治療において協力し合う存在ではなく、指示・指導する対象としか映らないというのは、ある意味で、タテ社会の構成員としてつちかわれた本能なのではないだろうか。

医師が医師という小集団の構成員よりも、現実の治療現場(医師、看護師、患者など)という、現実の血の通った小集団の構成員となり、また、患者も治療のソトに属するのではなく内に入る(入るだけの努力をする)

これまでは、医療(医師と患者の関係)というと、権威主義というかパターナリズムの要素が強かったように見える。
もちろん、これには良い半面もあるであろうが「「タテ」という用語によって一般にイメージ化されやすい、どちらかというと非人間的なオーダー」ということでもあるように思う。

私は、現実の治療現場(医師・看護師・患者)が基本的な小集団であり、そこでは「下位の者が上位に従属することなく、うまく組み合うことである。そして、ソトに対しては上下の礼節を忘れない」、このほうが(構成員の一員として患者も努力が求められるものの)、より居心地の良く治療を受けることができるように感じるが、これは少数派の意見なのだろうか。

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