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2009年11月 9日 (月)

治療歴その10 エベロリムス(everolimus:RAD001)+テモドール+サンドスタチン(2009.11~)

実のところ二月ぐらい前から、everolimus(RAD001)をしばらく休薬して、これまで使用した過去使用した薬ベースに戻すかという話があった。

これについて理解してもらうためにeverolimus(RAD001)の副作用について簡単にまとめてみる。これは、この記事に必要な範囲で書いているので、これが全てと理解しないで欲しいが。

まず、自覚できる副作用であるが、
・ 口内炎(いわゆる標準量(治験で使われている量))はほぼおこるようである。
・ 強い倦怠感(これは投与期間と共に強まっていき、日本人で10mg/日を続けることができる人はかなり少ないようである。)

自覚できない副作用としては、
・ 肝機能低下
・ 骨髄抑制
という抗がん剤に広く見られるもののほかに、
・ 高血糖
などというものもある。

このため、「継続できなければ意味が薄い」との考えのもとに、治験量(10mg/日→副作用に応じて5mg/日に減量)と比べて、かなり少ない2mg/日としてきた。
もっとも、治験患者さんでも5mg/日でも大変で、5mg/2日にまで減らしている方もいるようなので無茶苦茶ということでもない。
もしも、everolimus(RAD001)を試そうとする方があれば、よほど余裕がなくて勝負ということでなければ、5mg/日を最大とするほうが無難に思える(そして余裕がなくて勝負というならばSUTENTのほうが良さそうに思えるがどうだろうか)。

しかし、一年間継続していると、やはり
・ 肝機能が徐徐に低下(下表参照)
・ 高血糖(血糖174mg/dl、HbA1c 7.0%)
・ 生活には支障がない程度の倦怠感
と副作用の蓄積が認められていた。
なお、下表で春に検査がないのはK立がんセンターのほうで経過観察してもらっている主治医が海外出張のため不在だったことによる(その間、他の医師ということも可能であったが、経過観察のためだけに、別の医師にこれまでの経緯を説明するのも手間ということで間を空けてもらった。つきあいが長いとこの辺は柔軟に対応していただける。)
Photo

誤解がないようにのべておくと、これらの値自体は、ただちに治療継続に支障というものではないものの、上昇傾向にあるし、現状維持ならば過去使用した薬でも得られるかもしれないということで、いったんeverolimus(RAD001)を休もうかというわけである。

とはいうものの、everolimus(RAD001)の効果が残っていなければ、過去使用した薬ベースの治療がうまくいかないときにあわてることになってしまう。
(腫瘍増悪により肝機能低下、それによる倦怠感というシナリオもありえる。)

このため、前々回(10月)の外来では、CTを撮ってその結果を確認してからということになった。

そうしたら・・・
-----------------------
・ 前回09.07.07と比較して、多発肝転移はやや増大しています(S7の腫瘤は17mmから26mmに増大)。胆管浸潤による肝内胆管拡張、門脈腫瘍栓、膵腫瘍、脾浸潤、左副腎転移は、おおむね変化ありません。

・ 左肺S1+2、S6境界付近のすりガラス陰影や胃壁濃染、胆石、腎嚢胞なども変わりなく、明らかなnew lesionを認めません。

Impression:膵内分泌癌、肝転移、左副腎転移;肝転移はやや増大か?
左肺すりガラス影、胆石、腎嚢胞;前回と変化なし
-----------------------
ということで、これまでの話はご破算。

***************************************
CTの結果を受けて、主治医にとりあえず電話したところ、次の3案が提案された。
1.SUTENTに変更。
2.他の薬を追加。現在ザノザールは供給停止のため、候補はテモダール。
3.増量

外来(11月のはじめ)まで検討しておくこととなった。

直感的には、2のテモダール追加と思えたが、安易につきすぎているように思えて、状況や自分の考えを再整理してみた。

まず、憎悪しているとすれば、主治医の提案は、これに対して、薬を「変更」「追加」「増量」しようとするものであり、極めてまっとうなもである。

読影結果を読む限りでは、憎悪と判断して対応することもおかしくない。唯一、気にかかるのは「肝転移はやや増大か?」となぜか疑問形になっていることである。
これについては、考え込んでも仕方がないので、読影医とは異なるので推測にはなるものの、同じ医師として主治医の話を聞いてみることにする。
(主治医の感覚としては、17mmから26mmということは、見ようによっては約2cmの中ともみなせるので疑問形にしたのではということだった。)

薬を変更するとすれば、SUTENT以外のものはエビデンスを見る範囲ではかなり成績が劣るのでこれが第一候補であることには、同感。
SUTENTは、効果という点では、現時点ではベストということは間違いない。私もこれを試さないで死ぬのはもったいないと思っている。
他方、SUTENTはいろいろな副作用が出る可能性が強く、いわば「やんちゃ」な薬である。
普通ならば、効果が出る可能性が高い抗がん剤(の組み合わせ)から試みるのが一般的ではあるが、この「やんちゃさ」の前に、積極派の主治医ですら、できる限りギリギリまで投与を遅らそうとしているように見えるほどである。
多分、まだ余裕はありそうなので他の選択肢がひどくなければ、その後かな。

追加であるが、ザノザールが供給停止の現在、追加する候補として、テモダールは有力である。すでに欧米ではザノザールと並ぶ第一選択薬となりつつあるし、過去に単剤とテモダール+アバスチンとしてしか使っていないし、まだ効果が出る可能性はあり得る。
ただし、テモダール+everolimus(RAD001)というのはエビデンスはなく、思わぬ重い副作用が出る可能性はあり得るし、効果も出るかは不明である。
また、副作用が強くなりつつあるeverolimus(RAD001)に追加するというところも気にかかる。
なお、これまでの経緯からジェムザールの追加という選択肢もありそうにも思えるが、テモダールよりも劣りそうな感じである。

増量であるが、副作用は間違いなく強くなる可能性が高い。効果について、単なる増量でどこまで期待できるのか、証拠はまったくないが「直感的」には引っかかる。

とすれば、増量が優先度低であり、SUTENTかテモダール追加かというところであり、後は具体的な薬量との関係も含め、主治医の経験と勘を聞きつつ考えるしかない。

ここまで、状況を整理し考えを煮詰めた後は、「悩む」しかない。
といっても、一日中、ウンウンと悩むわけではない。
しっかりと、整理し煮詰めた考えを「無意識下」で悩んでもらう。
そして、一日に一回か二回程度、意識的に再検討してみる。
たいていは、無意識下の検討で迷いはより減っているし、追加で無意識下にインプットしておくものが見つかったりする。

今回は悩んでも、結果は変わらなかったが、迷いは減った。

以上の考えをもとに、外来で主治医と相談。

やはり主治医も現時点でSUTENTに変える必要まではなく、また、増量も確実に副作用が強くなり、特に倦怠感が強くなりQOL(生活の質)に影響が出るおそれの強さを心配。
他方、テモダールについては、過去のテモダール投与時の副作用の出方から、特別に心配するまではなかろうとの判断。

最後は「結局、安易なところになりますね」と言ったら、主治医も「僕だって慎重なんだよ。問題がなければ安易なほうが良い。」ということで決定。

具体的には、これまでのeverolimus(RAD001)2mg/日+サンドスタチンLAR30mg/月に加えて、テモダールを通常量(100mg/日をday1~5、day6~28は休み)を追加することになる。

なお、開始は今月中旬に食道静脈瘤の治療が予定されているため、これが終わった後にすることとした。

2009年11月 2日 (月)

トロッコ

国語の教科書で使われていた(使われている?)芥川龍之介の短編である。

あらすじは、「少年は線路の敷設工事をしている工夫たちがひくトロッコを操縦してみたいと思いました。工夫たちに手伝わせてくれないかと頼みます。工夫たちは笑って許してくれました。少年は楽しくて仕方がありませんでした。夢中になってトロッコを動かしました。いつのまにか遠くまで来てしまいました。工夫たちから、突然、もう帰んなと言われます。少年は急に不安になりました。宵がはじまります。夜になります。少年は泣きながら一人で走って帰りました。家に着くなり大泣きしてしまいました」。そして一行空けた後「良平は(略)今では或雑誌社の二階に、校正の朱筆を握っている。が、彼はどうかすると、全然何の理由もないのに、その時の彼を思い出す事がある。(略)塵労に疲れた彼の前には今でもやはりその時のように、薄暗い藪や坂のある路が、細細と一すじ断続している。…………」というものである。
(参考:http://www5b.biglobe.ne.jp/~michimar/book/akutagawa_20.html
もっとも、短編であるので全文を最後に載せておくので読んでほしい。

ただし、これは青空文庫からのコピペであるが、ふりがなは略したので、青空文庫で無料で読むほうがわかりやすいと思う。
青空文庫「トロッコ」http://www.aozora.gr.jp/cards/000879/files/43016_16836.html

ところで、中学の国語の時間、この「トロッコ」の授業で、最初に「この話を二つに分けるとすれば、どこでわけるか?」と質問され、「工夫たちから、突然、もう帰んな」と言われるところと、誤って(?)答えたという記憶がある。

もちろん、正解は、過去と現在をわける「一行空けた」ところなのであるが。

今から思い返すと、やはり「突然、もう帰んな」というところで分けるほうが、より深い意味で正解のように思われる。

子どもは親や社会に見守られながら遊び、一人前になると独立しておのれの力で生きていくということは、動物(人間を含む)のほとんどに見られるものである。

人間ならば、開発途上国などで「半大人」として、日本人から見れば、過酷な仕事(手伝い)を分担させられているところもあるし、仕事は免ぜられていても「勉強」にかりたてられる国もあるが、大人と子供の対比としてみるならば、これは普遍といえるように思われる。

芥川の「トロッコ」では、子どもの世界で遊び、守られていた良平が、「突然、もう帰んな」の一言で、他人に守られることもなく、「去年の暮母と岩村まで来たが、今日の途はその三四倍」に一人で立ち向かうということに投げ出されてしまったのである。

そして「薄暗い藪や坂のある路」を走り戻り、やっと家(子どもの生活)に駆け戻る。

時間が経過して、大人となっておくる「塵労に疲れた」生活、それも、「突然、もう帰んな」と投げ出されて帰った細細とした薄暗い坂のある一すじの路と同じなのである。

たしかに、形式的には、子ども時代と大人、伊豆と東京の違いはあるが、「突然、もう帰んな」までが、遊び見守られる「子ども」であり、その後は、自分ひとりで細細とした薄暗い坂のある一すじの路をたどらざるをえない「大人」なのである。
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しかしながら、社会全体が豊かになるにつれて、平均的な生活リスクが低減してきたし、福祉の名のもとに、大人に対しても一定水準の社会保護が与えられるようになってきた。

さらに、親がいくらかの資産を持っていれば、その子どもはそれによる保護すら期待できるようにもなっている。

この結果、大人になっても、子どもと同じく、社会が見守り、自分を保護してくれるもの(あるいは、保護されるのが当然である)という風潮が広がりつつあるように思える。

もちろん、社会的公正のために、保護を与えられて当然の方はいらっしゃるが、身体・精神能力など普通の方にも、このような方々が増えつつあるように感じる。

社会の子ども化・幼児化というのだろうか、国民には遊ぶ自由と守られる権利があるとでもいうかのように。

古代ローマの「パンとサーカス」に打ち興じ、周辺から迫る危機やローマ社会自体の腐敗を見ようともしなかったローマ市民という愚民。
行く末は、ローマ帝国の崩壊だった。

日本が崩壊しようと、全体国家になろうと、中国ないし米国の属国となろうと、多分、そのころまでは生きてはいないだろうが・・・
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手術で完治が見込める早期がんならば別として、ほとんどの進行がんでの治療は、患者からみても、多分、医療関係者から見ても、十分なものとは言い難い。もちろん、十年前と比べると、一定の進歩はあるものの、とてもではないが、十分などという水準には、かなりの差がある。

例えていえば、良平が楽しんだ行きの蜜柑畑を駆け下る快適な楽しい道ではなく、帰りの泣きながら走った道であり、大人の良平がたどっている細細とした薄暗い坂のある一すじの路、それも、いつ行き止まりになってしまう道である。

そして、それでも、最初の頃は、標準的治療という一つの道しるべがたってはいるが、まもなく、それもなくなってしまう。

新薬により多少は道は良くなったが舗装道路というよりも田舎の山道てしかない。
ネットにより治験結果などが調べやすくなり、その意味では、地図が整備されつつあるが、まだまだ、まばらな点情報にすぎない。

また、標準的治療という道しるべがなくなった以降の治療は、右に曲がるのか、左に曲がるべきかのはっきりとした根拠はないことも多い。ひょっとすると右に曲がったとたんに断崖から落ちてしまうかもしれない。場合によっては、そこから動かずになりゆきにまかせるのがベストであることすら多いだろう。(標準的治療も断崖につながる可能性はあるが、平均すれば、現時点の信頼性の高いデーターからは、これが一番遠くまで行ける。)

にもかかわらず、蜜柑畑を下る快適な道でなければ納得しないし、かつ、そのような道を連れて行ってもらうのが当然という患者もいるらしい(ネットなどを見ると)。

なんとなく、(遊びで)楽しみ、かつ、周囲の社会はこれを見守ってくれるのが当然という「子ども」から抜け出していないようである。
そして、ある日、「突然、もう帰んな」の一言にあって狼狽してしまう。

よく考えて欲しい。
相手が子どもだと思っていれば、たとえそれがより遠くまで延びる道であるとしても、リスクがある道に連れて行くだろうか。

もちろん、患者は医師に比べれば素人に過ぎない。
しかし、自分に可能な範囲で勉強し、医師からの情報を理解しようと努め、医師の助言のもとかもしれないが、精一杯自己決断する。
そのような大人でなければ「細細とした薄暗い坂のある一すじの路」を歩こうとすることすら許されないかもしれない。

しかし、大人になっても「子どものままであり続ける人」さらには「子どもであり続けることが権利であると思う人」が増えつつあるように思える。

がん患者ならば、せいぜいその本人の余命の長さにしか影響しないが、これが、社会全体に広がれば、この社会はどうなってしまうのだろうか・・・

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トロッコ

芥川龍之介


 小田原熱海間に、軽便鉄道敷設の工事が始まったのは、良平の八つの年だった。良平は毎日村外れへ、その工事を見物に行った。工事を――といったところが、唯トロッコで土を運搬する――それが面白さに見に行ったのである。
 トロッコの上には土工が二人、土を積んだ後に佇んでいる。トロッコは山を下るのだから、人手を借りずに走って来る。煽るように車台が動いたり、土工の袢天の裾がひらついたり、細い線路がしなったり――良平はそんなけしきを眺めながら、土工になりたいと思う事がある。せめては一度でも土工と一しょに、トロッコへ乗りたいと思う事もある。トロッコは村外れの平地へ来ると、自然と其処に止まってしまう。と同時に土工たちは、身軽にトロッコを飛び降りるが早いか、その線路の終点へ車の土をぶちまける。それから今度はトロッコを押し押し、もと来た山の方へ登り始める。良平はその時乗れないまでも、押す事さえ出来たらと思うのである。
 或夕方、――それは二月の初旬だった。良平は二つ下の弟や、弟と同じ年の隣の子供と、トロッコの置いてある村外れへ行った。トロッコは泥だらけになったまま、薄明るい中に並んでいる。が、その外は何処を見ても、土工たちの姿は見えなかった。三人の子供は恐る恐る、一番端にあるトロッコを押した。トロッコは三人の力が揃うと、突然ごろりと車輪をまわした。良平はこの音にひやりとした。しかし二度目の車輪の音は、もう彼を驚かさなかった。ごろり、ごろり、――トロッコはそう云う音と共に、三人の手に押されながら、そろそろ線路を登って行った。
 その内にかれこれ十間程来ると、線路の勾配が急になり出した。トロッコも三人の力では、いくら押しても動かなくなった。どうかすれば車と一しょに、押し戻されそうにもなる事がある。良平はもう好いと思ったから、年下の二人に合図をした。
「さあ、乗ろう!」
 彼等は一度に手をはなすと、トロッコの上へ飛び乗った。トロッコは最初徐ろに、それから見る見る勢よく、一息に線路を下り出した。その途端につき当りの風景は、忽ち両側へ分かれるように、ずんずん目の前へ展開して来る。顔に当る薄暮の風、足の下に躍るトロッコの動揺、――良平は殆ど有頂天になった。
 しかしトロッコは二三分の後、もうもとの終点に止まっていた。
「さあ、もう一度押すじゃあ」
 良平は年下の二人と一しょに、又トロッコを押し上げにかかった。が、まだ車輪も動かない内に、突然彼等の後には、誰かの足音が聞え出した。のみならずそれは聞え出したと思うと、急にこう云う怒鳴り声に変った。
「この野郎! 誰に断ってトロに触った?」
 其処には古い印袢天に、季節外れの麦藁帽をかぶった、背の高い土工が佇んでいる。――そう云う姿が目にはいった時、良平は年下の二人と一しょに、もう五六間逃げ出していた。――それぎり良平は使の帰りに、人気のない工事場のトロッコを見ても、二度と乗って見ようと思った事はない。唯その時の土工の姿は、今でも良平の頭の何処かに、はっきりした記憶を残している。薄明りの中に仄(ほの)めいた、小さい黄色の麦藁帽、――しかしその記憶さえも、年毎(としごと)に色彩は薄れるらしい。
 その後十日余りたってから、良平は又たった一人、午過ぎの工事場に佇みながら、トロッコの来るのを眺めていた。すると土を積んだトロッコの外に、枕木を積んだトロッコが一輛、これは本線になる筈の、太い線路を登って来た。このトロッコを押しているのは、二人とも若い男だった。良平は彼等を見た時から、何だか親しみ易いような気がした。「この人たちならば叱られない」――彼はそう思いながら、トロッコの側へ駈けて行った。
「おじさん。押してやろうか?」
 その中の一人、――縞のシャツを着ている男は、俯向きにトロッコを押したまま、思った通り快い返事をした。
「おお、押してくよう」
 良平は二人の間にはいると、力一杯押し始めた。
「われは中中力があるな」
 他の一人、――耳に巻煙草を挟んだ男も、こう良平を褒めてくれた。
 その内に線路の勾配は、だんだん楽になり始めた。「もう押さなくとも好い」――良平は今にも云われるかと内心気がかりでならなかった。が、若い二人の土工は、前よりも腰を起したぎり、黙黙と車を押し続けていた。良平はとうとうこらえ切れずに、怯ず怯ずこんな事を尋ねて見た。
「何時までも押していて好い?」
「好いとも」
 二人は同時に返事をした。良平は「優しい人たちだ」と思った。
 五六町余り押し続けたら、線路はもう一度急勾配になった。其処には両側の蜜柑畑に、黄色い実がいくつも日を受けている。
「登り路の方が好い、何時までも押させてくれるから」――良平はそんな事を考えながら、全身でトロッコを押すようにした。
 蜜柑畑の間を登りつめると、急に線路は下りになった。縞のシャツを着ている男は、良平に「やい、乗れ」と云った。良平は直に飛び乗った。トロッコは三人が乗り移ると同時に、蜜柑畑のを煽りながら、ひた辷りに線路を走り出した。「押すよりも乗る方がずっと好い」――良平は羽織に風を孕ませながら、当り前の事を考えた。「行きに押す所が多ければ、帰りに又乗る所が多い」――そうもまた考えたりした。
 竹藪のある所へ来ると、トロッコは静かに走るのを止めた。三人は又前のように、重いトロッコを押し始めた。竹藪は何時か雑木林になった。爪先上りの所所には、赤錆の線路も見えない程、落葉のたまっている場所もあった。その路をやっと登り切ったら、今度は高い崖の向うに、広広と薄ら寒い海が開けた。と同時に良平の頭には、余り遠く来過ぎた事が、急にはっきりと感じられた。
 三人は又トロッコへ乗った。車は海を右にしながら、雑木の枝の下を走って行った。しかし良平はさっきのように、面白い気もちにはなれなかった。「もう帰ってくれれば好い」――彼はそうも念じて見た。が、行く所まで行きつかなければ、トロッコも彼等も帰れない事は、勿論彼にもわかり切っていた。
 その次に車の止まったのは、切崩した山を背負っている、藁屋根の茶店の前だった。二人の土工はその店へはいると、乳呑児をおぶった上さんを相手に、悠悠と茶などを飲み始めた。良平は独りいらいらしながら、トロッコのまわりをまわって見た。トロッコには頑丈な車台の板に、跳ねかえった泥が乾いていた。
 少時の後茶店を出て来しなに、巻煙草を耳に挟んだ男は、(その時はもう挟んでいなかったが)トロッコの側にいる良平に新聞紙に包んだ駄菓子をくれた。良平は冷淡に「難有う」と云った。が、直に冷淡にしては、相手にすまないと思い直した。彼はその冷淡さを取り繕うように、包み菓子の一つを口へ入れた。菓子には新聞紙にあったらしい、石油のがしみついていた。
 三人はトロッコを押しながら緩い傾斜を登って行った。良平は車に手をかけていても、心は外の事を考えていた。
 その坂を向うへ下り切ると、又同じような茶店があった。土工たちがその中へはいった後、良平はトロッコに腰をかけながら、帰る事ばかり気にしていた。茶店の前には花のさいた梅に、西日の光が消えかかっている。「もう日が暮れる」――彼はそう考えると、ぼんやり腰かけてもいられなかった。トロッコの車輪を蹴って見たり、一人では動かないのを承知しながらうんうんそれを押して見たり、――そんな事に気もちを紛らせていた。
 ところが土工たちは出て来ると、車の上の枕木に手をかけながら、無造作に彼にこう云った。
「われはもう帰んな。おれたちは今日は向う泊りだから」
「あんまり帰りが遅くなるとわれの家でも心配するずら」
 良平は一瞬間呆気にとられた。もうかれこれ暗くなる事、去年の暮母と岩村まで来たが、今日の途はその三四倍ある事、それを今からたった一人、歩いて帰らなければならない事、――そう云う事が一時にわかったのである。良平は殆ど泣きそうになった。が、泣いても仕方がないと思った。泣いている場合ではないとも思った。彼は若い二人の土工に、取って附けたような御時宜をすると、どんどん線路伝いに走り出した。
 良平は少時無我夢中に線路の側を走り続けた。その内に懐の菓子包みが、邪魔になる事に気がついたから、それを路側へ抛り出す次手に、板草履も其処へ脱ぎ捨ててしまった。すると薄い足袋の裏へじかに小石が食いこんだが、足だけは遙かに軽くなった。彼は左に海を感じながら、急な坂路を駈け登った。時時涙がこみ上げて来ると、自然に顔が歪んで来る。――それは無理に我慢しても、鼻だけは絶えずくうくう鳴った。

 竹藪の側を駈け抜けると、夕焼けのした日金山の空も、もう火照りが消えかかっていた。良平は、愈気が気でなかった。往きと返りと変るせいか、景色の違うのも不安だった。すると今度は着物までも、汗の濡れ通ったのが気になったから、やはり必死に駈け続けたなり、羽織を路側へ脱いで捨てた。
 蜜柑畑へ来る頃には、あたりは暗くなる一方だった。「命さえ助かれば――」良平はそう思いながら、辷ってもつまずいても走って行った。
 やっと遠い夕闇の中に、村外れの工事場が見えた時、良平は一思いに泣きたくなった。しかしその時もべそはかいたが、とうとう泣かずに駈け続けた。
 彼の村へはいって見ると、もう両側の家家には、電燈の光がさし合っていた。良平はその電燈の光に、頭から汗の湯気の立つのが、彼自身にもはっきりわかった。井戸端に水を汲んでいる女衆や、畑から帰って来る男衆は、良平が喘ぎ喘ぎ走るのを見ては、「おいどうしたね?」などと声をかけた。が、彼は無言のまま、雑貨屋だの床屋だの、明るい家の前を走り過ぎた。
 彼の家の門口へ駈けこんだ時、良平はとうとう大声に、わっと泣き出さずにはいられなかった。その泣き声は彼の周囲へ、一時に父や母を集まらせた。殊に母は何とか云いながら、良平の体を抱えるようにした。が、良平は手足をもがきながら、啜り上げ啜り上げ泣き続けた。その声が余り激しかったせいか、近所の女衆も三四人、薄暗い門口へ集って来た。父母は勿論その人たちは、口口に彼の泣く訣を尋ねた。しかし彼は何と云われても泣き立てるより外に仕方がなかった。あの遠い路を駈け通して来た、今までの心細さをふり返ると、いくら大声に泣き続けても、足りない気もちに迫られながら、…………

 良平は二十六の年、妻子と一しょに東京へ出て来た。今では或雑誌社の二階に、校正の朱筆を握っている。が、彼はどうかすると、全然何の理由もないのに、その時の彼を思い出す事がある。全然何の理由もないのに?――塵労に疲れた彼の前には今でもやはりその時のように、薄暗い藪や坂のある路が、細細と一すじ断続している。…………


青空文庫より(ただし、ふりがなは略)
http://www.aozora.gr.jp/cards/000879/files/43016_16836.html

2009年10月26日 (月)

世界史と日本史

歴史というと大学入試の悪影響で「暗記」という印象が定着してしまっている。
つまり、「歴史年表」が歴史と勘違いされてしまっているのではなかろうか。

私自身の意見では、年号暗記などどのような意味があるのだろうか。ほとんどの歴史的出来事が一年や二年、早まっていても遅くとも、その後の世界に大きな違いをもたらすとは思えない。
それよりも、その出来事が、なぜ(それまで歴史、周辺地域の状況)おこったのか、そして、どのような歴史への影響(その地域にかかわらず周辺地域も含めて)があり、別の歴史的出来事の誘因の一つとなったのか。
このような歴史のダイナミズムや国・地域を越えてのつながりということの理解が大事なのではなかろうか。

このような観点からいえば、世界史と日本史というものは一体としてとりあげられるべきだと考える。
日本は世界の歴史の中では、一番辺境に位置しており、日本で生じた出来事が世界の歴史に影響を与えたことは、明治以前には、ほとんど無かったので、世界史の中で日本を無視することはありえても、日本史を考える上で、世界史(少なくとも東アジア史)的視野を欠いてはならないはずである。

例えば、飛鳥から奈良時代の日本史ならば、当時の朝鮮半島やその背後にある中国を念頭に入れて見なければ、本当の理解はできないであろう。
もっとも、このような古代史については、十分な史料がなく、日本はもとより朝鮮半島に関しても、あいまいであるということも事実である。このため、日本国(大和政権)内だけでなく、国際的な背景も、といっても限度があるかもしれない。しかし、逆に考えれば、史料が少ないのであるから、日本書紀のような後世に、かなりの恣意がこめられつつ編纂された史料のみでなく、朝鮮半島・中国の史料も踏まえなければ、偏りのある歴史となってしまうだろう。

少し別の切り口をあげてみよう。
海外と日本ということを考えると、外国から、直接侵略を受けた数少ない出来ごとの一つが「元寇」である。
また、外国からの技術導入により日本の歴史に大きな影響を与えたものの一つが「鉄砲伝来」である。
この二つにつながりがあると言ったらどう思うだろうか。

「元寇」はモンゴル帝国の拡張運動の東の端での出来事である。
ところで、この拡張運動による進出は、東側だけではなく、ロシアなど東欧諸国、イスラムなどの西アジアまで広がっている。
そして、鉄砲の基本たる「火薬」は、このときに、イスラム経由でヨーロッパに伝わったものである。
つまり、両者ともに、モンゴル帝国の拡張運動に伴うものというつながりがあるわけである。

蛇足になるが、鉄砲伝来の頃のヨーロッパ諸国の海外進出には、キリスト教の布教という精神的な理由づけがあった。
このキリスト教の布教運動は、宗教改革に対するカトリック側の対抗であり、ルターの宗教改革を広げる技術背景であった印刷技術は、そもそも宋代の中国からヨーロッパにもたらされた木版印刷が基底にあるといわれている。

江戸時代の鎖国政策についても、それ以前に、イギリス・オランダなどが日本と交易を開始しており、航海技術的にはヨーロッパがこれに干渉することは可能だったのにもかかわらず、400年間の長期間にわたり維持することができた。
そして、江戸末期になって、急速に欧米からの干渉が強まり、これを引き金の一つとして明治維新が起こった。
このようなことについては、鎖国を許したヨーロッパの状況や、これに干渉するにいたった欧米の状況を理解しておかなければ、井の中の蛙になってしまうだろう。

残念ながら、歴史が歴史年表におきかえられ、世界史と日本史が区別される日本では、グローバルが当然のようにみなされながら、井の中の蛙か、井の中のことをしらない蛙しかいないように思う。

このような日本では、クォリティペーパーを「自称」する全国・大部数の新聞ですら、北朝鮮問題というと拉致問題とせいぜい日本の国防問題としての核実験程度としてしか報道がなされず、北朝鮮からの武器や軍事技術輸出を通じての、ここも核開発を進めているイランなど中東問題への影響、そして、それが石油エネルギー供給として世界のエネルギー問題につながっているというグローバルな視野はみられない。(そして、核問題については、現在の核不拡散体制は核兵器所有国(先進国)にあまりに有利であり権利を害されているとの開発途上国の潜在的な思いがあるだけに複雑)
このような視野なしに、米国(という実質的な主役)の動向など、極めて国際的な問題である北朝鮮問題を報道しても「井の中」の報道にしかならないはずである。
もっとも、日本にはクォリティペーパーを自称する新聞はあっても、その実態は大衆紙であるし、これが、現在の日本人のクォリティにちょうどあっているのだから仕方がないか・・・
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ところで、日本のがん治療報道も、グローバルな視点がまったくない「井の中の蛙」報道である。というよりも、単なる初期の研究(これまで、このような研究が実を結ぶのは百に一つもなかった)など、はっきりといってドウデモイイばかりであり、蛙の価値もないので「井の中のミジンコ」報道というほうが正解かもしれない。

これは、新聞記者と称する方々が、少なくとも、がん治療については「井の中のミジンコ」程度の知識しか持っていないことの反映であろう。

少なくとも、日本のがん治療は、外科手術の技量を除けば、ほとんどの田舎レベルである。
このため、国内の学会のレベルは低く、世界的な発表は海外の学会でしかなされない。この代表がASCO(米国臨床腫瘍医学会)であり、乳がんならばSABCS(サンアントニオ乳がんシンポジウム)である。
日本国内での発表をいくら拾っても、田舎レベル以上のものがあるはずもない。

もしも、本当に一流紙であり、がん治療についての報道を行うならば、「今年のASCO」から」とか「サンアントニオ乳がんシンポジウムに見る乳がんの最新治療」などという記事が載らないのだろうか。
(ちなみに、内容は学会に参加した医師に書いてもらえば良いのだから、志しさえあれば、ミジンコ記者であっても問題ない。)

グローバルな視点を持たないから、日本のがん治療の田舎レベルの「悲惨」な実態がわからない。
私がこれをいっても、信頼性がないだろうから、日本の乳がん治療の大先生のブログを引用してみる。
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「罹患率、死亡率ともに「欧米型」の疾患と言われる乳癌は、日本での臨床試験はいつも海外の後追いである。米国ではASCO(米国臨床腫瘍学会)とSABCS(サンアントニオ乳がんシンポジウム)の二つの学会で世界の最新情報が報告される。最新情報とは多施設共同ランダム化比較試験の結果である。最近の特徴は、「日本以外の諸国が参加するグローバル試験」結果が続々と報告されることである。なぜ、日本以外なのか? その理由の一端はがんじがらめの規制にある。たとえば、今年のASCOのプレナリーセッションで発表された「PARP1阻害剤」の試験は、抗がん剤治療群 vs. 抗がん剤+PARP1阻害剤」のランダム化比較試験である。この試験では、抗がん剤治療群が、対照群であり、「PARP1阻害剤」を上乗せすることで、効果持続期間や生存期間がどれぐらい延長するのかというのが、この試験での検討課題であった。結果は会場からどよめきが起きるほど見事なものであった。次の段階では、さらに症例数を増やし、観察期間を延長し、「PARP1阻害剤」の真の実力を評価する第III相試験に進む。当然、global trialとなるだろう。日本からも参加すれば得られた結果は、速やかに日本の乳癌患者の治療に利用できることになる。しかしそうはいかない。試験に使用された抗がん剤は、カルボプラチンとゲムシタビンであり、いずれも、我が国では乳がん治療薬として承認されていない。承認されていない薬剤は対照薬として使えないことになっているので、この2剤が承認されないかぎり参加できないのだ。今回も日本からの参加不可能ということになれば日本は3周遅れ、ということになる。以前、このような積み残しをまとめて承認しよう、ということで、「抗がん剤併用療法検討委員会」(黒川清委員長)というのが開かれ、何品目かを手続きを簡略化して承認したことがあった。しかし、あれから3-4年が経過し状況は、全く改善しておらず、周回遅れ、積み残しの山だ。
では、日本からの情報発信はどうなっているのか? NSASBC01試験では日本発のエビデンスを構築することはできた。これは、世界の標準薬CMF vs. 日本の汎用薬UFTのランダム化比較試験である。患者団体の激しい妨害により、試験の進捗は大幅におくれ、結果が得られた時には、既にCMFは世界の標準薬の座を失っていた。ホンダがF1から撤退したように、日本の腫瘍医療は、臨床試験から撤退せざるを得ないかも知れない。臨床試験ただ乗り論でglobalからのバッシングを受けることにもなりかねない。」
(
オンコロジストの独り言 http://watanabe-oncology.spaces.live.com/ 2009628日記事)
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個人的には「臨床試験ただ乗り」してくれれば問題ない。

ところが、二周遅れの治験をしなければ、健康保険承認がされない。

このような現状すら知らないで、混合診療の可否を報道するマスコミ。
やはり、「井の中のミジンコ」である。

2009年10月19日 (月)

情理

八ツ場ダムや羽田空港国際化(成田空港)という最近の地方自治体と民主党政権の軋轢をみていると、「情理を尽くす」という言葉を思い出した。

私が思うに、日本人は交渉事において、「結論」(の論理的妥当性)よりも「過程」(プロセス)のほうに重点を置く傾向がある。
その一つの表れが、「情理をつくす」という表現である。

「情理をつくして」説得されたのだから仕方がない、とか、「情理がつくされていない」などと使われる。

おもしろいのは「情理」という言葉が「情」と「理」という相異なる二つの要素を満たすことを要求している点である。

今までのところ、民主党政権は地方自治体に対して「情理」をつくしているようには、少なくともそとめからは見えない。

単に「マニフェスト」で約束したからということだけであり、この場合、マニフェストが国会議員選挙という政党からの一方的約束であり、直接利害を被る地方自治体や住民との関係においては無意味なはずであるに、それを持ち出されて、十分な説明もなく断行しようというのは「情理をつくしている」とは思えない。

少なくとも「情」の面で不十分であるのは確実として、「理」の面でも説明がつくされているのだろうか。

八ツ場ダムでは無駄遣いと抽象的な言葉を聞くのみで、ダム建設続行(追加投資とある程度の治水・利水効果)に比して、ダム建設中止(後始末のための投資)のほうが無駄使いは少ないのか、私は聞いたことはない。
もちろん、このような評価は、計算で使われている仮定を少し変更すれば、いくらでも変更できるものではあるが・・・
個人的に気になっているのは、本当に温暖化が進行すれば、日本でも豪雨型の気象は増えるのではないか。そして、それが問題となってから、対策をとろうとしても、それには長時間がかかり手遅れとなる事態である。

成田・羽田空港のほうは、もっとわけのわからない展開である。
どうして、「羽田・成田の一体的な運用」という意味不明な説明で、森田千葉県知事は納得できたのか。一体的といっても、「成田を主体として、夜間や成田では能力が不足する部分だけを羽田で運用」ということから「羽田を主体として、羽田では能力が不足する「お余り」を成田で運用」まで、ものすごく幅があるのに、なぜ、納得できたのか。

これについても、本当に日本に国際ハブ空港が必要なのか。そのために、どれくらいの費用を投じるのか。さらには、競争相手が外国にいるのだから、それだけの費用を投じたとして、ハブ空港化する可能性はどれくらいなのか。
そもそも、衰えつつあるとはいえ、日本の経済力からは、韓国なり中国にハブ空港が出来ようと、日本への直行便が減るとは考えにくい。つまり、日本人だけに限れば、ハブ空港になろうと、なるまいそれほど変化はないのではないか。
つまり、欧米から日本以外のアジアへ向かう人が、日本経由なのか、他のアジアの国経由なのかにより、どの程度の損得があるのか。

このように思うと、民主党政権は「情」も「理」もつくしているとは残念ながら言い難い。

もっとも、あまりに民主党のことを悪く評価していると誤解されるといけないので(あまり良く評価していないのは確かではあるが)、一言、書いておけば、「情理をつくす」には時間がかかってしまう。
旧自民党体質の社会を変革し、自民党にダメージを与えるためには、スピードが重視される。このためには、情理をつくす暇がないのかもしれない。

もっとも、悪くいえば、民主党は「情理」をつくそうとすると、これまでの検討の浅さや概念だけの議論(机上の空論)のボロが出ることをおそれているだけかもしれないし、他方、地方自治体の「情理」の理は実は「利」であり、単に、補償金名目で金を落とせということをいっているだけなのかもしれないが。
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ところで、患者も医師に対して、「治療内容」(の妥当性)よりも「過程」(プロセス)のほうに重点を置く傾向がある。

多少、医学的にみれば治療内容に難があるものであっても、家族の方が「親身になっていただいた」と感謝の気持ちをあらわす。
逆に、医学的にみれば治療内容に問題はなくとも、「ぞんざいに扱われた」と不満をのべる。

もちろん、医師側には医師側の「情理」がある。このうちの「理」は、医「学」的な正しさである。「情」は、患者側からは感じ取られにくいが、患者を治したい・治せないとしても少しでも良くしたいというピッポクラスス以来の医師の心である。

中には、お金儲けが第一のトンデモ医師がいないというわけではないが、多くの医師には、強弱はあるかもしれないが、この「情」はほとんどの医師が持たれているように思う。
そうでなければ、責任の重さ・勤務の厳しさに照らして、割の合わない勤務医などはやっていられないだろう。例えば、勤務医などは辞めて、法律で定められている職場の定期健康診断などのバイトだけ、という気楽・かつ、ジジイ医者にもつとまる仕事に転職するほうがどれだけ増しだろうか。

しかし、実医療において、医師からみたにしろ、患者からみたにしろ、「情理」をつくすことは困難である。

まず、患者側からみた「情理」のうち、「情」については、医師はこの意味の「情」につくすと、情に流されることとなりがちであり、結果として、患者のマイナスとなってしまう可能性が強い。
このため、専門職として、この意味の「情」にはかかわらない態度が暗黙のうちに備わってしまっている。
また、「理」については、そもそも患者側に「理」を理解できるだけの努力をしていない方が多い。理解できる能力がないのに「理」がつくされているかどうか、納得できるとは思えない。
蛇足ながら言えば、家族の多くは、患者に対する「情」は満ちあふれているのに、患者のための「理」(知識)を学ぼうとする方は少ないように思う。「理」がなくして「情」だけに基づく「好意」はトンデモ治療など、患者にとってのマイナスに結びつくこともあるかもしれない。

医師から見た「情理」のうち「情」については、志は残っていても、激務の中でどれだけ実医療で行うことができるだろうか。どうしても「理」(教科書的内容・標準医療・平均的な可も不可もない治療)に傾いてしまうのは仕方がないように思う。

いずれにしても、「情理」をつくすには時間がかかる。そして、現在の健康保険制度のもと、医師にそれだけの時間は与えられていない。
これは、それだけの健康保険料と税金(のうち医療に充てられる額)しか国民が払ってこなかったことが第一原因である。

といっても、現在の健康保険制度では、そのために個人が追加負担をすることは禁じられている。
であれば、患者側でなしえることは、「情」(患者側の価値観、受けたい治療についての希望)をきちんと整理し、「理」(きちんとした知識)について少しでも増やすべく努力をするという、患者側にとってできる限りの「情理」をつくす。

そうすれば、医師だって人間である。これに応えて、可能な範囲で、情理をつくそうとしてくれる可能性が高まると思うが、患者側からの一方的な希望だろうか。

2009年10月12日 (月)

妻の遺作展

このブログは「日々の生活日記・闘病記ではありません。このようなものならば、いくらでもより適当なブログがあふれています。」という基本姿勢のもとに書いていますので、個人の生活などに関することは、基本的に記事にしてきませんでした。
このため、妻の病気(小腸がん)についても触れてきませんでした。
(
ちなみに、膵内分泌細胞がんが数十万人に一人、小腸がんが一万人に一人といわれていますので、夫婦が同時にこのような組み合わせになることは、天文学的確率になるかもしれません)

しかし、「個展を開いて、『一人でも多くの人に』作品を見てもらいたい」という、かなえられなかった妻の夢を思うと、基本姿勢を曲げてでも、記事としてアップすることといたしました。


なお、遺作展終了まで、常に最新記事になるようにいたしますので、RSSをご利用の方は、何回か同じ記事の通知がなされることになります。ご容赦ください。

会期中は、常時ギャラリーに詰めている予定ですので、絵に関心がなくとも、このブログ主がどのような顔つきか見てみようということでも結構ですので、ご都合がつきましたら、ご来廊いただければ幸いです。
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妻 添嶋奈美子(ハンドルネーム:soel)は、10万人に一人といわれる、小腸がんにより3年あまりの治療生活を経て、本年1月に逝去いたしました。

小腸がんという病が発覚しましたのは、「ギャラリィファンタジア」[http://blogs.yahoo.co.jp/soel917]というブログを立ち上げたばかりの頃でした。

その後、3年あまりにわたり、このブログを通じてイラストなどの数々の作品発表を続けるとともに、多くのブログ仲間の方々と心温かな交流を続け、皆さんに支えられながら治療生活を送ったのは、ブログをご覧いただければおわかりいただけるでしょう。

その間にsoelが出逢った大勢の方のその御好意には、soelも感謝の気持ちで一杯だったでしょう。

ブログで発表してきた作品には、soelのアートへの熱意と、「生き物への温かな心」が満ちあふれています。

今回の遺作展は、ブログで交流いただいた皆様の後押しをいただきながら、soelの念願=夢であった個展を「遺作展」という形で実現し、soelの想い、すなわち、soelの世界を少しでも多くの方々に感じていただきたく考えるものです。

「遺作展」は「添奈美子遺作展 -soelの世界-」と題して、

10月9日(金)~14日(水)11:00~17:00(最終日は15:00)

東京 ギャラリー日比谷 [http://www.g-hibiya.com/]

にて開催いたします。

会場の1,2階では、

soelの想い ~ Fantasia & Happiness ~』と題し、soelの作品の中心であるファンタジア・シリーズ37点を展示いたします。

多くの時間をかけ、ひと筆ひと筆アクリル絵の具で大切に描かれたシリーズ作品です。

soelが作品に込めた想いを原画からじかに感じていただければ幸いです。

会場の3階では、

soel & グループ展 ~ soelを偲んで ~』と題して、soelのファンタジア・シリーズ以外の作品とともに、ブログ仲間の皆様からお寄せいただいた作品などを展示し、ブログ仲間の皆様とともに、soelを偲ぶ場とできればと思っています。

soelが創り上げた“ブログに咲いた小さな珠玉”。

インターネットから飛び立ったその作品を皆様に生で観ていただき、その幸せな世界を感じるひとときを楽しんでいただければ幸いに思います。

皆様のご来廊を心よりお待ちしております。

2009.9

粘る稀ながん患者/soelの夫

妻の作品につきましては、
「ギャラリィファンタジア」[http://blogs.yahoo.co.jp/soel917]
でご覧いただけます。

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重ねて、皆様のご来廊をお待ちしております。

また、皆様の周囲に関心を持たれそうな方がいらっしゃいましたら、本遺作展についてお知らせいただけるようにお願いいたします。

2009年10月 5日 (月)

「友愛」への懸念

鳩山総理大臣の好まれる「友愛」であるが、私はこの言葉を耳にするたびにかなりの違和感を感じてしまう。

「甘っちょろい」「おぼっちゃん」言葉への感情的な反感があることは事実である。これだけならば、単なる好みの問題でしかない。

しかし、その国の為政者(本当は、党首は単なる幹事長の操り人形(ないし幹事長から委任されたことのみ自由)という話もあるようだが)が、為政の理念として発する現在の場合には、次のような懸念が出てしまう。

1.現実社会(世界)では、単なる「友愛」は「損」という事実
2.一歩間違えば、「友愛」が「集団主義・独裁」に変質する可能性
3.にもかかわらず、これらのリスクを隠す甘い響き

「友愛」自体が立派な理念の一つであることを認めることにやぶさかではない。
ただし、残念ながら現実の世界は麗しい理念のみで生きていけるものではない。
一番わかりやすい例は国際政治である。これは美しい言葉を使いながら、いかにして自国の利益を確保するかというパワーゲームである。
例えば、日本の核保有のお隣の国(得意技:捨て身の瀬戸際外交)に「友愛」を訴えるだけではラチが開くとは思えない。
「友愛」を単なる「タテマエ」とするのならば別として、友愛を示せば友愛が返ってくるという「おぼっちゃん」的発想ならば、右の頬を打たれて左の頬を出したら今度はバットで殴り倒されるのが落ちである。
もちろん、現実に根ざした、十分にあり得るいくつかの選択肢の中から選択する際に友愛の理念を重んじるとか、友愛に根差したアイデアをもとにしつつ、あくまでも現実に適用可能な政策にこなせれば初めて実行するという範囲であれば「理念」に基づく政治として評価はできるが。
なお、念のために言っておけば「損」を承知で鳩山個人が「友愛」に基づく私生活を行うというならば、「立派な」おぼっちゃんとして、ある意味で高く評価する。しかし、この場合「損」をするのは鳩山個人の範疇である。一国のヘッドとしてならば、「損」をするのは、鳩山個人ではなく国民であることを忘れてはならない。

それよりも、「友愛」という理念について心配なのは、これを自分自身に課すものとする限りにおいては、現実生活での「損」をいとわなければ、一つのあるべき姿なのかもしれないし、少なくとも他人が批判すべきものではありえない。
しかしながら、「友愛」には「友愛」が返ってくる、さらに進んで、「友愛」には「友愛」で応えるべきである、そして、「友愛」精神を持つべきであると、他人に「友愛」を強いるならば極めて危険である。
というのは、「友愛」の名のもとに、「社会」に対して「個人」が犠牲を払うことが倫理上の必然となり、個人軽視の集団主義に陥る可能性が高いからである。また、一部のマイナスの上に他方の利益をもたらそうとすること(これは、立法・行政の一つの本質)を、その当否をきちんと議論することなく、「友愛」という言葉だけで反対を封じていくならば、ある意味で「独裁」となろう。
例えば、子どもに対する支出を増加させ、そのかわり、扶養控除の廃止という形での増税や公共投資の減少を行うことの正当化を「友愛」という言葉のみですませて、これに反対するものは「友愛」の理念に反すると、一国のトップが批判するということを仮定すればわかりやすいであろう。私自身は、なんらかの少子化対策が必要であり、そのための公的資源配分の変更自体という一般論には賛成するものの、その対策が費用に見合ったものか、とか、移転元となる部分の公的支出の削減や国民の負担増加が対策の効果と見合うものなのかについて、きちんと議論されるべきものであると思う。
「友愛」という理念自体は立派なものではあろうが、その現実的な内容はアイマイなものであるし、なにをもって友愛とするかということは個人ごとに大きく変わるはずのものである。
このような個人の価値観とも深く結び付く言葉を一国のトップが(個人としてではなく)、現実政治の理念とすることには、どうしても違和感を感じてしまうのである。

そして、このように一歩誤ると危険な言葉にもかかわらず、その甘い響きによりその危険性をみえなくさせ、さらに、他人からの批判が許されないものとされる極めて大きなリスクを有することを感じさせなくすること、これが一番の心配である。(戦前・戦時中の大東亜「共栄」圏とか八紘一宇という、きれいな理念が戦争の現実を隠したことを考えてほしい)

私なりにまとめてみれば、「友愛」は個人が自分自身に課す言葉としては倫理上優れたものであろうし、さらに、これをその個人の損となるかもしれないことを承知の上で実践するならば、ある意味で、立派なことであろう。
しかし、「友愛」を他人に期待したり、他人に強いるならば、単なる自己中心的な人間となってしまうだろう。

私は「友愛」ではなく「You I」であると思う。そして、「友愛」はIに求めるものであり、Youに要求すべきものであってはならないと考える。
そうでなければ、YouとIはあい異なる、しかし、互いに人間としての価値は同一であるという、人類が過去の歴史の中から見出した教訓を無にしてしまいかねないかもしれない。
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ところで、「友愛」というのは一つの理念であるが、がん治療においても「理念」があるはずである。
いや「理念」というと言葉が大げさすぎよう。
どのような「治療」を受けたいのかという、個々の患者の「理想」というべきものである。

このようなものがなければ、自分自身の治療に対して、自分自身が主体的に判断していくことは不可能であろう。
もちろん、標準的治療とか教科書的治療、あるいは、おまかせ治療で良いというのであれば、このような理念・理想は不要であるし、単なる不満の元かもしれない。
しかし、標準的治療の先を行く(行っていると思われる)ような治療や積極的な治療を希望するならば、なんらかの「理念」なしには不可能である。

がん治療でも「理念」は重要ではあるが、しかし、自分自身の治療で実際に適用しようというときには、いろいろと注意が必要である。

まず、第一にどのように立派な「理念」であっても、現実の医学水準・社会条件から、それを適用することは、マイナス(特に医学面で)かもしれないことである。
現実を踏まえて、「理念」を押し通した場合のプラス・マイナスをきちんと知らなければ不幸かもしれない。
建前だけは麗しいトンデモ医療にはまってしまうのは、このような人が多いようにも見られる。

次に、医者側にも、医療者としての理念がある。
医学的にマイナスである可能性が高い治療は拒否するだろうし、そこまでいかなくとも教科書から離れた治療には消極的であろう。また、自分の知識・経験では困難な治療、これまで行ったことがない治療もハードルが高いであろう。また、医学的に妥当と思っていても、自分がおかれている健康保険制度などの制約の前に行えないこともあるかもしれない。
このようにあい異なる相手にもかかわらず、自分の理念にしたがってくれる(したがうべきである)と信じて、理念を押し通そうとするならば、医師との軋轢と不満だけが高まってしまうことになるだろう。
では、どうすべきか。
相手を自分とあい異なる存在であるということを認識したうえで、自分の理念を説明し、これに手を貸してくれるように説明・説得する努力をするということにつきるのではなかろうか。また、この際には、自分の理念の結果が、医療の現実を踏まえると、医学的にはマイナスかもしれない(あるいは、この程度のプラスが期待される)ということを十分に理解していないと、説得力はかなり欠けてしまうだろう。

がん治療において、医師と患者はYou Iである。
あい異なる存在が、相手があい異なる存在であることを踏まえたうえで、双方の理念を理解し、出来るかぎり、その理念がかなうように努める。
これが、がん治療において、実現するのは大変なことではあるが、あらまほしき「You I」であると思うがどうだろうか。

2009年9月28日 (月)

日本社会 -観念と現実のあいだ-

前回、話題として使わせていただいた「タテ社会の力学」(中根千枝、講談社学術文庫)の一節に「観念と現実のあいだ」がある。
正直なところ、この内容と「タテ社会」にどのような結びつきがあるのかはっきりとは理解できないのではあるが・・・
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日本人は、自分たちの社会が力学的に規制されているということを、無意識に体得しているのではなかろうか、と私は思う。なぜならば、社会的評論(識者・評論家などといわれる人々のみでなく、一般の人々の社会現象への対応を含めて)というものが、あまりにも観念的なもので、現実の上をうわすべりしていることと、そうしたあり方を、むしろ当然のことのように受けとめているからである。
(
)日本における社会評論というものは、主観的で独りよがりになりやすく、問題を対岸の火事のように扱い、説得力もなく、問題の解決に役立たないものが多い。たとえば、余の関心を集めたなげかわしい社会問題に対して、道徳的批判を熱心にして、その後で「要するに教育(制度)が悪い。これをなおすべきだ」ということがよくきかれる。この種の意見は、もちろん、教育関係者以外から出されるのが常で、文部省がけしからん、とか、学校教育の内容が悪いことを指摘する。
もちろん、こうした指摘は十分意味のあるものと思われるが、それでは、実際に、どうしたら教育をその方向に改革することができるか、()どれほどの関係者のエネルギーと時間がかかるか、あるいは、それでもできるのかどうか、という問題となると、ほとんど戦略をもちあわせていない。
さらに、たとえ、教育制度や内容を変えることができたとしても、それが実際にどのくらいの効果をもつものであるか、といった予測においては、まったく希望的観測の域を出ない。日本人の教育に対する期待は、並はずれて大きいような気がする。()
とにかく、実情にメスを入れて方法を論ずるのではなく、「こうあるべきだ」という謳い文句や、「こうすべきだ」という主張の吐露に力点がおかれるのが、日本における社会評論の特色である。実態をどのようにしたら、どこまで改善できるか、またできないか、という実態の把握をもとにした具体的方策に関する問題は、彼らの関心の枠外におかれているようにみえる。
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前の記事にも書いたように、この本の初版は1978年なので少なくとも30年は観念主義的社会評論が続いてきたらしい。

もちろん、実態に入るべきことを強調しすぎると、現場の人間しか発言権がなくなってしまう。
また、現実に足を引っ張られてしまい「あるべき論」が出来なくなってしまうかもしれない。
しかしながら、あまりに現実を踏まえない(あるいは、都合のよいように無視した)社会評論「しか」ないというのは、また、それが生活に直接影響を及ぼす問題に対するものの場合は・・・かなり問題かもしれない。

観念論的社会評論家が不用とは思わないが、他方、現実を分析・把握して、意味ある(可能性の高い)処方箋を示す現実的な評論家もいないとバランスを欠くだろう。
そして、現実的な評論家が個別的なものを対象としないといけないことを考えると、観念論的社会評論家は現実的な評論家の1/10とか1/100しかいらないだろう。「現実としても」現在の社会評論家の99/100は口先だけ、あるいは、外国など他人の説の紹介だけという無用の代物でもある。

最近のいろいろな問題へのマスコミの報道ぶりとそれに対する国民の反応(それとも予想される国民の反応に媚びるマスコミ報道とその予測どおりの反応しか示さない日本国民)を見ていると、国民が現実を離れた「観念」に振り回されて満州事変から太平洋戦争へと進んでいったことの二の舞を、近い将来に演じる(演じつつある)のではないかと心配するこの頃である。
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しかしながら、この「あまりにも観念的なもので、現実の上をうわすべりしている」という風土は、がん治療に対する姿勢にもあらわれている。

例えば、混合診療というと「治療に不平等が出る」とか「国内データーがないという安全問題」を持ちだす。
しかしながら、未承認抗がん剤や健康保険適用外抗がん剤といっても、その価格はピンからキリまである。場合によっては、効果も安全性も不明な「がんに効くと称する健康食品」よりも安価である場合もある。
さらに言うならば、不平等が問題ならば、早期に健康保険適用にすべきというのがあるべき意見のはずであるが、現在の健康保険制度(国内データーに固執する。これも国民の保険費を使うのだから一つの立場ではある)を変えるべきであると、現実に即した意見にはならない。少なくとも、健康保険制度という現実がある以上、それに対する自己責任ペースの自己防衛権を奪うのが正しいことであろうか。
安全性にしても、海外データーはあるのだから、不確実性があることを見込んで、どの程度の効果があるのか、逆に副作用はという現実的な議論は聞いたことがない。
そして、一時期、未承認抗がん剤で騒いでいたがん患者のほとんども、現実についてきちんとした知識もなく、単に「海外で使用されている最新の抗がん剤」という観念的な憧れだけによっていたのではなかろうか。いつの間にか、根本的な解決もないまま騒ぎが収まった今となっては、このように考えざるを得ない。

最近、言われているがん治療の均てん化も同様である。
別に中央と地方の格差是正の必要がないというつもりはない。
しかし、「均てん化」の内容がよくわからない。
良くも悪くも(中央も地方も)標準的治療が普通となってしまった現在、何を均てん化するのだろうか。
もしも、標準的治療が無効になってしまった次の治療というのならば、たしかに中央のほうが熱心な医師はいるかもしれないが、しかし、これは人口が多い=医師が多いということの反映でもある。中央に住んでいれば、優れた医師にめぐり合えるわけではない。
さらに言えば、この情報化の現在において、医師が得られる情報量はその努力次第であるし、経験という意味では、一人の医師当たりのがん患者数には大きな差がなかろうから、これまた、大きな差はないだろう。
逆に在宅医療環境などは、住宅状況に恵まれた地方の方が上かもしれない。

単に「均てん化」というだけで、具体的にどのような差があり、それがどの程度のマイナスなのか、また、それを解消するのに効果的な施策と必要な資源(金・人)といった現実を踏まえたものを遺憾にして私は知らない。
なんとなく中央のほうが優れているという「思いこみ」(←どの程度正しいのかは別として)に基づき、「憧れ」を語っているだけのような気がする。

また、良くネットの掲示板に見る最先端医療への希望にしても、本当にどの程度の効果が見込まれるのか(自分に対して有効なのか)という現実を調べようともしない方があまりにも多いように見える。

さらに、がん治療に限らず、救急医療とか産科医療(多分、この次は外科?)など日本の医療において改善が必要なことが叫ばれる。
しかし、そのための具体的な解決策はあまり聞かない。また、行われつつある具体的な解決策についても「どこまで有効なのか」ということは聞かない(多分、本質的な解決にはつながらないことが明らかになることを恐れてかもしれない)
なんとなく、「人の命は地球よりも重い」的な観念が大本にあり、(人の命のためには)救急医療体制の充実が必要であるということを言いさえすればよいと思っているのではなかろうか。
少なくとも、現在の問題を具体的に改善するというならば、どの程度問題解決に有効なのか、他方、そのために必要な「人・物・金」はどうするのかという、現実を踏まえたものでなければならないと思うのだがどうだろうか。

なお、私は、現在の健康医療制度を維持するため(だけでも)には、健康保険料の50%とか倍増(あるいは、それに相当する増税)が必要であろうと思っている。
ひょっとすると、合理化など医療の合理化で10%ぐらいの捻出は可能かもしれないが、疲弊しきっている現在の医療を通常に戻すためには、最低でも、それ位の金(それによって人が増える)は必要であろう。

もちろん、負担水準をこれ以上あげることができないという意見が多いだろう。
であれば、健康保険の性質を「セーフティネット」として最低限プラスアルファ程度のものにするしかないのではなかろうか。
観念ではなく、具体的な現実に即した議論が必要であると思うがどうだろうか。

かなり話を発散させてしまった。

私なりに思うがん治療とは、観念(どのような治療(←抽象的)を受けたいのかという理想)は絶対に必要である。これなしには、患者本人(他人とは異なる自分)の価値判断や決断ができないだろう。
しかし、観念のとおりに世界があるわけではない。期待される効果と予想される副作用、経済的な負担、時間的な負担という現実をきちんと把握する。
そして、把握された現実を観念に照らして、一番後悔が残らないと判断された選択肢を選ぶ(それがどの程度不本意なものであっても)ということを続けていきたい。

2009年9月21日 (月)

タテ社会

女性研究者の草分け的存在である中根千枝氏の「タテ社会の力学」(講談社学術文庫)を読んでみた。
初版が1978年らしいので30年以上前の本になるが、一部の例示が古臭い(例えば、ほぼ死語に化している「亭主関白」)ほかは、全体として、いまだに現在の日本にも当てはまっているように感じる。日本社会の本質をついた名著なのだろう。

ところで、タテ社会というと、体育会系の上級生絶対という軍隊的集団を思っていたが、中根千枝氏のタテ社会は、これよりももっと広い集団を意味していた。

きちんとした定義付けがなされていないので、私なりの理解となるが、外に対して閉鎖的(境界がある)であり、内部には構成員には序列(順位)があるという集団を意味しているようである。
ちなみに、これに対して、個人と個人の結びつきがもととなり、それが網の目のように広がっているものをネットワークとしている。

このタテ社会では、集団内は柔軟なつながりであり、序列を守る(礼節を守る)限りにおいて、個人の「わがまま」は許容される。また、集団内に小集団がある場合には、集団の上位の指示よりも、小集団内の上位の指示が重要視される(社長の言葉は尊重するが守るとは限らない。他方、現場監督の指示には絶対服従する)こともある。
かえって、ルールベースの西欧社会のほうが上位の指示(ルール)に服従する。
また、このような意味で、タテ社会では、上位は下位に対して、「圧力」をかけることはできるが、「権力」をふるうことに対しては、下位の反発を受けることが多い。

以上は、タテ社会における集団と個人の関係であるが、当然、集団と集団の関係ということもある。
まず、集団とその中の小集団(個人が直接所属している)の関係であるが、<集団と小集団の統合は、制度的というか、慣習的な約束によって行われる。つまり、大集団内のルールは集団単位のもので、個人の小集団への統合のあり方とは質を異にするものである。小集団内の人間関係はルールというよりも、条件、個々人の相対的な関係によって規定され、個々人を直接しばるものであるが、大集団内の集団関係には、条件によって容易には動かない制度的ともいえる慣習化したルールが存在している。そしてこれは個々人には間接的にしか働かない性質のものである>
他方、集団とソトの集団の関係は<各レベルにおける上下関係を守ること、そして各集団の既得権を相互に侵さないことである>
さらに、(単位となる)小集団について、<日本の小集団は欧米の個人と同じような性質をもっている。・・・欧米の人々が個人(個としての単位)の尊厳を保つために、抵抗を示すと同じように、日本の小集団はそれを部分とするその上位集団や隣接集団に対して、単位の独立性を強く主張し、抵抗を示すのが常である。これは、小集団において個人がその部分として統合されることに抵抗をあまり示さないことを想起すると興味深い>

これらをまとめたのが、
<
筆者がタテの関係という用語によって意味する一つの重要な人間関係は、下位の者が上位に従属することなく、うまく組み合うことである。そして、ソトに対しては上下の礼節を忘れないことである。したがって「タテ」という用語によって一般にイメージ化されやすい、どちらかというと非人間的なオーダーは、とくにソトに対しての秩序であり、・・・人と人というよりは、むしろ集団と集団の関係にあらわれるのである。内部における実際の人と人の関係の特色は、むしろ「組む」ということにある。>
ということであろう。


もちろん、以上は、私にとって、特に注目されたことをあげただけである。
現在の会社内の、あるいは、政治(政界)の動向を見ていると、本当に30年経った今でも「たしかにあてはまる」という内容が、このほかにも多く書かれている。
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ところで、日本の医療をタテ社会の観点でみるとどうだろうか。

まず、医療界という大きな集団がある。そして、この集団がたしかに「隣接集団に対して、単位の独立性を強く主張し、抵抗を示」していることは、人間の命を預かる医療は「医学は聖域である(ソトから制約されない)」という意識にみられるようにかなり強いように思える。
そのためか、刑事訴訟などになると(私が見ても濡れ衣的事件が多いように感じるが)「感情的」としか見えないような拒絶反応を示す。なお、念のために言うと、医師がシュリンクしてしまわないように、変な捜査や起訴に異議をとなえるのは当然であると思っている。ただ、ここで言っているのは、(それが正当なものであるとしても)その反応ぶりが理性ではなく感情が先走っているようにしか見えないということである。
また、(多少ならば)へんな医師がいても、これをかばっているような体質がありそうに見えることが多いのは、小集団が内部の構成員に「わがまま」を許すことと共通していよう。

この大集団の中の小集団であるが、実際の治療にあたっての医療チームではなく、「医師」「看護師」などの職能別になっているように見られる。
したがって、医師は看護師に対して独立性を主張することとなり、つまり、一人の患者の治療を「協力」して行うのではなく、医師が看護師に「指示」するという関係が生まれてしまう。
いろいろなレベルで、日本はチーム医療がうまくいっていないとか、病院間(例えば、地域がん拠点病院と診療所間)連携がうまくいっていないというのも、このへんに原因がありそうである。

そして、がん治療について、「現実」を見てみよう。

「患者が治療の『主役』」などという耳触りのよい言葉が時折聞こえるようになってはきたが、本当にこのような治療が実現しているのは稀であろう。

大きな理由の一つは、患者が「主役」をはるのには、あまりにも力不足であるということである。知識不足はある程度仕方がないとしても、それをいくらかでも高めるような努力すらしない、与えられた情報も都合のよいようにしか受け取らない、おまかせしかしないのに勝手に予想したような成果が出ないと感情を害する・・・
たしかに、患者側にも努力すべき点はある。

しかし、それ以上に強いのは、医師という小集団の構成員として、(看護師などの医療関係者ですらない)患者を、治療において協力し合う存在ではなく、指示・指導する対象としか映らないというのは、ある意味で、タテ社会の構成員としてつちかわれた本能なのではないだろうか。

医師が医師という小集団の構成員よりも、現実の治療現場(医師、看護師、患者など)という、現実の血の通った小集団の構成員となり、また、患者も治療のソトに属するのではなく内に入る(入るだけの努力をする)

これまでは、医療(医師と患者の関係)というと、権威主義というかパターナリズムの要素が強かったように見える。
もちろん、これには良い半面もあるであろうが「「タテ」という用語によって一般にイメージ化されやすい、どちらかというと非人間的なオーダー」ということでもあるように思う。

私は、現実の治療現場(医師・看護師・患者)が基本的な小集団であり、そこでは「下位の者が上位に従属することなく、うまく組み合うことである。そして、ソトに対しては上下の礼節を忘れない」、このほうが(構成員の一員として患者も努力が求められるものの)、より居心地の良く治療を受けることができるように感じるが、これは少数派の意見なのだろうか。

2009年9月14日 (月)

マニュフェスト

二週間連続で、遅ればせながらの選挙関係ネタから。
これも選挙直前の朝日新聞の土曜版の記事。
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丹羽宇一郎の負けてたまるか! 「マニュフェストは参考程度」

明日30日は投票日。長い選挙戦の間、各政党はマニュフェストを前面に競い合ってきた。
(
)
マニュフェストとは本来、政党の「声明書」であり、人体で言えば骨格だ。たとえば「中間層に厚い政治をする」「外交は日米協調路線」など骨太の政策を述べるものであり、5060もの「小骨の大盛り」公約を並べることではない。
これだけ変化の速い世の中で4年も先のことを声高に言ったところで、どれだけ実現できるのか。経済界では、いまや1年ごと、四半期ごとの計画しか出せない。資源価格や為替が激変するからだ。政治とは、いかに国益を損なわずにこうした変化に対応するかであり、一寸先もわからないのに安易にバラ色の約束をする行為は、「変化に対応しません」と言うようなもの。かえって日本の政治は硬直化してしまう。
その点、政界も財界もマスコミもマニュフェストに踊らされすぎている。()マニュフェストを公約にするなら、それを予算化し、実行されない場合に責任をとる仕組みも作るべきだ。点数をつけるなら、予算(計画)ではなく決算(実行)の段階だろう。
有権者としてすべきことは、政治家や政党の過去の実績や発言、人格、品格から本当に信用できる人を選ぶことだ。マニュフェストは判断材料の一つにすぎない。
(
朝日新聞 829()be on Saturday be4)
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この記事について、まず念頭に置いておくべきは、丹羽氏が伊藤忠商事取締役会長という立派な経済人であることである。
このような立場からは、国民へのバラマキを主体とする民主党のマニュフェストが古代ローマの「パンとサーカス」の約束と同様なものに映ろうし、それに対抗する自民党のマニュフェストも同類項に見えるであろう(なお、私にもそのように見える。)
したがって、政権をとった後も、マニュフェスト至上主義を貫かれては、経済界はたまったものではないという危機感がこの記事の根底にあるように思えるが思いすごしであろうか。

また、現実の経済と比べて、行政は時定数が長いことが多く、たとえ経済界が短期間の計画しか見通せなくとも、行政(政治)にあてはまるとは限らない。
もちろん、緊急の事態に適切に対応すべきことは当然であるが、かなりの部分は、数十年後のあるべき国の姿を想像し、そのためにこれから5年ないし10年間でなすべきことを整理し、そのうえで、この1年とか2年で現実に行うべき施策を実施する。これが、本当の政治・行政ではなかろうか。

ところで、最後の「マニュフェスト」よりも「政治家や政党の過去の実績や発言、人格、品格」というのは正論かもしれないが、「政治家や政党の過去の実績や発言、人格、品格」を見ると合格点に遠く達しない政治家ばかりという現実を前にすると、数値化されていて客観的な分だけマニュフェストに頼るのがマシというのが現実ではなかろうか。
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ところで、がん治療でのマニュフェストに近いのは、標準的治療における標準レジメンではなかろうか。

患者の身長・体重をインプットすれば、具体的な薬量や点滴速度まで求められるし、さらに、マニュフェストとは異なり、効果(可能性)・副作用(可能性)までわかってしまう。

しかしながら、個々の患者をとれば、効果・副作用は大きく異なる。
また、いつそのレジメンが無効になるかも不明である。

本来、がん治療とは、このような変化にいかに対応していくか、それが本質のはずである。
しかしながら、患者ごとの変化にあわせて、投薬の調整・変更や副作用緩和のための対応を十二分に出来る医師は必ずしも多くないらしい。

もちろん、過去の口だけの公約よりマニュフェストのほうがマシなのと同様に、十年前のデーターに基づかない、治療のアリバイ作りとしか思えないような治療よりは、標準的レジメンがマシなのは言うまでもない。

とはいうものの、見せかけの「パンとサーカス」につられて、トンデモ医療にはまるのは論外としても、マニュフェスト(標準レジメン)の効果と限界は忘れてはならないはずであるし、マニュフェストの内容は参考程度としても一読はして、おおよその内容を知っておくことは必要であろう。。

しかしながら、患者がこのようなことを考えざるを得ないということは、「政治家や政党の過去の実績や発言、人格、品格」を見ると合格点に遠く達しない政治家ばかりというのと同様に、「抗がん剤治療における知識・経験が豊かであり、かつ、(品格とは言わないが)人格立派な医師」がほとんどいないことのあらわれかもしれない。

2009年9月 7日 (月)

自分の一票

総選挙も終わり、実際の政治・行政がどのように変わっていくのかに関心が移りつつあるタイミングに、時期遅れの記事をアップする。

選挙前日の朝日新聞の土曜版の「磯田道史のこの人、その言葉」という記事を引用する(朝日新聞829()be3)
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磯田道史のこの人、その言葉
             
尾崎行雄(18581954)

わが国の有権者の多数はまだ自分の一票に憲政を活殺する程の力があることを知らない。


この国の議会と選挙について最も長く、そして深く、見つめ続けたのは、尾崎行雄だ。()
明治初年の文明開化の空気で育った彼は理想家で、日本に「名実かねそなわる政党政治を実現する」夢を追いつづけた。しかし政党モドキの利害集団しか出来ない。「なんとしても本来の政党をつくらねばだめだと思ってずいぶん骨を折ってみたが、どうしてもだめであった」。敗戦直後「なぜだろうと考えてみた」という。やはり日本人は利害や感情で結ばれる親分子分の私党レベルで政治を考えてしまう。政策で結ばれて行動する公党の精神をのみこめていない。そもそも「頼まれたから」「義理があるから」といって投票するのはおかしい。それをやっているうちは本物の政治はやってこない。老いた尾崎はそう思い、最後の力をふりしぼり、投票の心得を有権者に説いた。

「自分はいかなる政治を希望するかという自分の意思をはっきり決めてかかることが大切である」「各政党の政綱政策をまじめに研究し、自分の希望するような政治をやる政党はどれか、よくよく見極めてから投票すること」(『民主政治読本』1947)。世論調査によれば、今回の選挙は「政党の政策重視」で投票する人が多いという。尾崎の時代にくらべ隔世の感がある。明日は日本の憲政を活殺する日だ。
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前にも書いたが、憲政の神様尾崎行雄が、普通選挙の前提として、民度の向上が必要(民度が低ければ、普通選挙は時期早尚)と考えていた。この新聞記事の内容も、ある意味では、このことの延長にすぎない。

しかし、「世論調査によれば、今回の選挙は「政党の政策重視」で投票する人が多い」ことのみをもって「尾崎の時代にくらべ隔世の感がある」とは、磯田氏は、まことにおめでたい人である。

少なくとも、前回・今回の総選挙で吹き荒れた嵐(風などというものではない)は、政治を「感情」レベルでしかとらえきれない人や、(頼まれた・義理に代わって)世の中の雰囲気だけで投票する人が多いことを示していないだろうか。
また、「政策重視」というより、国民へのスリヨリ重視、つまり言葉を変えた利害重視にすぎないのではないか。
例えば、「子ども手当」は、政策論としては「子どもを有さない家庭」から「子どもを有する家庭」への強制的な所得移転(つまり、扶養控除の削減という形で、子どものいない家庭から税金をとりあげて、それを子ども手当という形で子どものいる家庭に配る)というように見ることができる。このような「政策」ではなく「子どものいる家庭にお金」というだけで理解しているのではないか。(なお、少子高齢化社会において、このような政策は正しいと私は考えるが)
どうみても、日本人は利害や感情レベルから抜け切れていないと、私は思うがどうであろうか。


さらに「明日は日本の憲政を活殺する日」であることは、疑いもない。そして、国民はこの大きな権利には気づいている。しかし、政治(憲政)自体は、他の世界のことであり、これに対して「要求」するだけというのが実態ではなかろうか。「憲政を活殺」した結果を被るのは、ほかならぬ国民自身であることをどこまで理解しているのだろうか。
この理解なしには、無知な子どもが核ミサイル発射のスイッチをもてあそんでいるのと同様ではなかろうか。
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ところで、医療、特にがん治療において、インフォームド・コンセントが、少しずつ定着しつつあるようである。
また、それなりの数(占める割合がどれくらいかはわからないが)の病院で患者の希望になるべく沿う形で医療の提供しようとするところも増えているようである。

インフォームド・コンテントは、見方を変えれば、望まない医療は拒否できる(それがプラスかマイナスかは別として)という拒否権を患者側に与えたものであり、積極的な一票ではないものの、(拒否するという意味で)マイナスの一票を与えるものと言えよう。

ところで、患者としての貴重な一票の行使をどれだけきちんとしているだろうか。

「がんセンター」「大学病院」というブランド、副作用がないと称するトンデモ病院の「言葉」(これも一種のブランド)に頼ったり、あるいは、「難しいことはわからない」として可能なかぎりでの理解もせずに「お任せ」するという、いわば棄権。
これが本当に受けたい治療ならば、外から口をはさむ気はないが。

あるいは、恰好よい名前の最先端治療を、自分のがんに適応があるのか、また、従来の治療に比して、どの程度勝っているのかも調べようとせずに、これを求める。
これでは、もしも病院が患者の意思に出来るかぎり沿った治療をする準備があってもどうしようもない。

やはり選挙と同じく「自分はいかなる治療を希望するかという自分の意思をはっきり決めてかかることが大切である」「各治療法の効果・副作用などをまじめに研究し、自分の希望に近い治療はどれか、よくよく見極めてから決断すること」が大事なはずである。

そして、このような一票が積み重なれば、我が国のがん治療も、より患者に根差したものになるのではないかと思うのだが。

国民の民度に応じた政治しかなされないのと同じように、(日本全体の)患者のレベルに応じた治療しか(日本全体としては)なされないというのは、ある意味で正しいようにも思える。

そして、政治の結果は、最終的には国民が被るのと同様に、患者のレベルに応じた治療の結果を被るのは患者であるはずである。

もちろん、自分の一票が直ちに変化をもたらすことはないだろう。しかし、一票が積みかさなければ、変化はなかなか起きないだろう。

2009年8月31日 (月)

五蘊皆空

これまでの記事を読んでいただければ明らかなように、私は宗教とは無縁の人間ではある。
といっても、日本人としての教養・知識として、一応、日本の宗教とされている仏教についても知っておくべきと考え、岩波文庫の仏典・禅書や、解説書などはある程度は目を通している。
とはいっても、仏教的論理学には、とてもではないがついていけず(ついて行く気もない)、極めて浅い知識に留まっている。

ところで、日本で誦まれている代表的仏典に般若心経があり、その中でも「色即是空 空即是色」と並んで「五蘊皆空」は有名な言葉である。
そして、両者に共通する「空」は、日本の仏教における中心的概念の一つであるが、なかなかピンとこなかった。

たまたま、「空の思想史」(立川武蔵、講談社学術文庫)が目にとまったので読んでみたが、当然ながら、「空」について理解しているとは言えそうにない。

しかし、それなりに面白いなと思えたところを紹介してみる(私が面白いと思ったところであり、この本のメインの部分ではないので念のため。)

まずは、インド思想の底に流れるものの見方として、「属性とその基体という対概念によって考察する傾向が強い」ということである。

例えば、「この紙は白い」という命題を考える場合、「この紙は白いものの集合の一つのメンバーである」と読みかえることもできるが、インドの哲学的な議論では「この紙には白色という属性がある」と読む方が好まれる。
ちなみに、ある基体(y)にあるもの(x)が存すると考えられる場合、xをダルマとよび、その基体yをダルミンと呼ぶ。
ところで、白い紙には、基体として一つの場があって、その場には白色という属性があり、さらに大きさ、形、匂い、重さといった属性も存する。これらの属性(白色、匂い、重さ・・・)すべてを取り除くことができたと仮定する。その場合、最後に何かが残ると考える人もいるだろうし、何もないと考える人もいるだろう。
前者がバラモン正統派の考えであり、後者が仏教的な考え方である。

xyがない」という命題をどのように考えるか。
例えば「このプールでは女性は泳がない」という命題で考えてみる。
もしも、泳ぐ人が存在するという前提があるときは「したがって、このプールで男性が泳ぐ」という命題が引き出される。(前提が異なれば、「このプールで女性のみならず男性も泳がない」こともあり得る。)
このように、ある命題と前提から論理的に引き出される内容あるいは命題を含意という。

例えば、「このプールで女性は泳がない」という否定命題から引き出される可能性のある含意には次のようなものがある。
(1)
 このプール以外(池など)で女性が泳ぐ。
(2)
 このプールで女性以外(男性など)が泳ぐ。
(3)
 このプールで女性が泳ぐこと以外の(沐浴などの)ことをする。
(4)
 このプール以外で女性以外が泳ぐ。

「空」という語の意味であるが、「空」という感じは、サンスクリットの形容詞「シューニヤ」(空なるもの)と抽象名詞「シューニヤター」の両方の訳語として用いられる。
「シャーニヤ」は、一般に「yxに関して空である」という形式で持ちいられ、基本的には、「あるもの(y)においてあるもの(x)が存在しない」を意味する。
他方、「空」という漢語の意味の一つは、すいている(「今日は電車がすいている」「腹がすいた」)ということである。入れものであるyの中にあるべきxがないのが「空」という漢語の基本的意味である。
このような「空」の意味は、サンスクリット「シューニヤ」という語の意味とよく合う。

やっと「五蘊皆空」についてである。これは、日本で一般に読まれている唐の玄奘三蔵による般若心経の訳に使われているものである。
この「皆空」にあたるサンスクリット・テキストは現在残っている写本から推定すると「スヴァーヴァ・シャーニヤ」であり、「スヴァーヴァ」(自性、自体)と「スーニヤ」(空なるもの)との複合語であり、「五蘊」を限定する形容詞である。
つまり「世界の五構成要素(五蘊)は自性に関しては空である」というのが、そもそもの意味である。

ところで、自性についてであるが、「火について考えると、蝋燭にともる火、身体にあり食物を消化する火、眼から対象に向かって走る火など、いろいろな火がインドでは考えられたが、熱さ(熱性)がそれらに共通してあり、この熱さこそが「火」の自性であると考えられた」。そして、蝋燭にともる火から熱さを除いたもの、例えば、赤い色やその形という「残り物」(以下「諸要素」という)との関係が主要な問題であり、時代(宗派)によりおおよそ次の4パターンがあげられる。
パターンⅠ 自性と諸要素が共に実在と考えられる場合。
パターンⅡ 自性と諸要素が共に非実存あるいは非実体的なものと考えられる場合。
パターンⅢ 自性は実在ではないが、諸要素は世間的に有効な作用を有するという意味で存在すると考えられる場合。
パターンⅣ 自性は実在するが、諸要素は非存在あるいは非実在的なものと考えられる場合。

以上のようなことを念頭に置くと、「五蘊皆空」が「五蘊は自性が空(空性)である」と読むべきだとわかったとしても、「自性」のとらえ方や、そもそもの前提(含意)により、その理解が一様になるわけはないことはわかってもらえるであろう。
ちなみに、インドでは次の三通りに解釈されてきたといえる。なお、インド仏教における空思想の歴史では、初期には解釈1が有力であったが、時代を下るにつれて解釈2が有力になってきた。

解釈1 五蘊はそれ自体が空である(自体を欠いている)
  五蘊という現象以外に「自性」と呼ばれるものは存在しない。五蘊の自性と現象の区別はなされておらず、「五蘊がそっくり存しない」と解釈される。空(空性)は実体視されていない。五蘊以外のものは空ではないという含みもない。これは「般若経」の空思想の歴史の中で最も基本的なものである。この解釈ではスヴァーヴァにはそれほど特別な意味はなく「五蘊皆空」「色即是空」と自性という語を含まない表現が一般的なのは、こめためであろう。自性のパターンⅡを有するといえる。

解釈2 五蘊は、自性(実体)が空であるが、五蘊の現象(言説)は存在する。
  「yxを欠いている」という基本的な意味(命題)に「非xは欠いていない」を含意させると解釈2になる。この解釈では、実体をともなって成立するのではないとしても、日常の言語活動および言語の対象としての現象世界が成立する。この立場に立つ宗教思想家は、それぞれの方法によって現象世界が成立していることおよびその構造の説明をすることとなる。自性のパターンⅢを有するといえる。

解釈3 現象としての五蘊は自体が空であるが、本質としての空性は実在する。
  「非yxを欠いていない」を含意させると解釈3となる。この場合の非yは「五蘊以外のものである如来蔵」を意味する。否定さるべきものは現象としての五蘊である。真如(本質)としての空性そのものは否定の対象とはなりえず、実在であり、生、住、滅を離れている。実在が、生、住、滅を離れているという考え方は、宗教思想においては一般的であるが、仏教においては如来蔵思想や一部のタントラ経典に見られる。自性のパターンⅣを有するといえる。

ここまでの内容から、少なくともインドにおいては「空」は、「空いていること(欠いていること)」という素直な意味で使われているにすぎない。また、同様にわかるようにインドでは、論理的考察が重んじられており、一見、逆説的な言葉であっても、「時間」が異なるなどが背後に隠れており、相反するものを無媒介に結びつけることはない。
ところが、老荘思想(無為自然)などを背景とする中国に伝わり、逆に、相反するものを無媒介に結びつけるこのような言葉が「真理を表現する言葉」として重視されるようになってきた。
さらに、インドでは、「空」(シャーニヤ)という言葉は、ものは無常なものであり、うつろいやすいものであるから執着するなというような否定的な側面が強かったのが、中国では、「空とは真理の別名なのであり、現象があるがままで真実の姿を表わしているその根源が空である」と考えられるようになった。

結局、「空」とは何かということは、きちんと理解できないままではあるが、「空」といっても、時代により立場により変遷してきたし、さらに、伝えられた国の文化的背景により、まったくの逆方向とも言えるような変化すら起こってきたということは、よくわかった。
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ところで、いろいろなことを書いてきたが、それぞれに思い至るものがある。

最初の「属性とその基体という対概念」(白い紙がある。ダルマ・ダルミン)であるが、日本では、「○○さんはがん患者である」ならばまだしも、普通には「○○さんはがんである」と言う。他方、英語ではI have cancerと言うそうである。
つまり、日本では、がんは、○○さんの属性ではなく、基体として扱われがちである。個々人の個性あるいはそれまでの個人の歴史などは無視されてしまうか、あるいは患者ごとの特徴、つまり、属性とされてしまう。
逆に、I have cancerならば、あくまでもI(○○さん)が基体であり、がんは属性の一つと扱われるのではなかろうか。
もちろん、人によっては、がんとわかった瞬間から、個性を捨てて「がん患者」になりきる人もいるだろう。しかし、それで良いのだろうか。私は、あくまでも私であり、「がん」あるいは「粘る稀ながん患者」は、その大きな属性ではあるものの、属性にすぎないと信じている。
ところで、「がん患者(がん)」が属性だとして、その基体は何なのだろうか。がん患者はもとより、その無限ともいえる属性を捨てたものとしての「私」。
ある意味で、概念的・哲学的・形而上学的な追及ではあるが、真実の私(ここでいう私とは具体的な個々人)とは何か。
もちろん、極めきれるものではなかろうが、このような「私」に近づかなければ、自分の望むがん治療を求めることはできないかもしれない。なぜならば、「自分の望む」の「自分」とは多分、属性を捨てた基体としての私なのだろうから。

次に、含意(このプールで女性は泳がない)である。人が話などをするとき、意識する・意識しないは別にして、常に、含意を有しているようである(これがわからない方を、少し前の言葉でKYという)
当然ながら、医者も同じである。医学(学問)では、含意という曖昧さを避けるために、客観的・数値的な表現が好まれる。しかし、このような話し方は、人間味がない(←本来、人間味を排すためのものなのに)と患者側からは言われてしまう。この結果、より長時間をかけて、より不正確・曖昧な話となってしまう。
ところで、「含意」を取り違えるとおかしなことになってしまう。
例えば「もう治療法はない」と言う言葉にしても、いろいろな含意がありえる。
・ 標準的治療はない。(エビデンスが低いものはある)
・ 私(この病院)で出来る治療はない。(別の病院に転院すればできるかもしれない
)
・ 健康保険適用で可能な治療はない。(適用外薬を個人輸入すれば別
)
・ 医学的判断としては、これ以上の治療は、期待される効果(可能性)よりも期待される副作用(可能性)のほうが大きいと思うため、治療は勧めない。(治療の継続に強い意味・希望を見出すというのなら別
)
・ 私が知っている限り、治療法は残っていない。(他の専門医にセカンド・オピニオンをあおげば別かも
)
患者は医師ではない(ことがほとんどである)し、がん治療について詳しくもない(私のような例外もいるが)

お互いの「土俵」が異なるのであるから、含意が十分に伝わるとは限らない(伝わらない方が多いかもしれない)。そして、その場合、直接的な被害を受けるのは患者である。
常に、医師の含意は何かという視点を忘れずに、気にかかった点があれば、確認する、このような習慣が必要であろう。

そして、五蘊皆空。
「空」について、きちんとした理解が出来ていない以上、五蘊皆空がわかるわけはない。
もちろん、「諸行無常」ということは事実である。しかし、私にとって重要なのは、眼前の「五蘊」「諸行」という、まさしく存在する事実である。私にとっては、自性(熱さ)・諸要素(色・形など)という区別ではなく、それらがあわさったところの「蝋燭にともる火」が大事なのである。
同様に、がん治療において謳い文句、場合によっては、理屈(作用機序)などはどうでもよい。現実に(すなわちデーターとして)どの程度の効果・副作用が見込まれるのかという事実が大事なのである。

また、「空」のような重要かつ基盤的な思想ですら、伝搬した国の文化背景により、否定的なものから肯定的なものへ変わってしまう。
であれば、どのようながん治療を望ましいと考えるかのようなものは、個々の人の価値観(その個人文化)により異なることは当然のはずであると思うがどうだろうか。

追伸
抹香くさくなるのは、まだ無理のようである。
抗がん剤のおかげで、それなりの元気を保っているのだから、生臭さが続くのは当然なのかもしれない。
少なくとも、現時点では、「空」よりも「食う」ほうに力点がある私である。

2009年8月24日 (月)

哲学者が歴史を語ると・・・

図書館で「思想から見た明治維新」(市井三郎 講談社学術文庫)が目にとまったので借り出して読んでみた。
一つには、明治維新という大変革の時代における思想が果たしたであろう役割に興味があったためであり、二つには、熱烈な尊王攘夷派の見事な変節という思想変化が生じた背景などに興味があったためである。

はっきりと言って、まったく期待外れの本である。図書館から借りだしたので金銭的負担がなかったのが唯一の救いであり、時間の無駄であった。

読み終わった後に、著者の紹介を読むと、科学(自然科学とも社会科学にしても)に無縁な「哲学」が専門であり、思想(哲学に関連するものではあるが)や歴史の専門家ではない。
専門家でもない者が、それも哲学者という自己過信の輩が専門外のことにしゃしゃりでると碌なことはないということである。

もっとも、「まえがき」と「一 歴史の進歩とは何か」という思想から見た明治維新と関係しないところには、哲学者らしい基礎的な見方が整理されている。

「歴史とは、無限に近いほど多面的な複雑さをもつものです。ですからどれほど歴史の専門家であっても、歴史についての正しい見解に到達した、といえることは望みえないものです。だが、反対に、歴史はどうとでも見れるものではありません。個々の具体的事実は、いろんな史料によって、自然界の事実と同じように、科学的に決定されねばなりません。
と同時に、未来に向けての人間の歴史がどうあってほしいか、という各人の価値判断がちがいますと、過去の無数の出来事の相互関係をどう解釈するか、という点での違いをひき起こすことは避けえないものです。ですから、過去の諸事実を科学的に吟味する、という努力をできるかぎりおこないながら、しかも未来に向けた自分の価値判断を明示し、なぜ過去のこれこれの事実を意義深いものとしてとり出すか、という点をはっきりさせることが、われわれになしうる精一杯であるように思われます。」(同書「まえがき」より)

明治維新について見方はいろいろあろうが、「革命」であったことは確かであろう。

「西欧を例にとれば、たとえばその市民革命と呼ばれるものが、どういう意味で歴史の進歩だったのでしょうか。わたしの考えでは、それが西欧諸国のそれぞれのやり方において、次の原則をタテマエとして容認する上で以前よりは一歩前進した、という点です。つまりおのおのの人間が、自分の責任を問われる必要のない事項から、さまざまな苦痛を受ける度合いを減らさなければならない、という原則です。
わたしの考えでは、西欧民主主義の代表民主制のタテマエは、この原則を部分的に現実化する一つのやり方にすぎません。一見、消極的に見えるこの原則そのものの方が、より根源的に社会的人間の欲求を表現しえていると思うのです。」(同書「歴史の進歩とは何か」より)
****************************************
これらについては、まったく同感である。

しかし、最大の問題は、明治維新について一世紀前の先駆者から御一新の成就と維新の明暗という、思想から見た明治維新を書くに当たり、ほとんどこのことが実行されていないのである。

たしかに、この著者が、明治維新は、先駆者から攘夷論者まで市民革命の精神を実現しようとした働きであるという「価値判断」をもって眺めていることは明確なのであるが、その根拠たるや、多少なりとも史料を真面目に科学的に扱っているとは思えないのである。
自分にとって都合のよいことほんの少数のものだけを、しかも、(専門家ではないために)表層的にかき集めているとしか思えないものである。
この史観に沿う限り、超右翼とも言える狂信的な攘夷論者すら、これは社会を変革(幕藩制を破壊する)ための「方便」として演じていたことにされてしまう。
事実、狂信的な攘夷論者であった真木和泉すら、その狂信的な著書の中から、比較的穏健な一冊の、さらにその一節のみを取り出して「真木のいう「攘夷」とは、・・・「真心」をもたぬ幕府に向けられたものです・・・幕府を窮地に追いこみ、また倒してしまうための政治スローガンであり、自分の死をかけた「真心」をあらわす語なのです」とされてしまう。少なくとも、真木和泉の書いた書物全体や行動を見れば、「開明派とはくらべものにならない愚昧な短見者」としか判断がしようがない。「いろんな史料によって、自然界の事実と同じように、科学的に決定」しようなどという姿勢はみじんもうかがえない。
同様に、長州藩による外国船への砲撃(18635.10(攘夷決行日)長州藩外国船砲撃事件)も「自分たちで幕府の決めた期限に、まさに先鋒をつとめることによって、ますます幕府を追いつめようとした」と解しているが、どのような史料をもとにして(どのような史料を否定して)これが事実と判断したのかはまったく書かれていない。

はっきりといって、色眼鏡と偏見から書かれた素養のない素人のたわごととしか思えない。このような書が、講談社「学術」文庫に入っているのでは、講談社の知的センスが疑われてしまう。

また、同様に、そもそも明治維新は「市民革命」を意図してなされたものかということに対する疑問は持ち合わせていないらしい。もちろん、「結果として」市民革命の精神につながる改革(例えば、士農工商という身分制度の廃止)がなされたことは否定しないが、明治維新の先駆者から明治維新、明治維新後まで、「民主」という価値観がどこまで指導原理であったのか、まったく議論がされていない。単純にいえば、著者のドグマ(たいていは、本人の単なる思いつきを出るものではない)を、当然の前提にして、浅薄な検討しかされていない・・・

本当に、専門家でもない者が、それも哲学者という自己過信の輩が専門外のことにしゃしゃりでると碌なことはない。
もちろん、専門家でない者が口出しをすべきではないとは言わない。しかし、専門家集団が、長年をかけて蓄積してきたものに対して敬意を払わなければ、単なる愚昧な短見者となることが多いであろう。科学(社会科学を含めて)を哲学「のみ」で語ってはならないはずである。少なくとも、形而学(神学)的のみ立場から物質世界・人間社会を扱おうとした中世の悲劇の反省の上、客観的事実(史料)に裏打ちされた「科学」の重要性認識という歴史の教訓をおろそかにしてはならないはずである。
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ところで、あることに対して正しいことは、別のことにもあてはまることが多い(「多い」のであり、「常に」ではないので注意は必要であるが)

例えば、歴史に対する観点を変形すると

「がん治療、特に抗がん剤治療(←歴史)とは、無限に近いほど多面的な複雑さをもつものです。ですからどれほど抗がん剤治療の専門医(←歴史の専門家)であっても、抗がん剤治療(←歴史)についての最善の治療法(←正しい見解)に到達した、といえることは望みえないものです。だが、反対に、がん治療、特に抗がん剤治療(←歴史)はどうとでも見れるものではありません。個々の具体的事実は、いろんな医学的データー(←史料)によって、自然界の事実と同じように、科学的に決定されねばなりません。
と同時に、効果やリスクなどを踏まえてどのような治療を受けたいか(←未来に向けての人間の歴史がどうあってほしいか)、という各人の価値判断がちがいますと、現在のがん治療の有効性や積極的治療と消極的治療の得失(←過去の無数の出来事の相互関係)をどう解釈するか、という点での違いをひき起こすことは避けえないものです。ですから、想定される効果・副作用など治療の有用性に関する事実(←過去の諸事実)を科学的に吟味する、という努力をできるかぎりおこないながら、しかもがん治療における(←未来に向けた)自分の価値判断を明示し、どのようながん治療を選択するか(←なぜ過去のこれこれの事実を意義深いものとしてとり出すか)、という点をはっきりさせることが、患者が精一杯に行わなければならないこと(←われわれになしうる精一杯)であるように思われます。」
とすることができるだろう。
そして、このことは、現在のがん治療をどの程度肯定的(否定的)に評価しているにしろ、その根底に共通してもちうる(もつべき)ことであることと思う。
逆に、このようなことがなければ、それは、科学とは縁のない薄っぺらな思想・思い込み・妄想であり、トンデモに陥る可能性が極めて大きいしろものであろう。

他方、
「おのおのの人間が、自分の責任を問われる必要のない事項から、さまざまな苦痛を受ける度合いを減らさなければならない、という原則です。」
「西欧民主主義の代表民主制のタテマエは、この原則を部分的に現実化する一つのやり方にすぎません。」
「一見、消極的に見えるこの原則そのものの方が、より根源的に社会的人間の欲求を表現しえている」
ということは、極めて本質をついていると思える。

唯一、疑問なのは、本当に「原則そのものの方が、より根源的に社会的人間の欲求を表現しえている」のかどうかということである。私見としては、人間は社会的人間である以前に人間なのである。自分の責任を問われる必要のない事項からであろうと必要のある事項からであろうと、単に「自分がさまざまな苦痛を受ける度合いを減らしたい」という基本的欲求がより根本的なものではなかろうか。ただ、このような基本的欲求を全ての個々人が追及すると、人々が相互に害しあい大きなマイナスとなってしまうところから、一つの妥協として、このような「思想」が西欧を中心に形成されていったものであろう。
実際に現実の社会を見ていると、「自分の責任を問われる必要のある事項から、さまざまな苦痛を受ける」よりも「自分の責任を問われる必要のない事項から、さまざまな苦痛を受ける」ほうが望ましいという奴隷精神にあふれている人は珍しくもない。

そもそも、ヒトという動物は群れで行動することにより存続してきたのであるし、このためにか、群れ(社会)に加わりたいという本能(欲求)を有している。
しかし、群れ(社会)においては、相互影響は不可避である(相互影響がなければ群れではない)し、かつ、個々のヒト(ひと)が完全に同一でない以上、必然的に他から受けることになる影響はプラス・マイナスさまざまであろう。
プラスの影響は、プラスであるのだからとりあえず良いとしよう(より大きくするという観点は別にあるとしても)。問題はマイナスの影響に対する対応である。

とりあえず、被害を少なく抑えるという方策はある。このためには、人間や社会の能力を大きくするということである。
このような見方からは、現代社会の経済発展・科学技術の進歩は、人間の拡大本能に沿った行為であり、かつ、これにより他から受ける被害を少なくしようという行いであると言えよう。

しかしながら、どのように頑張ろうとマイナスの影響がゼロになることはない。このため、これに対する姿勢が求められることになる。

一つは、これは避けられないもの・所与のものとして、受容するという立場があり得る。
自分が責任を問われる必要のある事項(すなわち、自分で選択する余地のあるもの)からの被害ではないから仕方がないという考え方である。
自分で責任を持つ必要がないのであるから、責任もないし、ある意味で「楽」な生き方である。
良く言えば、無為自然と言ったいわゆる東洋的な理想(「いわゆる」であり、真に東洋的かどうかは別である)につながる姿勢である。しかし、自分を他人(社会)まかせにすることを厭わないということであり、ある意味で、奴隷根性でもある。

逆に、自分に対して影響がある以上、自分も参画してその結果としてのマイナスということで、自分で自分になしたことということで受容するという考え方がある。つまり、自分に苦痛を与える可能性のあることに対しては、自分の意思も盛り込む(盛り込もうと努める)ことにより、「自分の責任を問われる必要のない事項」を極力少なくすることにより、自分の責任を問われる必要のない事項から受ける苦痛を減らすという、一種の自力救済型の考え方である。

西欧民主主義の代表民主制も、このような見方に立てば、現在の社会(群れ)では国(政府)という機構をつくり、これに属することは、ほとんど不可避である。
そして、国(政府)という機構により、一定の安全などが提供されるかわりに、税金や諸規制というマイナス(苦痛)も受けざるを得ない。
であれば、選挙(権の行使)という形で、これに関与し(自分の意見と違う者が選出されたとしても自分や同じ意見を有する者が他の者を十分に説得できなかったとして)(その極めて小部分であるとしても)自分の責任を問われる必要のある事項に近付ける・・・このような行いと言える。

代表民主制に限らず、多くの自己実現権はこのような立場を根底にしているともいえる。

そして、このことはがん治療にも無縁ではない。
いわゆるインフォームド・コンセントは、がん治療(に限らずリスクの高い医療)において、きちんとした情報を踏まえた患者側の同意という仮定により、治療を「自分の責任を問われる必要のない事項から、さまざまなプラス・マイナスを受ける」ものから「自分の責任を問われる必要のある事項から、さまざまなプラス・マイナスを受ける」ものに近付けようとするものという一面があるのではなかろうか。

これに対して、そのような難しいことはわからない、とか、お医者様にお任せするという患者・家族も多い。
もちろん、難しいことでもあり多少なりとも自分で判断するよりも専門家に任せておく方がより得策という冷静な判断に基づく、ある意味で合理的な方もいるだろうが、本当のところは、自分に対することであっても責任をとりたくない、すなわち、「自分の責任を問われる必要のある事項から、さまざまな苦痛を受ける」よりも「自分の責任を問われる必要のない事項から、さまざまな苦痛を受ける」ほうが望ましいというのが根本に潜んでいる方が多いように思われる。

現在の文明社会は、西欧型社会が基礎となっている。
このため、医療に限らず、多くのことが、東洋型(受容型)ではなく西洋型(自己実現型)が優れているとして、この方向を目指すものとなっている。

しかしながら、これは一つの選択肢ではあるものの「絶対的・普遍的な真理」ではないと私は考えている。

もちろん、このブログを読んでいただければ明白なように、私は「西欧型(自己実現型)」の立場にきわめてかたよっているし、そのおかげで、現在も生きているということは事実である。

しかし、「東洋型(受容型)」の思想には小さい時から関心を有しているし、また、ある意味で、憧れ続けてもいる。ではあるが、あきらめ主義(言葉を飾れば諦念)や奴隷根性(他への責任転嫁)に陥る危険性も本能的に感じており、意識的に遠ざけてきたものである。
そして、現時点においては、「東洋型(受容型)」は目の前の現実からの「逃げ」にほかならず、それは、自分自身を裏切るものになってしまうと考えている。

東洋の哲人(哲学者などというクズではなく)からは、「救われない」と見なされるであろう。
しかし、自分で選んだからには、「自分の責任を問われる必要のある事項から、さまざまな苦痛を受ける」ほうが「自分の責任を問われる必要のない事項から、さまざまな苦痛を受ける」よりも優れている・・・という生き方はつらぬくしかないだろう。

いずれにしても、「東洋型(受容型)」にしても「西洋型(自己実現型)」にしても、一つの選択肢ではあるものの「絶対的・普遍的な真理」ではないだろう。
そして、どちらを選択するのか・・・目の前の現実ではなく、じっと真の自分(に出来るかぎり近づいて)と対話して、自分なりの選択をしてほしい。
多分、これが一番後悔の少ない選択だろうから。

2009年8月17日 (月)

暑くない夏

今年は、全国的に多雨であり、また、比較的暑くない夏らしい。
少なくとも、東京についていえば、例年は35℃以上の猛暑日が数日続き、最高気温が30℃を切ると「涼しく」感じられるというのが相場であるが、今年の夏は、せいぜい30℃止まりという日が続いている。お盆をあけて、これからやっと夏らしい日が続くらしいが夏の盛りは過ぎてしまっている。

気象庁によると、今年は30年に一度の異常気象であるとのことである。

しかし、これをもって、地球温暖化に疑問などという報道は見られない。

もちろん、地球温暖化は、日本という単位ではなく、地球全体を単位として把握されなければならないし、さらにいえば、一年ではなくもっと長期間の傾向としてとらえられなければならないのであるから、ある年に日本の夏がそれほど暑くなかったからといって、地球温暖化に疑問を呈するというのは正しくない。

しかし、逆はどうであろうか。
これまでのマスコミは、日本のどこかで気温が高い日があれば地球温暖化と結びつけて報道するのがもっぱらだったのではないか。
もしも日本のある暑くない夏をもって地球温暖化に疑問としないのであれば、ある気温が高い日をもって温暖化と結びつけるのは「おかしな」報道のはずである。

つまり、その当否は別として、マスコミは地球温暖化説支持という立場から報道を行っている、極論すれば、地球温暖化に「偏向」しているのである。
別に各マスコミが公正中立でなければならないなどとは思っていない。各マスコミが己の正しいと思う立場から報道すべきとも考える。
ただし、逆に、各マスコミは、自分が立つ立場を明確にして、読者に「公正中立」などという誤解を与えてはならないはずである。しかし、このような配慮はなされていないことは選挙に関する報道を見れば一目瞭然である。

なお、誤解されないように地球温暖化に対する私の考えを書いておくと、
・ 地球温暖化は、まだ証明されたものというより仮説段階にある
・ ただし、この仮説を支持するデーターはそろいつつあり、かなり正しい可能性が強い
・ さらに、地球温暖化の原因が人類の活動に伴う二酸化炭素の増加であるという説については、まだまだ仮説段階にすぎない
・ ただし、予想される害の強さにかんがみると、(仮説段階のものではあるが、これを正しいものと考え)「ある程度生活レベルが低下するとしても」二酸化炭素放出低減を行うべき
というものである。

また、温暖化のように地球規模・長時間の現象であっても、所詮、個々の気象(個々の地域・時点)の積み重ねであるから、個々の(異常)気象を無視すべきではないという意見もあろう。
ある意味では正論である。
しかし、個々の気象だけでは、単なる偶然とか(例えば、気温の数年レベルにおける)自然変動などと区別することが困難であるし、それをもとに、温暖化とか非温暖化と主張するのは大きな誤りのもとではなかろうか。
個々の気象については、個々の気象として注意を払うとして、温暖化などについては、個々の気象の集まり(地球単位・長期間のトレンド)として見ていくことが基本であろう。
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気象には、変動がつきものであるので温暖化などを議論する際には、個別の異常気象にとらわれすぎないようにしなければならない。
とはいうものの、変動の幅というのはある一定範囲であろう。
東京の夏ならば、最高気温が20℃を下回ることは考えにくいし、最高気温はひょっとすると40℃にはなるかもしれないが45℃ということはなかろう。

これと比べると、抗がん剤治療の「変動幅」は極めて大きい。
がんの種類、抗がん剤の種類及び組み合わせが大きいことは脇におくとして、同じ種類のがんに対して、同じレジメン(抗がん剤の種類・量・組み合わせ・投与方法)であったとしても、完治(多くのがんでは、極めて例外的であるとしても)から、効果なしどころか重篤な副作用(確率数%程度)まで、いわば、赤道直下の灼熱の砂漠の暑さから南極の厳寒までの変動幅がある。

たまたま猛暑の日が何日か続いたからといって地球温暖化の証拠とならないように、また、ある涼しい夏をもって地球温暖化の反証とならないように、ある少数の患者に効果があった・なかったからということが、ある抗がん剤の効果の有無を示すものではない。
その意味で、個々のがん患者が自分の体験を語る時は、「あくまでも自分の例であり、一般ではない」ことを忘れてはならない。
なかには、○山ワクチンとか健康食品のたぐいの効果?を語る患者もいるが、そもそも併用していた抗がん剤の効果と思うのが普通のことや、あるいは、再発しない確率がそれなりにあったという例がほとんどである(そうでないものは、よく読むと患者ならではのことがなく、業者さんの作り話らしいものしかない)
このような方は、そもそも一例を持って語るのは慎重にという知識もないのかもしれないが。

もちろん、異常気象を無視していいとは言わない。温暖化を示唆するような異常気象やその他の変化(例えば、氷河の後退)といった個々の異常が、あちらこちらで目につくようになったからこそ地球温暖化が疑われ、それにより調査研究がなされたからこそ、かなりの精度で地球が温暖化していることが明らかになったわけである。
このような観点から、経験豊富な医師が何人もの患者の治療から得られた「手ごたえ」は、厳密なエビデンスではないとして無視すべきものではないだろう。
特に、ファースト・ライン、セカンド・ラインと治療が進み、(厳密な)エビデンスに基づく治療がつきてしまった後については、このような一定レベルの信用が置ける経験というものは大事であろう。

ただし、この際には、次のようなことから「偏り」が生じるおそれが高いことには注意しておくほうが良いだろう。
一つには、医師も人間である。自分にとって望ましい、つまり効果の出た症例のほうが意識に残りやすいであろう。
二つには、効果が出なかった患者に対する当該治療はすぐに終わる(別のものに変更される)ため、比較的期間が短いが、効果が出た患者については期間が長くなるだろう。すると、どうしても効果が出るほうに印象が偏るだろう。

このようなことが原因かどうかは知らないが、十年それ以上前の抗がん剤治療(及び進行がんに対する外科治療)はほとんど効果がないものが、それと気づかずに行われていた。そして、きちんとした治験により効果がほとんどなかったことがわかり、現在では、このような治療は行われなくなった(あるいは、効果があるのか慎重に判断して、なければすぐに打ち切る)

このような苦い経験のためか、きちんとした医師は、自分の経験だけで効果があると断定することはしない。出来るだけ客観的な記載(例えば、○例と少数ではあるが、うち△例についてXXの効果がみられた)とか、「・・・という感触がある」「・・・が示唆される」というような書かれ方をする。

体験談のたぐいしかないトンデモは論外としても、一部の医師が自分流の治療経験を大きな効果があるがごとき書物を書かれている。
このような医師には疑いをもってあたるほうが良いと考えるがどうだろうか。

話をかえるが、個別の異常気象が地球全体の気象の変化を示すものではないとしても、その地域に住んでいる人はそれに対応しなければならない。
猛暑であれば、熱中症に注意を払わなければならないだろうし、大雨ならば、洪水や影崩れに注意したり、場合によっては避難しなければならないだろう。

同様に、個々の患者のその治療の効果・副作用がその治療法としての効果・副作用を示すものでないとしても、それに応じた対応をしてもらわないと困る。
効果はあるが副作用が強いならば、副作用を抑える治療なり薬の減量が必要であろう。
効果がなければ、治療を変更してもらわなければならない。

気象に合わせて服装などを変えるというのは当たり前だと思う。
しかし、患者毎の治療の効果・副作用にあわせて、治療内容を修正するというのは、なぜか、当たり前にはなっていないらしい。
これは、医師が冷暖房完備の病院にいつもいるので、周りの気象に合わせる必要がないから・・・のはずはないと思うのだが。

2009年8月10日 (月)

いろはうた

いろはにほへと  色は匂へど
ちりぬるを     散りぬるを
わかよたれそ   我が世誰ぞ
つねならむ     常ならむ
うゐのおくやま   有為の奥山
けふこえて     今日越えて
あさきゆめみし   浅き夢見じ
ゑひもせす     酔ひもせず

ご存知の「いろは」である。
47文字を全て重複なく使用し、かつ、意味があり、さらに七五の韻を踏む。しかも、このように極めて大きな制約があるのに格調がある。

しかし、ある意味で科学的な五十音(あいうえお・・・)がメインとなってしまっている現在、「いろは」について、きちんとした知識を持っていないということに、本屋で「いろはうた」(小松秀雄、講談社学術文庫)という本を見かけたときに気がついた。
といっても、お金を出して買うまでの興味ではなかったので、放っておいたが、タマタマ図書館で見つけたので借り出して読んでいるところである。

正直に言って、この本は真面目な「日本語史研究」書であり、この方面に嗜みのない私には、砂を噛むような感じで読んでいる。それでも、日本語研究がどのようなアプローチでなされ、細かな事実検討を積み重ねた上で成り立っているのかは理解でき、世の中の俗書でいわれている「いろは暗号説」の浅薄さ程度は理解できた。

このような歌は「いろは」には限らない。「いろは」同様に(あるいは、もっと古くからのものとして)「あめつちの歌」が広く手習いに使われていた。最後の部分の意味に不明な点はあるものの次のとおりである。

あめ つち ほし そら       天 地 星 空
やま かは みね たに       山 川 峰 谷
くも きり むろ こけ          雲 霧 室 苔
ひと いぬ うへ すゑ        人 犬 上 末
ゆわ さる おふ せよ       硫黄 猿 生ふ 為よ
()のえ()を なれ ゐて  榎の 枝を 馴れ 居て

ところで、極めて制約の多い「いろはうた」であるが、明治に「万朝報」という新聞が「国音の歌」を全国に募ったところ、五ヶ月間という短期間にもかかわらず、一万以上の応募があったということである。

ちなみに、一等とされたのは、

とりなくこゑす ゆめさませ   鳥鳴く声す夢さませ
みよあけわたる ひんがしを  見よ明け渡る東を
そらいろはえて おきつへに   空色映えて沖つ辺に
ほふねむれゐぬ もやのうち  帆舟群れ居ぬ靄のうち

という作品だそうである。「いろは」にもまさるとも劣らない歌のように思える。

また、これとは異質な作品として、第十九等ではあるものの

そたひもえちる ゐろりへに  粗朶火燃え散る囲炉裏辺に
しつのよさむを なけくみゆ   賤の夜寒を嘆く見ゆ
めこおとうゑて かほやせぬ  女子弟飢ゑて顔痩せぬ
あはれきいねん わらふすま  哀れ着寝ねん藁衾

と山上憶良の「貧窮問答歌」を思い出させるものもある。

「いろはうた」といっても、本当にいろいろなものがあるということがわかった。

もちろん、「いろはうた」(小松秀雄、講談社学術文庫)のほうは、「日本語史研究」書であり、このような単なる蘊蓄は全く本筋ではなく、例えば、何故、「ちりぬるをわか」のように意味を崩してまで七字でまとめられているか(「あまつち」のほうも「あまつちほしそ」のように意味を崩して七字でまとめられる)とか、そもそも元々から47文字だったのかなどということを、字音の声調などを手掛かりに詳細に検討しているが、これを紹介するだけの能力はない。(もっとも、咎無くして死すという暗号説の浅薄さはよくわかったが。)
お暇と関心の二つがあれば、是非とも直接、本をお読みいただきたい。

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このような「きちんとした」本は多くの場合、十分に理解することは難しい。
多分、数割いや一割以下しか理解できていないだろう。
もちろん、何回も読み返したり、同じ分野の他の本も読んで比べたりと、時間と手間暇をかければ、もう少しは理解の程度が高まろうが、残念なことに、有限の時間しかなく、すべてのことに万全を尽くすことはできない。
とはいうものの、このような本に目を通しておけば、いろは暗号説のような面白いだけの俗説におぼれることはないだろう。

同様に、がん治療は難しい。逆に、簡単であれば、誰でも医師になれるが、現実に、それなりのがん治療ができるのは、医師の中でも一部(例えば、美容整形外科医に治療を受ける気にはならない。もっとも、このような医師の行うビタ○ンC治療なるものを信じている人もいるらしい。あるいは、町なかの普通のおじいさん開業医は悩みの相談相手としては良いだろうが、がん治療を受ける気にはならない。)であるし、さらに、優れた医師には一層の知識と経験も求められるだろう。
このように難しいことを患者側が100%理解するのは確かに困難である。
しかし、出来る限り、きちんとした情報を勉強しているならば、トンデモ話にひっかかることからは免れることができるように思う。

ところで、話を予定の本筋に戻す。

47(48)文字を全て重複なく使用し、かつ、意味があり、さらに七五の韻を踏む。かつ、格調がある。
どう考えても、超難問であり、その回答たる「いろは」が弘法大使空海の作と俗に言われているのも頷ける。

しかし、このような、それ以外に優れた答えがありそうもない問題であっても、明治の「国音の歌」募集では、五か月という短期間に多くの作品が寄せられ、少なくとも、そのいくつかは、「いろは」に勝るとも劣らないものである。
どのように困難な問題であっても、たいていの場合は回答がある。もちろん、その回答が完璧なものとは限らない。満足できるレベルかどうかはわからない(そもそも、どのレベルを持って満足とするのかも人により異なろう)。
さらに、唯一の回答と思えるものであっても、死力を尽くして探せば、別の回答もあるかもしれない。もちろん、新しい回答のほうが勝っているとは限らないが。

がん治療においても、「治療法なし」という「回答なし」ということはほとんどないであろう。
死力を尽くして探せば、何らかの治療法は残されていることがほとんどであろう。
しかし、多くのいろはうたが「いろは」を上回ることがないように、その治療法のほうが無治療よりも上回っていないのかもしれない。

しかしながら、明治の2作品のように「いろは」に勝るとも劣らない、このような治療にめぐり合う可能性はゼロではない。
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とはいうものの、人間の使える時間には限りがある。
個々の患者の、個々の医師の、そして、その時々の医学には限界がある。
望むとおりになるとは限らない、というよりも、望むとおりにならないことが多いだろう。

「いろはにほへど ちりぬるを わかよたれぞ つねならむ」
を、常に根底においておかなければ、油断に満ちた時間を費やして後日後悔したり、逆に、不毛の焦りに陥ったりしてしまうだろう。

「うゐのおくやま けふこえて」
調べること・理解すること、そして行動し、有為の山を越えることは大変かもしれない。大変だからといって止めることも一つの決断である。しかし、山越えに挑むことも一つの決断である。なぜならば、山の向こう側に、知らなかった道があるかもしれないから。そして、道がなくとも、精一杯の努力をしたという満足感があろうから。

しかし、そのためには、
「あさきゆめみし」
軽薄な知識・理解をもとに、単なる夢や幻想におぼれてはならないだろうし、

「ゑひもせす」
自分の行動や受けている治療が、絶対最善のものとうぬぼれたりせず(酔わず)、常に第三者的な目から、間違いないか、他に選択はないかなどと見つめていることが大事だろう。

かなりのこじつけではある。しかし、確かに「いろは」には、ある真実が埋まっているような気がしてきた。

2009年8月 3日 (月)

サブプライム候補者

あまり遅くなって、公示後だと公職選挙法違反になるおそれもあるので・・・ということはなかろうが、ネタ切れになりつつあるので仕方なく、政治もの。

これも前の記事になるが、718日の日経ビジネスオンラインの「伊藤乾の常識の源流探訪」というコラムに「「サブプライム候補者」に惑わされるな!」という記事が載っていた。
http://business.nikkeibp.co.jp/article/manage/20090707/199472/?P=1

私なりにポイントと思われる部分を適宜抜粋してみます。
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■「夢」に実体がなければ「詐欺」
 オバマ大統領・・・は「チェンジ」を語り、人々に「私たちは変えることができるんですよ!」「希望を持とう!!」と訴え、米国民の大半はその言葉に「期待」を持ちます。

 「希望」「期待」は、いまだ裏づけが定かでない未来に対して、多くの人々が一種の掛け金を賭している状態と言ってもいいでしょう。「夢」を持つというのは(寝ている時に見るnightmareではなく、現実的なhope としてのdreamとは)本質的にそういう「未来への投機」を意味します。
 政治家が国民に示すべき「ビジョン」とは、このような「それを見ても結果的に裏切られない、実体のある<夢>=未来への希望」にほかなりません。
 ところが物事には例外が必ずあるもので、その典型的な例外が日本の政治家です。
 さて、選挙公約とは、公に対して、今は実現していない事柄を、未来に向かって「このような<希望=夢>を本当に実現しますよ」と約束することに意味があります。細かな内容ももちろん重要ですが、国民が皆、そこに期待をかけられるような「大人に夢を見せることが出来る、最高級のデイ・ドリーマー」であることが、国際的にどこの国に行っても、一流の政治家に求められる最低必要条件です。
 「夢」を語り、当選したら、それを実現するのが「実体ある政治」というものでしょう。
 もし「夢」を語って選挙戦を制したのに、その夢が実現しなければ、有権者を「だましている」のと変わりません。しかもこの約束違反は、国民の生活への切実な希望に対する裏切りである点で、罪が何倍も重いものです。

■「サブプライム候補者」を選んではいけない !
 約束は、一度破られればもう信用されません。当選政治家の公約違反は、国民の希望を信用不安に陥らせるという意味で、国際的には非常に重く責任を問われるものです、が・・・日本は、公約違反が常態化している極めて不思議な国になっている。
 「公約」を守れば「まともな政治」、守れなかったら責任重大な「公約違反」ですが、では、最初から守れるアテもなく、実現も不可能な「公約」を掲げて選挙戦に出るということがあれば、・・・たぶん「詐欺」でしょう。あるいは「公約バブル」と言ってもいいかもしれません。根拠のあいまいなことで泡を吹くという意味では、バブル経済とこの手の候補者(残念ながら「泡沫候補」のみならず、大政党の公認候補の公約の実態が怪しいケースも少なくないわけですが・・・)と、やっていることは変わりません。
 こういうことを言う人は、実体の裏づけがないのに「サブプライム商品」などを売り出した証券業者と同様「サブプライム候補者」とでも呼んでおくとよさそうです。
 こんなふうに整理していくと、改めて有権者として候補者を選ぶ際に考えるべきオーソドックス、大原則のコツを再確認することができそうですね。つまり
 「選挙公約に掲げられる政策目標が、具体的かつ実現可能なものである候補者だけを、投票の対象として考えること」を、強く勧めたいと思います。
 具体的な政党名や、その人の知名度その他など、すべて二の次。「政策本位」で考えましょう。タレント候補と言われるような人でも、優秀な政策スタッフを抱えて、ちゃんと政治をする人だっているでしょうし、当選10回で閣僚経験もある人が、まともな公約を全く掲げないケースも少なくないでしょう。
 私たち大人が、生活の母屋を任せて、安心して見ることができる「夢」=社会の明日を具体的にデザインして実現してゆける、「実体ある政策」を持つ人。
 そういう候補者だけを、そもそも考慮の対象として、その中で具体的に投票する人を考える必要があります。政策がきちんと実体を伴う、有権者向けの約束になっているか、それともただ表面のパフォーマンスか、という違いにあります。それらしい振る舞いだけなら、詐欺と変わりないことになってしまいます。
 あまりに当たり前のことを書いていますが、それが今の日本にできているでしょうか?   選挙とは、約束の場にほかなりません。そこで結果的にであれウソをつくことへの「畏れ」を、候補者は持っているでしょうか? 「落選したらタダの人」と議席を守ること、落選すること自体への「恐れ」の方が、はるかに目についてしまうのですが・・・。

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確かに悲しくなるほど「あまりに当たり前のこと」である。

しかし、問題なことは、その「あまりに当たり前のこと」を判断基準にした瞬間に、投票すべき候補者も政党もなくなるという、貧しい日本の政治である。
では、棄権をするという選択肢もあるかもしれない。しかし、これは単なる結果追認であり、逃げであろう。

そもそも、政治がさびしいのは、国民がさもしいからという一面もあろう。
良かれ、悪しかれ、その国の政治は、その国の国民の反映である。特に、民主主義国家では。

社会・団体の構成員は多かれ少なかれ、その社会・団体に対して責務を負うだけではなく、社会・団体の責任も持たなければならない。
つまり、サブプライム候補者に投票することは、サブプライム政治の結果の責任の一部も持つことである。

ある意味で選挙というものは自ら社会の運命を決め、また、その責任を分有するという神聖な行為であるのかもしれない。

であれば、それだけの「畏れ」を持って一票を投じるしかないであろう。
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ところで、選挙の投票が、国の一員として、自国の運命を決め、また、その責任を分有するという神聖な行為であるとすれば、がん治療の選択(進行がんの場合)というものは、自分の残された人生・生活をどのようにするのか、そう多くもないかもしれない余命を伸ばそうとするのか受け入れるのか、まさしく自分自身の運命を決めることであり、その結果は、望むと望まざると、あるいは、何らかの選択をしようとするまいと(選択しないことを選択しようと)、自分自身が受け止めざるを得ないものである。

もしも、自分というものを大事に思っているならば、畏れとはいわないまでも、慎重かつ十分な検討をして、自分の価値観に照らして最善(になるべく近い)の選択をするのが当然であろう。

効くとも思えない(きっと売るほうも思っていない)トンデモ医療や自称「健康食品」(健康に悪影響がないのかすらもわかっていないものも多い)という実現不可能な夢物語を高いお金を払ってまで選択する。
単に、自分の生命だけでなく、その次に大事(かもしれない)なお金までつけて、詐欺師に進呈する。
たんにカモになるだけではなく、ネギ(お金)までプレゼントする。

確かに、何かにすがりたい、夢が欲しいということは理解できる。しかし、すがりたいから、夢が欲しいからといって、このような選択に自分の生命を投じることは、本当に、自分自身を大事に扱っていることであろうか。
私には、自分の頭をきちんと使うことをサボった、自分の生命を粗末に扱っているとしか思えない。

ところで、がん治療において悩ましいのは(多分、国会議員選挙と同様に)、現在の医学では多くの進行がんにおいて「実体がある<夢>」と言える選択肢がないということである。

多くの場合、ある程度のデーターがあり、それなりの信頼性のある治療の効果は患者の期待を大きく下回る。
つまり、実体のあるものの現実は幻滅でしかない。

とは言うものの、ひょっとするとこれは本質的な問題ではないのかもしれない。

なぜならば、物事(政治を含む)を行うに当たり制約や限界があるのは当然のことであり、だからといって、夢がないということはないからである。
私の思うところ、人間というものは、ある程度、夢・理想に向かっているのであれば、その夢・理想までの距離の隔たり・乖離はさほど気にならないものである。

前向きの治療を受けているのか、最善の治療を目指した治療を受けているのかということが大きなポイントでなかろうか。
もちろん、治療というからには、実体(医学的根拠)に基づくものであることが当然ではあるが。

ところが、積極的にぎりぎりまで前向きの治療にトライしてくれる医師はほとんどいない。
一つには、これに必要な経験や知識の裏付けを持った医師が少ないという現実がある。いくらかは改善されたとはいえ、知識ではなく手技とその経験が重要とされる外科医が抗がん剤医療の主流という適材適所とは言い難い事実がある。
また、このために必要な「度胸」を持った医師は少ないようであるし、また、医療訴訟などから危険回避第一の風潮の中、このようなことを許す病院も少ないようである。
本来ならば、国立がんセンターなどがトライして、その結果を他の病院に広げていくことが望ましいが、そのような治療をしない(できない)のが、国立の所以なのかもしれない。

つまり、実体のある治療「だけ」に力点が置かれすぎて、もうひとつの「夢」を目指して最善の努力をするということが軽視されていること、これが、より本質的問題のように思えて仕方がないがどうだろうか。

ここまで、医療側に対して書いてきたが、患者側はどうなのだろうか。

治療の選択において、本当に「実体がある夢」に一票を投じようとしてきただろうか。
守れるあてもない(守るつもりもない)夢、すなわち、トンデモ医療に一票を投じるのは問題外として、多くの患者は、病院名(がんセンター、大学病院)に対して一票を投じてはいないだろうか。
これは、名前だけを問題にし、中身を問題にしない・・・なんとなく馬鹿な世襲議員(最近の総○大臣の方々のような)への一票に似ているのかもしれない。

あるいは、難しいからといって、理解しようという努力もしない・・・政策の中身を考えずに、単なる風潮追随の一票に似ている。

そして、自分が自分の治療に積極的にかかわり、他方、その責任を医師と分け持とうなどとは思わない・・・一票にかかる投票者としての責任に「畏れ」を持たない。

このような患者に対して、実体のある夢をギリギリまで追求しようという医師、それも、そのためにギリギリまでリスクを取りつつ、が出ないのは仕方がないことなのかもしれない。

国会議員は国民のレベルを反映するものであるとすれば、医師は患者のレベルを反映しているのかもしれない。

2009年7月27日 (月)

選択的認知

朝日新聞の土曜版の「勝間和代の人生を変えるコトバ」というコラムに「問題は当事者が認めるまで悪化する」という記事が掲載されていた(7月19日、b9面)。
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わたしたちが触れたくない、見過ごしてしまいたいような問題を放置しておいても、ごくまれに、時や他人が解決してくれることがあります。しかし、多くの問題は当事者に放置されればされるほど悪化していくものです。
身近な例に「虫歯」や「花粉症」があります。歯が痛くて虫歯になったような気がするとき、「気のせいだ」とか「疲れているから」などと放っておいて事態がよくなることは決してないのです。
(略)
問題が起きていることを認めないと、「選択的認知」といって、自分に都合のいい情報ばかり認識するようになって、問題解決からどんどん遠ざかってしまいます。虫歯の例はその典型で、初期なら、ほんの少し歯を削るだけで済んだはずなのに、悪化させて神経を抜かなければならなくなったりするのです。
それでは、問題を認めると、どのような、いいことがあるのでしょうか。
問題を認めると、逆に、それを解決するための「選択的認知」を始めるようになります。なぜなら、その問題は不快なので、なるべく早く解決しようとするためです。
虫歯や花粉症より深刻な問題は人間関係です。
例えば、ドメスティックバイオレンスに苦しむ夫婦関係や、パワハラに悩まされる上司との関係について、当事者がその事実を認めず、「相手は私のことを思いやって、あえてきついことを言ってくれている」などと自分をごまかしてしまうと、その関係はどんどん悪化していきます。
最後は心身が傷つき、取り返しのつかない局面にまで行き着いてから、解決策に当たらざるを得なくなったりするのです。(略)
わたしたちが身の回りで問題が生じていることをごまかさずに、素直に認めるには勇気が必要です。しかし、問題を認めることで、人生はよりよい方向へ変わっていくのです。
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「選択的認知」は、ある意味で、当然かもしれない。

人間の脳の能力にも、限界があろう。伝説では、聖徳太子は同時に10人の話を理解(日本書紀などによる。他に8人とするものや、36人の子供というものもある。)したとされるが、普通の人は、同時に5、6件がせいぜいだろう。
逆に、意識にのせて同時に処理しなければならないことは、日常、5件もないはずである。他のことは、意識の外においておけばよい(つまり、無意識に処理しながら、特別なことを感じたときに意識にのせれば良い。)
まず使うことがない、すなわち、無駄な能力を脳にもたせるという無駄や、(意識処理より精緻さや精度は劣るかもしれないが)無意識処理と比べてエネルギーを要する意識処理を少なくするということは、生物学的に理に適っており、進化において、このような形になることもうなづける。

そして、この考え(仮説)を延長すれば、自分にとって関心のあること(問題であると認識すること)は自分にとって重要なことであるから、関連する(無意識処理にとりこまれていた)情報は意識処理にのぼってきて、より精緻かつ精度のある判断(行動)につながってくるだろうし、自分が重要性を否定するものは、意識処理にのぼらず無意識処理にとどまり、不快感・ストレスなどの漠としたアウトプットにしかつながらないことが多いということになり、まさしく、この記事の内容と一致する。

確かに、問題点を問題と認識することは不快かもしれない。
問題点を問題と認識するためには、エネルギーが必要である。
しかし、それが問題解決のための第一歩であることは極めて多いだろうし、さらに多くの場合は、問題の認識がきちんとできれば、半分以上も解決しているということかもしれない。
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がんについても、本人・家族が事実を直視しようとしないことがあるようだ。

現実を直視したくがないために、健康食品やトンデモ治療にはまってしまう。
そして、そのまま「最期」まで直視せずにすめばまだしも、どうしようもなくなってから、現実に気づかざるを得なくなり、二重のダメージを受ける。

私は「自分なるもの」を大切に思うし、大事にしたい。それが、一人の人間である以上、一つの「責任」だと信じている。
そして、この責任を考えるならば、どんな現実であろうと、それから目をそらし、知らないことを装うことは人間としての「責任放棄」であると考えている。

もしも、解決不可能な課題であるとしても、できる限りの努力をして、少しでも解決に近づこうという努力をするべきではなかろうか。
そのためには、自分で出来る限りの問題の客観的把握とそれに対する対処策及びその長所・短所を理解しようと努力する。
その上で、自分(の価値観)にとって、一番ベターな(ないし、一番悪くない)ものを選択し、その実現に努力する。

そして、実現を努力する過程で、新たな考え方・情報が得られることが多い。それを加えて、さらに実現すべきものを修正する。

もちろん、このようなことには、多大の精神的エネルギーが必要である。

しかし、天秤にのっているのは、自分の生命であり、最後の生き方である。
私は、多大な精神的エネルギーをかける価値があると思う。

そして、このような努力(もちろん、その人の出来る範囲での)をしようとしない人は、自分に対して無責任とも感じている。
であるから、「難しいことはわからない」と言って、出来るだけの努力もしようとしない、問題から背を向けようとする人には、「本当にそれで良いの」と感じるし、機嫌の悪いときなどは、人間としての責任を果たそうとしない人間失格とまで感じてしまう(←もちろん、これは、私のほうが間違っているのだろうが)ほどである。

いずれにしても、良き医療を求めるならば、まずは、きちんと事実を認識することから始めなければならないと思うがどうだろうか。


2009年7月20日 (月)

「一杯のかけそば」と「水からの伝言」

20年くらい前に「一杯のかけそば」という美しい話に多くの日本人が感動したことがあった。

あらすじをWikipediaから引用する。
「ある年の大晦日の晩、札幌の「北海亭」という蕎麦屋に子供を二人連れた貧相な女性が現れる。閉店間際だと店主が母子に告げるが、どうしても蕎麦が食べたいと母親が言い、店主は仕方なく母子を店内に入れる。店内に入ると、母親が「かけそば(具の一切ない、他には汁だけの蕎麦)を1杯頂きたい(3人で1杯食べる)」と言ったが、主人は母子を思い、内緒で1.5人前の蕎麦を茹でた。そして母子は出された1杯(1杯半)のかけそばをおいしそうに分けあって食べた。この母子は事故で父親を亡くし、大晦日の日に父親の好きだった北海亭のかけそばを食べに来ることが年に一回だけの贅沢だったのだ。
翌年の大晦日も1杯、翌々年の大晦日は2杯、母子はかけそばを頼みにきた。北海亭の主人夫婦はいつしか、毎年大晦日にかけそばを注文する母子が来るのが楽しみになった。しかし、ある年から母子は来なくなってしまった。それでも主人夫婦は母子を待ち続け、そして十数年後のある日母とすっかり大きくなった息子二人が再び「北海亭」に現れる。子供達は就職してすっかり立派な大人となり、母子三人でかけそばを3杯頼んだ。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%80%E6%9D%AF%E3%81%AE%E3%81%8B%E3%81%91%E3%81%9D%E3%81%B0

美しい良い話である。当時、日本はバブル経済に浮かれていただけになおさらである。

もちろん、冷静に考えると出来すぎた話であるし、いくら貧しくとも年に1回かけそばを分けて食べるなどありえるのかとか、逆に、かけそば1杯を蕎麦屋で食べるならば自分で蕎麦をゆでれば同じ値段で何杯でも食べられるではないか、などというつっこみどころ満載ではあるが、そもそも創作とされているのだから、それをつっこむのは野暮というものだろう。

しかし、そのような野暮も多かったらしく、事実に基づく話であるとかないとか盛り上がっているときに、作者が寸借詐欺で逮捕されるという、逆の意味で「出来すぎ」の結末となってしまった。

このような美しく良い話に日本人は弱いらしい。
最近、一部で話題になっているものとして「水からの伝言」という「お話」がある。

これもWikipediaを引用する。
「本書やその続編で江本らは結晶を作る際に「ありがとう」や「平和」など「よい言葉」をかけると美しい雪花状の結晶ができて、「ばかやろう」や「戦争」など「悪い言葉」をかけると汚い結晶ができるという物語を好んで取り上げている。言葉のかけ方は「紙に言葉を書いて、水をいれた瓶に貼る(この際に、水から「見える」ように文字の書かれた面を内側にして貼る)」あるいは「水の入った瓶に向かって声をかける」などである。また、水を入れた瓶に「音楽を聴かせる」と音楽の種類によって結晶形が変わる、といった話である。」

確かに、「本当であるとすれば」美しく良い話であるが、どう見ても、疑似科学以前のオカルトとしか言いようがないことは、子どもでもわかりそうなものである。
(
そもそも「良い」「美しい」とか「悪い」「汚い」というのは、人間の主観である。その主観を水が感じて記憶する・・・。)
さらに言うならば、この話は「善」=「美」、「悪」=「醜」という思想につながり、身体障害者や顔に火傷などをおった人を差別するということにもつながりかねないものでもある。

にもかかわらず、この書籍が小学校などの道徳教材に使われたりしたから、騒ぎとなってしまう。
科学界などからの批判を受けて、著者(トンデモ科学で有名な江本氏)は「「水からの伝言」を「ファンタジー」「ポエム」である、即ち科学ではなく物語である」と釈明しているらしいが、少なくとも著書には、そのようなことは一切触れられていない。(いずれは証明されるものとして語られており、事実でないことには触れられない)

しかし、日本の小学校の先生方には、常識や知性というものはないらしい。

世の中には、美しい話、良い話はいくらでもある。しかし、美しい話、良い話のほとんどは、単なる「話」にすぎない。美しいから、良いからということは「事実」であるか否かということと無関係である。そして、時には、表向きは美しく・良い話に見えて、実態は、それを話している人の金銭的利益の観点からにおいて美しくて良い(簡単にいえば詐欺話)もゴロゴロしているから用心することが必要である。

にもかかわらず、「美しい良い話」は「あらまほしき話」であり、つまり、それと意識しないかもしれないが「自分にとって、事実であると都合の良い話」である。すると人間というものは「あらまほしき」にすぎないものを「ある」というように思い込む傾向があるようである。
特に、客観と主観の区別がつかない子供(すなわち、作り話と事実を混同してしまう)や 子供なみの頭脳しか持たない大人(小学校の先生)ではそのとおりであるらしい。

人間が願望と事実を混同する傾向を持っており、このために多くの悲惨なことが起きていることは歴史が示している。

常に「事実」と「期待」を峻別する姿勢は大事であるし、一般市民において科学などの理数系素養が必要なのは、教科書的科学知識を有していることが生活上望ましいということだけではなく(←なぜか、このことが強く主張されるようであるが)、科学などの理数系の営みにある「事実」と「主観」の峻別という態度を身につけることが、自分に、そして、社会に責任を有する一市民として大事であるからと思うがどうだろうか。
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がん治療においても、美しく良い話はいくつもある。

そして、多分、そのうちのいくつかは事実である。ひょっとすると、長期間粘っている私もそのうちの一つになるのかもしれない。

しかし、このような実話はほとんどが、「たまたま」・「幸運にも」というものである。そのうらには、はるかに多い数の現実があることを忘れてはならない。また、このような実話において「全て」が書かれているとは限らない。書いた人が主張したいことに好都合なことが強調され、不都合なことは書かれていない、ないし、ほんの少ししか書かれていないことも多い。
これらのことを承知の上で、「希望」のよりどころとするには良いだろうが、これが全てに当てはまるものとすれば、かえってマイナスとなるかもしれない。

しかし、このような美しい良い話のほとんどは、「水からの伝言」なみのトンデモである。
例えば、がんに効くという健康食品の体験談。あるいは、ちまたのクリニックの免疫療法。
もしも、話半分であったとしても、本当にそれだけの効果があるならば、なぜ、嘘つき放題のネットや身内だけのマイナーな学会(別に学会をつくるのに審査はいらない)ではなく、きちんとしたレビュアーのいる学会で発表しないのか。また、製薬会社が手を出さないのか。
そもそも、そんなに簡単な治療でがんが治るのならば、とうの昔にがん治療に劇的な進歩がなされているはずである。
よく製薬会社や学会の陰謀が言われるが、それならば、患者や保険会社の力が強い欧米で発表すればよい。

世の中に「うまい話」はないというのが、常識ある大人の智恵であったはずである。
美しい良い話、つまり、自分にとって都合の良い話に対して、無批判に信じてしまう。
このように「安易」な態度は、知的怠惰、すなわち、自分自身を大事にしないものであると思うがどうだろうか。

それにしても「一杯のかけそば」の作者は寸借詐欺で逮捕されたが、がんに効くと称する健康食品業者やトンデモ治療を行うクリニックの多くは放置されたままである。
これには、学会などで効果があると発表するためには、発表したい者が効果を示さなければならないが、国が罰するためには、国が効果のないことを示さなければならないという制約があるためではあることは理解できる。また、いわゆる体験談にしても創作や発表の自由があるのだから、それだけでは罰することが困難であることも確かであろう。
とはいうものの、現実に多くの被害が出ているはずなのに、厚生労働省がなんらかの対策をとろうとしているとは思えない。薬のネット販売規制とか、いらぬ規制に力をかける前にやるべきことはいくらでもあるはずである。。

先週(多分13日)、お問い合わせをいただきました北海道のk様、誤ってメールを削除してしまいました。

申し訳ありませんが、再度、メールをいただけますようにお願いします。

2009年7月13日 (月)

自家用格付け

昨日(13日)、お問い合わせをいただきました北海道のk様、誤ってメールを削除してしまいました。

申し訳ありませんが、再度、メールをいただけますようにお願いします。

現在の米国での金融不安を発端とする経済不況の原因の一つとして、格付け会社がレバレッジ経営(借りた資金で投資することにより、手持ち資金だけによるよりも多額の利益(=ハイリスク)を追及すること)などを高く評価したことが背景の一つにあるとよく指摘されている。

そもそも、格付けとは

「格付けは本来、債券の発行体の債務の支払い能力を評価するものです。それが転じて金融機関の健全性を判断する目安としても活用されています。

専門家でない個人が決算書などの財務資料を読みこなすのは大変です。ましてやそれに基づき、経営・財務状況を正確に判断するのはさらに難しいでしょう。

そこで、有力な判断材料の1つとして注目できるのが格付けです。

格付けは本来、金融機関を含めた債券の発行体について、債務の支払い能力を評価するものです。その発行体の利息や元本の支払い能力がどの程度のレベルにあるのか、債券を購入する際に参考にするわけです。

もちろん、債務の支払い能力と金融機関の健全性は必ずしもイコールではありませんが、目安として活用することは十分可能です。複数の金融機関のランキング表を見れば、比較するのも簡単です。

格付けは格付け機関が行います。ムーディーズとスタンダード&プアーズの2社が世界的に有名です。わが国では格付投資情報センターや日本格付研究所などが活動しています。

これらの格付け機関は利害関係のない第三者として中立的な立場から格付けを行います。基本的に、格付けされる側から提出されたデータをもとに、経営の安全性や信用力などを分析・評価します。ただし、公表された情報(有価証券報告書など)だけで分析・評価する「勝手格付け」もあります。格付けを見るときはその違いを知っておいたほうがよいでしょう。」

と野村証券HPでは説明されている。
http://www.nomura.co.jp/learn/study/start/safetynet/p-kakuduke.html

ところで、73()の朝日新聞の経済面のコラム「経済気象台」に「「自家用格付け」のすすめ」という記事が掲載されていた。
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金融機関、年金基金、財団などの20093月期決算が深刻な議論を呼んでいる。有価証券、中でも安定を求める債券運用の損失処理が、予想外に多額だからだ。
運用者からすると、政府のお墨付きのある格付け会社がトリプルA、ダブルAという高い格付けをつけていた債券だからこそ安心して保有していた。それなのに多額の損失を被り、青天のへきれきだというところだ。格付け会社に損失を負担してもらえないか、といってもむなしい。格付けは「ひとつの意見」であって保証ではない、と答えが返ってくるだけだ。
運用者は自らの役割として、財務データを入手し分析した上で格付け評価する、すなわち「自家用格付け」をする必要がある。格付け会社の格付けはあくまで参考にとどめるということだ。そうなると、格付け会社の格付けは誰の目にも明らかに、「ひとつの意見」でなければならない。債券発行者の財務データ入手と分析手法において、格付け会社と運用者が同じ土俵に乗ることが原理原則となる。
残念ながら、今回の損失の中心となったサブプライムローンを組み込んだ仕組み債は、そうはなっていなかった。財務データが法定開示の対象でないため、運用者は簡単に入手できず、コンピューターモデルによる分析手法は、誰もがすぐに理解できるものではなかった。ほとんどの運用者は、「自家用格付け」ができなかった。だからといって、いまさらどうにもならない。
今回の教訓は、運用者は「自家用格付け」ができない債券に手を出してはならないということに尽きる。権威のある格付け会社がいかに高い格付けをつけていようとも、である。
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わかるようで、よく考えると矛盾のある記事である。

そもそも「格付け」に頼るのは、その運用者が「自家用格付け」をする能力がないか、乏しくて、格付け会社の格付けほど信頼性のある格付けをすることができないからなのではないか。
もちろん、運用者といっても様々であり、その中には、格付け会社と同程度以上の情報収集・分析能力をもっていて当然ともいえる大規模な運用者もいるだろうが、規模が小さく自家用格付けの能力がないものも多くいるだろう。

また、格付けに用いる財務データーなどにしても、最近はネットのおかげでアクセスしやすくなったとはいえ、(勝手格付けは別として)格付け会社が企業から直接得られる情報や多くの企業情報を踏まえたその業界の動向などについては、一般の運用者では入手不可能であろう。

この記事では、すべての運用者が相当の能力を有していることが暗黙の前提とされているように思える。
もしも、そうであれば、そもそも格付け会社は成立しないし、個々の運用者が判断できるのであれば、そもそも格付けなるものも無意味である。

もっとも、次のような視点からの「自家用格付け」は大事であろう。

運用者はその責任を果たすため(そのために給与をもらっているはずであるから)には、格付け会社の評価に頼りきりになるのではなく、可能な限りにおいて、情報の収集・分析に努めて、格付け会社の格付けを自分なりに再評価することは当然のはずである。
もしも、これをしないならば、「給料泥棒」と呼ばれてしまうかもしれない。

また、本当に「自家用格付け」をする能力がなければ、債券に手をだすべきではないのかもしれない。しかし、零細の保険組合のように手を出さざるを得ない運用者もいるかもしれない。多分、この場合、格付けを信用するのが一番無難(ローリスク)なのんもしれないが、まったくの暗闇の中、見知らぬ他人の手に導かれて歩いているというリスクを認識すべきであろう。

さらに、今回のサブプライムローンのように、このような評価を出来ないものに手を出すならば、その「情報不透明性」に対するリスクを認識し、それを覚悟の上でなければならないだろう。

別の視点からの「自家用格付け」もありえるだろう。

一般に格付け会社の格付けは、財務的な観点からなされるであろう。また、運用者の多くも、この観点に基づいて投資するであろう。
しかし、これがすべてとは限らない。
ミニ運用者の本当に個人投資家ならば、環境にやさしい会社を好ましいと思うかもしれない。あるいは、その会社の製品が「好き」だからとか、その会社の工場が近くにあるからなど、投資決定の視点はいろいろあるだろう。
であれば、このような視点からの会社評価も、その個人投資家にとっては、立派な・大事な「自家用格付け」であろう。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
ところで、がん治療における「格付け」について考えてみる。

一番有名な(?)「格付け」は「標準的治療」ということになろうか。
格付けの基準やルール、品ぞろえの少なさ等にはいろいろと問題を感じるが、そのような制約や限界を知って見るぶんには「信頼性」は高い。

具体的に言えば、「標準的治療」は、「日本における無作為割り付け治験や大規模治験などの信頼性の高いエビデンスのみを評価データーとして、専門医グループが判断した格付けで最高位のもの」と言い換えられる。

データーも信頼性が高いし、評価者も信頼性がある・・・その意味で信頼性が高い格付けであり、他に頼るものがなければ一番無難なものである。

と書くと、「標準的治療」の格付けのどこに問題点があるのか疑問に思われるかもしれない。

まず第一に、社会の多くのもの同様に、格付けのもととなる評価データーが十分にそろっていないということである。

「日本における無作為割り付け治験や大規模治験などの信頼性の高いエビデンス」などがあるのは、ほんの一握りにすぎない。
さらに言えば、日本の治験は海外の二周遅れ(海外では標準治療となっているものについて治験が行われていない(=標準「的」治療でない=保険適用外のことが多い)ため、海外との国際共同治験に参加しようとしても、「新規治療」対「標準治療」の標準治療ができないため参加すらできない)となりつつある。
つまり、もととなっているデーターが、最新治療ベースではないのはもとより、国際的な標準治療すら入っていないことがありえる。


さらに言えば、このような最新治療は脇に置くとしても、例えば、副作用が強すぎるため薬の量を減量した場合に対するデーターはない。
このため、標準的治療=最大限投与(ならばまだしも、患者によっては過剰投与)と鳴らざるを得ない。
また、ファーストラインの治療のあとの、セカンドやサードラインの治療についてきちんとした治験データーがそろっているがんは少ない。

このように、確かに信頼性は高いが、適用できる範囲が狭く、これだけをもって、実際の治療を行うことが常にベストであるかは疑問なしとしない。(もっとも、多少前まで、この程度のエビデンスも参考とすることなく行われていたことを考えると、「進歩」していることは確からしいが)

第二に、評価の基準が「医学的観点」「だけ」であるということである。
医師が評価すれば、どうしても効果が副作用よりも重きがおかれるであろう。
それ以前に、患者によっては、医学的観点よりも重視したいものがある(例えば、在宅を強く望む患者にとっては、入院が必要なようなレジメンは評価が低いだろう)かもしれないが、このようなものは「格付け」には配慮されない。

もちろん、第一の問題点についても、第二の問題点についても、評価の恣意性を廃し、客観的な「格付け」とするためには仕方がないことかもしれないが、「標準的治療」には、このような「限界」があることは留意しておくほうが良いだろう。

この「標準的治療格付け」とは、まったく正反対なのは、免疫療法を称するクリニックがHPなどで掲げる「自己格付け」である。

そもそも、そこで使われているデーターがどこまで本当のものか不明である。
特に、体験談の類には「抗がん剤などの通常医療も受けており、その効果とするほうが自然なのに、その事実を隠す」とか、さらに「単なるフィクション(それも出来の悪い)にすぎない」ものが多いように見受けられる。

さらに、これを評価するのも、そのクリニックの医師にすぎない。

本当の格付けにも、当該企業からの依頼を受けないで行う「勝手格付け」があり、その際に、(ハイリスク・ハイリターン企業を高く評価し、経営や投資に慎重なローリスク・ローリターン企業を低くみなすという)欧米の価値観を押しつけることが問題になっていたが、このようなインチキクリニックのものは「自分勝手格付け」ということになろうか。
いや、そもそも「格付け」などという言葉を使うことが間違っているのだろう。

では、記事にある「自家用格付け」というのはどうであろうか。

二つの「自家用格付け」があり得るように思える。

一つには、医師における「自家用格付け」である。

標準的治療という代表的な格付けが極めて限定されたものである以上、本来、現場で治療に当たる医師は、その医師毎の、そしてその患者毎の「自家用格付け」をもって、標準的治療を補足していくことが必要なはずである。
もちろん、このためには、最新の論文などの知識・抗がん剤治療経験・そして標準的治療という裏付けがある治療から外れるという度胸の三つが要求されるであろう。
それだけの能力・意志のない医師は、標準的治療にこもるのが安全かもしれないが。

もう一つは、患者における「自家用格付け」である。

一番極端な場合、患者自ら、相当の医学的知識を持って「自家用格付け」を持つことである。
いわば、プロの患者である。
情報化のおかげで、最新の論文(のアブストラクト)の多くはネットで読むことが出来る。
日本の論文はなかなかこのような公開がされていないが、幸いなことに、国内ではロクな治験はなされていないので、大きなマイナスにはならない。
今の日本の医療制度では、ほとんどの医師は多くの患者を診なければならず、勉強に充てる時間も少なくなるし、個々の患者に対してさける研究時間も少なくなる。
患者であっても、本気で打ち込めば、医師にかなり近づけようし、ある局所については医師より詳しくなれるかもしれない。

もっとも、このようなプロになるには、かなりの時間がかかる。
すべての患者が、このような「自家用格付け」を持つのは非現実的であるかもしれない。

そこまで極端ではないとしても、治療に対して、どのようなものを重視するのか、逆に、どのようなものは気にしないのかといったことをきちんと整理して、それに基づいた医師探しということは大事なのかもしれない。

いわば、格付け会社は財務的側面からの格付けを行うが、運用会社なり具体的な運用コースでは、例えば、環境重視企業重点など、投資家の価値観に応じたものもあるだろう。
具体的な「自家用格付け」は無理としても、このようなことならば可能かもしれないし、少なくとも、自分に応じた治療を求めるのであれば、これは義務でもあろう。

ただし、あくまでも、会社が存続しての投資である。どこまで重んじるかは別として、「格付け」情報も知らないで投資するならば、虎の子をドブに捨てることにもなりかねない。

「自家用格付け」に向けた努力は重要であるが、(それが厳しいものかもしれなくとも)現実にもとづかない「自分勝手格付け」に陥るならば、人間として安易に「命」を扱っていることにもなるはずである。

2009年7月 6日 (月)

行列に並びますか?

日本経済新聞の土曜日版(日経PLUS1)に「その行列、並びますか?」という記事が載っていた(2009.6.27,s1)

この記事の題名を見て、20年くらい前の大阪人との会話を思い出した。
もちろん、詳細は覚えていないが、次のようなことを言われたという記憶がある。
「東京人のグルメは中身がない。有名だから、とか、雑誌で紹介されたからというだけで行列が出来る。それに比べて、大阪人は厳しい。例えば、安くてうまい焼き肉屋と安くて味は普通の焼き肉屋が二軒並んであったとする。東京人は、安くてうまい焼き肉屋に長い行列が出来ていると、隣の焼き肉屋も安いし、まずくはないのだからと、つい入ってしまう。それにひき換え大阪人は、どんなに行列が出来ていようと、安くて、かつ、うまくないと納得しないので、隣の焼き肉屋には絶対に入らない。大阪で行列の出来ている店があれば、並んで入って損をすることはない。」
不運にして、あるいは、幸運にも、大阪で暮らしたことはないので事実かどうかはわからないが、おもしろい指摘である。

そういえば、数年前だったか、漫画で、一年前のグルメ本を読んでいるのを質問された女子社員いわく「まだ、閉店せずに残っていれば、本当においしい店だろうから」などと答えているものもあった。

ところで、日経の記事であるが、
・ インターネット調査会社による調査によると、「並びたくなる」人が約3割、「わくわくする」人が約6%。なお、「並びたくない」人でも半数以上が「人気・話題の店」に並んだことがある。
・ 行列に並ぶ理由について、早稲田大学高等研究所の渡部幹准教授は「並ぶという行為は、その分コストをかけているということ。行列自体がその先への期待を高め、さらに行列を呼ぶ」と説明。
・ 博報堂買物研究所の長谷川宏所長によると、特に不況になると「買い物に失敗したくない」という気持ちが強くなり、周りと同じ行動をしようとする現象が起こりやすい。
・ イベントの企画・運営会社のプロデューサーによると「意図的に並んでもらうケースもある」とのことで「4,5人が並ぶと一気に列が長くなることが多い」といい、展示会や販促キャンペーンでは集客につながる
というようなもの(このほかに、待ち時間の表示についても解説)であった。

たしかに、行列が出来ると、行列が出来ているからには良いことがあるに違いないということで行列参加者が増えて、行列が一層長くなるというプラスのフィードバックがかかることは間違いない。
であれば、最初に行列が出来たのが本当に良いということではなく、単なる偶然(ノイズ)であったり、あるいは、人為的(グルメ本、イベント会社に雇われたアルバイト)な場合も多くあろう。

しかし、話による大阪人のように真の意味でうるさい人ばかりであれば、このような偶然や人為的なものは長続きしないだろうし、行列を人為的に仕掛けても見返りは少ないだろう。

とこのように考えていくと、行列といっても信頼のある行列(=並ぶとお得なもの)と、たまたまできただけだったり仕掛けがあったりという信頼性のない行列(=並ぶに足りないもの)があり、そして、その社会の構成員が対象の価値をきちんと判断できればできるほど、その社会の行列の信頼性は高いだろうし、その社会の構成員の判断能力が低ければ、行列の信頼性は低いということがわかる。
さらには、その社会の構成員の判断能力が低ければ、行列はその対象の価値ではなく、ハヤリ(例えばグルメ本)とか人為的な仕掛けを表していることが多く、行列があっても並ぶ価値がないものがあるのと同様に、本来、行列すべき価値があるのにだれも並ばないということも生じるだろう。

ふと気がついたが、行列と書いてきたが、これは、世論・国民の声・選挙結果と言い換えても通用することであった。
そうすると、多分、「「並びたくなる」人が約3割、「わくわくする」人が約6%。なお、「並びたくない」人でも半数以上が「人気・話題の店」に並んだことがある」という調査結果以上に、日本人は「行列」好きと感じられるがどうだろうか。
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がん治療にも「行列」は見られる。

ここでいう行列とは、3時間待ちの3分外来で3時間待っている患者というような「物理的」な行列ではない。
例えば「○○がんセンター」というような「看板に対する『行列』」とか、「がんに効く健康食品」というような「都合のよいものに対する『行列』」、あるいは、「重粒子線」のような「最新科学成果に対する『行列』」というようなものである。

つまり、他人が並んでいるから、(その価値は不明だが)自分も並んでいる・並びたいということである。

このように見ると、健康食品やトンデモ医療の「体験談」は、イベント運営会社が仕組む行列並びアルバイトに相当しようか。いや、アルバイトならば列に並んでいるという事実はある(並行して通常医療を受けているのに、これを隠したり、効果をあたかも健康食品のためとするようなものならば、これに相当するかもしれない)。それどころか、まったくの作り話の体験談では、生身のアルバイトではなく、そこらのマネキンを並ばせているだけであろう。

このような金儲け目的の作為的な行列は別として、一般的に見られる「行列」は、大阪人のように並ぶ価値の有無を判断しての行列であろうか、それとも、東京人のように行列があると並びたくなるという周囲雷同による行列なのだろうか。

私には、きちんとした価値を理解して並んでいる人はほとんどいないのではないかと思える。しかも、価値を理解していないまま並んでいることにすら気が付いていない。

例えば、免疫療法。
ここでいう免疫療法とは、現在、研究段階なりまじめな治験段階(したがって、ごく一部のところで「無料」でなされている)ものではなく、ネットで検索すれば、あちらこちらの病院・クリニックでなされている「現在実用化(?)されている」免疫療法のことである。
ほんの少し勉強すれば、これらの免疫療法は、せいぜい一部のがんの再発率を下げる(下げているかもしれない)程度の効果しか示されていないことはわかるはずである。つまり、行列に並んでいる現役の患者に対して効果が出る可能性は皆無ではないかもしれないが、皆無に近いであろう。

このような現実の価値(当該病院が「自称」する価値ではなく)を知った上で、かつ、経済的負担も考慮に入れたうえで、並ぶ価値ありと判断しているならば、それは一つのあり方ではあるが、行列に並んでいる大半の人は、体験談であるとか誰のチェックも経ていない一般向けの本(表現の自由、すなわち、作りごとの自由が保障されている)のようなマネキン人形をみて、それにつられて並んでいるだけである。

次に、重粒子線はどうだろうか。
ここの行列自体は、それほど長くはないものの常に列に並びたがる方もかなりいる。また、いわゆる免疫療法と異なり、治療機関が限定されており、イカガワシイ病院はないる
確かに局所療法としての重粒子線には優れた点もある。同じ局所療法の一般の放射線治療よりも患部に集中できるため、効果が高く副作用が少ないことは理解できる。

しかし、局所療法は局所療法にすぎない。
転移があり、すなわち、全身にがんが広がっていると予想される状況において、局所療法が有意な意味を持つ場合は、特定の転移のみがクリティカルであってそれに対応すればかなりの延命を見られる場合などレア・ケースであろう。
もちろん、手術を行うには術後の生活の質の低下が激しく、一般の放射線では困難ないし効果が弱いというような場合には、重粒子線がかけがえのない治療法であることはありえる。

いずれにしても、重粒子線の列に並ぼうとする人の多くは、このような効果と限界を理解した上で並びたがっているとは思えない。

では、未承認抗がん剤はどうだろうか。

数年前はこの行列に並びたがる人も多かったが、最近では、かなり列が減っている。
少なくとも、保険適用になり「他人のお金」で出来るようにしてほしいという声はあっても、自腹を切ってまで行列に参加したい人はかなり少ないようである。

こっそりと実質的な混合診療をしてくれる病院がわずかなりとはいえ、増えたせいもあるだろうが、この絶対数は大きいとも思えず、これが行列が減った理由とも思えない。多くの患者に関する限り、数年前の行列盛況の時点と客観的には状況には大差があるとは思えない。

もちろん、未承認抗がん剤は、(トンデモ医師による使用を除けば)世界的には、もっとも効果が期待できる選択肢であることは多い。
しかし、あくまでも従来の抗がん剤との比較であり、かつ、とびぬけた成績であるとは限らない。少なくとも「夢の薬」ではないことは確かである。他方、世界的には効果が認められていても、日本人においては人種差によりそれほど効果がないという不確実さはある(といっても、同じヒトである。また、同様により効果があるということもありえるのであるのであるから、否定するデーターが出るまで欧米人と日本人で同程度とみなしてもおかしくないと思うのだが・・・)

さらに、実質混合診療(薬代は完全自費)ならば、薬によっても異なるが、「それなり」ないし「かなり」の経済負担が生じる。

私自身は、経済的などの負担が可能な範囲での、ベストと思われる治療(その期待される効果が負担に見合ったものでなくとも)を受けたいという価値観の結果、以上のようなことは十分承知でこれを選んでいる。
しかし、数年前に行列を作った多くの方は、単に、欧米で優れたものとして使われている(行列ができている)ものを、日本でも使えないのはおかしいという、一種の行列志向で騒いでいただけのように見える。

価値を理解しての行列でなければ、行列が消え去るのも早いということだろうか。

このように見ていくと、がん治療における行列のほとんどは、その価値を理解してというよりも、単に、他人が並んでいる・良いという噂があるなどということによるもののように見える。
また、ある行列について、並ぶ価値があるかについて、絶対的なものではなく本人の価値観によるところが大きいケースも多いだろうが、患者自身がきちんとした価値観を持っていないことも多いように見える。

とは、いうものの、いったんがん患者になってしまえば、いやおうなくどれかの列(無治療・放置という列も含めて)を選ばなければならない。
行列の価値がわからないのにどの列に並べば良いのであろうか。

まず、常識的に言えるのは、様子がわからないのであれば、平均的・可もなし不可もなしを選ぶことが無難ということである。もちろん、利益が不明であってもリスクを取ることが好きという人は別である。

それでは満足できないという人は、やはり価値がわかっているグルメに聞くしかない。
といっても、誰がグルメか、単なる自称グルメかわからない。
特に、見せかせグルメ(真の姿は金の亡者)のトンデモ医師のセカンド・オピニオンでは、ネギを背負って、かつ、鍋までぶら下げた鴨になる。
とりあえずは、平均的・最低限の知識をがんセンターなり大学病院で得てからというのが良いだろう。

再度、質問したい。

「あなたは行列に並びますか?
そして
「あなたは、どの行列に並びますか?

2009年6月29日 (月)

豚インフルエンザ -所変われば・・・-

暑くなっている気候に体(と頭)が慣れないためか、先週に引き続き、今回の記事の切れ味は良いとは思えない。
あまり期待しないで読んで欲しい。

新聞報道によると、厚生労働省は豚インフルエンザが下火(←マスコミ報道が下火)になりつつあるのを待ったかのように、発熱外来の廃止など「体制の通常化」をはじめたようである。

素人から見て、現在の豚インフルエンザの毒性及び日本国内での流行状況を考えると、この判断自体はまっとうなものであるように思われる。

しかしながら、今回の国内対応の問題点や教訓の検討を国レベルにおいて、関係者(国、地方、医師、患者、学校など影響を受けたところ、そして、マスコミ報道)を集めて検討がなされているとは、新聞などを見る限りでは、聞いたことがない。

秋から冬にかけて、豚インフルエンザが再上陸することは、ほぼ確実であろう。その時に、どのような対策をとるべきなのか、今回の教訓を「他山の石」とするために残された期間はあまりない。
問題が生じるまでは何もしないという公衆予防の観念のない(他方、問題が生じた場合、マスコミがとりあげなければ無視、マスコミが騒げば過剰対応)厚生労働省らしいといえばそれだけであるが、ならば、やはり厚生労働省はつぶれたほうが世のためなのかもしれない。
ついでに言えば、今回のケースは、鳥インフルエンザが現実の問題となった場合のテストケースとしても大事なはずであるが。

などと思っていたら、ニューヨーク市保健精神衛生局の「H1N1 ’豚インフルエンザ’ : あなたが知るべきこと」という文書を見つけてしまった。
しかも、日本語訳のものまである。

日本語なので、とりあえず下記で全文をお読みいただくことをお勧めする。
http://www.nyc.gov/html/doh/downloads/pdf/cd/h1n1_flu_basic_faq-ja.pdf

ちなみに、これは66日版であるので古い情報ではないかと思われる方もいるかもしれない。が、最新(626)は下記のとおりである。ただし、英文であるし、内容も大差ないようであるが、慎重なタイプの方は確認されるとよい。
http://www.nyc.gov/html/doh/downloads/pdf/cd/h1n1_flu_faq.pdf

私なりに(←つまり、私にとって都合のよいように)抜粋してみると、
最初に「ニューヨークや全米においては、このウィルスによる症状は軽度です。症状を訴えた人たちは皆処方箋なしに回復しています」と端的に個人に対するリスクの低さを明示した上で、ワクチン(開発中)や予防法(うがい・手洗いなど)を簡単にわかりやすく説明している。
そして、いよいよ「インフルエンザの様な症状があった場合どうすればいいでしょうか?」に入る。

「咳、喉の痛み、そして熱があった場合は少なくとも1日、十分良くなるまで自宅で安静にしましょう。咳が続いているが他の症状はない場合は、 (英文では、If you have one of the underlying medical conditions listed above, and you develop flu-like illnessとなっているので、「咳が続き、かつ、下記の症状の一つがある場合は」というのが正しいようである) 医師の診察を受けましょう。病気になってから1週間ほど経過すれば、仕事や学校に戻ってもよいでしょう。軽い症状の場合は病院にいく必要はありません」とし、日本での騒動と比べると驚くべきことを告げたうえで
逆に、「どのような症状になったら病院にいくべきでしょうか?」として「もし症状がひどい場合や悪化している場合」や「下記のような兆候(呼吸困難又は息切れなどの具体的な例示あり)がある場合は治療を受けましょう」としている。

簡単にいえば、呼吸困難とか激しい嘔吐などを伴わない限り、病院に行く必要はなく、自宅で寝ていればよいということのようである。

日本の騒ぎ方と比べてギャップの大きさに驚くばかりである。
日本で感染者が見つかって国もマスコミも「大騒ぎ」しているときに、その本拠地である米国・カナダでは、比較的平静だったというのも、これだけ認識に差があるとうなづけるところである。

さらに言えば、普通の風邪ならば医者に行くより家で寝ているほうが良いときちんと考える人は少ないながらいるだろうが(問題はただの風邪と思っていたら別の病気だったというリスク)、インフルエンザならば病院に行ってタミフルなどを飲むのが当然とほとんどの人が(私も)思っている。
しかし、インフルエンザにしても一週間も家で休んでいれば­ほとんどの方が治ってしまう。タミフルなどは一週間休むのを数日縮める効果しかない。(このような話は以前何かで見た記憶はあるが、ほとんど気にとめていなかった。)
逆にいえば、高齢者のようなハイリスク者や症状が激しい方を除けば、通常のインフルエンザについても、日本人は過剰対応をしているのかもしれない。

(
その結果、日本でのタミフルの使用量は異常に大きく、これだけ(医療費)ならともかくタミフル耐性シンフルエンザ出現の早期化に貢献していることになる)

誤解されないように、別に米国のほうが優れているというつもりはない。

これらの裏側には、皆保険制度がなく、多くの保険未加入者がいるという「現実」があるはずである。
日本は、安い保険料(安いとは感じられないだろうが、国際的にみれば、極めて安いものであることは疑うことができない)しか負担せず、しかし、病院にかかる必要もないほどのことで「安心」のために利用することができるという「天国」である。(さすがに、天国も崩壊して地上に急降下中であるが)

このようなわが国では、タミフルなどを安易に使用しすぎて、耐性ウィルスの発言を早めるのではないかということを除けば、患者側からみれば、病院に行くに越したことはない。


しかしながら、本当に豚インフルエンザ(現在と同程度の弱毒性が維持されているとして)が一気に広がったら、ただでさえ崩壊しかかっている日本の医療体制が持つだろうか。
(
といくら言っても、寝ているのが一番の薬の単なるカゼですら、緊急外来に行く現在の日本人に言っても、馬の耳に念仏だろうが)

さらに、真打ちの鳥インフルエンザが流行したらどうなるのだろうか。

豚インフルエンザすらも適切なリスク管理ができない厚生労働省にきちんと対応できるとは思えない。
自己防衛のためには、食料を備蓄して、家に立てこもるしかないかもしれない。(なにせ、ただでさえ白血球数が低いのだから。)

しかしながら、いつもながらわからないのは、日本のマスコミである。

少なくとも三大紙ならば米国に支局があるだろうし、共同通信もある。それがなくとも、ここに書いたこと程度はネットで簡単に手に入れることができる情報である。

日本と米国の対応のいずれが良いのかは別としても、このような対応もありえることをきちんと報道しないのは、なぜ、なのだろうか。

いくつか理由が考えられる。

国民をあおったほうが「売れ行き」が伸びるという「さもしさ」。
戦時中に、軍部(在郷軍人会)による不買運動をおそれて、軍部にしっぽを振った報道しかしなかった体質は健在のようである。

また、このようなことを報道して、千一、国内で患者が亡くなった(通常のインフルエンザと同じく千人に一人程度は死亡するらしい)時に、責められたくないという「逃げ」。
これまた、真実の報道よりも責任回避に重きを置くというマスコミの真の姿の発現である。

そもそも、マスコミは国内視野しかない井の中の蛙の集まりにすぎないということ。
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と、ここまで元気よく書いてきたのはいいが、このブログはがん患者のブログなのだった。

どのように日本とニューヨーク市の豚インフルエンザへの対応の違いをがん治療と結びつけようか・・・・

よく考えていくと、がん治療に関する問題と相似していることが含まれている。

一つには、「井の中の蛙」であるということである。

例えば、国内の治験データーがなければ、世界で広く使用されている抗がん剤ないしその適用を認めようとしない厚生労働省。

あるいは、国内の基礎研究段階の発表や、どうでもいいような発表はとりあげるものの、ASCOなど世界的な権威のある学会での発表については取り上げる気もないマスコミ。

二つには、その狭い井戸の中で騒ぎが起こると過剰に反応するが本質的な対応はしない体質。

未承認抗がん剤などで特定の薬について、患者が騒ぎ(これだけならば無視)、マスコミや国会でとりあげられると、民族差を確認するための治験ともいえないような少数治験だけで「迅速」承認をしてしまう。しかし、騒がれない他のものについては何もしないし、本当に国内治験が必要なのかなど根本的な問題には目をつぶる。

マスコミもこの点では厚生労働省と同じであり、熱しやすく冷めやすい。

三つとしては、国民の個人リスク過敏症

インフルエンザかもしれないと思うと、実際のリスク無視(豚インフルエンザのリスクの低さ、逆に、インフルエンザでなかったのに「発熱外来」で本当の患者から感染するリスク、さらには、発熱外来のパンクなどの社会リスク)して、個人リスクを心配してルール無視で発熱外来を「直接」受診。
そして、それを批判しようともしないマスコミ。

この体質は、逆に医療の副作用や治療リスクを許容しないということにもつながる。
社会リスクには鈍感であっても、個人リスクには過剰に反応する。

この延長線上に、いわゆる医療過誤訴訟があり、国内の医療制度の崩壊がある。

がん治療は患者にとって、個人リスクの塊である。
鈍感になってもいけないが、かといって過敏になりすぎてもマイナスである。

そう考えていくと、がんに効くという健康食品の愛用者は、個人リスクに過敏かつ鈍感なのだろう。
つまり、避けられないリスクに過敏に反応(=効果があるのに副作用がないという「言葉」を反射的に信用)し、他方、そのような夢物語を信じることの危険さに鈍感ということである。

四つ目には、それにもかかわらず病院依存体質。

治療の意味(例えば、タミフルの効果)も知ろうとせずに病院に行き、薬をもらいたがる。
さらにいえば、治療してもらって当然としか考えない。

もちろん、風邪(や重症ではないインフルエンザ)と異なり、がん治療は家で寝ていればよいというものではない。
病院・医師に頼らなければならない。

しかし、多くの患者は、病院に「頼りきり」であり、自分で可能な範囲の知識を持つ努力もしない。

ネットの掲示板で、よく「良い病院(医師)」を知らないかという書き込みを見るが、「○○という治療ができる病院」という書き込みはあまり見ない。
これも、お任せできる病院探しの表れなのだろう。

病院(医師)に頼ること自体は当然である。そして、普通よりも優れた治療を行う病院(医師)に頼ろうとするのも当たり前かもしれない。

しかし、普通以上の治療には、普通の治療以上のリスク(正確には不確実性)があるはずである。患者側が病院(医師)に任せきりで、このリスクを理解していないのならば、(私が医師であれば)怖くて普通以上の治療はしないというのは仕方がないこととも思えるがどうだろうか。

いずれにしても、今回の豚インフルエンザ「騒ぎ」の教訓が、この秋・冬の豚インフルエンザ第二波やいずれか発生する鳥インフルエンザに反映されることを望むが、そのようなことは、厚生労働省でもマスコミでも日本国民においても起こらないだろう。これは、残念ながら、がん患者となって、それなりの期間、日本の医療を見てきた私の実感である。

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2009年6月22日 (月)

豚インフルエンザ ― 終息宣言(?)関連 ―

豚インフルエンザ(鳥インフルエンザと峻別するために新型インフルエンザという名前は使わない)について、終息宣言と称されるものが出されて以来、急に落ち着きつつある日本である。

しかし、「終息」のわけがないと、その当時から思っていた。
一つには、世界では、少なくともこれから冬となる南半球での流行はないわけがないし、そして、日本と南半球の人的交流はあるのだから、これからだって入ってこないわけはない。
また、日本国内に入った豚インフルエンザウィルスが根絶されてもいないだろうから、あちらこちらで散発的に流行しないわけはない。

と思っていたら、やはり、国内のあちらこちらで、散発的な流行が生じている。
一番の違いは、マスコミが「感情刺激的」にとりあげないようになっていること程度である。

ひょっとすると、豚インフルエンザの終息ではなく、マスコミによるパンディアミック報道の終息という意味だったのかもしれない。

ところで、いつもながら、自分勝手な大阪の方々による「弱毒性」だからという発言が相次いでいた。
単純に、自分たちの対応能力を上回っており、やっていられないと素直に言えばよいのに、自分たちのことは棚に上げて、国に要求する関西根性丸出しである(もっとも、それがたまたま関西だったということであり、地域が関東ならば対応能力に問題がないということではないが。)

この言い分は、半分は正しいが半分は間違っており、全体的には、関西地域の有名知事の危機管理の基本の無知の丸出しである。

簡単にこの点を説明してみよう。

このような危機では、個人リスクと社会リスクの双方を考える必要がある。

例えば、個人リスクがこれまでのインフルエンザと同程度以下であったとしても、これが、社会全体に「集中的」に流行したら、社会システムの維持などに支障が生じるかもしれない。

現在のところ、豚インフルエンザは、一般のインフルエンザ(季節型インフルエンザ)と同程度以下の毒性を有しているようなので、個人リスクは(判断する方の主観によって異なろうが)確かにそれほど大きなものではないだろう。
少なくとも、日本におけるインフルエンザ予防ワクチンの低接種率からすると、平均的な日本人は小さなリスクととらえているようである。

しかし、これと社会リスクはわけて考える必要がある。
ヒトに免疫がないのであるから、一気に爆発的に流行する可能性がある。
そして、一週間程度自宅で隔離ということならば、下手をすると(よほどうまくむしなければ)地域全体、場合によっては日本全体がマヒする可能性もある。

つまり、関西地域の有名知事が、その言葉どおり、弱毒性ということのみを理由に制限緩和を求めているならぱ、危機管理のイロハも知らないこととなる。

もちろん、個人リスクと社会リスクは無関係なわけではない。
仮に、毒性がもっと弱く、鼻かぜ程度の症状しか生じないのであれば、一気に爆発的に流行しようと社会リスクにつながることはないだろう。

もっとも、制限緩和がおかしいと主張するものではない。

社会リスクを低くしようとすること(例えば、広い範囲で学校休校にする)は、コストにつながる。
抑えられるリスクと必要とされるコストを比較して、コストが高すぎるため制限を緩和するというのは十分に納得できる。

また、制限がほとんど意味をなさないという理由もあり得る。
感染が広がり、蔓延状況になってしまえば、多少の制限をしたからといって効果はほとんど期待できないだろう。

しかし、豚型インフルエンザの検査も不要としたのは、あまりにもいただけないものである。
これにより、豚型インフルエンザの感染状況が不明になってしまっている。
マスコミでは、国内のこれまでの感染者数を「いまだに」記事に書いているが、関西地区の大英断のおかげで、○○名と書くのは真実ではなくなってしまった。
例えば、○○名以上とするか、関西地区を除き○○名と書かないとおかしい。

さらにいえば、関西地区は自ら豚型インフルエンザの蔓延地区であることを認めたことに等しいわけであるから、成田などの空港で海外の感染国からの乗客にしていたのと同様の検疫を関西地区から外部へ出る人にしないというのは、外国差別であると思うがどうだろうか。

まぁー、本当は、準備不足のため、まじめな対応ができなくなったということであろう。
これは、別に関西地区に限らず、現在の貧困な医療行政の一つの結果にすぎないが、このようなことを「正直」に話せば、準備不足の責任を追及されるということで、「弱毒性なのに」ということで国民を騙したというのが真相ではあろうが。

しかし、豚でこれくらいならば、鳥ではどうなるのだろうか?
居酒屋では焼きトンも焼き鳥も似たようなものであろうが、インフルエンザではそうもいかないだろう。

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未承認抗がん剤(及び適用外抗がん剤)を含む混合診療についても、個人リスクと社会リスクを区別する必要がある。

日本人に対するデーターがないので、思わぬ副作用が出るかもしれないというのは、「個人リスク」の話である。
もちろん、健康保険適用にして、広く使用できるように国がするというならば別として、個人輸入のような形で行う分には「個人リスク」はあるとしても「社会リスク」は考えにくい。

そして、現在の抗がん剤治療(健康保険適用)についても、相当の個人リスクがあるところ、外国のデーターではあるもののリスクに大差ないというものについて、国が規制をかけることは法規制として相当性を欠くと考えるがどうだろうか。

さらに言うならば、ある程度の不確実性(=外国人と日本人の差が不明)を含む「個人リスク」を許容するかどうかは、患者個人の価値観の問題であり、また、インフォームド・コンセントに属することにすぎない。

少なくとも、登山のようなハイリスクのものを含め(喫煙だって周囲に煙をださないならば)「個人リスク」を受けるかどうかは、(十分な情報が与えられていることを前提に)個人の自由に属するというのが、これまでの人間の歴史の積み重ねの結果として選ばれている、自由主義の本質のはずである。

ついでに言えば、混合診療が「個人リスク」の観点から違法とすべきほど問題があるならば、トンデモ医療が横行している自由診療は許されるべきものではありえないが、この付近について、国はダンマリを決め込んでいる。

他方、「社会リスク」はどうであろうか。

がんという病気は伝染するものではないし、副作用はさらに伝染することはない。
その意味では、「社会リスク」ということは本質的には存在しないはずである。

厚生労働省的な社会リスクとしては「医療に貧富の格差が生じる」ということかもしれない。

しかし、効果・副作用が未確認のため健康保険適用できないというものならば、そのような治療を受けることができようと、できまいと「格差」には当たらないはずである。

本当に「格差」が問題となるのは、それが効果を有する(副作用も加味して)場合であり、それならば、健康保険対象にすべきものをしていないという国の怠慢を罪のない他人に転嫁しているということとなる。

少なくとも、一から十まで個人負担の「自由診療」は合法なのである。
混合診療は、一から十までは負担できないとしても、適用外の部分だけならば負担できる患者の救済となるのであり、「自由診療」が認められているわが国では、格差を幾分か解消するもののはずである。

このようなことまで書かなくとも、混合診療(未承認抗がん剤)を違法とするだけの「社会リスク」は見つからないような思うがどうだろうか。

ひょっとして、未承認抗がん剤による治療が広がることにより、その有効性が知れ渡ること、すなわち、厚生労働省が不作為の怠慢を働いていることが知れ渡るという「官僚の自己リスク」を警戒している、これが一番、的をついているように感じるのはおかしいだろうか・・・
(
厚生労働省の怠慢体質は社会保険庁(年金)で十分に公知の事実なのだから今更警戒しても仕方がないと思うのだけれども)

2009年6月15日 (月)

カテゴリー・ミステイク

「心脳問題」(朝日出版社、山本貴光+吉川浩満)なる本を読んでいる。
基本的にこのような本は、時間の無駄になるのでできる限り読まないようにしている。

たいていの哲学者(と称する者)の議論は、用いている用語をきちんと定義していないために(厳密に定義しているつもりになっているが、「概念」などはいくら厳密にしたつもりでも幅が残らないわけがない。厳密に定義しているというのは哲学者の単なる思い上がりである)、生じているものがほとんどであるし、あるいは、単なる無知(例えば、無限の扱いについて、有限のものを無限個足し合わせても無限になるとは限らないという単純な数学的事実を忘れていたり、命題は真か偽のいずれかであるという古来からの素朴な排中律が信じられているが、真とも偽ともわからない命題が無限に存在するこというゲーデルの定理はお粗末な哲学者の理解を超えるものらしい)によるものが目に余るからである。

さらに言えば、事実に立脚しない形而上の議論がいかに非生産であるのみならず、明らかな間違いにより社会を不幸に陥れたという歴史的事実すら忘れている。

心脳問題については、それほど真面目に考えたことはないが、「心」の定義、「脳」の定義、あるいは、脳がわかれば心がわかるという文章であれば「わかる」の定義があいまいなために生じているものがほとんどであるし、そうでないものは、まさしくゲーデルの不完全性定理の一例にすぎないと「直感」している。
さらに言うならば、この世(含む「自分」)が一炊の夢に過ぎないとしても、一炊の夢なのかどうかは不可知(ゲーデルの不完全性定理の一応用)であるから、哲学者諸侯とは異なり、このような無駄なことに人生の一部を割く気にもならないということでもある。

このようなことを書く私が、「心脳問題」という本を読んだのは矛盾ではないかとしかられそうであるが、いかに直感的にアホラシイと判断しているにしろ、心脳問題でどのようなことが議論されているのか・いたのかということをある程度は、知っておくのも悪くはないだろうと、ふと思ったからです。
つまり、がんに効くと称する健康食品について、単に馬鹿らしいと判断するだけではなく(もっとも、馬鹿らしいで十分でしょうが)、その業者のHPを除いて、そのいい加減さを確認しておくことも有意義だろうというのと同じ感覚です。

本全体の感想としては、予想通り、定義に厳格さを欠いているための意味ない疑問や排中律を当然のものとして議論しているための妄想的議論が目につきました。
もちろん、一般向けの本ということで、あえて厳密さを欠かせているのかもしれませんし、単に、筆者が三流哲学者(なのかどうかは知りませんが)であり、きちんとした哲学者ならばこのようなことはないのかもしれません。

このような全体的な感想は別として、中には、言われてみればそうである(=潜在的にはわかっているが、自覚できていなかった)というものや、このような明確な説明方法があるのかというものも、もちろんありました。

その一つが「カテゴリー・ミステイク」という概念(言葉)です。

同書によると、カテゴリー・ミステークとは、
「子供を動物園に連れて行きます。あなたは「これがウサギ」「これがカバ」「これがキリン」といちいち説明してあげるのですが、最後に子どもはこう尋ねます。「わかったよ。それで動物はどこにいるの?」・・・・・・・・・・このようにちがうカテゴリー(範疇、区分、分類)に属する物事を同列に並べる誤り」のことであり、
プラトンの「パイドン」に書かれているソクラテスがアテナイの青年たちを堕落された罪で投獄され(逃げて外国に亡命するのも可能なのに)牢獄にいるのは「ソクラテスの骨と腱が動くことによって彼が牢獄に移動したからか」「ソクラテスが有罪判決にしたがって牢獄に座ることがよいと考えたからか」
も同様の問題である。「脳がわかれば心がわかる」というのも「脳」と「心」という異なるカテゴリーに属するものを同一に扱っているとしている。
(
この説明はWikipediaの説明(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%86%E3%82%B4%E3%83%AA%E3%83%BC%E9%8C%AF%E8%AA%A4)とかなり異なって見えるが、これは単に私が哲学の素人のためであろう。)

私に言わせれば、その前に「脳」「心」がきちんと定義されていない以上、これは正しいとも間違っているとも判断できない空虚な説明である。

さらに、言うならば、「脳」・「心」を異なるカテゴリーであるように定義していれば、正しい命題であるし、同じカテゴリーとなるように定義していれば誤った命題である。
つまり、同書の説明は、つきつめると、単に「異なるカテゴリーは異なるカテゴリーである」という同義反復を述べているにすぎないように思われる。

個人的には、この文章は「わかる」という「同じ言葉」が語る人によって別のこと(別のカテゴリー)をあらわされているだけ、それがより適切な説明のような気がする。

脳科学者が言う「わかる」とは、例えば、「脳の中でどういう物質とどういう物質が相互作用して、どういう細胞とどういう細胞が相互作用し…その結果、個体全体として、どういう現象がおこるのかということが微細にわかるようになり、脳のDNAレベル、細胞レベル…というふうに展開していく現象のヒエラルキーの総体がわかっててきたら、嗜好・情感などという心の現象も、物質的に説明できるようになる」こと(利根川進「私の脳科学講義」)という意味であり、すなわち、心として観察されるものと科学的観察結果(物理的反応システム)が一対一で対応できるようになることなのだろう。
他方、一般人の「わかる」というのは、科学的メカニズムが解明されるということでなくその説明で「納得できる」ということが近いのではなかろうか。
そして、心脳問題では、前半の「脳がわかれば」の「わかる」は「脳科学者」のわかるを、後半の「心がわかる」の「わかる」は一般人(ないし哲学者)のわかるという別のものをあたかも同一であるがごとく扱っているという、その意味でのカテゴリー・ミステイクをしているのではなかろうか。

このように、カテゴリー・ミステイクにおいて、現実的に、一番問題となるのは、同じ言葉にもかかわらず、その中に、異なる多くのカテゴリーを有している場合ではなかろうか。しかも、日常生活では、よほど厳密に言葉を取り扱っていない限り(すなわち、「普通」は)一つの言葉に複数の意味が気づくと気づかざるとにかかわらずこめられている(厳密なはずの哲学ですら、その点に注意しながら見てみると、いい加減なものがほとんどである。逆に、これが現在の人間の「性能」限界ということでもある。)

そして、それに気がつかず、自分一人の発言の間で別々のカテゴリーで用いながら、それに気がつかないために空虚な妄想に陥ってしまったり、あるいは、同じ言葉について互いに自分が使っているカテゴリーが他方とは異なっていることに気がつかずに話をして、相手の発言について誤解してしまう。


これが、多くのもめごとの直接原因ないし潜在的原因となっているように思える。
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がんの治療においても、このようなカテゴリー・ミステイクはあちらこちらで生じている。

患者側が「この抗がん剤は効きますか」(心脳問題に置き換えれば、「心とはなんですか」)という質問に対して、医学側は「XXという作用機序でがん細胞の分裂を妨げるものであり、腫瘍の縮小効果はPRが○%・・・」(「大脳基底部の神経細胞が活動し、その刺激が大脳の前頭葉のXXという部位の神経細胞につながり…」)と答える。
もちろん、実際には、もっと簡単に(つまり、わかりやすいが不完全に)話しているだろうが根本的にはこのようなものであろう。

というより、一般人と医学者という立場を異にする者では、使っている言葉が同じであったとしても、そのカテゴリーは異なっていることが多いように思われる。

そして、医学者においては、自分がどのような意味(カテゴリー)において「抗がん剤の効果」を語っているかはわかっている(なぜならば、大学以降という年長=客観認識ができる=になってから得たものだから)が、ややもすると、世の中には別のカテゴリーがあることも、あるいは、患者が医師のカテゴリーとは異なったカテゴリーにおいて質問していることを忘れているように思える。
あるいは、別のカテゴリーにおける説明は「医師」の領域ではなく(これは、ひょっとすると正しい)、これを行うことは医師の道から逸脱すると思っているのかもしれない。もっとも、これも「医師」という言葉をどのようなカテゴリーにおいて扱うかというカテゴリー・ミステイクになるのかもしれない。

他方、患者のほうは、「普通の言葉」で語っているつもりであることが多そうである。実のところ「普通の言葉」には多くの意味があることが「普通」である。そして、ギリギリの局面で使っている言葉は決して多くの意味がある普通の言葉ではなく、その時点・その患者個人の「特有の言葉」である(はず)ということに気がつかない。

それどころか、「治療に対するアドバイスが欲しい」と言いながら、潜在的な本音は「慰めの言葉が欲しい」「嘘でもいいから安心できる言葉が欲しい」というような、カテゴリー以前の表向きの言葉と潜在的な本音が異なっていることも多いようである。
そして、本人すらもそれに気がつかず、きちんとした治療に対するアドバイスに満足感を覚えないという不幸なこともよく見受けられる。

もちろん、このような「土俵の違い」はいつでもどこでも見られることである。特に、我が国の最高機関と「されている」国会では、質問者と答弁者のカテゴリーが全く異なる意味不明の会話がよく交わされているようである。もっとも、政治通と称する方々によると、あの意味不明な会話にも当事者同士(及び政治通)だけに通ずる意味があるとのことである。
すなわち、同じ言葉を全く別のカテゴリーで使っている意味不明な会話に見せかけて、実は、同じカテゴリーで会話をしているという哲学者には想像もつかない世界らしい。

このような高度な特殊かつ無意味な技術はがん患者には不用であろうが、自分の話している言葉と医師の言葉の発音が同じであっても、まったく別カテゴリーのことがあることや、自分の潜在的本音に自分が気が付いていないために本音と異なる言葉を発しているのに対しての返答を見て、患者じゃないから(=属しているカテゴリーが違うので自分の言葉を理解してくれない)と思ってしまうことも多い。

もちろん、日常会話において、このような厳格さは必要とされることはほとんどないだろうし、また、このようなことに常に注意を払っていると簡単な日常挨拶すらできなくなるだろう。
このようなアイマイさを許容し、利用しているところがコンピューターにはできない(少なくとも、かなり将来までできそうもない)、人間の脳の不思議さである。

とはいうものの、がん治療という重大事において、さらに、その中でもポイントとなるかもしれない場面では、医師と患者で使っているカテゴリーが異なっているだろうことや、患者自身が自分の本当(=潜在的本音)のことに気が付いていないかもしれないことを頭の片隅において忘れないようにしておくことは結構大事なことかもしれない。

2009年6月 8日 (月)

複雑系

「複雑系」という(私に言わせれば)「概念」がある。
類似の概念自体は、例えば、アリストテレスの「全体とは、部分の総和以上のなにかである」のように、大昔からあるものであるが、「複雑系」ということで流通し始めたのは、1984年のサンタフェ研究所の設立のころからと言っていいだろう。
「複雑系」の概念が複雑なのか、きちんとした定義付けは見たことがない。複雑系を主張したり、研究する方であっても、とらえ方に差があり、中には、どこが「複雑系」なのかというものもあるように思える。
一応、Wikipediaでの説明を掲げておく。
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A4%87%E9%9B%91%E7%B3%BB

複雑系
複雑系(ふくざつけい complex system)とは、多数の因子または未知の因子が関係してシステム全体(系全体)の振る舞いが決まるシステムにおいて、それぞれの因子が相互に影響を与えるために(つまり相互作用があるために)、還元主義の手法(多変量解析、回帰曲線等)ではシステムの未来の振る舞いを予測することが困難な系を言う。
これらは狭い範囲かつ短期の予測は経験的要素から不可能ではないが、その予測の裏付けをより基本的な法則に還元して理解する(還元主義)のは困難である。
複雑系は決して珍しいシステムというわけではなく、宇宙全体、天候現象、経済現象、人間社会、政治、ひとつひとつの生命体、あるいは精神的な現象などは、みな複雑系である。つまり世界には複雑系が満ち満ちており、この記事を読んでいる人間自身も複雑系である。ただし研究者にとって具体的な研究成果が出しやすく、書籍などで一般読者などに紹介されやすいものとなると、もう少し小規模の複雑系あるいは限定したものとなりがちで、例えばウイルスの流行状況、大規模交通(フラックス)、バタフライ効果、エントロピー(熱力学第三法則)などが多い。あるいは、パーコレーションやセル・オートマトンなども好んで扱われる。最近では、系の自己組織化の様子をコンピュータにプログラミングして、複雑で法則がないように思える目で見えない発達形成過程を視覚化して把握しようと試みられている。

背景
複雑系は還元主義的なアプローチが適用できない系として有名である。そのため現象を単純な法則や原理に落とし込むことで理解したとする、今までの科学がとってきた基本姿勢に対し、複雑系の分野の研究姿勢はその基本的立場に関して若干の違いを持つ。複雑系の分野を貫く基本スタンスとして「複雑な現象を複雑なまま理解しようとする姿勢」を挙げることができる。
複雑な現象を複雑なまま理解しようとする学問、手法は「複雑系の科学」などと呼ばれることが多いが、その源流に眼を向けると、アリストテレスの「全体とは、部分の総和以上のなにかである」といった言い回しにまで遡ることができる。近代になって還元主義が蔓延すると、それに対して警鐘を鳴らすように、全体を見失わない見解を深化させ、個々の分野で具体的な研究として全体性の重要性を説く論文・著書などを発表する学者・研究者らが現れるようになった。現在ではこうした見解・立場の研究は「ホーリズム」または「全体論」などと呼ばれている。こうしたことに関する哲学的で深い議論は現在でも、哲学の一分科である科学哲学の世界などで行われている。現在のいわゆる「複雑系の科学」などと呼ばれているジャンルは、広義のホーリズムのひとつである、と位置づけられていることが多い。
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私に言わせれば、「宇宙全体、天候現象、経済現象、人間社会、政治、ひとつひとつの生命体、あるいは精神的な現象などは、みな複雑系である」とあるが、単に、これは現在の人間の認識・判断・処理能力と「比して」複雑すぎるということを述べているにすぎない。

昔において、複雑で人間の理解の届かないと思われていたもので、その後の科学や技術の進歩により認識・判断・処理能力が高まり、原因やプロセスが解明されてみると、人間により十分に理解可能・予測可能(単純型?)になってしまったものも多数ある。

逆に、ほとんどのものが、そのまま全体として扱うには、「人間にとって」複雑すぎるが故に、単純化・近似化(例えば、合理的経済人などほとんどの経済学で、その基礎に単純化・近似化した概念を「与件」として使っている)したり、全体をコントロールして変化させる要素を絞り込む(例えば、他の環境条件を一定とし、温度変化の影響のみを見る)ことにより、近似的に、あるいは、全体の中の一面を理解可能にしようとしてきたというのが正しい認識であろう。
なにも、ものごとが単純であると思うから、単純な把握をしようとしているのではなく、複雑すぎるので、単純化してその一面を理解し、それらを積み重ねることにより全体に迫ろうとしているということであろう。

さらに言うならば、中世を中心に、全体を論じようとして、事実と反することを含む「概念」(そもそも人間の能力で全体を把握しえないのであるから、全体を論じるとなれば、把握できない部分も含めてわかっていることするしかない。であれば、事実と反することが含まれてしまうことは不可避である)を戦わせてしまい、不毛だけならばいざしらず、それが、実際に生きている人間や社会にとってマイナスとなってしまったことへの反省もその根底にはあるのではなかろうか。

真実に迫るためには、神ならぬ人間にとっては、単純化・近似化が不可避であるとして、その有用性、すなわち、「個」を積み上げることにより「全体」を示せるのか、それとも、「全体とは、部分の総和以上のなにかである」のか、そのどちらが正しいのであろうか。
これについては、そもそも真実の「全体」が人間の能力では把握不可能である以上、正しいのか間違っているのか、明らかになるはずはない。

ただし、次のように考えることはできよう。

どのようなものについても、その見方・切り口を無限に持つはずである。
他方、人間が単純化することにより、一つの見方・切り口について完全に知りえたとして、さらに、多くの見方・切り口について知りえたとしても、有限個にすぎない。
したがって、個をいくらつみあげてもまだ「残り」があることは自明であろう。

ではあるが、知りえた見方・切り口が全体に占める割合が多いならば、全体のうちの大きな割合を知りえることになろうし、また、知りえた見方・切り口が増えれば、その分、「残り」は少なくなるだろう。
あとは、これを積み重ねることにより、「残り」を限りなくゼロに近づけることができるのか、その以前に限界にぶつかるのかということである。
多くの科学者は、限りなくゼロに近づくことができるという思想・信念のもとにあるに違いない。
私も、この思想・信念は共有するものであるが、根拠があるものではない。
ただし、まだまだゼロまでは距離があり、単純化の積み重ねにより、着実に「残り」を減らせている現時点で、この当否を問うても単なる不毛な哲学論争になるだけであろう。

さらに、この点と予想・予測について考えると次のように言えるのではなかろうか。
当然ながら、単純化・近似化により得られた知見により、全体の内容が分かるほど、予測精度はあがるであろう。しかし、常に「残り」はあるのであり、この「残り」の部分が決定的な役割を果たし、その結果として、予想外の結果が生じることは当然あり得ることである。
ただし、知見が増えて、知りえている範囲が増える(残りが小さくなる)ほど、予想外のことが生じることは少なくなることとなろう。

なお、単純なことの結果が、複雑なものとなることはいくらでもある。
これについて、「複雑系」の研究者を称する人には、あたかも特別な驚くべきこととでもいうようなことが多いが、これは「複雑系」のためではなく、当該研究者の「単純性」の結果に過ぎないように思える。
逆に、単純型を扱っている研究者は、現実が「複雑」であることを不当なことと思いがちである。例えば、合理的経済人しか扱わない経済学者の中には、実際の人間が不合理な行動をとることを「けしからぬこと」と見なす方もいるようであるが、そもそも、人間は決して合理的経済人ではない複雑な存在であるが、これでは、経済学者の手に余るために、近似として、合理的な人間という仮定(単純化・近似化)をしたのである。間違っては困ってしまう。

それにしても、「複雑系」というのは魅力的な概念であるが、残念なことに(複雑系の研究者はいろいろな大きな成果が得られていると言ってはいるが)私が見たところ、たいした成果はあげられていない。
よく考えてみれば当たり前である。「全体」を扱うのは人間の能力から困難であるから単純化・近似化によるアプローチにつとめている段階である。少なくとも、現時点で得られている単純化・近似化による成果の積み重ねでは、まだ不十分であるということは正しいとしても、だからといって、人間の能力を超えている「全体」に一気に迫ろうとしても、大きな成果があがる可能性は低いだろう。
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抗がん剤治療も複雑である。

がんの種類によって効果の出る可能性はかわるし、効果の出る可能性の高い抗がん剤であっても患者ごとに異なる。
さらに、同じ患者に対して、ある抗がん剤が効かなくなっても別の抗がん剤と組み合わせると効果が出ることは、それなりにある。
逆に、組み合わせて使っていた抗がん剤が効かなくなっても、種類を減らして、その分、薬量を増やせば効くこともある。
同系統の抗がん剤であれば、ひとつが無効ならば、他の抗がん剤もたいていは効果が出る可能性は低い(交差耐性)が、交差耐性が低いものもある。
さらに、放射線など他の治療との組み合わせということもありえる。

効果について、少し考えただけでも、いろいろな要素があるが、副作用というファクターも当然ある。

さらに、主治医など医療側の方針(価値観)や、患者の価値観も多様である。

また、抗がん剤治療は進歩中であり、毎年、治験などにより新しいデータが示されたり、新薬が出たりする。
新しいデータといっても、被験者数などによりその信頼性は異なってくる。新薬も当初喧伝されていたよりも実際の効果が「何故か」低いということも、ままあるらしいので、このようなことに対する注意も必要とされる。

しかも、治験データは、ある抗がん剤(の組み合わせ)を、ある一定量(ルールに基づく減量ありというものもあるが、減量ルールは単純なものでしかない)投与した結果を、数個の尺度に基づいて評価した、いわば、一点に対するものにすぎない。そして、広大な抗がん剤治療の中で、これまでに得られている「点」の数は極めて少ない。
例えば、効果は認められるが副作用が許容できないため、減量せざるを得ない場合、薬量80%ならばどの程度副作用が低減する可能性が高く、効果はどの程度の低減が見込まれるのか、といったデータはないと言って過言ではない。

そして、標準的治療は、この程度にすぎない「点」データをもとに、しかも、信頼性の高いデータにしぼった上で、かつ、医学的観点のみという立場において、一番ベストのもの(しかも統計上であるので個々の患者ではやってみないとわからない)という、近似化・単純化というのすらはばかられるようなものにすぎない。

ただし、誤解されては困るのは、どこかのU澤医師のように標準的治療が「悪」のごときことをいうつもりはない。

そもそも、EBM(Evidence based Medicine)の重要性が認識される前(日本では、ほんの十年程度前)までは、このような点データすらも考慮せずに、医師がその経験のみに基づく治療(もっと正確には教授に指示されたとおりの治療)を行っており、その結果を客観的にデータで反省してみたら、余命延長にほとんど寄与が認められないという悲惨なものであったのである。さらに言うならば、実態が悲惨ということすら認識されていなかったのである。

このことから、個々の医師の経験と勘のみに基くのではなく、データ(エビデンス)に基づくべきであるということで、EBMさらに、(信頼性が高い)エビデンスの中から、一番、医学的に良いものを標準的治療とするものであり、これ自体は、立派な努力であり、悪口雑言の対象とは思えない。
もちろん、あくまでも個々の患者が、平均データであるわけはないのであるから、これをベースに調整がなされるべきだろうし、それを怠る病院・医師に対して、悪口雑言を言うのであれば意味はあろう。

ただし、U澤医師が「悪質」なのは、標準的治療の成果が残念ながら高くないのを責めるのはいいが、評論家でなく、医師である以上、より良い方法を提示できなければ無責任であろう。)
どうやら、本人は自分が行っている「わけのわからない」治療(本人が理由にならない理由で、具体性のない定性的なこと(一般的には「お題目」という)しか明らかにしない以上、これは名誉棄損には当たらないと考える)が優れていると称するものの、その具体的なデータは隠したままである。少なくとも、相手に対して、そのデータに基づき批判し、自分のほうが優れていると称するならば、当然、自分のデータを示さないのは、嘘ツキか、ダブルスタンダードの卑怯者であろう。

さらに言うならば、過去、抗がん剤治療の成績が悲惨だったことは、よく書かれているので、データで検証を行わない個々の医師の経験のみに基づく唯我独尊の治療の危険性を知っているはずなのに、その矛盾には黙して語られない。

もちろん、U澤医師の信者の方々には無視していただいて結構であるし、U澤医師に超能力があり、個々の患者に適した抗がん剤は一目でわかるという「可能性」は否定はしないが。
(
ちなみに「黙って座ればピタリとわかる」という易者を私は信用しないが)

かなり、脇道にずれてしまったので、もとに戻す。

標準的治療は無視すべきものではないが、ほんの少しの点データから選んだというものにすぎないというそれが絶対であり修正が許されないとするには「貧弱」すぎるものである。

点データとても、ないのとあるのを比較すれば大違いである。
といって、単純系(単純化・近似)ほどの内容や精度があるわけではない。
これが、現在の抗がん剤治療の医学的レベルなのである。

したがって、それが、複雑系である抗がん剤治療をきちんとあらわしており、それを適用すればそれなりの近似解が得られるというものではない。

抗がん剤治療は、治療自体が未熟であり、現在進行形のものであるが、さらに、その時点で実現している抗がん剤治療の何が個々の患者にとってベストであるかもわからない。

であれば、どんなに貧弱なデータであろうと、それをベースにした上で、さらに、患者ごとの効果・副作用という個々の現実に即して、より良いと思われる方法に修正しながら行っていただく。
これしかないと思うが、どうだろうか。

当然ながら、患者側において、データ点から離れる、すなわち、多少は別として未知の領域に入ることに対するリスクを受け入れることが大前提であることは忘れてはならないが。

2009年6月 1日 (月)

「ホウレンソウ」でのキーワード

ビジネスに限らず、医師と患者の間の「ホウレンソウ(報告・連絡・相談)」の重要性は何回か書いてきたはずであるし、また、患者側はメモを用意しておくと良いということも書いた。

ところが、現実のホウレンソウでは、一番大事そうなポイントは別として、二番目とか三番目になると忘れたりする。
あるいは、後になってから、ホウレンソウに入れておくべきだったことに気がついたりする。

そういえば、ホウレンソウの重要性はよく言われているが、効率的・効果的・有効なホウレンソウのやり方(具体的にホウレンソウすべき内容の選択)は目にしたことがなかったように思える。
具体的な内容が不明では、ホウレンソウはただの念仏になりかねない。信・不信は問わず念仏を唱えれば救われるという宗派もあるようだが、仏の世界はいざ知らず、現実の世界では、きちんとしたホウレンソウでなければ、「あいつはホットけ」になりかねない。

日経ビジネスの連載コラム「熱血Dr.の診療日誌」に江田証氏(江田クリニック院長)が「患者版「ホウレンソウ」の心得」という記事を書かれていた(日経ビジネス2009518日号)ので、一部を抜粋させていただく。
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ビジネスの世界で要領の良い「ホウレンソウ(報告・連絡・相談)」が円滑な業務遂行に不可欠なのと同様に、良質な医療を受けるには、多忙な現場で働く意志と上手にコミュニケーションを取ることが重要だ。事実、米国では、より良い医療を受けるための患者教育が学校などで行われている。
では、医師とのコミュニケーションを円滑にするためには何が必要か。まずは症状を簡潔に伝えることが重要だ。話が飛んでまとまらないと、医師に敬遠されるだけではなく、正しい診断をしてもらえず、命を落とす恐れもある。
ここで、症状を伝える上で役立つキーワードをお知らせしたい。それは、表に示した「LQQTSFA」である。Hさんの腹痛を例にまとめてみた。

「LQQTSFA」のまとめ方

キーワード

意味

Hさんの腹痛の例

L(Location)

場所

みぞおちから右下腹部に痛みが移動していった

Q(Quality)

性質

しくしくと痛む

Q(Quantity)

程度

今までに経験したことがないほど痛い

T(Timing)

時間

痛み出したのは昨日。食事時間とは関係ない

S(Sequence)

経過

どんどんと痛みが強くなる

F(Factor)

関連要素

食べ物との関連はない

A(Associated

  Symptoms)

随伴症状

高熱とは聞け、嘔吐がある。便は正常


Hさんの症状を聞き、私は虫垂炎と診断した。決め手は「Location(場所)」だった。虫垂炎は最初にみぞおちが痛くなり、時間とともに痛みが右下腹部に移動する。初期に嘔吐があるために、「胃腸炎」と誤診されることが多い。
この「LQQTSFA」は、あらゆる症状を伝える上で有用である。メモを書いてきてくれる患者もいるが、冗長で要領を得ないと、かえって時間がかかってしまうと思う医師は多いのだ。
「LQQTSFA」を基に「医療リスクマネジメントメモ」を作り、診察時に提示すると、医師の判断の助けになる。日本の患者の医療リテラシーもきっと上がるだろう。
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医療でもホウレンソウが重要なことはいうまでもない。
特に、副作用については、「気分の悪さ」とか「吐き気」や「しびれ」など患者本人にしかわからないものも多い。これらは、患者が医師にきちんとホウレンソウをしなければ、医師には伝わらない。
もちろん、医師にとっても、適当な対症療法がなく(例えば、吐き気は多くの場合、吐き気止めにより対応できるが、しびれでは、試してみる価値のあるものはあってもそれほど有力なものはない)、また、かわる有力なレジメンもないため、どうしようもないものもあるかもしれないが、対策があるものもある。
少なくとも、副作用があることを医師に伝えなければ始まらない。
効果については、患者の主観とか、単な好不調の波にすぎないことも多いだろうが、経験豊富な医師ほど、客観的な検査データと組み合わせて、より深く・適切に効果の判断をすることができるであろう。

ホウレンソウが重要であることは間違いがないとしても、適切なホウレンソウとはどのようなものかについては、患者側で知ることは難しい。

確かに、吐き気一つをとっても、投薬直後から吐き気があったのか、数時間後なのか、次の日の朝なのかということで判断は異なるかもしれない。
もちろん、吐き気といっても、その程度もあろう。さらに、食事についても、食べていない~消化の悪い脂ぎったものをいっぱい食べてしまったまで色々だろう。ひょっとすると、副作用と思っていたら、軽い食当たりだったのかもしれない。

適切なホウレンソウについて、具体的に「LQQTSFA」というキーワードでまとめられたものを見ると、自分のホウレンソウについても、重要だと思ったことは伝えているものの、LQQTSFAの全てではなく、ポイントであったかもしれないことが抜けていたこともあったのでないかと反省している。

しかし、なによりもこの記事を歓迎するのは、このような情報発信を医師側がしてくれることである。
さらに、この「LQQTSFA」が(アルファベットでは「とりつき」にくいので、うまく翻訳して)多くの病院の待合室に掲示してあり、また、持ち帰り用のチラシが置いてある・・・こうなれば、日本の3分間医療でも多少は内容が濃くできるのではなかろうか。

患者に対して、説明の要領が悪いと一方的に言うだけではなく、このような、より良い患者に育てる努力(それも、待合室掲示やチラシならば手間はかからない)に医師側も努力をお願いしたい。

なお、この記事について、二つの大きな不満がある。

ひとつは「メモを書いてきてくれる患者もいるが、冗長で要領を得ないと、かえって時間がかかってしまうと思う」のは事実かもしれない。
しかし、メモもなく、冗長で要領を得ない説明を口頭でやられるのと比べてほしい。
多分、要領の良いメモならば1分で済むところ、冗長で要領が悪いメモならば読んで理解するのに数分かかり、不足している情報を得るための質問・回答にさらに数分間かかるかもしれない。しかし、冗長で要領を得ない説明を口頭でやられるならば、これだけで十分や二十分はとんでしまうであろう。
また、患者側のメモを作るという前向きの努力に対し、思っているとしても「かえって時間がかかってしまう」などというマイナス評価(しかも、実態は時間節約になるはず)を一般向けの雑誌に書くというのは、江田医師に驕りを感じるというのは言い過ぎだろうか。このようなことは書かずに、ホウレンソウでポイントを落とさないためにはというだけで十分なはずである。

もう一つの不満は、極めて簡単である。
患者側から医師へのホウレンソウが下手であるとしても、患者は素人であり、やむを得ない面もある。このために、このような啓発記事は大事である。
ところが、玄人のはずの医師から患者側へのホウレンソウがきちんとどれだけなされているだろうか。
一般誌なので、患者から医師へのホウレンソウがメインであることは理解できるが、医師から患者へのホウレンソウについて一言も触れられないのは疑問が残る。
医師が患者に対して、しっかりしたホウレンソウをしているならば、患者側にも自然とホウレンソウに対する姿勢が備わるはずである。
もしも、患者へのホウレンソウを軽視しているならば、そのような医師に患者から医師へのホウレンソウが下手だとは言ってほしくない。
江田医師が患者に対するホウレンソウの達人であることを祈る次第である。

2009年5月25日 (月)

なぜ、新型インフルエンザが見つかったか?

国内初の新型インフルエンザは、国内で人から人への感染が生じていた状態で、かつ、高校バレーボール部を中心にセミ・パンデァックに至ってから見つかった。

ということで、「なぜ、新型インフルエンザが見逃されたのか?」という題名で記事を書こうかと構想を練っていた。

筋としては、

1.「空港等での水際対策→潜伏期などにより水際で発見されなかった者が見つかる→隔離治療→当然ながら、完全はありえないので、それでも人から人への感染→封じ込め→蔓延期の対策」という最も起こりえるシナリオが想定されていた。
2.
医療資源などには限りがあるので一定のシナリオを作り、資源配分の最適化を図ることはやむを得ないし、全ての入国者を一週間隔離・観察することもできないことを考えれば、これはおかしくない。
3.
また、シナリオ自体は自然であり、水際対策がどれくらい有効化というような各部分の評価は別とすれば、おかしなものではない。私も、最初は、水際から漏れた者でなく人から人への二次(以降)の感染者が最初に見つかったのはびっくりした。
4.
これはシナリオを信じすぎてしまい、患者のフィルタリングに「渡航歴」をつけてしまったためである。医療資源から、フィルタリングを行うことはやむを得ないことかもしれないが、そのリスクも認識しておかねばならなかった。
5.
抗がん剤治療でも、治験や治療経験をもとに、最も起こりえるシナリオを想定し、特に注意すべき副作用を考えておくことは有意義であるが、シナリオ通りにいくとは限らないので、シナリオが100%と勘違いすべきではない。

というようなことを考えていた。

ところが、日経メディカルオンラインに「なぜ渡航歴ない新型インフルエンザ患者を拾い上げることができたのか?」という題名で、「国内1例目の新型インフルエンザ感染者が確認された。患者には渡航歴がなかったため、なぜPCR検査が行われ、拾い上げることができたのかについて話題になっている」として「この点について、静岡がんセンター感染症科部長の大曲貴夫氏に解説してもらった」記事が載っていたのをたまたま目にしてしまった。
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 ひと言でいえば、現場の医師の感覚はやはりするどい、ということだろう。

 現在 日本で主に流行している季節性のインフルエンザはB型で、A型は流行していない。それなのにクリニックの医師が診た高校生は、迅速検査でA型陽性だった。この地域の高校生の間でこの時期にインフルエンザ様の症状を訴える方が増えているとの情報もあったようで、これはおかしいと、検体を公的な検査機関に送ったのではないか。

 検査までには3日かかっている。これについては、おそらく検査機関が渡航歴のある発熱外来受診者の検体のPCR検査を優先したのだろう。渡航歴のない人の検体が後回しになるのは自然なことだ。

 今回の事例について、「PCR検査をするまでに3日かかった」と、またもや非難論調が出ている。しかし私たち医師はそこを問題視するのではなく、全国的にはむしろB型インフルエンザが多いこの時期に、A型が限られた地域で多発していることに対して「何やら異常である」という感覚を持てることの重要さを、この事例から改めて学ぶべきだと考える。
(
以下、略)
http://medical.nikkeibp.co.jp/leaf/mem/pub/opinion/orgnl/200905/510717.html
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この記事では明確に書かれていないが、地域の医師間では、この時期にしてはインフルエンザ患者数が多いとか、A型の率が高めということが話題になっていたそうである。

つまり、国の定めたシナリオがどうであれ、実際の現場データーに不審な点があるということで、ある病院の医師がシナリオよりも現場データーを重視してPCR検査を依頼していただいたおかげで、流行が、高校バレーボール部中心のセミ・パンディアック段階で新型インフルエンザ患者を拾い上げることができたということであろう。

もしも、国がシナリオに基づく対策に力を入れる(これは必要であるし、限られた医療資源からやむを得ないことだろう)だけでなく、そのリスク(シナリオ通りに進む可能性が高くとも「絶対ではない」)も念頭に置いていれば、例えば、インフルエンザ(症状)の発生数やA型の比率を地域ごとに把握して「変なデーター」はないかということをチェックするようなシナリオ以外のことに対する警戒網をはっておくような補足対策がなされ得たはずと思うがどうだろうか。

もっとも、現場のことを知らず、ただトップ・ダウンの指示・監督しかできない厚生労働省の立派な医師免許をもった「役人」には、このようなボトム・アップ型の対策は発想のはるかに外かもしれないが。

この記事を読んでいるうちに、なぜ見つからなかったのかということを追求するよりも、なぜ見つけられたのかということから教訓を汲みだすほうが建設的に思えてきて、本記事の題名を「なぜ、新型インフルエンザが見つかったか?」に変更したのである。
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ところで、抗がん剤治療にしても、エビデンス(及びその医師の経験)から、効果や特に副作用について、もっともありそうなこと(シナリオ)を念頭に置きつつ治療を進めていくことは重要であるし、副作用の予防・緩和対策や見落としを防ぐためにも重要だろう。

しかし、個々の患者はシナリオではない。
いや、シナリオは平均値であり、平均値とまったく同一という患者は少数派ではなかろうか。
シナリオがどうあれ、個々の患者ごとの状態(インフルエンザの例でいえば、この時期にしてはインフルエンザ患者が多い)を全体的に把握して、変なことが混じっていれば、対応なり注意深い経過観察をする。

シナリオは、よしんばどのように優れたシナリオであってもシナリオにすぎない。
目の前で展開されている事実を観察し、おかしなことがあればシナリオに拘泥しない。
これが重要ではなかろうか。

2009年5月18日 (月)

「効用の最大(?)化」と「病院選択」

経済学でよく用いられている用語に「効用」(utility)」がある。

Wikipedia
で「効用」を検索し、その一部を抜粋すると。
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効用

効用(こうよう)とは、ミクロ経済学の消費理論で用いられる用語で、人が財(商品や有料のサービス)を消費することから得られる満足の水準を表わす。対語は非効用(不満足)。見込まれている効用は期待効用

近代経済学においては、物の価値を効用ではかる効用価値説を採用し、消費者の行動は、予算の制約のもとで効用を最大にするように消費するとされる。また利潤の最大化をめざす企業部門に対し、家計部門は効用の最大化をめざすものと仮定される。一方、マルクス経済学においては、物の価値を労働ではかる労働価値説を採用している

効用を測定する方法としては、基数的効用(Cardinal Utility)と序数的効用(Ordinal Utility)とがある。前者が効用の大きさを数値(あるいは金額)として測定可能であるとするのに対して、後者は効用を測定不可能ではあるが順序付けは可能であるとする点で異なり、両者の違いは、これは効用の可測性の問題として、効用の概念の発生当初から議論の対象であった。
当初は基数的効用の考えが主流であり、効用は測定可能で、各個人の効用を合計すれば社会の効用が計算され、また、異なる個人間で効用を比較したり足し合わせることも可能であると考えられた。
しかし、効用の尺度として客観的なものを見出すことができなかったため、現在では多くの経済学者が、「ある選択肢が、他の選択肢より好ましいかどうか」という個人の選好関係をもとに、より好ましい財の組み合わせはより大きな効用をもつ、という意味での序数的効用によって効用を考えている。序数的効用では効用は主観的なもので、異なる個人間で比較することも、各個人の効用を足し合わせて社会全体の効用を測定することもできないとされる。

フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より抜粋
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8A%B9%E7%94%A8
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効用といっても、さすがにすべてのものが同一尺度で計測できる(ということは、金銭に置き換えられる)という「基数的効用」については素朴すぎて、人間の実態に合わないと感じる。
それに比べれば、人間は意識・無意識にかかわらず、常に物事を選択しているはずだから、ABを比べてどちらが望ましいかという順位付けのほうが、より正確なように素人ながらも思える。(もちろん、同一人物であっても、この順位は不変ではなく、環境条件などにより異なることはあろうが、ある一瞬をとらえれば順位付けができるはずである)。そうでなければ、等距離に置かれた二つの干し草のどちらも選択できずに飢え死にしてしまったロバになってしまう。

そして、「行動は、その置かれた制約のもとで効用を最大にするようになされる」という近代経済学の仮定もごく当たり前のように思える。
しかし、これには反対もあるらしい。

「市場の秩序学」(塩沢由典、ちくま学芸文庫)の第7章及び第8章を参考にしながら説明したい。

第一の反対は、人間の行動はそれほど合理的なものでなく、衝動買いのような非合理に満ちているというものである。
しかし、客観的に非合理に見えようと、あるいは、冷静になってから後悔するとしても、その人にとって、その瞬間は効用を大きく判断していたということだろう。衝動買いほど極端でなくとも同一物への評価が異なってくるというのは普通のことである。
それ以上に、衝動買いのような非合理が存在するとしても、全体から見れば、合理的な選択がなされているので、経済全体を考える経済学としては反論に当たらないというほうが「経済学」らしい意見かもしれない。

第二の反対は、効用を最大化するというなかには、将来時点で手に入る財の購入や将来に備えての貯蓄が含まれるが、その判断は当然将来のできごとに依存する。そして、未来は人間にとって不確実なものであるから、個人の効用最大化の選択能力はおおいに制約されるというものである。
しかし、人間は、意識・無意識にかかわらず、将来のことも念頭に入れながら、常に行動しているはずである。もちろん、その予想にどれだけの脳内資源を割いているのか、とか、どの程度正確なのかということは問題ではあるが、といって、将来が不確実だからといって、目の前のことを選択(行わないという選択も含めれば)しないことはありえない。
これは、効用最大化の判断と、その結果(時間がたった後の)を見れば、必ずしも最適ではなかったということであり、選択の時点で効用最大化の判断がなさけれなかったということではない。

第三の反対は、もっと興味深いものである。
効用を最大化するためには、対象物について知らなければならない。知らないものについて価値判断はできない。
ところで、あなた(一人の人間)は、どの程度の数のものについて、きちんと効用を判断するに足る知識を持っているだろうか。
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個はあるだろうし、100個あるかもしれない。しかし、一万個とか十万個ならばどうだろうか。
ちなみに大型のデパートの商品数は十数万個らしいので、デパートの買い物で効用最大化しようとしても知識不足で途方に暮れることになってしまうというものである。
たしかに、経済学は、経済学として取り扱えるようにするために多くの仮定(単純化)を置いているが、それが現実にあっているとは限らない。
第一の反論も同根であるが、人間は決してスーパーマンでも合理的人間でもない。ただ、現在の人間の限られた能力の中で経済を研究しようとすると、このような単純化をせざるをえないというだけのはずである。
ややもすると、単純化のために行った仮定が現実であり、仮定と異なる現実が間違っているとする学者がいらっしゃるようであるが勘違いされては困る。
もちろん、このような観点からの経済学もあり、興味深い結果を出しているらしいが、(私が)知らないことを(私が)このブログで論じることはできない。(←たまには、知らないのに知っているふりをしていることもないと断言しないが。)

第四の反対も興味深い。
第二・第三の反論は、人間が全知のスーパーマンでないということを論拠にしているが、よしんば、人間が全知のスーパーマンであり合理的人間であるとしても、「現実的」に最大効用の選択は不可能であるというものである。
例えば、与えられた予算の中で10個の商品のどれを買うか(及び現金として取っておくか)について、最大効用を考える。
この際、注意しなければならないのは、A及びBという商品の各単独の効用と、ABを同時に有することの効用は異なるということである。同時に持つことにより、相補い個別よりも良くなることもあれば、ほぼ同じものならば、二つ持ったからといって、ひとつ持つ以上の効用増加は少ないかもしれない。つまり、いろいろな組み合わせを、それぞれ比較するしかないということである。
10
個の商品について、それぞれ買う・買わないという選択があるのだから、組み合わせは荷の十乗で約1000。1000のものをそれぞれ比べると約50万回の比較が出てくる。
もちろん、予算の枠内とは限らないので、その比較が必要であり、逆に、これにより候補が絞られて楽になるかもしれないが、いずれにしてもかなりの数の判断が必要となること自体は間違いないであろう。
ちなみに、ひとつの判断を、脳機能にとって瞬時といえる0.01秒としても50万回の判断には1時間20分かかる。
所要時間は累乗的に増えるので、20個ならば組み合わせは百万以上、比較判断は五千億回以上となり、簡単に人間の一生を上回ってしまうだろう。
もちろん、厳密な効用最大化ではなく、おおよその効用最大化(例えば、厳密な最大化と誤差数%)とすれば、かなり時間は短縮できるが、といって、それほど商品数が増やせるわけではない。
これについては、効用最大化とは別の原理がいくつか提案されているようであるが(例えば、ある行動は(他の可能な選択肢と関係なく)あらかじめ決められたある希求水準を超えていれば選択されるという「満足原理」。)

もちろん、この「満足原理」に従っうことがベストとは限らない。
ある商品を買った後で、もっと高い希求水準を満たす商品が現れたが、もはや予算の関係で買えないということもあろうし、最初に甲商品を買っていたがために、後で見た乙商品の効用が低くなってしまったが、甲商品を買う前に乙商品を見ていれば、乙商品のほうが絶対的にも(価格に対して)相対的にも効果が高かったということも起こるであろう。
つまり、この原理に従うときは、人はしばしば後悔することになる。
こうした事態を避けるためには、希求水準の調節が重要である。希求水準が高いほど失敗が少ないという意味で賢明な買い手になるが、あまり高くなると何も買えなくなってしまう。

経済学に照らしてみると、本当に買い物とは難しいものである。
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経済学者でなくとも大変な選択はある。そして、その効用の大小が日常の買い物(しばしば後悔することがあっても大きな悪影響はない)とは異なり、その効用の大小が大問題なものもある。

(
お金持ちならば別であろうが)マンションなどの不動産や自動車という高価であるが、買い替えることが少ないものはその典型であろう。
しかも、これらは、高価であり、買い替えることも少ないため、経験・知識が十分であるとは限らないからなおさらである。

ところで、がん治療での病院選びも重大な問題のはずである。
がんの治療が成熟しており、どこの病院であろうと同様の治療がなされる(と思っている人も多いらしいが)ならばともかくとして、個々の病院により、技術・能力そしてどのような治療を目指すかということがバラバラな現在では、なおさらである。
(
もっとも、早期がんで、かなりの確率で手術しておしまいということならば、病院によるバラつきも少ないので、それなりの病院ならば大差はなかろうが。)

しかし、買い物同様に、がん治療の病院選びに効用最大化を図ることは現実的には困難である。

まずは、「衝動買い」。
○○がんセンターとか大学附属病院という名前に衝動買いをしてしまう危険性である。標準的治療という考え方が広がった現在ならば、このようなブランド病院ならば明らかに誤った治療はされない可能性が高いので実害は低いだろうが、自分が受けたい治療についてきちんとした希望をお持ちの方ならば、それとのギャップに不満を持たれるかもしれない。
それ以上に問題なのは、甘い言葉のトンデモ医療機関に引っかかってしまうことである。
また、トンデモに近い病院を無知なマスコミがスーパー病院であるかのごとく報道したりすることもあるから、注意が必要である。
人間には衝動買いのような、客観的に見れば不合理極まりない選択をしてしまうことがあるということを理解して、うまい話には衝動買いすることなく、主治医なりセカンド・オピニオンという冷静な第三者の意見を参考にすべきであろう。

第二の「将来不確実性」。
たいていの患者は、がんになったのは初めてだろう。また、家族などにがんにかかられた方がいたとしても、その経験どおりになることは少ないであろう。
もちろん、調べれば、「平均的」な経過はわかるだろうが、平均どおりに経過をたどる方は少ないはずである。
つまり、将来、どのような治療が必要となるのかについて、十分な情報もないし、あったとしても、それがそのまま当てはまることは少ないのである。
極端な場合、間違いなく早期がんと診断されたため、外科手術能力を重点に病院を選択したのに、開腹してみたら転移が見つかったとか、確率が低いのに運悪く再発してしまい抗がん剤治療が必要となる可能性もある。
ちなみに、外科・内科(抗がん剤)・放射線・緩和といったすべてに優れた病院を選べばよいと思われるかもしれないが、少なくとも、現在の日本にそのような病院は存在しない。よしんば、それに近い病院があったとしても、ほとんどの場合、治療科ごとに独立しており、実態は、専門病院の集まり、つまり、受診している以外の科での治療は受けられないことが多い。
将来は不確実であり、場合によっては転院が必要となること(あるいは望ましくなること)もあり得ることを常に念頭において、一つの病院に「頼りきりになる」ことは損かもしれない。

第三の「情報不足」。
自由診療の病院(なぜか「?」の病院が多い)を除くと、医療機関の宣伝は極めて限定されたものしか許されていない。
そのため、個々の病院で、どのような治療がおこなわれているのか、また、そのレベルはということを調べようとしても困難である。
病院によっては、HPなどで、治療方針を掲げているところもあるが、抽象的で具体的な内容には結びつかないし、さらにいえば、掲げられた治療方針と実態が一致しているとも限らない。
なお、○○病に対する病院ベスト100のたぐいの情報は、限定された情報をもとに著者の主観により書かれているものが大半であり、「当たらずとも遠からず」ぐらいに思わなければならない。
ある医師(外科)が書かれていたことの中に、「医師どうしの情報ですら当てにならないことがある。医師の間でうまいといわれている先生の執刀を見てみるとたいしたことがないこともある。はっきりと言って、一緒に手術をした医師の評価はできるが、それ以外の医師の評価はできない。」という趣旨のことがあった。
一番、情報に接することが多い医師であってもそうなのだから、外部の患者に十分な情報がわかるわけはない。
また、実際に治療を受けている患者からの情報であっても、主治医が良いだけかもしれないし、さらには、たまたまその患者と主治医のウマがあっただけかもしれないのである。ついでに言えば、その患者は他の病院を知らないだろうから、他との比較ではなく、自分の主観を述べているにすぎないことも忘れるべきではない。
少し脱線するが、抗がん剤治療を行う病院ならば、使用している抗がん剤の一覧程度は示してほしい。もっとも、逆に、患者側に情報の理解能力がないから、病院側も情報提供しても仕方がないと考えているのかもしれない。例えば、使用している抗がん剤の一覧から、おおよその抗がん剤の治療レベルを推測できる私のほうが異常なだけかもしれない。
それにしても、一度選んだら、転院というのは想像以上に大変であるし、場合によっては、ほぼ不可能かもしれない。
如何にして、情報を集めるかというのは、後悔しない買い物(病院選び)のための大きな課題であろう。

第四の「現実的に評価困難」。
病院の選択においても、考慮すべき要素は多い。
外科・内科(抗がん剤)・放射線・緩和などの各治療レベルやもととなる方針。これだけでも多くの要素が出てくるだろう。
さらには、通院時間なども関係しようし、中には、病院の建物が立派かということを気にする方もいるだろう。
看護師さんもポイントかもしれない。
もちろん、ブランド病院に入りたいという方もいるだろう。
これらの要素の多くは比較困難なものである。例えば、ある特定の治療についてのレベルと通院の容易さを比較することは、困難であろう。
多くの、かつ、比較の難しい要素を、厳密に比較考慮し、最大効用の病院を探そうとしても、回答が見つからないかもしれない。

であれば、厳密にベストな病院を選択しようとするよりは、満足レベルに達する病院を探すほうが現実的であるかもしれない。
そして、その際のポイントは、希求レベル(求める満足レベル)の設定であり、これが低すぎれば、後で後悔する確率が高くなろうし、高すぎれば「ないものねだり」となってしまうだろう。

希求レベルの具体的な設定は、個々人の価値観に負うところが大きいだろうから、具体的に書くべきものではないだろう。
ただし、希求レベルの背後には、どのような治療が受けたいのかという患者のポリシーがなければ不十分なものしかできないだろうし、どのような治療が受けたいのかということは、患者自身が望ましいと考えている生き方に裏打ちされたものでなければ「もろい」ものになってしまうと考えるが、どうだろうか。

2009年5月11日 (月)

ルールべースとプリンシプルベース

最近、金融規制や会計監査の世界でプリンシプルベースという言葉を目にするようになった。

検索で調べてみたら、昨年の4月に金融庁が「金融規制の質的向上(ベター・レギュレーション)の大きな柱の一つとして、「ルールベースの監督とプリンシプルベースの監督の最適な組合せ」という考え方を示し、プリンシプルベースの監督の基軸となる主要なプリンシプルについて、関係する金融サービス提供者の代表の方と議論を重ねてきました。今般、「金融サービス業におけるプリンシプル」をとりまとめましたので公表します。」とのことなので(http://www.fsa.go.jp/news/19/20080418-2.html)、つい最近はじまったものではないようである。

ところで、プリンシプルとは広辞苑でひいてみると、「
1 原理。原則。根本。2 主義。建前。」となるが、上記、金融庁の公表資料を参考にするならば、「法令等個別ルールの基礎にあり、個人や組織(行政を含む)が物事を行う(行わない)にあたって、尊重すべき主要な行動規範・行動原則と考えられる」。そして、プリンシプルベースの規制・監督とは、「上記のようなプリンシプルに沿って、個人や組織がより良くなるように自主的な取組みを行っていくことに重点を置いていく規制・監督の枠組みである」ということになろう。

ところで、最近、マニュフェストが流行している。これについて、朝日新聞土曜版(5月9日)に次のような記事が載っていた。適宜、省略させていただくが・・・
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「毎日、漢字テストをする」
「宿題を全クラスで統一して、学力のぱらつきを防ぐ」
出席した主婦は、今年度の「学校マニフェスト」に感心しきりだった。
学校からマニフェストをもらうのは3度目。当初は「夢を持てる子供に」「のびのびと生活させる」など当たり障りのない表現ばかりで、やる気が感じられなかった。
どんな政策を、いつまでに、どうこなすかマニフェストは、数値目標や財源を示した公約集だ。言葉自体は浸透し、いまや選挙だけでなく教育の現場でも使われている。
以下、マニュフェストについていろいろと書かれているが、ここでは省略させていただく。
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この例でいえば、毎日漢字テストだとか宿題の全クラス統一がルールベースであり、夢を持てる子供とかのびのびと生活というのが、プリンシプルベースである。
ちなみに、マニュフェストは実行したかどうかがチェックされなければならないので、プリンシプルベースにはなじまないだろう。

これまで、ほとんどの行政規制はルールベースでなされてきた。
これは、ある程度詳細なルールや規則を制定し、それらを個別事例に適用していくというものであり、行政の恣意性の排除あるいは規制される側にとっての予見可能性の向上といったことによる。
先ほどの学校のマニュフェストで言えば、「夢を持てる子供に」ということを実行しているかどうかの判断には恣意が入るだろうし、父兄にしても、具体的に何がなされるのか予見できないだろうし、逆に、学校・教師にとっても、どこまで行えばマニュフェストを順守していることになるのかあいまいだろう。逆に「毎日、漢字テストをする」ならば、それを守っているかどうかということが明らかである(もっとも、人間が作るものなので100%ではない。例えば、終業式の日は“毎日”に入るのか)。
プリンシプルベース(夢を持てる子供に)では、法律も規則も変わらないのに、あるときまで問題なかった内容が、解釈(恣意)が変わったとたんに不充分(違法)とされてしまうかもしれない。これでは社会生活が不安定になってしまう。

しかし、ルールベースだけでは問題が起きるかもしれない。
第一に、すべてのことをルールにすることは不可能であり、必ずルールには隙間が生じてしまうということである。例えば、「毎日、漢字テストをする」としても、算数は?理科は?体育は?・・・
全ての科目にこのようなルールを作ったとして、漢字の書き取り以外の国語力はどうするのか。
次に、そもそも「夢を持てる子供に」というような要素(学校において勉強と並んで重要なもののはず)はルールにすることが困難ではあるのに、極めて重要なことが存在し得ることである。一般的に言えば、定性的なことについてはルールベースは対応しにくいはずである。
また、社会が変化した場合、対応するルールが存在していないことがあり得ることである。もちろん、ある程度、確実かつ大きな変化ならば、事前にルールを定めることができるかもしれないが、この変化の激しい社会では無理なことが多いだろう。また、変化に応じて、ルールを追加・変更していくとしても、それには時間が必要であり、ルールと社会の間に隙間が生じてしまう。
さらに、世の中には、常に例外的なこと・稀なことが生じ得る。このようなことを全て包含したルールは、あまりにも巨大すぎてその内容を把握することができないか、あるいは、ルールベースというには、あまりにもあいまいなものを含まざるを得ないはずである。
なお、どんなに厳密に定めたルールであっても、解釈の余地はゼロにはなりえないだろう。

逆に言えば、プリンシプルベースならば、プリンシプルに照らして判断していけば良いので、これらの問題は解決するが、恣意性・予見不能性という問題が起きることは述べたとおりである。
なお、プリンシプルベースといっても、実際には、これを
補足するセミ・プリンシプルが設けられたり、あるいは、その一部がルール化されたりすることもあるだろう。

プリンシプルベースでは、ここはプリンシパルを設ける側と適用される側がプリンシプルを共有していることが重要なのは当然である。プリンシプルの存在を知らない者にこれを適用することは困難である。また、プリンシプルの共有により、予測可能性や透明性が向上していき、プリンシプルベースの欠点が緩和されるであろう。

最後に確認しておきたいことは、ルールベースとプリンシプルベースは、背反するものではなく相補うべきものであるということである。

強制力(罰則)を伴うものはルールベースでなければならないだろう。プリンシプルベースでそのあいまいさに由来する避けられない解釈の違いで罰せられては困ってしまう。主権在民の民主国家の基礎であろう。
他方、ルールには隙間が存在せざるを得ないし、また、重要であってもルールにはそぐわないもの(定性的なもの、特に、倫理)もある。さらに、どのように厳密にルールを作ろうと常に解釈の余地は残る。
プリンシプルを明確に示し、これを共有することにより、罰則を伴うルールほどの強制力はないかもしれないが、ルールの持つ欠点を補うことができるであろう。
さらに付け加えるならば、プリンシプルをきちんとしておくことは、ルールを作る際にも一貫性を保ち、バランスがとれた、また、落ちが少ないルールとすることができよう。
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我が国の医療行政には、混合診療の禁止をはじめ、そもそも法令の根拠もない不透明きわまりないものがウヨウヨしており、民主国家の行政の体をなしていないので、ルールベースとかプリンシプルベースとか論じる前の世界である。
あほらしくて、論評する気にもならない。

ということで、がん治療について考えてみる。

そもそも医療なるものは、最近まで、そして現在でもその多くは、ルールベースというよりはプリンシプルベースの行いであるように思う。

もちろん、医師であれば、百人中九十九人は同じことを行う、逆にいえば、行わねばならないものは数多くあろうし、それはルールベースと見ることができよう。

しかし、たいていのものは、経験に基づき、医療のプリンシプル(患者のプラスになるように努める)に沿った対応がなされるし、現時点の医学では、それが最も有効というのが現実であろう。
逆に考えると、ルールベース「だけ」で対応できるならば、分厚い医療大百科とかルールを覚えさせたコンピューターさえあれば、医師は必要でなくなってしまう。
もちろん、医師(でなくとも)が、自分の専門外や最新の知見を調べるのにコンピューターは有用であろうが、医師よりもコンピューターを信じる人は少ないだろう。
もっとも、コンピューターよりも劣るお金儲け家が大好きな医師も少数ながら存在しているらしいし、医師よりもコンピューターの向こうにいる得体の知れない業者を信じている患者・家族もいないわけではないが。

では、いわゆる標準的治療はルールベースなのか。
まず、標準的治療のエビデンスとなる治験はルールベースであろう。投薬量や方法、効果や副作用の判定を各医師が経験に基づき行われたならば、客観性のある(=一般性がある)結果は得られにくいであろう。
しかし、これはあくまでも、一定レベル以上の治験で最も成績が良かった治療を示すものにすぎない。

標準的治療であっても、本来は、医師の経験と個々の患者(全身状況、投薬後の状況、患者の性格など)に応じた修正がなされるのが本筋のはずである。
でなければ、医師は不必要でコンピューターで十分である。
もちろん、標準的治療が極めて効果が高く、極めて副作用が低いというならば、この限りではないだろうが、現在の医学水準はこのようなものではない。

プリンシプルベースであるとしても、具体的な治療が違えば、効果・副作用には当然、差がある。最近までは、これらについては、医師が伝承(先輩医師(含む医学教育)の経験)と自分の経験によっているのが普通であったが、それを科学的に検証してみると想定外の結果が出るものもあった。
最近、目にした範囲では、予防目的の日常のうがいについては、単なる水ならばプラスであるが、ヨード(うがい薬)を入れるとかえって逆効果などというものがある(この治験がどこまで確実なものかはわからないが)。
ということで、プリンシプルベースの治療を支えるものとして、治験による客観的なエビデンスの重要性が認識され、その一つの結果が標準的治療ということになる。

エビデンスといっても、その重要性が認識されたのは比較的近年である。したがって、全ての医療にエビデンスがあるわけではないし、新薬治験ならば、最終的なエビデンスというより途中段階の仮のエビデンスとでもいうようなものもある。

標準的治療にしろエビデンスにしろ、プリンシプルベースの治療を進める上で、基礎となり支えるものであるとしても、全てではありえないし、ルールベースの治療などというのは遠い将来の夢なのである。
もちろん、十分な知識・経験がない医師ならば、標準的治療を行うのが一番無難であろうし、患者にとっても得策である可能性は高いだろうが。

ところで、プリンシプルといっても、「患者のため」という根本は同じであっても、それに基づく病院なり医師のセミ・プリンシプルは多様であり得る。
積極的な治療から緩和中心の治療、患者に詳細な(時には、ショッキングな)説明をするのか、必要な範囲で説明するのか・・・
少なくとも、現在のがん治療においては、早期がんなどを除けば、どれが絶対に正解というものではないだろう。
しかし、患者においても、プリンシプル(どのような治療を受けたいのかなど主観)はある。
医療側と患者側のプリンシプルがマッチしていることが、治療時の精神的QOLに重要であるが、残念ながら、そのプリンシプルを公表している病院・医師は少ない。このために、K立がんセンターは最高水準のがん治療を行うことをプリンシプルとしていると勘違いされることが多い。(K立がんセンターは治験もしているがその割合はかなり低い。標準的治療をキチンとしてくれる病院であるが、それだけと思っているほうが確かである。十年前ならば、ほとんどの病院でいい加減な抗がん剤治療しかなされていなかったので存在価値はあったであろうが、現在ではたいしたものではない。なお、標準的な治療(治療の王道)についてセカンド・オピニオンを求めたいならばお勧めできるが。)

脱線するが、医療事故訴訟(本当に医療事故なのか、さらに、事故であったとしても、医療の現状からみて許容範囲と思われるものを、悲しみの転化なり実態解明(これは訴訟制度の目的ではない)という、極端に言えば「憂さ晴らし」としか見えないものが多すぎる)により、医療関係者が萎縮し、ルールベース以外のことをしなくならないか心配である。

話は変わるが、論外の医療行政である。
どのようなプリンシプルを持っているのだろうか・・・
患者のためというプリンシプルをお持ちとはとても見えないし、医療業界を保護するというより崩壊に導いているとしか見えない。
もちろん、法令なくして規制なしという行政の常識がわかっていないのだから、法律を守ろうとしているとも思えない。
多分、制度を変えるのは大変なので、医学水準や社会が変化しても、医療制度は変更しない(墨守)、そのために、患者(国民)がマイナスを被ろうと、あるいは、医療が崩壊に近づこうと関係ないということだろう。
さらに、政治家やマスコミにいろいろといわれると、プリンシプルがないので平気でその場限り、無定見・無貞操な対応を行っても恥じない。
つまり、自分たちすら良ければというのがプリンシプルのように見える。

このため、法令に基づかないルールでしか物事が行えない。(法令の根底となるプリンシプルがないのだから)
しかも、ルールを社会変化に応じて変更しようともしない。

薬の研究開発の速度向上という変化にもかかわらず、それに応じた国内治験体制の整備はしない。
そのため、新薬の承認遅れ(そもそも承認申請すらされないというジャパン・パッシング減少も)を招いている。

はっきりといって、国内治験が必要などという日本人特殊論は放棄すべきではないか。
国内治験のレベルの低さを考えるとなおさらであるが。
さらに、本当に国内治験が必要ならば、マスコミでとりあげられた新薬や大臣のお好みの新薬を、意味ある治験とはとても言えない少数治験だけで承認するなどということはやめるべきではなかろうか。
どうも、言っていることではなく、やっていることを見る限りでは、国内治験は、単なる制度墨守と万一日本人特有の副作用があったときの「逃げ」以外のなにものでもない。
そもそものプリンシプルが「自分たちすら良ければ」であるとすれば、言行不一致を指摘しても意味がないかもしれない。

最後になるが、患者自身においても、自分のプリンシプルをはっきりさせることが必要であろう。
そして、それをルール化(具体化)していく。

「怖いことは知りたくないので無知のままでいたい」というプリンシプルのもと、「医者任せ」というルールを作り、それに従うのも一つの考えであろう。

私は「(それが結果としてマイナスとなる可能性が高くとも)前向きに進むし、進めなくなったら、前向きに倒れて少しでも前進する(ような生き方をするように努める)」というプリンシプルのもと「プラスよりもマイナスの可能性が高くとも、治療があればチャレンジする」というルールでこれまでを過ごしてきた(過ごそうと努めてきた)。
また、「現実を直視し、合理的な判断に努力する」というプリンシプルのもと、いかがわしい治療や健康食品は拒否してきたし、それ以前に、それを支えるための基礎を得るための勉強に努めている。このためにネットというもののありがたみを痛感している。

プリンシプルとその実現のための具体的なルール。
なにもない普通の日常生活ならば、このようなことを考える必要はないかもしれない。
しかし、真剣に何かを行おうとするならば、この両者は欠かせてはならないと信じるがどうであろうか。

2009年5月 4日 (月)

クルーグマン「謝罪!?」

新聞の夕刊はほとんど読むことがない。
なぜならば、載せてあるニュースは、すでにテレビ・ラジオで報道済みのものばかりである。
現在の感覚からすれば、新聞ではなく旧聞でしかない。また、その内容もほとんど掘り下げがなくテレビを持たない主義の方を除けば意味がないし、テレビを持たない主義の方ならば、そもそもニュースに関心がないであろう。

では、「読物」としての質はというと、はっきりといって、お茶の間ミニ知識を出るものはほとんどない。わざわざ、このようなものを読むのに時間をつぶすよりも有効な時間の使い方はいくらでもある。

ところが、なぜか時間があるのに、手元に読みたい本もパソコン(インターネット)もない時があり、仕方なく、朝日新聞の夕刊を読んでみたら、「池上彰の新聞ななめ読み」に「クルーグマン発言 面白く読んでもらう努力」という記事があった。

池上彰氏は、ウィキペディアによると、元NHK報道記者主幹で『週刊こどもニュース』にニュースに詳しい「おとうさん」役として出演などし、報道局記者主幹を最後に、20053月に退職し独立したそうである。そして、記者時代から一貫して、「難しく思われがちな社会の出来事を、なるべくわかりやすく噛み砕く」というスタンスを持っているとのことである。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%A0%E4%B8%8A%E5%BD%B0

池上氏の記事の内容は、下記の読売新聞と朝日新聞の記事を読み比べているものである。
まずは、両記事を読んでみてほしい。
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【読売新聞】
「日本に謝罪」…かつて対日批判急先鋒の米ノーベル賞教授

【ニューヨーク=山本正実】「私たちは、日本に謝らなければならない」――。
 2008年のノーベル経済学賞を受賞したポール・クルーグマン米プリンストン大教授は13日、外国人記者団との質疑応答で、1990~2000年代のデフレ不況に対する日本政府や日本銀行の対応の遅さを批判したことを謝罪した。
 教授は、「日本は対応が遅く、根本的な解決を避けていると、西欧の識者は批判してきたが、似たような境遇に