2009年11月
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30          

最近のトラックバック

« 2009年6月 | トップページ | 2009年8月 »

2009年7月27日 (月)

選択的認知

朝日新聞の土曜版の「勝間和代の人生を変えるコトバ」というコラムに「問題は当事者が認めるまで悪化する」という記事が掲載されていた(7月19日、b9面)。
-------------------------------------
わたしたちが触れたくない、見過ごしてしまいたいような問題を放置しておいても、ごくまれに、時や他人が解決してくれることがあります。しかし、多くの問題は当事者に放置されればされるほど悪化していくものです。
身近な例に「虫歯」や「花粉症」があります。歯が痛くて虫歯になったような気がするとき、「気のせいだ」とか「疲れているから」などと放っておいて事態がよくなることは決してないのです。
(略)
問題が起きていることを認めないと、「選択的認知」といって、自分に都合のいい情報ばかり認識するようになって、問題解決からどんどん遠ざかってしまいます。虫歯の例はその典型で、初期なら、ほんの少し歯を削るだけで済んだはずなのに、悪化させて神経を抜かなければならなくなったりするのです。
それでは、問題を認めると、どのような、いいことがあるのでしょうか。
問題を認めると、逆に、それを解決するための「選択的認知」を始めるようになります。なぜなら、その問題は不快なので、なるべく早く解決しようとするためです。
虫歯や花粉症より深刻な問題は人間関係です。
例えば、ドメスティックバイオレンスに苦しむ夫婦関係や、パワハラに悩まされる上司との関係について、当事者がその事実を認めず、「相手は私のことを思いやって、あえてきついことを言ってくれている」などと自分をごまかしてしまうと、その関係はどんどん悪化していきます。
最後は心身が傷つき、取り返しのつかない局面にまで行き着いてから、解決策に当たらざるを得なくなったりするのです。(略)
わたしたちが身の回りで問題が生じていることをごまかさずに、素直に認めるには勇気が必要です。しかし、問題を認めることで、人生はよりよい方向へ変わっていくのです。
---------------------------------------
「選択的認知」は、ある意味で、当然かもしれない。

人間の脳の能力にも、限界があろう。伝説では、聖徳太子は同時に10人の話を理解(日本書紀などによる。他に8人とするものや、36人の子供というものもある。)したとされるが、普通の人は、同時に5、6件がせいぜいだろう。
逆に、意識にのせて同時に処理しなければならないことは、日常、5件もないはずである。他のことは、意識の外においておけばよい(つまり、無意識に処理しながら、特別なことを感じたときに意識にのせれば良い。)
まず使うことがない、すなわち、無駄な能力を脳にもたせるという無駄や、(意識処理より精緻さや精度は劣るかもしれないが)無意識処理と比べてエネルギーを要する意識処理を少なくするということは、生物学的に理に適っており、進化において、このような形になることもうなづける。

そして、この考え(仮説)を延長すれば、自分にとって関心のあること(問題であると認識すること)は自分にとって重要なことであるから、関連する(無意識処理にとりこまれていた)情報は意識処理にのぼってきて、より精緻かつ精度のある判断(行動)につながってくるだろうし、自分が重要性を否定するものは、意識処理にのぼらず無意識処理にとどまり、不快感・ストレスなどの漠としたアウトプットにしかつながらないことが多いということになり、まさしく、この記事の内容と一致する。

確かに、問題点を問題と認識することは不快かもしれない。
問題点を問題と認識するためには、エネルギーが必要である。
しかし、それが問題解決のための第一歩であることは極めて多いだろうし、さらに多くの場合は、問題の認識がきちんとできれば、半分以上も解決しているということかもしれない。
*****************************************
がんについても、本人・家族が事実を直視しようとしないことがあるようだ。

現実を直視したくがないために、健康食品やトンデモ治療にはまってしまう。
そして、そのまま「最期」まで直視せずにすめばまだしも、どうしようもなくなってから、現実に気づかざるを得なくなり、二重のダメージを受ける。

私は「自分なるもの」を大切に思うし、大事にしたい。それが、一人の人間である以上、一つの「責任」だと信じている。
そして、この責任を考えるならば、どんな現実であろうと、それから目をそらし、知らないことを装うことは人間としての「責任放棄」であると考えている。

もしも、解決不可能な課題であるとしても、できる限りの努力をして、少しでも解決に近づこうという努力をするべきではなかろうか。
そのためには、自分で出来る限りの問題の客観的把握とそれに対する対処策及びその長所・短所を理解しようと努力する。
その上で、自分(の価値観)にとって、一番ベターな(ないし、一番悪くない)ものを選択し、その実現に努力する。

そして、実現を努力する過程で、新たな考え方・情報が得られることが多い。それを加えて、さらに実現すべきものを修正する。

もちろん、このようなことには、多大の精神的エネルギーが必要である。

しかし、天秤にのっているのは、自分の生命であり、最後の生き方である。
私は、多大な精神的エネルギーをかける価値があると思う。

そして、このような努力(もちろん、その人の出来る範囲での)をしようとしない人は、自分に対して無責任とも感じている。
であるから、「難しいことはわからない」と言って、出来るだけの努力もしようとしない、問題から背を向けようとする人には、「本当にそれで良いの」と感じるし、機嫌の悪いときなどは、人間としての責任を果たそうとしない人間失格とまで感じてしまう(←もちろん、これは、私のほうが間違っているのだろうが)ほどである。

いずれにしても、良き医療を求めるならば、まずは、きちんと事実を認識することから始めなければならないと思うがどうだろうか。


2009年7月20日 (月)

「一杯のかけそば」と「水からの伝言」

20年くらい前に「一杯のかけそば」という美しい話に多くの日本人が感動したことがあった。

あらすじをWikipediaから引用する。
「ある年の大晦日の晩、札幌の「北海亭」という蕎麦屋に子供を二人連れた貧相な女性が現れる。閉店間際だと店主が母子に告げるが、どうしても蕎麦が食べたいと母親が言い、店主は仕方なく母子を店内に入れる。店内に入ると、母親が「かけそば(具の一切ない、他には汁だけの蕎麦)を1杯頂きたい(3人で1杯食べる)」と言ったが、主人は母子を思い、内緒で1.5人前の蕎麦を茹でた。そして母子は出された1杯(1杯半)のかけそばをおいしそうに分けあって食べた。この母子は事故で父親を亡くし、大晦日の日に父親の好きだった北海亭のかけそばを食べに来ることが年に一回だけの贅沢だったのだ。
翌年の大晦日も1杯、翌々年の大晦日は2杯、母子はかけそばを頼みにきた。北海亭の主人夫婦はいつしか、毎年大晦日にかけそばを注文する母子が来るのが楽しみになった。しかし、ある年から母子は来なくなってしまった。それでも主人夫婦は母子を待ち続け、そして十数年後のある日母とすっかり大きくなった息子二人が再び「北海亭」に現れる。子供達は就職してすっかり立派な大人となり、母子三人でかけそばを3杯頼んだ。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%80%E6%9D%AF%E3%81%AE%E3%81%8B%E3%81%91%E3%81%9D%E3%81%B0

美しい良い話である。当時、日本はバブル経済に浮かれていただけになおさらである。

もちろん、冷静に考えると出来すぎた話であるし、いくら貧しくとも年に1回かけそばを分けて食べるなどありえるのかとか、逆に、かけそば1杯を蕎麦屋で食べるならば自分で蕎麦をゆでれば同じ値段で何杯でも食べられるではないか、などというつっこみどころ満載ではあるが、そもそも創作とされているのだから、それをつっこむのは野暮というものだろう。

しかし、そのような野暮も多かったらしく、事実に基づく話であるとかないとか盛り上がっているときに、作者が寸借詐欺で逮捕されるという、逆の意味で「出来すぎ」の結末となってしまった。

このような美しく良い話に日本人は弱いらしい。
最近、一部で話題になっているものとして「水からの伝言」という「お話」がある。

これもWikipediaを引用する。
「本書やその続編で江本らは結晶を作る際に「ありがとう」や「平和」など「よい言葉」をかけると美しい雪花状の結晶ができて、「ばかやろう」や「戦争」など「悪い言葉」をかけると汚い結晶ができるという物語を好んで取り上げている。言葉のかけ方は「紙に言葉を書いて、水をいれた瓶に貼る(この際に、水から「見える」ように文字の書かれた面を内側にして貼る)」あるいは「水の入った瓶に向かって声をかける」などである。また、水を入れた瓶に「音楽を聴かせる」と音楽の種類によって結晶形が変わる、といった話である。」

確かに、「本当であるとすれば」美しく良い話であるが、どう見ても、疑似科学以前のオカルトとしか言いようがないことは、子どもでもわかりそうなものである。
(
そもそも「良い」「美しい」とか「悪い」「汚い」というのは、人間の主観である。その主観を水が感じて記憶する・・・。)
さらに言うならば、この話は「善」=「美」、「悪」=「醜」という思想につながり、身体障害者や顔に火傷などをおった人を差別するということにもつながりかねないものでもある。

にもかかわらず、この書籍が小学校などの道徳教材に使われたりしたから、騒ぎとなってしまう。
科学界などからの批判を受けて、著者(トンデモ科学で有名な江本氏)は「「水からの伝言」を「ファンタジー」「ポエム」である、即ち科学ではなく物語である」と釈明しているらしいが、少なくとも著書には、そのようなことは一切触れられていない。(いずれは証明されるものとして語られており、事実でないことには触れられない)

しかし、日本の小学校の先生方には、常識や知性というものはないらしい。

世の中には、美しい話、良い話はいくらでもある。しかし、美しい話、良い話のほとんどは、単なる「話」にすぎない。美しいから、良いからということは「事実」であるか否かということと無関係である。そして、時には、表向きは美しく・良い話に見えて、実態は、それを話している人の金銭的利益の観点からにおいて美しくて良い(簡単にいえば詐欺話)もゴロゴロしているから用心することが必要である。

にもかかわらず、「美しい良い話」は「あらまほしき話」であり、つまり、それと意識しないかもしれないが「自分にとって、事実であると都合の良い話」である。すると人間というものは「あらまほしき」にすぎないものを「ある」というように思い込む傾向があるようである。
特に、客観と主観の区別がつかない子供(すなわち、作り話と事実を混同してしまう)や 子供なみの頭脳しか持たない大人(小学校の先生)ではそのとおりであるらしい。

人間が願望と事実を混同する傾向を持っており、このために多くの悲惨なことが起きていることは歴史が示している。

常に「事実」と「期待」を峻別する姿勢は大事であるし、一般市民において科学などの理数系素養が必要なのは、教科書的科学知識を有していることが生活上望ましいということだけではなく(←なぜか、このことが強く主張されるようであるが)、科学などの理数系の営みにある「事実」と「主観」の峻別という態度を身につけることが、自分に、そして、社会に責任を有する一市民として大事であるからと思うがどうだろうか。
----------------------------------------------
がん治療においても、美しく良い話はいくつもある。

そして、多分、そのうちのいくつかは事実である。ひょっとすると、長期間粘っている私もそのうちの一つになるのかもしれない。

しかし、このような実話はほとんどが、「たまたま」・「幸運にも」というものである。そのうらには、はるかに多い数の現実があることを忘れてはならない。また、このような実話において「全て」が書かれているとは限らない。書いた人が主張したいことに好都合なことが強調され、不都合なことは書かれていない、ないし、ほんの少ししか書かれていないことも多い。
これらのことを承知の上で、「希望」のよりどころとするには良いだろうが、これが全てに当てはまるものとすれば、かえってマイナスとなるかもしれない。

しかし、このような美しい良い話のほとんどは、「水からの伝言」なみのトンデモである。
例えば、がんに効くという健康食品の体験談。あるいは、ちまたのクリニックの免疫療法。
もしも、話半分であったとしても、本当にそれだけの効果があるならば、なぜ、嘘つき放題のネットや身内だけのマイナーな学会(別に学会をつくるのに審査はいらない)ではなく、きちんとしたレビュアーのいる学会で発表しないのか。また、製薬会社が手を出さないのか。
そもそも、そんなに簡単な治療でがんが治るのならば、とうの昔にがん治療に劇的な進歩がなされているはずである。
よく製薬会社や学会の陰謀が言われるが、それならば、患者や保険会社の力が強い欧米で発表すればよい。

世の中に「うまい話」はないというのが、常識ある大人の智恵であったはずである。
美しい良い話、つまり、自分にとって都合の良い話に対して、無批判に信じてしまう。
このように「安易」な態度は、知的怠惰、すなわち、自分自身を大事にしないものであると思うがどうだろうか。

それにしても「一杯のかけそば」の作者は寸借詐欺で逮捕されたが、がんに効くと称する健康食品業者やトンデモ治療を行うクリニックの多くは放置されたままである。
これには、学会などで効果があると発表するためには、発表したい者が効果を示さなければならないが、国が罰するためには、国が効果のないことを示さなければならないという制約があるためではあることは理解できる。また、いわゆる体験談にしても創作や発表の自由があるのだから、それだけでは罰することが困難であることも確かであろう。
とはいうものの、現実に多くの被害が出ているはずなのに、厚生労働省がなんらかの対策をとろうとしているとは思えない。薬のネット販売規制とか、いらぬ規制に力をかける前にやるべきことはいくらでもあるはずである。。

先週(多分13日)、お問い合わせをいただきました北海道のk様、誤ってメールを削除してしまいました。

申し訳ありませんが、再度、メールをいただけますようにお願いします。

2009年7月13日 (月)

自家用格付け

昨日(13日)、お問い合わせをいただきました北海道のk様、誤ってメールを削除してしまいました。

申し訳ありませんが、再度、メールをいただけますようにお願いします。

現在の米国での金融不安を発端とする経済不況の原因の一つとして、格付け会社がレバレッジ経営(借りた資金で投資することにより、手持ち資金だけによるよりも多額の利益(=ハイリスク)を追及すること)などを高く評価したことが背景の一つにあるとよく指摘されている。

そもそも、格付けとは

「格付けは本来、債券の発行体の債務の支払い能力を評価するものです。それが転じて金融機関の健全性を判断する目安としても活用されています。

専門家でない個人が決算書などの財務資料を読みこなすのは大変です。ましてやそれに基づき、経営・財務状況を正確に判断するのはさらに難しいでしょう。

そこで、有力な判断材料の1つとして注目できるのが格付けです。

格付けは本来、金融機関を含めた債券の発行体について、債務の支払い能力を評価するものです。その発行体の利息や元本の支払い能力がどの程度のレベルにあるのか、債券を購入する際に参考にするわけです。

もちろん、債務の支払い能力と金融機関の健全性は必ずしもイコールではありませんが、目安として活用することは十分可能です。複数の金融機関のランキング表を見れば、比較するのも簡単です。

格付けは格付け機関が行います。ムーディーズとスタンダード&プアーズの2社が世界的に有名です。わが国では格付投資情報センターや日本格付研究所などが活動しています。

これらの格付け機関は利害関係のない第三者として中立的な立場から格付けを行います。基本的に、格付けされる側から提出されたデータをもとに、経営の安全性や信用力などを分析・評価します。ただし、公表された情報(有価証券報告書など)だけで分析・評価する「勝手格付け」もあります。格付けを見るときはその違いを知っておいたほうがよいでしょう。」

と野村証券HPでは説明されている。
http://www.nomura.co.jp/learn/study/start/safetynet/p-kakuduke.html

ところで、73()の朝日新聞の経済面のコラム「経済気象台」に「「自家用格付け」のすすめ」という記事が掲載されていた。
-------------------------------------------
金融機関、年金基金、財団などの20093月期決算が深刻な議論を呼んでいる。有価証券、中でも安定を求める債券運用の損失処理が、予想外に多額だからだ。
運用者からすると、政府のお墨付きのある格付け会社がトリプルA、ダブルAという高い格付けをつけていた債券だからこそ安心して保有していた。それなのに多額の損失を被り、青天のへきれきだというところだ。格付け会社に損失を負担してもらえないか、といってもむなしい。格付けは「ひとつの意見」であって保証ではない、と答えが返ってくるだけだ。
運用者は自らの役割として、財務データを入手し分析した上で格付け評価する、すなわち「自家用格付け」をする必要がある。格付け会社の格付けはあくまで参考にとどめるということだ。そうなると、格付け会社の格付けは誰の目にも明らかに、「ひとつの意見」でなければならない。債券発行者の財務データ入手と分析手法において、格付け会社と運用者が同じ土俵に乗ることが原理原則となる。
残念ながら、今回の損失の中心となったサブプライムローンを組み込んだ仕組み債は、そうはなっていなかった。財務データが法定開示の対象でないため、運用者は簡単に入手できず、コンピューターモデルによる分析手法は、誰もがすぐに理解できるものではなかった。ほとんどの運用者は、「自家用格付け」ができなかった。だからといって、いまさらどうにもならない。
今回の教訓は、運用者は「自家用格付け」ができない債券に手を出してはならないということに尽きる。権威のある格付け会社がいかに高い格付けをつけていようとも、である。
-------------------------------------------
わかるようで、よく考えると矛盾のある記事である。

そもそも「格付け」に頼るのは、その運用者が「自家用格付け」をする能力がないか、乏しくて、格付け会社の格付けほど信頼性のある格付けをすることができないからなのではないか。
もちろん、運用者といっても様々であり、その中には、格付け会社と同程度以上の情報収集・分析能力をもっていて当然ともいえる大規模な運用者もいるだろうが、規模が小さく自家用格付けの能力がないものも多くいるだろう。

また、格付けに用いる財務データーなどにしても、最近はネットのおかげでアクセスしやすくなったとはいえ、(勝手格付けは別として)格付け会社が企業から直接得られる情報や多くの企業情報を踏まえたその業界の動向などについては、一般の運用者では入手不可能であろう。

この記事では、すべての運用者が相当の能力を有していることが暗黙の前提とされているように思える。
もしも、そうであれば、そもそも格付け会社は成立しないし、個々の運用者が判断できるのであれば、そもそも格付けなるものも無意味である。

もっとも、次のような視点からの「自家用格付け」は大事であろう。

運用者はその責任を果たすため(そのために給与をもらっているはずであるから)には、格付け会社の評価に頼りきりになるのではなく、可能な限りにおいて、情報の収集・分析に努めて、格付け会社の格付けを自分なりに再評価することは当然のはずである。
もしも、これをしないならば、「給料泥棒」と呼ばれてしまうかもしれない。

また、本当に「自家用格付け」をする能力がなければ、債券に手をだすべきではないのかもしれない。しかし、零細の保険組合のように手を出さざるを得ない運用者もいるかもしれない。多分、この場合、格付けを信用するのが一番無難(ローリスク)なのんもしれないが、まったくの暗闇の中、見知らぬ他人の手に導かれて歩いているというリスクを認識すべきであろう。

さらに、今回のサブプライムローンのように、このような評価を出来ないものに手を出すならば、その「情報不透明性」に対するリスクを認識し、それを覚悟の上でなければならないだろう。

別の視点からの「自家用格付け」もありえるだろう。

一般に格付け会社の格付けは、財務的な観点からなされるであろう。また、運用者の多くも、この観点に基づいて投資するであろう。
しかし、これがすべてとは限らない。
ミニ運用者の本当に個人投資家ならば、環境にやさしい会社を好ましいと思うかもしれない。あるいは、その会社の製品が「好き」だからとか、その会社の工場が近くにあるからなど、投資決定の視点はいろいろあるだろう。
であれば、このような視点からの会社評価も、その個人投資家にとっては、立派な・大事な「自家用格付け」であろう。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
ところで、がん治療における「格付け」について考えてみる。

一番有名な(?)「格付け」は「標準的治療」ということになろうか。
格付けの基準やルール、品ぞろえの少なさ等にはいろいろと問題を感じるが、そのような制約や限界を知って見るぶんには「信頼性」は高い。

具体的に言えば、「標準的治療」は、「日本における無作為割り付け治験や大規模治験などの信頼性の高いエビデンスのみを評価データーとして、専門医グループが判断した格付けで最高位のもの」と言い換えられる。

データーも信頼性が高いし、評価者も信頼性がある・・・その意味で信頼性が高い格付けであり、他に頼るものがなければ一番無難なものである。

と書くと、「標準的治療」の格付けのどこに問題点があるのか疑問に思われるかもしれない。

まず第一に、社会の多くのもの同様に、格付けのもととなる評価データーが十分にそろっていないということである。

「日本における無作為割り付け治験や大規模治験などの信頼性の高いエビデンス」などがあるのは、ほんの一握りにすぎない。
さらに言えば、日本の治験は海外の二周遅れ(海外では標準治療となっているものについて治験が行われていない(=標準「的」治療でない=保険適用外のことが多い)ため、海外との国際共同治験に参加しようとしても、「新規治療」対「標準治療」の標準治療ができないため参加すらできない)となりつつある。
つまり、もととなっているデーターが、最新治療ベースではないのはもとより、国際的な標準治療すら入っていないことがありえる。


さらに言えば、このような最新治療は脇に置くとしても、例えば、副作用が強すぎるため薬の量を減量した場合に対するデーターはない。
このため、標準的治療=最大限投与(ならばまだしも、患者によっては過剰投与)と鳴らざるを得ない。
また、ファーストラインの治療のあとの、セカンドやサードラインの治療についてきちんとした治験データーがそろっているがんは少ない。

このように、確かに信頼性は高いが、適用できる範囲が狭く、これだけをもって、実際の治療を行うことが常にベストであるかは疑問なしとしない。(もっとも、多少前まで、この程度のエビデンスも参考とすることなく行われていたことを考えると、「進歩」していることは確からしいが)

第二に、評価の基準が「医学的観点」「だけ」であるということである。
医師が評価すれば、どうしても効果が副作用よりも重きがおかれるであろう。
それ以前に、患者によっては、医学的観点よりも重視したいものがある(例えば、在宅を強く望む患者にとっては、入院が必要なようなレジメンは評価が低いだろう)かもしれないが、このようなものは「格付け」には配慮されない。

もちろん、第一の問題点についても、第二の問題点についても、評価の恣意性を廃し、客観的な「格付け」とするためには仕方がないことかもしれないが、「標準的治療」には、このような「限界」があることは留意しておくほうが良いだろう。

この「標準的治療格付け」とは、まったく正反対なのは、免疫療法を称するクリニックがHPなどで掲げる「自己格付け」である。

そもそも、そこで使われているデーターがどこまで本当のものか不明である。
特に、体験談の類には「抗がん剤などの通常医療も受けており、その効果とするほうが自然なのに、その事実を隠す」とか、さらに「単なるフィクション(それも出来の悪い)にすぎない」ものが多いように見受けられる。

さらに、これを評価するのも、そのクリニックの医師にすぎない。

本当の格付けにも、当該企業からの依頼を受けないで行う「勝手格付け」があり、その際に、(ハイリスク・ハイリターン企業を高く評価し、経営や投資に慎重なローリスク・ローリターン企業を低くみなすという)欧米の価値観を押しつけることが問題になっていたが、このようなインチキクリニックのものは「自分勝手格付け」ということになろうか。
いや、そもそも「格付け」などという言葉を使うことが間違っているのだろう。

では、記事にある「自家用格付け」というのはどうであろうか。

二つの「自家用格付け」があり得るように思える。

一つには、医師における「自家用格付け」である。

標準的治療という代表的な格付けが極めて限定されたものである以上、本来、現場で治療に当たる医師は、その医師毎の、そしてその患者毎の「自家用格付け」をもって、標準的治療を補足していくことが必要なはずである。
もちろん、このためには、最新の論文などの知識・抗がん剤治療経験・そして標準的治療という裏付けがある治療から外れるという度胸の三つが要求されるであろう。
それだけの能力・意志のない医師は、標準的治療にこもるのが安全かもしれないが。

もう一つは、患者における「自家用格付け」である。

一番極端な場合、患者自ら、相当の医学的知識を持って「自家用格付け」を持つことである。
いわば、プロの患者である。
情報化のおかげで、最新の論文(のアブストラクト)の多くはネットで読むことが出来る。
日本の論文はなかなかこのような公開がされていないが、幸いなことに、国内ではロクな治験はなされていないので、大きなマイナスにはならない。
今の日本の医療制度では、ほとんどの医師は多くの患者を診なければならず、勉強に充てる時間も少なくなるし、個々の患者に対してさける研究時間も少なくなる。
患者であっても、本気で打ち込めば、医師にかなり近づけようし、ある局所については医師より詳しくなれるかもしれない。

もっとも、このようなプロになるには、かなりの時間がかかる。
すべての患者が、このような「自家用格付け」を持つのは非現実的であるかもしれない。

そこまで極端ではないとしても、治療に対して、どのようなものを重視するのか、逆に、どのようなものは気にしないのかといったことをきちんと整理して、それに基づいた医師探しということは大事なのかもしれない。

いわば、格付け会社は財務的側面からの格付けを行うが、運用会社なり具体的な運用コースでは、例えば、環境重視企業重点など、投資家の価値観に応じたものもあるだろう。
具体的な「自家用格付け」は無理としても、このようなことならば可能かもしれないし、少なくとも、自分に応じた治療を求めるのであれば、これは義務でもあろう。

ただし、あくまでも、会社が存続しての投資である。どこまで重んじるかは別として、「格付け」情報も知らないで投資するならば、虎の子をドブに捨てることにもなりかねない。

「自家用格付け」に向けた努力は重要であるが、(それが厳しいものかもしれなくとも)現実にもとづかない「自分勝手格付け」に陥るならば、人間として安易に「命」を扱っていることにもなるはずである。

2009年7月 6日 (月)

行列に並びますか?

日本経済新聞の土曜日版(日経PLUS1)に「その行列、並びますか?」という記事が載っていた(2009.6.27,s1)

この記事の題名を見て、20年くらい前の大阪人との会話を思い出した。
もちろん、詳細は覚えていないが、次のようなことを言われたという記憶がある。
「東京人のグルメは中身がない。有名だから、とか、雑誌で紹介されたからというだけで行列が出来る。それに比べて、大阪人は厳しい。例えば、安くてうまい焼き肉屋と安くて味は普通の焼き肉屋が二軒並んであったとする。東京人は、安くてうまい焼き肉屋に長い行列が出来ていると、隣の焼き肉屋も安いし、まずくはないのだからと、つい入ってしまう。それにひき換え大阪人は、どんなに行列が出来ていようと、安くて、かつ、うまくないと納得しないので、隣の焼き肉屋には絶対に入らない。大阪で行列の出来ている店があれば、並んで入って損をすることはない。」
不運にして、あるいは、幸運にも、大阪で暮らしたことはないので事実かどうかはわからないが、おもしろい指摘である。

そういえば、数年前だったか、漫画で、一年前のグルメ本を読んでいるのを質問された女子社員いわく「まだ、閉店せずに残っていれば、本当においしい店だろうから」などと答えているものもあった。

ところで、日経の記事であるが、
・ インターネット調査会社による調査によると、「並びたくなる」人が約3割、「わくわくする」人が約6%。なお、「並びたくない」人でも半数以上が「人気・話題の店」に並んだことがある。
・ 行列に並ぶ理由について、早稲田大学高等研究所の渡部幹准教授は「並ぶという行為は、その分コストをかけているということ。行列自体がその先への期待を高め、さらに行列を呼ぶ」と説明。
・ 博報堂買物研究所の長谷川宏所長によると、特に不況になると「買い物に失敗したくない」という気持ちが強くなり、周りと同じ行動をしようとする現象が起こりやすい。
・ イベントの企画・運営会社のプロデューサーによると「意図的に並んでもらうケースもある」とのことで「4,5人が並ぶと一気に列が長くなることが多い」といい、展示会や販促キャンペーンでは集客につながる
というようなもの(このほかに、待ち時間の表示についても解説)であった。

たしかに、行列が出来ると、行列が出来ているからには良いことがあるに違いないということで行列参加者が増えて、行列が一層長くなるというプラスのフィードバックがかかることは間違いない。
であれば、最初に行列が出来たのが本当に良いということではなく、単なる偶然(ノイズ)であったり、あるいは、人為的(グルメ本、イベント会社に雇われたアルバイト)な場合も多くあろう。

しかし、話による大阪人のように真の意味でうるさい人ばかりであれば、このような偶然や人為的なものは長続きしないだろうし、行列を人為的に仕掛けても見返りは少ないだろう。

とこのように考えていくと、行列といっても信頼のある行列(=並ぶとお得なもの)と、たまたまできただけだったり仕掛けがあったりという信頼性のない行列(=並ぶに足りないもの)があり、そして、その社会の構成員が対象の価値をきちんと判断できればできるほど、その社会の行列の信頼性は高いだろうし、その社会の構成員の判断能力が低ければ、行列の信頼性は低いということがわかる。
さらには、その社会の構成員の判断能力が低ければ、行列はその対象の価値ではなく、ハヤリ(例えばグルメ本)とか人為的な仕掛けを表していることが多く、行列があっても並ぶ価値がないものがあるのと同様に、本来、行列すべき価値があるのにだれも並ばないということも生じるだろう。

ふと気がついたが、行列と書いてきたが、これは、世論・国民の声・選挙結果と言い換えても通用することであった。
そうすると、多分、「「並びたくなる」人が約3割、「わくわくする」人が約6%。なお、「並びたくない」人でも半数以上が「人気・話題の店」に並んだことがある」という調査結果以上に、日本人は「行列」好きと感じられるがどうだろうか。
--------------------------------------------
がん治療にも「行列」は見られる。

ここでいう行列とは、3時間待ちの3分外来で3時間待っている患者というような「物理的」な行列ではない。
例えば「○○がんセンター」というような「看板に対する『行列』」とか、「がんに効く健康食品」というような「都合のよいものに対する『行列』」、あるいは、「重粒子線」のような「最新科学成果に対する『行列』」というようなものである。

つまり、他人が並んでいるから、(その価値は不明だが)自分も並んでいる・並びたいということである。

このように見ると、健康食品やトンデモ医療の「体験談」は、イベント運営会社が仕組む行列並びアルバイトに相当しようか。いや、アルバイトならば列に並んでいるという事実はある(並行して通常医療を受けているのに、これを隠したり、効果をあたかも健康食品のためとするようなものならば、これに相当するかもしれない)。それどころか、まったくの作り話の体験談では、生身のアルバイトではなく、そこらのマネキンを並ばせているだけであろう。

このような金儲け目的の作為的な行列は別として、一般的に見られる「行列」は、大阪人のように並ぶ価値の有無を判断しての行列であろうか、それとも、東京人のように行列があると並びたくなるという周囲雷同による行列なのだろうか。

私には、きちんとした価値を理解して並んでいる人はほとんどいないのではないかと思える。しかも、価値を理解していないまま並んでいることにすら気が付いていない。

例えば、免疫療法。
ここでいう免疫療法とは、現在、研究段階なりまじめな治験段階(したがって、ごく一部のところで「無料」でなされている)ものではなく、ネットで検索すれば、あちらこちらの病院・クリニックでなされている「現在実用化(?)されている」免疫療法のことである。
ほんの少し勉強すれば、これらの免疫療法は、せいぜい一部のがんの再発率を下げる(下げているかもしれない)程度の効果しか示されていないことはわかるはずである。つまり、行列に並んでいる現役の患者に対して効果が出る可能性は皆無ではないかもしれないが、皆無に近いであろう。

このような現実の価値(当該病院が「自称」する価値ではなく)を知った上で、かつ、経済的負担も考慮に入れたうえで、並ぶ価値ありと判断しているならば、それは一つのあり方ではあるが、行列に並んでいる大半の人は、体験談であるとか誰のチェックも経ていない一般向けの本(表現の自由、すなわち、作りごとの自由が保障されている)のようなマネキン人形をみて、それにつられて並んでいるだけである。

次に、重粒子線はどうだろうか。
ここの行列自体は、それほど長くはないものの常に列に並びたがる方もかなりいる。また、いわゆる免疫療法と異なり、治療機関が限定されており、イカガワシイ病院はないる
確かに局所療法としての重粒子線には優れた点もある。同じ局所療法の一般の放射線治療よりも患部に集中できるため、効果が高く副作用が少ないことは理解できる。

しかし、局所療法は局所療法にすぎない。
転移があり、すなわち、全身にがんが広がっていると予想される状況において、局所療法が有意な意味を持つ場合は、特定の転移のみがクリティカルであってそれに対応すればかなりの延命を見られる場合などレア・ケースであろう。
もちろん、手術を行うには術後の生活の質の低下が激しく、一般の放射線では困難ないし効果が弱いというような場合には、重粒子線がかけがえのない治療法であることはありえる。

いずれにしても、重粒子線の列に並ぼうとする人の多くは、このような効果と限界を理解した上で並びたがっているとは思えない。

では、未承認抗がん剤はどうだろうか。

数年前はこの行列に並びたがる人も多かったが、最近では、かなり列が減っている。
少なくとも、保険適用になり「他人のお金」で出来るようにしてほしいという声はあっても、自腹を切ってまで行列に参加したい人はかなり少ないようである。

こっそりと実質的な混合診療をしてくれる病院がわずかなりとはいえ、増えたせいもあるだろうが、この絶対数は大きいとも思えず、これが行列が減った理由とも思えない。多くの患者に関する限り、数年前の行列盛況の時点と客観的には状況には大差があるとは思えない。

もちろん、未承認抗がん剤は、(トンデモ医師による使用を除けば)世界的には、もっとも効果が期待できる選択肢であることは多い。
しかし、あくまでも従来の抗がん剤との比較であり、かつ、とびぬけた成績であるとは限らない。少なくとも「夢の薬」ではないことは確かである。他方、世界的には効果が認められていても、日本人においては人種差によりそれほど効果がないという不確実さはある(といっても、同じヒトである。また、同様により効果があるということもありえるのであるのであるから、否定するデーターが出るまで欧米人と日本人で同程度とみなしてもおかしくないと思うのだが・・・)

さらに、実質混合診療(薬代は完全自費)ならば、薬によっても異なるが、「それなり」ないし「かなり」の経済負担が生じる。

私自身は、経済的などの負担が可能な範囲での、ベストと思われる治療(その期待される効果が負担に見合ったものでなくとも)を受けたいという価値観の結果、以上のようなことは十分承知でこれを選んでいる。
しかし、数年前に行列を作った多くの方は、単に、欧米で優れたものとして使われている(行列ができている)ものを、日本でも使えないのはおかしいという、一種の行列志向で騒いでいただけのように見える。

価値を理解しての行列でなければ、行列が消え去るのも早いということだろうか。

このように見ていくと、がん治療における行列のほとんどは、その価値を理解してというよりも、単に、他人が並んでいる・良いという噂があるなどということによるもののように見える。
また、ある行列について、並ぶ価値があるかについて、絶対的なものではなく本人の価値観によるところが大きいケースも多いだろうが、患者自身がきちんとした価値観を持っていないことも多いように見える。

とは、いうものの、いったんがん患者になってしまえば、いやおうなくどれかの列(無治療・放置という列も含めて)を選ばなければならない。
行列の価値がわからないのにどの列に並べば良いのであろうか。

まず、常識的に言えるのは、様子がわからないのであれば、平均的・可もなし不可もなしを選ぶことが無難ということである。もちろん、利益が不明であってもリスクを取ることが好きという人は別である。

それでは満足できないという人は、やはり価値がわかっているグルメに聞くしかない。
といっても、誰がグルメか、単なる自称グルメかわからない。
特に、見せかせグルメ(真の姿は金の亡者)のトンデモ医師のセカンド・オピニオンでは、ネギを背負って、かつ、鍋までぶら下げた鴨になる。
とりあえずは、平均的・最低限の知識をがんセンターなり大学病院で得てからというのが良いだろう。

再度、質問したい。

「あなたは行列に並びますか?
そして
「あなたは、どの行列に並びますか?

« 2009年6月 | トップページ | 2009年8月 »