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2009年6月15日 (月)

カテゴリー・ミステイク

「心脳問題」(朝日出版社、山本貴光+吉川浩満)なる本を読んでいる。
基本的にこのような本は、時間の無駄になるのでできる限り読まないようにしている。

たいていの哲学者(と称する者)の議論は、用いている用語をきちんと定義していないために(厳密に定義しているつもりになっているが、「概念」などはいくら厳密にしたつもりでも幅が残らないわけがない。厳密に定義しているというのは哲学者の単なる思い上がりである)、生じているものがほとんどであるし、あるいは、単なる無知(例えば、無限の扱いについて、有限のものを無限個足し合わせても無限になるとは限らないという単純な数学的事実を忘れていたり、命題は真か偽のいずれかであるという古来からの素朴な排中律が信じられているが、真とも偽ともわからない命題が無限に存在するこというゲーデルの定理はお粗末な哲学者の理解を超えるものらしい)によるものが目に余るからである。

さらに言えば、事実に立脚しない形而上の議論がいかに非生産であるのみならず、明らかな間違いにより社会を不幸に陥れたという歴史的事実すら忘れている。

心脳問題については、それほど真面目に考えたことはないが、「心」の定義、「脳」の定義、あるいは、脳がわかれば心がわかるという文章であれば「わかる」の定義があいまいなために生じているものがほとんどであるし、そうでないものは、まさしくゲーデルの不完全性定理の一例にすぎないと「直感」している。
さらに言うならば、この世(含む「自分」)が一炊の夢に過ぎないとしても、一炊の夢なのかどうかは不可知(ゲーデルの不完全性定理の一応用)であるから、哲学者諸侯とは異なり、このような無駄なことに人生の一部を割く気にもならないということでもある。

このようなことを書く私が、「心脳問題」という本を読んだのは矛盾ではないかとしかられそうであるが、いかに直感的にアホラシイと判断しているにしろ、心脳問題でどのようなことが議論されているのか・いたのかということをある程度は、知っておくのも悪くはないだろうと、ふと思ったからです。
つまり、がんに効くと称する健康食品について、単に馬鹿らしいと判断するだけではなく(もっとも、馬鹿らしいで十分でしょうが)、その業者のHPを除いて、そのいい加減さを確認しておくことも有意義だろうというのと同じ感覚です。

本全体の感想としては、予想通り、定義に厳格さを欠いているための意味ない疑問や排中律を当然のものとして議論しているための妄想的議論が目につきました。
もちろん、一般向けの本ということで、あえて厳密さを欠かせているのかもしれませんし、単に、筆者が三流哲学者(なのかどうかは知りませんが)であり、きちんとした哲学者ならばこのようなことはないのかもしれません。

このような全体的な感想は別として、中には、言われてみればそうである(=潜在的にはわかっているが、自覚できていなかった)というものや、このような明確な説明方法があるのかというものも、もちろんありました。

その一つが「カテゴリー・ミステイク」という概念(言葉)です。

同書によると、カテゴリー・ミステークとは、
「子供を動物園に連れて行きます。あなたは「これがウサギ」「これがカバ」「これがキリン」といちいち説明してあげるのですが、最後に子どもはこう尋ねます。「わかったよ。それで動物はどこにいるの?」・・・・・・・・・・このようにちがうカテゴリー(範疇、区分、分類)に属する物事を同列に並べる誤り」のことであり、
プラトンの「パイドン」に書かれているソクラテスがアテナイの青年たちを堕落された罪で投獄され(逃げて外国に亡命するのも可能なのに)牢獄にいるのは「ソクラテスの骨と腱が動くことによって彼が牢獄に移動したからか」「ソクラテスが有罪判決にしたがって牢獄に座ることがよいと考えたからか」
も同様の問題である。「脳がわかれば心がわかる」というのも「脳」と「心」という異なるカテゴリーに属するものを同一に扱っているとしている。
(
この説明はWikipediaの説明(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%86%E3%82%B4%E3%83%AA%E3%83%BC%E9%8C%AF%E8%AA%A4)とかなり異なって見えるが、これは単に私が哲学の素人のためであろう。)

私に言わせれば、その前に「脳」「心」がきちんと定義されていない以上、これは正しいとも間違っているとも判断できない空虚な説明である。

さらに、言うならば、「脳」・「心」を異なるカテゴリーであるように定義していれば、正しい命題であるし、同じカテゴリーとなるように定義していれば誤った命題である。
つまり、同書の説明は、つきつめると、単に「異なるカテゴリーは異なるカテゴリーである」という同義反復を述べているにすぎないように思われる。

個人的には、この文章は「わかる」という「同じ言葉」が語る人によって別のこと(別のカテゴリー)をあらわされているだけ、それがより適切な説明のような気がする。

脳科学者が言う「わかる」とは、例えば、「脳の中でどういう物質とどういう物質が相互作用して、どういう細胞とどういう細胞が相互作用し…その結果、個体全体として、どういう現象がおこるのかということが微細にわかるようになり、脳のDNAレベル、細胞レベル…というふうに展開していく現象のヒエラルキーの総体がわかっててきたら、嗜好・情感などという心の現象も、物質的に説明できるようになる」こと(利根川進「私の脳科学講義」)という意味であり、すなわち、心として観察されるものと科学的観察結果(物理的反応システム)が一対一で対応できるようになることなのだろう。
他方、一般人の「わかる」というのは、科学的メカニズムが解明されるということでなくその説明で「納得できる」ということが近いのではなかろうか。
そして、心脳問題では、前半の「脳がわかれば」の「わかる」は「脳科学者」のわかるを、後半の「心がわかる」の「わかる」は一般人(ないし哲学者)のわかるという別のものをあたかも同一であるがごとく扱っているという、その意味でのカテゴリー・ミステイクをしているのではなかろうか。

このように、カテゴリー・ミステイクにおいて、現実的に、一番問題となるのは、同じ言葉にもかかわらず、その中に、異なる多くのカテゴリーを有している場合ではなかろうか。しかも、日常生活では、よほど厳密に言葉を取り扱っていない限り(すなわち、「普通」は)一つの言葉に複数の意味が気づくと気づかざるとにかかわらずこめられている(厳密なはずの哲学ですら、その点に注意しながら見てみると、いい加減なものがほとんどである。逆に、これが現在の人間の「性能」限界ということでもある。)

そして、それに気がつかず、自分一人の発言の間で別々のカテゴリーで用いながら、それに気がつかないために空虚な妄想に陥ってしまったり、あるいは、同じ言葉について互いに自分が使っているカテゴリーが他方とは異なっていることに気がつかずに話をして、相手の発言について誤解してしまう。


これが、多くのもめごとの直接原因ないし潜在的原因となっているように思える。
------------------------------------------
がんの治療においても、このようなカテゴリー・ミステイクはあちらこちらで生じている。

患者側が「この抗がん剤は効きますか」(心脳問題に置き換えれば、「心とはなんですか」)という質問に対して、医学側は「XXという作用機序でがん細胞の分裂を妨げるものであり、腫瘍の縮小効果はPRが○%・・・」(「大脳基底部の神経細胞が活動し、その刺激が大脳の前頭葉のXXという部位の神経細胞につながり…」)と答える。
もちろん、実際には、もっと簡単に(つまり、わかりやすいが不完全に)話しているだろうが根本的にはこのようなものであろう。

というより、一般人と医学者という立場を異にする者では、使っている言葉が同じであったとしても、そのカテゴリーは異なっていることが多いように思われる。

そして、医学者においては、自分がどのような意味(カテゴリー)において「抗がん剤の効果」を語っているかはわかっている(なぜならば、大学以降という年長=客観認識ができる=になってから得たものだから)が、ややもすると、世の中には別のカテゴリーがあることも、あるいは、患者が医師のカテゴリーとは異なったカテゴリーにおいて質問していることを忘れているように思える。
あるいは、別のカテゴリーにおける説明は「医師」の領域ではなく(これは、ひょっとすると正しい)、これを行うことは医師の道から逸脱すると思っているのかもしれない。もっとも、これも「医師」という言葉をどのようなカテゴリーにおいて扱うかというカテゴリー・ミステイクになるのかもしれない。

他方、患者のほうは、「普通の言葉」で語っているつもりであることが多そうである。実のところ「普通の言葉」には多くの意味があることが「普通」である。そして、ギリギリの局面で使っている言葉は決して多くの意味がある普通の言葉ではなく、その時点・その患者個人の「特有の言葉」である(はず)ということに気がつかない。

それどころか、「治療に対するアドバイスが欲しい」と言いながら、潜在的な本音は「慰めの言葉が欲しい」「嘘でもいいから安心できる言葉が欲しい」というような、カテゴリー以前の表向きの言葉と潜在的な本音が異なっていることも多いようである。
そして、本人すらもそれに気がつかず、きちんとした治療に対するアドバイスに満足感を覚えないという不幸なこともよく見受けられる。

もちろん、このような「土俵の違い」はいつでもどこでも見られることである。特に、我が国の最高機関と「されている」国会では、質問者と答弁者のカテゴリーが全く異なる意味不明の会話がよく交わされているようである。もっとも、政治通と称する方々によると、あの意味不明な会話にも当事者同士(及び政治通)だけに通ずる意味があるとのことである。
すなわち、同じ言葉を全く別のカテゴリーで使っている意味不明な会話に見せかけて、実は、同じカテゴリーで会話をしているという哲学者には想像もつかない世界らしい。

このような高度な特殊かつ無意味な技術はがん患者には不用であろうが、自分の話している言葉と医師の言葉の発音が同じであっても、まったく別カテゴリーのことがあることや、自分の潜在的本音に自分が気が付いていないために本音と異なる言葉を発しているのに対しての返答を見て、患者じゃないから(=属しているカテゴリーが違うので自分の言葉を理解してくれない)と思ってしまうことも多い。

もちろん、日常会話において、このような厳格さは必要とされることはほとんどないだろうし、また、このようなことに常に注意を払っていると簡単な日常挨拶すらできなくなるだろう。
このようなアイマイさを許容し、利用しているところがコンピューターにはできない(少なくとも、かなり将来までできそうもない)、人間の脳の不思議さである。

とはいうものの、がん治療という重大事において、さらに、その中でもポイントとなるかもしれない場面では、医師と患者で使っているカテゴリーが異なっているだろうことや、患者自身が自分の本当(=潜在的本音)のことに気が付いていないかもしれないことを頭の片隅において忘れないようにしておくことは結構大事なことかもしれない。

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