複雑系
「複雑系」という(私に言わせれば)「概念」がある。
類似の概念自体は、例えば、アリストテレスの「全体とは、部分の総和以上のなにかである」のように、大昔からあるものであるが、「複雑系」ということで流通し始めたのは、1984年のサンタフェ研究所の設立のころからと言っていいだろう。
「複雑系」の概念が複雑なのか、きちんとした定義付けは見たことがない。複雑系を主張したり、研究する方であっても、とらえ方に差があり、中には、どこが「複雑系」なのかというものもあるように思える。
一応、Wikipediaでの説明を掲げておく。
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A4%87%E9%9B%91%E7%B3%BB
複雑系
複雑系(ふくざつけい complex system)とは、多数の因子または未知の因子が関係してシステム全体(系全体)の振る舞いが決まるシステムにおいて、それぞれの因子が相互に影響を与えるために(つまり相互作用があるために)、還元主義の手法(多変量解析、回帰曲線等)ではシステムの未来の振る舞いを予測することが困難な系を言う。
これらは狭い範囲かつ短期の予測は経験的要素から不可能ではないが、その予測の裏付けをより基本的な法則に還元して理解する(還元主義)のは困難である。
複雑系は決して珍しいシステムというわけではなく、宇宙全体、天候現象、経済現象、人間社会、政治、ひとつひとつの生命体、あるいは精神的な現象などは、みな複雑系である。つまり世界には複雑系が満ち満ちており、この記事を読んでいる人間自身も複雑系である。ただし研究者にとって具体的な研究成果が出しやすく、書籍などで一般読者などに紹介されやすいものとなると、もう少し小規模の複雑系あるいは限定したものとなりがちで、例えばウイルスの流行状況、大規模交通(フラックス)、バタフライ効果、エントロピー(熱力学第三法則)などが多い。あるいは、パーコレーションやセル・オートマトンなども好んで扱われる。最近では、系の自己組織化の様子をコンピュータにプログラミングして、複雑で法則がないように思える目で見えない発達形成過程を視覚化して把握しようと試みられている。
背景
複雑系は還元主義的なアプローチが適用できない系として有名である。そのため現象を単純な法則や原理に落とし込むことで理解したとする、今までの科学がとってきた基本姿勢に対し、複雑系の分野の研究姿勢はその基本的立場に関して若干の違いを持つ。複雑系の分野を貫く基本スタンスとして「複雑な現象を複雑なまま理解しようとする姿勢」を挙げることができる。
複雑な現象を複雑なまま理解しようとする学問、手法は「複雑系の科学」などと呼ばれることが多いが、その源流に眼を向けると、アリストテレスの「全体とは、部分の総和以上のなにかである」といった言い回しにまで遡ることができる。近代になって還元主義が蔓延すると、それに対して警鐘を鳴らすように、全体を見失わない見解を深化させ、個々の分野で具体的な研究として全体性の重要性を説く論文・著書などを発表する学者・研究者らが現れるようになった。現在ではこうした見解・立場の研究は「ホーリズム」または「全体論」などと呼ばれている。こうしたことに関する哲学的で深い議論は現在でも、哲学の一分科である科学哲学の世界などで行われている。現在のいわゆる「複雑系の科学」などと呼ばれているジャンルは、広義のホーリズムのひとつである、と位置づけられていることが多い。
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私に言わせれば、「宇宙全体、天候現象、経済現象、人間社会、政治、ひとつひとつの生命体、あるいは精神的な現象などは、みな複雑系である」とあるが、単に、これは現在の人間の認識・判断・処理能力と「比して」複雑すぎるということを述べているにすぎない。
昔において、複雑で人間の理解の届かないと思われていたもので、その後の科学や技術の進歩により認識・判断・処理能力が高まり、原因やプロセスが解明されてみると、人間により十分に理解可能・予測可能(単純型?)になってしまったものも多数ある。
逆に、ほとんどのものが、そのまま全体として扱うには、「人間にとって」複雑すぎるが故に、単純化・近似化(例えば、合理的経済人などほとんどの経済学で、その基礎に単純化・近似化した概念を「与件」として使っている)したり、全体をコントロールして変化させる要素を絞り込む(例えば、他の環境条件を一定とし、温度変化の影響のみを見る)ことにより、近似的に、あるいは、全体の中の一面を理解可能にしようとしてきたというのが正しい認識であろう。
なにも、ものごとが単純であると思うから、単純な把握をしようとしているのではなく、複雑すぎるので、単純化してその一面を理解し、それらを積み重ねることにより全体に迫ろうとしているということであろう。
さらに言うならば、中世を中心に、全体を論じようとして、事実と反することを含む「概念」(そもそも人間の能力で全体を把握しえないのであるから、全体を論じるとなれば、把握できない部分も含めてわかっていることするしかない。であれば、事実と反することが含まれてしまうことは不可避である)を戦わせてしまい、不毛だけならばいざしらず、それが、実際に生きている人間や社会にとってマイナスとなってしまったことへの反省もその根底にはあるのではなかろうか。
真実に迫るためには、神ならぬ人間にとっては、単純化・近似化が不可避であるとして、その有用性、すなわち、「個」を積み上げることにより「全体」を示せるのか、それとも、「全体とは、部分の総和以上のなにかである」のか、そのどちらが正しいのであろうか。
これについては、そもそも真実の「全体」が人間の能力では把握不可能である以上、正しいのか間違っているのか、明らかになるはずはない。
ただし、次のように考えることはできよう。
どのようなものについても、その見方・切り口を無限に持つはずである。
他方、人間が単純化することにより、一つの見方・切り口について完全に知りえたとして、さらに、多くの見方・切り口について知りえたとしても、有限個にすぎない。
したがって、個をいくらつみあげてもまだ「残り」があることは自明であろう。
ではあるが、知りえた見方・切り口が全体に占める割合が多いならば、全体のうちの大きな割合を知りえることになろうし、また、知りえた見方・切り口が増えれば、その分、「残り」は少なくなるだろう。
あとは、これを積み重ねることにより、「残り」を限りなくゼロに近づけることができるのか、その以前に限界にぶつかるのかということである。
多くの科学者は、限りなくゼロに近づくことができるという思想・信念のもとにあるに違いない。
私も、この思想・信念は共有するものであるが、根拠があるものではない。
ただし、まだまだゼロまでは距離があり、単純化の積み重ねにより、着実に「残り」を減らせている現時点で、この当否を問うても単なる不毛な哲学論争になるだけであろう。
さらに、この点と予想・予測について考えると次のように言えるのではなかろうか。
当然ながら、単純化・近似化により得られた知見により、全体の内容が分かるほど、予測精度はあがるであろう。しかし、常に「残り」はあるのであり、この「残り」の部分が決定的な役割を果たし、その結果として、予想外の結果が生じることは当然あり得ることである。
ただし、知見が増えて、知りえている範囲が増える(残りが小さくなる)ほど、予想外のことが生じることは少なくなることとなろう。
なお、単純なことの結果が、複雑なものとなることはいくらでもある。
これについて、「複雑系」の研究者を称する人には、あたかも特別な驚くべきこととでもいうようなことが多いが、これは「複雑系」のためではなく、当該研究者の「単純性」の結果に過ぎないように思える。
逆に、単純型を扱っている研究者は、現実が「複雑」であることを不当なことと思いがちである。例えば、合理的経済人しか扱わない経済学者の中には、実際の人間が不合理な行動をとることを「けしからぬこと」と見なす方もいるようであるが、そもそも、人間は決して合理的経済人ではない複雑な存在であるが、これでは、経済学者の手に余るために、近似として、合理的な人間という仮定(単純化・近似化)をしたのである。間違っては困ってしまう。
それにしても、「複雑系」というのは魅力的な概念であるが、残念なことに(複雑系の研究者はいろいろな大きな成果が得られていると言ってはいるが)私が見たところ、たいした成果はあげられていない。
よく考えてみれば当たり前である。「全体」を扱うのは人間の能力から困難であるから単純化・近似化によるアプローチにつとめている段階である。少なくとも、現時点で得られている単純化・近似化による成果の積み重ねでは、まだ不十分であるということは正しいとしても、だからといって、人間の能力を超えている「全体」に一気に迫ろうとしても、大きな成果があがる可能性は低いだろう。
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抗がん剤治療も複雑である。
がんの種類によって効果の出る可能性はかわるし、効果の出る可能性の高い抗がん剤であっても患者ごとに異なる。
さらに、同じ患者に対して、ある抗がん剤が効かなくなっても別の抗がん剤と組み合わせると効果が出ることは、それなりにある。
逆に、組み合わせて使っていた抗がん剤が効かなくなっても、種類を減らして、その分、薬量を増やせば効くこともある。
同系統の抗がん剤であれば、ひとつが無効ならば、他の抗がん剤もたいていは効果が出る可能性は低い(交差耐性)が、交差耐性が低いものもある。
さらに、放射線など他の治療との組み合わせということもありえる。
効果について、少し考えただけでも、いろいろな要素があるが、副作用というファクターも当然ある。
さらに、主治医など医療側の方針(価値観)や、患者の価値観も多様である。
また、抗がん剤治療は進歩中であり、毎年、治験などにより新しいデータが示されたり、新薬が出たりする。
新しいデータといっても、被験者数などによりその信頼性は異なってくる。新薬も当初喧伝されていたよりも実際の効果が「何故か」低いということも、ままあるらしいので、このようなことに対する注意も必要とされる。
しかも、治験データは、ある抗がん剤(の組み合わせ)を、ある一定量(ルールに基づく減量ありというものもあるが、減量ルールは単純なものでしかない)投与した結果を、数個の尺度に基づいて評価した、いわば、一点に対するものにすぎない。そして、広大な抗がん剤治療の中で、これまでに得られている「点」の数は極めて少ない。
例えば、効果は認められるが副作用が許容できないため、減量せざるを得ない場合、薬量80%ならばどの程度副作用が低減する可能性が高く、効果はどの程度の低減が見込まれるのか、といったデータはないと言って過言ではない。
そして、標準的治療は、この程度にすぎない「点」データをもとに、しかも、信頼性の高いデータにしぼった上で、かつ、医学的観点のみという立場において、一番ベストのもの(しかも統計上であるので個々の患者ではやってみないとわからない)という、近似化・単純化というのすらはばかられるようなものにすぎない。
ただし、誤解されては困るのは、どこかのU澤医師のように標準的治療が「悪」のごときことをいうつもりはない。
そもそも、EBM(Evidence based Medicine)の重要性が認識される前(日本では、ほんの十年程度前)までは、このような点データすらも考慮せずに、医師がその経験のみに基づく治療(もっと正確には教授に指示されたとおりの治療)を行っており、その結果を客観的にデータで反省してみたら、余命延長にほとんど寄与が認められないという悲惨なものであったのである。さらに言うならば、実態が悲惨ということすら認識されていなかったのである。
このことから、個々の医師の経験と勘のみに基くのではなく、データ(エビデンス)に基づくべきであるということで、EBMさらに、(信頼性が高い)エビデンスの中から、一番、医学的に良いものを標準的治療とするものであり、これ自体は、立派な努力であり、悪口雑言の対象とは思えない。
もちろん、あくまでも個々の患者が、平均データであるわけはないのであるから、これをベースに調整がなされるべきだろうし、それを怠る病院・医師に対して、悪口雑言を言うのであれば意味はあろう。
ただし、U澤医師が「悪質」なのは、標準的治療の成果が残念ながら高くないのを責めるのはいいが、評論家でなく、医師である以上、より良い方法を提示できなければ無責任であろう。)
どうやら、本人は自分が行っている「わけのわからない」治療(本人が理由にならない理由で、具体性のない定性的なこと(一般的には「お題目」という)しか明らかにしない以上、これは名誉棄損には当たらないと考える)が優れていると称するものの、その具体的なデータは隠したままである。少なくとも、相手に対して、そのデータに基づき批判し、自分のほうが優れていると称するならば、当然、自分のデータを示さないのは、嘘ツキか、ダブルスタンダードの卑怯者であろう。
さらに言うならば、過去、抗がん剤治療の成績が悲惨だったことは、よく書かれているので、データで検証を行わない個々の医師の経験のみに基づく唯我独尊の治療の危険性を知っているはずなのに、その矛盾には黙して語られない。
もちろん、U澤医師の信者の方々には無視していただいて結構であるし、U澤医師に超能力があり、個々の患者に適した抗がん剤は一目でわかるという「可能性」は否定はしないが。
(ちなみに「黙って座ればピタリとわかる」という易者を私は信用しないが)
かなり、脇道にずれてしまったので、もとに戻す。
標準的治療は無視すべきものではないが、ほんの少しの点データから選んだというものにすぎないというそれが絶対であり修正が許されないとするには「貧弱」すぎるものである。
点データとても、ないのとあるのを比較すれば大違いである。
といって、単純系(単純化・近似)ほどの内容や精度があるわけではない。
これが、現在の抗がん剤治療の医学的レベルなのである。
したがって、それが、複雑系である抗がん剤治療をきちんとあらわしており、それを適用すればそれなりの近似解が得られるというものではない。
抗がん剤治療は、治療自体が未熟であり、現在進行形のものであるが、さらに、その時点で実現している抗がん剤治療の何が個々の患者にとってベストであるかもわからない。
であれば、どんなに貧弱なデータであろうと、それをベースにした上で、さらに、患者ごとの効果・副作用という個々の現実に即して、より良いと思われる方法に修正しながら行っていただく。
これしかないと思うが、どうだろうか。
当然ながら、患者側において、データ点から離れる、すなわち、多少は別として未知の領域に入ることに対するリスクを受け入れることが大前提であることは忘れてはならないが。


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