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2009年6月29日 (月)

豚インフルエンザ -所変われば・・・-

暑くなっている気候に体(と頭)が慣れないためか、先週に引き続き、今回の記事の切れ味は良いとは思えない。
あまり期待しないで読んで欲しい。

新聞報道によると、厚生労働省は豚インフルエンザが下火(←マスコミ報道が下火)になりつつあるのを待ったかのように、発熱外来の廃止など「体制の通常化」をはじめたようである。

素人から見て、現在の豚インフルエンザの毒性及び日本国内での流行状況を考えると、この判断自体はまっとうなものであるように思われる。

しかしながら、今回の国内対応の問題点や教訓の検討を国レベルにおいて、関係者(国、地方、医師、患者、学校など影響を受けたところ、そして、マスコミ報道)を集めて検討がなされているとは、新聞などを見る限りでは、聞いたことがない。

秋から冬にかけて、豚インフルエンザが再上陸することは、ほぼ確実であろう。その時に、どのような対策をとるべきなのか、今回の教訓を「他山の石」とするために残された期間はあまりない。
問題が生じるまでは何もしないという公衆予防の観念のない(他方、問題が生じた場合、マスコミがとりあげなければ無視、マスコミが騒げば過剰対応)厚生労働省らしいといえばそれだけであるが、ならば、やはり厚生労働省はつぶれたほうが世のためなのかもしれない。
ついでに言えば、今回のケースは、鳥インフルエンザが現実の問題となった場合のテストケースとしても大事なはずであるが。

などと思っていたら、ニューヨーク市保健精神衛生局の「H1N1 ’豚インフルエンザ’ : あなたが知るべきこと」という文書を見つけてしまった。
しかも、日本語訳のものまである。

日本語なので、とりあえず下記で全文をお読みいただくことをお勧めする。
http://www.nyc.gov/html/doh/downloads/pdf/cd/h1n1_flu_basic_faq-ja.pdf

ちなみに、これは66日版であるので古い情報ではないかと思われる方もいるかもしれない。が、最新(626)は下記のとおりである。ただし、英文であるし、内容も大差ないようであるが、慎重なタイプの方は確認されるとよい。
http://www.nyc.gov/html/doh/downloads/pdf/cd/h1n1_flu_faq.pdf

私なりに(←つまり、私にとって都合のよいように)抜粋してみると、
最初に「ニューヨークや全米においては、このウィルスによる症状は軽度です。症状を訴えた人たちは皆処方箋なしに回復しています」と端的に個人に対するリスクの低さを明示した上で、ワクチン(開発中)や予防法(うがい・手洗いなど)を簡単にわかりやすく説明している。
そして、いよいよ「インフルエンザの様な症状があった場合どうすればいいでしょうか?」に入る。

「咳、喉の痛み、そして熱があった場合は少なくとも1日、十分良くなるまで自宅で安静にしましょう。咳が続いているが他の症状はない場合は、 (英文では、If you have one of the underlying medical conditions listed above, and you develop flu-like illnessとなっているので、「咳が続き、かつ、下記の症状の一つがある場合は」というのが正しいようである) 医師の診察を受けましょう。病気になってから1週間ほど経過すれば、仕事や学校に戻ってもよいでしょう。軽い症状の場合は病院にいく必要はありません」とし、日本での騒動と比べると驚くべきことを告げたうえで
逆に、「どのような症状になったら病院にいくべきでしょうか?」として「もし症状がひどい場合や悪化している場合」や「下記のような兆候(呼吸困難又は息切れなどの具体的な例示あり)がある場合は治療を受けましょう」としている。

簡単にいえば、呼吸困難とか激しい嘔吐などを伴わない限り、病院に行く必要はなく、自宅で寝ていればよいということのようである。

日本の騒ぎ方と比べてギャップの大きさに驚くばかりである。
日本で感染者が見つかって国もマスコミも「大騒ぎ」しているときに、その本拠地である米国・カナダでは、比較的平静だったというのも、これだけ認識に差があるとうなづけるところである。

さらに言えば、普通の風邪ならば医者に行くより家で寝ているほうが良いときちんと考える人は少ないながらいるだろうが(問題はただの風邪と思っていたら別の病気だったというリスク)、インフルエンザならば病院に行ってタミフルなどを飲むのが当然とほとんどの人が(私も)思っている。
しかし、インフルエンザにしても一週間も家で休んでいれば­ほとんどの方が治ってしまう。タミフルなどは一週間休むのを数日縮める効果しかない。(このような話は以前何かで見た記憶はあるが、ほとんど気にとめていなかった。)
逆にいえば、高齢者のようなハイリスク者や症状が激しい方を除けば、通常のインフルエンザについても、日本人は過剰対応をしているのかもしれない。

(
その結果、日本でのタミフルの使用量は異常に大きく、これだけ(医療費)ならともかくタミフル耐性シンフルエンザ出現の早期化に貢献していることになる)

誤解されないように、別に米国のほうが優れているというつもりはない。

これらの裏側には、皆保険制度がなく、多くの保険未加入者がいるという「現実」があるはずである。
日本は、安い保険料(安いとは感じられないだろうが、国際的にみれば、極めて安いものであることは疑うことができない)しか負担せず、しかし、病院にかかる必要もないほどのことで「安心」のために利用することができるという「天国」である。(さすがに、天国も崩壊して地上に急降下中であるが)

このようなわが国では、タミフルなどを安易に使用しすぎて、耐性ウィルスの発言を早めるのではないかということを除けば、患者側からみれば、病院に行くに越したことはない。


しかしながら、本当に豚インフルエンザ(現在と同程度の弱毒性が維持されているとして)が一気に広がったら、ただでさえ崩壊しかかっている日本の医療体制が持つだろうか。
(
といくら言っても、寝ているのが一番の薬の単なるカゼですら、緊急外来に行く現在の日本人に言っても、馬の耳に念仏だろうが)

さらに、真打ちの鳥インフルエンザが流行したらどうなるのだろうか。

豚インフルエンザすらも適切なリスク管理ができない厚生労働省にきちんと対応できるとは思えない。
自己防衛のためには、食料を備蓄して、家に立てこもるしかないかもしれない。(なにせ、ただでさえ白血球数が低いのだから。)

しかしながら、いつもながらわからないのは、日本のマスコミである。

少なくとも三大紙ならば米国に支局があるだろうし、共同通信もある。それがなくとも、ここに書いたこと程度はネットで簡単に手に入れることができる情報である。

日本と米国の対応のいずれが良いのかは別としても、このような対応もありえることをきちんと報道しないのは、なぜ、なのだろうか。

いくつか理由が考えられる。

国民をあおったほうが「売れ行き」が伸びるという「さもしさ」。
戦時中に、軍部(在郷軍人会)による不買運動をおそれて、軍部にしっぽを振った報道しかしなかった体質は健在のようである。

また、このようなことを報道して、千一、国内で患者が亡くなった(通常のインフルエンザと同じく千人に一人程度は死亡するらしい)時に、責められたくないという「逃げ」。
これまた、真実の報道よりも責任回避に重きを置くというマスコミの真の姿の発現である。

そもそも、マスコミは国内視野しかない井の中の蛙の集まりにすぎないということ。
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と、ここまで元気よく書いてきたのはいいが、このブログはがん患者のブログなのだった。

どのように日本とニューヨーク市の豚インフルエンザへの対応の違いをがん治療と結びつけようか・・・・

よく考えていくと、がん治療に関する問題と相似していることが含まれている。

一つには、「井の中の蛙」であるということである。

例えば、国内の治験データーがなければ、世界で広く使用されている抗がん剤ないしその適用を認めようとしない厚生労働省。

あるいは、国内の基礎研究段階の発表や、どうでもいいような発表はとりあげるものの、ASCOなど世界的な権威のある学会での発表については取り上げる気もないマスコミ。

二つには、その狭い井戸の中で騒ぎが起こると過剰に反応するが本質的な対応はしない体質。

未承認抗がん剤などで特定の薬について、患者が騒ぎ(これだけならば無視)、マスコミや国会でとりあげられると、民族差を確認するための治験ともいえないような少数治験だけで「迅速」承認をしてしまう。しかし、騒がれない他のものについては何もしないし、本当に国内治験が必要なのかなど根本的な問題には目をつぶる。

マスコミもこの点では厚生労働省と同じであり、熱しやすく冷めやすい。

三つとしては、国民の個人リスク過敏症

インフルエンザかもしれないと思うと、実際のリスク無視(豚インフルエンザのリスクの低さ、逆に、インフルエンザでなかったのに「発熱外来」で本当の患者から感染するリスク、さらには、発熱外来のパンクなどの社会リスク)して、個人リスクを心配してルール無視で発熱外来を「直接」受診。
そして、それを批判しようともしないマスコミ。

この体質は、逆に医療の副作用や治療リスクを許容しないということにもつながる。
社会リスクには鈍感であっても、個人リスクには過剰に反応する。

この延長線上に、いわゆる医療過誤訴訟があり、国内の医療制度の崩壊がある。

がん治療は患者にとって、個人リスクの塊である。
鈍感になってもいけないが、かといって過敏になりすぎてもマイナスである。

そう考えていくと、がんに効くという健康食品の愛用者は、個人リスクに過敏かつ鈍感なのだろう。
つまり、避けられないリスクに過敏に反応(=効果があるのに副作用がないという「言葉」を反射的に信用)し、他方、そのような夢物語を信じることの危険さに鈍感ということである。

四つ目には、それにもかかわらず病院依存体質。

治療の意味(例えば、タミフルの効果)も知ろうとせずに病院に行き、薬をもらいたがる。
さらにいえば、治療してもらって当然としか考えない。

もちろん、風邪(や重症ではないインフルエンザ)と異なり、がん治療は家で寝ていればよいというものではない。
病院・医師に頼らなければならない。

しかし、多くの患者は、病院に「頼りきり」であり、自分で可能な範囲の知識を持つ努力もしない。

ネットの掲示板で、よく「良い病院(医師)」を知らないかという書き込みを見るが、「○○という治療ができる病院」という書き込みはあまり見ない。
これも、お任せできる病院探しの表れなのだろう。

病院(医師)に頼ること自体は当然である。そして、普通よりも優れた治療を行う病院(医師)に頼ろうとするのも当たり前かもしれない。

しかし、普通以上の治療には、普通の治療以上のリスク(正確には不確実性)があるはずである。患者側が病院(医師)に任せきりで、このリスクを理解していないのならば、(私が医師であれば)怖くて普通以上の治療はしないというのは仕方がないこととも思えるがどうだろうか。

いずれにしても、今回の豚インフルエンザ「騒ぎ」の教訓が、この秋・冬の豚インフルエンザ第二波やいずれか発生する鳥インフルエンザに反映されることを望むが、そのようなことは、厚生労働省でもマスコミでも日本国民においても起こらないだろう。これは、残念ながら、がん患者となって、それなりの期間、日本の医療を見てきた私の実感である。

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2009年6月22日 (月)

豚インフルエンザ ― 終息宣言(?)関連 ―

豚インフルエンザ(鳥インフルエンザと峻別するために新型インフルエンザという名前は使わない)について、終息宣言と称されるものが出されて以来、急に落ち着きつつある日本である。

しかし、「終息」のわけがないと、その当時から思っていた。
一つには、世界では、少なくともこれから冬となる南半球での流行はないわけがないし、そして、日本と南半球の人的交流はあるのだから、これからだって入ってこないわけはない。
また、日本国内に入った豚インフルエンザウィルスが根絶されてもいないだろうから、あちらこちらで散発的に流行しないわけはない。

と思っていたら、やはり、国内のあちらこちらで、散発的な流行が生じている。
一番の違いは、マスコミが「感情刺激的」にとりあげないようになっていること程度である。

ひょっとすると、豚インフルエンザの終息ではなく、マスコミによるパンディアミック報道の終息という意味だったのかもしれない。

ところで、いつもながら、自分勝手な大阪の方々による「弱毒性」だからという発言が相次いでいた。
単純に、自分たちの対応能力を上回っており、やっていられないと素直に言えばよいのに、自分たちのことは棚に上げて、国に要求する関西根性丸出しである(もっとも、それがたまたま関西だったということであり、地域が関東ならば対応能力に問題がないということではないが。)

この言い分は、半分は正しいが半分は間違っており、全体的には、関西地域の有名知事の危機管理の基本の無知の丸出しである。

簡単にこの点を説明してみよう。

このような危機では、個人リスクと社会リスクの双方を考える必要がある。

例えば、個人リスクがこれまでのインフルエンザと同程度以下であったとしても、これが、社会全体に「集中的」に流行したら、社会システムの維持などに支障が生じるかもしれない。

現在のところ、豚インフルエンザは、一般のインフルエンザ(季節型インフルエンザ)と同程度以下の毒性を有しているようなので、個人リスクは(判断する方の主観によって異なろうが)確かにそれほど大きなものではないだろう。
少なくとも、日本におけるインフルエンザ予防ワクチンの低接種率からすると、平均的な日本人は小さなリスクととらえているようである。

しかし、これと社会リスクはわけて考える必要がある。
ヒトに免疫がないのであるから、一気に爆発的に流行する可能性がある。
そして、一週間程度自宅で隔離ということならば、下手をすると(よほどうまくむしなければ)地域全体、場合によっては日本全体がマヒする可能性もある。

つまり、関西地域の有名知事が、その言葉どおり、弱毒性ということのみを理由に制限緩和を求めているならぱ、危機管理のイロハも知らないこととなる。

もちろん、個人リスクと社会リスクは無関係なわけではない。
仮に、毒性がもっと弱く、鼻かぜ程度の症状しか生じないのであれば、一気に爆発的に流行しようと社会リスクにつながることはないだろう。

もっとも、制限緩和がおかしいと主張するものではない。

社会リスクを低くしようとすること(例えば、広い範囲で学校休校にする)は、コストにつながる。
抑えられるリスクと必要とされるコストを比較して、コストが高すぎるため制限を緩和するというのは十分に納得できる。

また、制限がほとんど意味をなさないという理由もあり得る。
感染が広がり、蔓延状況になってしまえば、多少の制限をしたからといって効果はほとんど期待できないだろう。

しかし、豚型インフルエンザの検査も不要としたのは、あまりにもいただけないものである。
これにより、豚型インフルエンザの感染状況が不明になってしまっている。
マスコミでは、国内のこれまでの感染者数を「いまだに」記事に書いているが、関西地区の大英断のおかげで、○○名と書くのは真実ではなくなってしまった。
例えば、○○名以上とするか、関西地区を除き○○名と書かないとおかしい。

さらにいえば、関西地区は自ら豚型インフルエンザの蔓延地区であることを認めたことに等しいわけであるから、成田などの空港で海外の感染国からの乗客にしていたのと同様の検疫を関西地区から外部へ出る人にしないというのは、外国差別であると思うがどうだろうか。

まぁー、本当は、準備不足のため、まじめな対応ができなくなったということであろう。
これは、別に関西地区に限らず、現在の貧困な医療行政の一つの結果にすぎないが、このようなことを「正直」に話せば、準備不足の責任を追及されるということで、「弱毒性なのに」ということで国民を騙したというのが真相ではあろうが。

しかし、豚でこれくらいならば、鳥ではどうなるのだろうか?
居酒屋では焼きトンも焼き鳥も似たようなものであろうが、インフルエンザではそうもいかないだろう。

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未承認抗がん剤(及び適用外抗がん剤)を含む混合診療についても、個人リスクと社会リスクを区別する必要がある。

日本人に対するデーターがないので、思わぬ副作用が出るかもしれないというのは、「個人リスク」の話である。
もちろん、健康保険適用にして、広く使用できるように国がするというならば別として、個人輸入のような形で行う分には「個人リスク」はあるとしても「社会リスク」は考えにくい。

そして、現在の抗がん剤治療(健康保険適用)についても、相当の個人リスクがあるところ、外国のデーターではあるもののリスクに大差ないというものについて、国が規制をかけることは法規制として相当性を欠くと考えるがどうだろうか。

さらに言うならば、ある程度の不確実性(=外国人と日本人の差が不明)を含む「個人リスク」を許容するかどうかは、患者個人の価値観の問題であり、また、インフォームド・コンセントに属することにすぎない。

少なくとも、登山のようなハイリスクのものを含め(喫煙だって周囲に煙をださないならば)「個人リスク」を受けるかどうかは、(十分な情報が与えられていることを前提に)個人の自由に属するというのが、これまでの人間の歴史の積み重ねの結果として選ばれている、自由主義の本質のはずである。

ついでに言えば、混合診療が「個人リスク」の観点から違法とすべきほど問題があるならば、トンデモ医療が横行している自由診療は許されるべきものではありえないが、この付近について、国はダンマリを決め込んでいる。

他方、「社会リスク」はどうであろうか。

がんという病気は伝染するものではないし、副作用はさらに伝染することはない。
その意味では、「社会リスク」ということは本質的には存在しないはずである。

厚生労働省的な社会リスクとしては「医療に貧富の格差が生じる」ということかもしれない。

しかし、効果・副作用が未確認のため健康保険適用できないというものならば、そのような治療を受けることができようと、できまいと「格差」には当たらないはずである。

本当に「格差」が問題となるのは、それが効果を有する(副作用も加味して)場合であり、それならば、健康保険対象にすべきものをしていないという国の怠慢を罪のない他人に転嫁しているということとなる。

少なくとも、一から十まで個人負担の「自由診療」は合法なのである。
混合診療は、一から十までは負担できないとしても、適用外の部分だけならば負担できる患者の救済となるのであり、「自由診療」が認められているわが国では、格差を幾分か解消するもののはずである。

このようなことまで書かなくとも、混合診療(未承認抗がん剤)を違法とするだけの「社会リスク」は見つからないような思うがどうだろうか。

ひょっとして、未承認抗がん剤による治療が広がることにより、その有効性が知れ渡ること、すなわち、厚生労働省が不作為の怠慢を働いていることが知れ渡るという「官僚の自己リスク」を警戒している、これが一番、的をついているように感じるのはおかしいだろうか・・・
(
厚生労働省の怠慢体質は社会保険庁(年金)で十分に公知の事実なのだから今更警戒しても仕方がないと思うのだけれども)

2009年6月15日 (月)

カテゴリー・ミステイク

「心脳問題」(朝日出版社、山本貴光+吉川浩満)なる本を読んでいる。
基本的にこのような本は、時間の無駄になるのでできる限り読まないようにしている。

たいていの哲学者(と称する者)の議論は、用いている用語をきちんと定義していないために(厳密に定義しているつもりになっているが、「概念」などはいくら厳密にしたつもりでも幅が残らないわけがない。厳密に定義しているというのは哲学者の単なる思い上がりである)、生じているものがほとんどであるし、あるいは、単なる無知(例えば、無限の扱いについて、有限のものを無限個足し合わせても無限になるとは限らないという単純な数学的事実を忘れていたり、命題は真か偽のいずれかであるという古来からの素朴な排中律が信じられているが、真とも偽ともわからない命題が無限に存在するこというゲーデルの定理はお粗末な哲学者の理解を超えるものらしい)によるものが目に余るからである。

さらに言えば、事実に立脚しない形而上の議論がいかに非生産であるのみならず、明らかな間違いにより社会を不幸に陥れたという歴史的事実すら忘れている。

心脳問題については、それほど真面目に考えたことはないが、「心」の定義、「脳」の定義、あるいは、脳がわかれば心がわかるという文章であれば「わかる」の定義があいまいなために生じているものがほとんどであるし、そうでないものは、まさしくゲーデルの不完全性定理の一例にすぎないと「直感」している。
さらに言うならば、この世(含む「自分」)が一炊の夢に過ぎないとしても、一炊の夢なのかどうかは不可知(ゲーデルの不完全性定理の一応用)であるから、哲学者諸侯とは異なり、このような無駄なことに人生の一部を割く気にもならないということでもある。

このようなことを書く私が、「心脳問題」という本を読んだのは矛盾ではないかとしかられそうであるが、いかに直感的にアホラシイと判断しているにしろ、心脳問題でどのようなことが議論されているのか・いたのかということをある程度は、知っておくのも悪くはないだろうと、ふと思ったからです。
つまり、がんに効くと称する健康食品について、単に馬鹿らしいと判断するだけではなく(もっとも、馬鹿らしいで十分でしょうが)、その業者のHPを除いて、そのいい加減さを確認しておくことも有意義だろうというのと同じ感覚です。

本全体の感想としては、予想通り、定義に厳格さを欠いているための意味ない疑問や排中律を当然のものとして議論しているための妄想的議論が目につきました。
もちろん、一般向けの本ということで、あえて厳密さを欠かせているのかもしれませんし、単に、筆者が三流哲学者(なのかどうかは知りませんが)であり、きちんとした哲学者ならばこのようなことはないのかもしれません。

このような全体的な感想は別として、中には、言われてみればそうである(=潜在的にはわかっているが、自覚できていなかった)というものや、このような明確な説明方法があるのかというものも、もちろんありました。

その一つが「カテゴリー・ミステイク」という概念(言葉)です。

同書によると、カテゴリー・ミステークとは、
「子供を動物園に連れて行きます。あなたは「これがウサギ」「これがカバ」「これがキリン」といちいち説明してあげるのですが、最後に子どもはこう尋ねます。「わかったよ。それで動物はどこにいるの?」・・・・・・・・・・このようにちがうカテゴリー(範疇、区分、分類)に属する物事を同列に並べる誤り」のことであり、
プラトンの「パイドン」に書かれているソクラテスがアテナイの青年たちを堕落された罪で投獄され(逃げて外国に亡命するのも可能なのに)牢獄にいるのは「ソクラテスの骨と腱が動くことによって彼が牢獄に移動したからか」「ソクラテスが有罪判決にしたがって牢獄に座ることがよいと考えたからか」
も同様の問題である。「脳がわかれば心がわかる」というのも「脳」と「心」という異なるカテゴリーに属するものを同一に扱っているとしている。
(
この説明はWikipediaの説明(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%86%E3%82%B4%E3%83%AA%E3%83%BC%E9%8C%AF%E8%AA%A4)とかなり異なって見えるが、これは単に私が哲学の素人のためであろう。)

私に言わせれば、その前に「脳」「心」がきちんと定義されていない以上、これは正しいとも間違っているとも判断できない空虚な説明である。

さらに、言うならば、「脳」・「心」を異なるカテゴリーであるように定義していれば、正しい命題であるし、同じカテゴリーとなるように定義していれば誤った命題である。
つまり、同書の説明は、つきつめると、単に「異なるカテゴリーは異なるカテゴリーである」という同義反復を述べているにすぎないように思われる。

個人的には、この文章は「わかる」という「同じ言葉」が語る人によって別のこと(別のカテゴリー)をあらわされているだけ、それがより適切な説明のような気がする。

脳科学者が言う「わかる」とは、例えば、「脳の中でどういう物質とどういう物質が相互作用して、どういう細胞とどういう細胞が相互作用し…その結果、個体全体として、どういう現象がおこるのかということが微細にわかるようになり、脳のDNAレベル、細胞レベル…というふうに展開していく現象のヒエラルキーの総体がわかっててきたら、嗜好・情感などという心の現象も、物質的に説明できるようになる」こと(利根川進「私の脳科学講義」)という意味であり、すなわち、心として観察されるものと科学的観察結果(物理的反応システム)が一対一で対応できるようになることなのだろう。
他方、一般人の「わかる」というのは、科学的メカニズムが解明されるということでなくその説明で「納得できる」ということが近いのではなかろうか。
そして、心脳問題では、前半の「脳がわかれば」の「わかる」は「脳科学者」のわかるを、後半の「心がわかる」の「わかる」は一般人(ないし哲学者)のわかるという別のものをあたかも同一であるがごとく扱っているという、その意味でのカテゴリー・ミステイクをしているのではなかろうか。

このように、カテゴリー・ミステイクにおいて、現実的に、一番問題となるのは、同じ言葉にもかかわらず、その中に、異なる多くのカテゴリーを有している場合ではなかろうか。しかも、日常生活では、よほど厳密に言葉を取り扱っていない限り(すなわち、「普通」は)一つの言葉に複数の意味が気づくと気づかざるとにかかわらずこめられている(厳密なはずの哲学ですら、その点に注意しながら見てみると、いい加減なものがほとんどである。逆に、これが現在の人間の「性能」限界ということでもある。)

そして、それに気がつかず、自分一人の発言の間で別々のカテゴリーで用いながら、それに気がつかないために空虚な妄想に陥ってしまったり、あるいは、同じ言葉について互いに自分が使っているカテゴリーが他方とは異なっていることに気がつかずに話をして、相手の発言について誤解してしまう。


これが、多くのもめごとの直接原因ないし潜在的原因となっているように思える。
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がんの治療においても、このようなカテゴリー・ミステイクはあちらこちらで生じている。

患者側が「この抗がん剤は効きますか」(心脳問題に置き換えれば、「心とはなんですか」)という質問に対して、医学側は「XXという作用機序でがん細胞の分裂を妨げるものであり、腫瘍の縮小効果はPRが○%・・・」(「大脳基底部の神経細胞が活動し、その刺激が大脳の前頭葉のXXという部位の神経細胞につながり…」)と答える。
もちろん、実際には、もっと簡単に(つまり、わかりやすいが不完全に)話しているだろうが根本的にはこのようなものであろう。

というより、一般人と医学者という立場を異にする者では、使っている言葉が同じであったとしても、そのカテゴリーは異なっていることが多いように思われる。

そして、医学者においては、自分がどのような意味(カテゴリー)において「抗がん剤の効果」を語っているかはわかっている(なぜならば、大学以降という年長=客観認識ができる=になってから得たものだから)が、ややもすると、世の中には別のカテゴリーがあることも、あるいは、患者が医師のカテゴリーとは異なったカテゴリーにおいて質問していることを忘れているように思える。
あるいは、別のカテゴリーにおける説明は「医師」の領域ではなく(これは、ひょっとすると正しい)、これを行うことは医師の道から逸脱すると思っているのかもしれない。もっとも、これも「医師」という言葉をどのようなカテゴリーにおいて扱うかというカテゴリー・ミステイクになるのかもしれない。

他方、患者のほうは、「普通の言葉」で語っているつもりであることが多そうである。実のところ「普通の言葉」には多くの意味があることが「普通」である。そして、ギリギリの局面で使っている言葉は決して多くの意味がある普通の言葉ではなく、その時点・その患者個人の「特有の言葉」である(はず)ということに気がつかない。

それどころか、「治療に対するアドバイスが欲しい」と言いながら、潜在的な本音は「慰めの言葉が欲しい」「嘘でもいいから安心できる言葉が欲しい」というような、カテゴリー以前の表向きの言葉と潜在的な本音が異なっていることも多いようである。
そして、本人すらもそれに気がつかず、きちんとした治療に対するアドバイスに満足感を覚えないという不幸なこともよく見受けられる。

もちろん、このような「土俵の違い」はいつでもどこでも見られることである。特に、我が国の最高機関と「されている」国会では、質問者と答弁者のカテゴリーが全く異なる意味不明の会話がよく交わされているようである。もっとも、政治通と称する方々によると、あの意味不明な会話にも当事者同士(及び政治通)だけに通ずる意味があるとのことである。
すなわち、同じ言葉を全く別のカテゴリーで使っている意味不明な会話に見せかけて、実は、同じカテゴリーで会話をしているという哲学者には想像もつかない世界らしい。

このような高度な特殊かつ無意味な技術はがん患者には不用であろうが、自分の話している言葉と医師の言葉の発音が同じであっても、まったく別カテゴリーのことがあることや、自分の潜在的本音に自分が気が付いていないために本音と異なる言葉を発しているのに対しての返答を見て、患者じゃないから(=属しているカテゴリーが違うので自分の言葉を理解してくれない)と思ってしまうことも多い。

もちろん、日常会話において、このような厳格さは必要とされることはほとんどないだろうし、また、このようなことに常に注意を払っていると簡単な日常挨拶すらできなくなるだろう。
このようなアイマイさを許容し、利用しているところがコンピューターにはできない(少なくとも、かなり将来までできそうもない)、人間の脳の不思議さである。

とはいうものの、がん治療という重大事において、さらに、その中でもポイントとなるかもしれない場面では、医師と患者で使っているカテゴリーが異なっているだろうことや、患者自身が自分の本当(=潜在的本音)のことに気が付いていないかもしれないことを頭の片隅において忘れないようにしておくことは結構大事なことかもしれない。

2009年6月 8日 (月)

複雑系

「複雑系」という(私に言わせれば)「概念」がある。
類似の概念自体は、例えば、アリストテレスの「全体とは、部分の総和以上のなにかである」のように、大昔からあるものであるが、「複雑系」ということで流通し始めたのは、1984年のサンタフェ研究所の設立のころからと言っていいだろう。
「複雑系」の概念が複雑なのか、きちんとした定義付けは見たことがない。複雑系を主張したり、研究する方であっても、とらえ方に差があり、中には、どこが「複雑系」なのかというものもあるように思える。
一応、Wikipediaでの説明を掲げておく。
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A4%87%E9%9B%91%E7%B3%BB

複雑系
複雑系(ふくざつけい complex system)とは、多数の因子または未知の因子が関係してシステム全体(系全体)の振る舞いが決まるシステムにおいて、それぞれの因子が相互に影響を与えるために(つまり相互作用があるために)、還元主義の手法(多変量解析、回帰曲線等)ではシステムの未来の振る舞いを予測することが困難な系を言う。
これらは狭い範囲かつ短期の予測は経験的要素から不可能ではないが、その予測の裏付けをより基本的な法則に還元して理解する(還元主義)のは困難である。
複雑系は決して珍しいシステムというわけではなく、宇宙全体、天候現象、経済現象、人間社会、政治、ひとつひとつの生命体、あるいは精神的な現象などは、みな複雑系である。つまり世界には複雑系が満ち満ちており、この記事を読んでいる人間自身も複雑系である。ただし研究者にとって具体的な研究成果が出しやすく、書籍などで一般読者などに紹介されやすいものとなると、もう少し小規模の複雑系あるいは限定したものとなりがちで、例えばウイルスの流行状況、大規模交通(フラックス)、バタフライ効果、エントロピー(熱力学第三法則)などが多い。あるいは、パーコレーションやセル・オートマトンなども好んで扱われる。最近では、系の自己組織化の様子をコンピュータにプログラミングして、複雑で法則がないように思える目で見えない発達形成過程を視覚化して把握しようと試みられている。

背景
複雑系は還元主義的なアプローチが適用できない系として有名である。そのため現象を単純な法則や原理に落とし込むことで理解したとする、今までの科学がとってきた基本姿勢に対し、複雑系の分野の研究姿勢はその基本的立場に関して若干の違いを持つ。複雑系の分野を貫く基本スタンスとして「複雑な現象を複雑なまま理解しようとする姿勢」を挙げることができる。
複雑な現象を複雑なまま理解しようとする学問、手法は「複雑系の科学」などと呼ばれることが多いが、その源流に眼を向けると、アリストテレスの「全体とは、部分の総和以上のなにかである」といった言い回しにまで遡ることができる。近代になって還元主義が蔓延すると、それに対して警鐘を鳴らすように、全体を見失わない見解を深化させ、個々の分野で具体的な研究として全体性の重要性を説く論文・著書などを発表する学者・研究者らが現れるようになった。現在ではこうした見解・立場の研究は「ホーリズム」または「全体論」などと呼ばれている。こうしたことに関する哲学的で深い議論は現在でも、哲学の一分科である科学哲学の世界などで行われている。現在のいわゆる「複雑系の科学」などと呼ばれているジャンルは、広義のホーリズムのひとつである、と位置づけられていることが多い。
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私に言わせれば、「宇宙全体、天候現象、経済現象、人間社会、政治、ひとつひとつの生命体、あるいは精神的な現象などは、みな複雑系である」とあるが、単に、これは現在の人間の認識・判断・処理能力と「比して」複雑すぎるということを述べているにすぎない。

昔において、複雑で人間の理解の届かないと思われていたもので、その後の科学や技術の進歩により認識・判断・処理能力が高まり、原因やプロセスが解明されてみると、人間により十分に理解可能・予測可能(単純型?)になってしまったものも多数ある。

逆に、ほとんどのものが、そのまま全体として扱うには、「人間にとって」複雑すぎるが故に、単純化・近似化(例えば、合理的経済人などほとんどの経済学で、その基礎に単純化・近似化した概念を「与件」として使っている)したり、全体をコントロールして変化させる要素を絞り込む(例えば、他の環境条件を一定とし、温度変化の影響のみを見る)ことにより、近似的に、あるいは、全体の中の一面を理解可能にしようとしてきたというのが正しい認識であろう。
なにも、ものごとが単純であると思うから、単純な把握をしようとしているのではなく、複雑すぎるので、単純化してその一面を理解し、それらを積み重ねることにより全体に迫ろうとしているということであろう。

さらに言うならば、中世を中心に、全体を論じようとして、事実と反することを含む「概念」(そもそも人間の能力で全体を把握しえないのであるから、全体を論じるとなれば、把握できない部分も含めてわかっていることするしかない。であれば、事実と反することが含まれてしまうことは不可避である)を戦わせてしまい、不毛だけならばいざしらず、それが、実際に生きている人間や社会にとってマイナスとなってしまったことへの反省もその根底にはあるのではなかろうか。

真実に迫るためには、神ならぬ人間にとっては、単純化・近似化が不可避であるとして、その有用性、すなわち、「個」を積み上げることにより「全体」を示せるのか、それとも、「全体とは、部分の総和以上のなにかである」のか、そのどちらが正しいのであろうか。
これについては、そもそも真実の「全体」が人間の能力では把握不可能である以上、正しいのか間違っているのか、明らかになるはずはない。

ただし、次のように考えることはできよう。

どのようなものについても、その見方・切り口を無限に持つはずである。
他方、人間が単純化することにより、一つの見方・切り口について完全に知りえたとして、さらに、多くの見方・切り口について知りえたとしても、有限個にすぎない。
したがって、個をいくらつみあげてもまだ「残り」があることは自明であろう。

ではあるが、知りえた見方・切り口が全体に占める割合が多いならば、全体のうちの大きな割合を知りえることになろうし、また、知りえた見方・切り口が増えれば、その分、「残り」は少なくなるだろう。
あとは、これを積み重ねることにより、「残り」を限りなくゼロに近づけることができるのか、その以前に限界にぶつかるのかということである。
多くの科学者は、限りなくゼロに近づくことができるという思想・信念のもとにあるに違いない。
私も、この思想・信念は共有するものであるが、根拠があるものではない。
ただし、まだまだゼロまでは距離があり、単純化の積み重ねにより、着実に「残り」を減らせている現時点で、この当否を問うても単なる不毛な哲学論争になるだけであろう。

さらに、この点と予想・予測について考えると次のように言えるのではなかろうか。
当然ながら、単純化・近似化により得られた知見により、全体の内容が分かるほど、予測精度はあがるであろう。しかし、常に「残り」はあるのであり、この「残り」の部分が決定的な役割を果たし、その結果として、予想外の結果が生じることは当然あり得ることである。
ただし、知見が増えて、知りえている範囲が増える(残りが小さくなる)ほど、予想外のことが生じることは少なくなることとなろう。

なお、単純なことの結果が、複雑なものとなることはいくらでもある。
これについて、「複雑系」の研究者を称する人には、あたかも特別な驚くべきこととでもいうようなことが多いが、これは「複雑系」のためではなく、当該研究者の「単純性」の結果に過ぎないように思える。
逆に、単純型を扱っている研究者は、現実が「複雑」であることを不当なことと思いがちである。例えば、合理的経済人しか扱わない経済学者の中には、実際の人間が不合理な行動をとることを「けしからぬこと」と見なす方もいるようであるが、そもそも、人間は決して合理的経済人ではない複雑な存在であるが、これでは、経済学者の手に余るために、近似として、合理的な人間という仮定(単純化・近似化)をしたのである。間違っては困ってしまう。

それにしても、「複雑系」というのは魅力的な概念であるが、残念なことに(複雑系の研究者はいろいろな大きな成果が得られていると言ってはいるが)私が見たところ、たいした成果はあげられていない。
よく考えてみれば当たり前である。「全体」を扱うのは人間の能力から困難であるから単純化・近似化によるアプローチにつとめている段階である。少なくとも、現時点で得られている単純化・近似化による成果の積み重ねでは、まだ不十分であるということは正しいとしても、だからといって、人間の能力を超えている「全体」に一気に迫ろうとしても、大きな成果があがる可能性は低いだろう。
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抗がん剤治療も複雑である。

がんの種類によって効果の出る可能性はかわるし、効果の出る可能性の高い抗がん剤であっても患者ごとに異なる。
さらに、同じ患者に対して、ある抗がん剤が効かなくなっても別の抗がん剤と組み合わせると効果が出ることは、それなりにある。
逆に、組み合わせて使っていた抗がん剤が効かなくなっても、種類を減らして、その分、薬量を増やせば効くこともある。
同系統の抗がん剤であれば、ひとつが無効ならば、他の抗がん剤もたいていは効果が出る可能性は低い(交差耐性)が、交差耐性が低いものもある。
さらに、放射線など他の治療との組み合わせということもありえる。

効果について、少し考えただけでも、いろいろな要素があるが、副作用というファクターも当然ある。

さらに、主治医など医療側の方針(価値観)や、患者の価値観も多様である。

また、抗がん剤治療は進歩中であり、毎年、治験などにより新しいデータが示されたり、新薬が出たりする。
新しいデータといっても、被験者数などによりその信頼性は異なってくる。新薬も当初喧伝されていたよりも実際の効果が「何故か」低いということも、ままあるらしいので、このようなことに対する注意も必要とされる。

しかも、治験データは、ある抗がん剤(の組み合わせ)を、ある一定量(ルールに基づく減量ありというものもあるが、減量ルールは単純なものでしかない)投与した結果を、数個の尺度に基づいて評価した、いわば、一点に対するものにすぎない。そして、広大な抗がん剤治療の中で、これまでに得られている「点」の数は極めて少ない。
例えば、効果は認められるが副作用が許容できないため、減量せざるを得ない場合、薬量80%ならばどの程度副作用が低減する可能性が高く、効果はどの程度の低減が見込まれるのか、といったデータはないと言って過言ではない。

そして、標準的治療は、この程度にすぎない「点」データをもとに、しかも、信頼性の高いデータにしぼった上で、かつ、医学的観点のみという立場において、一番ベストのもの(しかも統計上であるので個々の患者ではやってみないとわからない)という、近似化・単純化というのすらはばかられるようなものにすぎない。

ただし、誤解されては困るのは、どこかのU澤医師のように標準的治療が「悪」のごときことをいうつもりはない。

そもそも、EBM(Evidence based Medicine)の重要性が認識される前(日本では、ほんの十年程度前)までは、このような点データすらも考慮せずに、医師がその経験のみに基づく治療(もっと正確には教授に指示されたとおりの治療)を行っており、その結果を客観的にデータで反省してみたら、余命延長にほとんど寄与が認められないという悲惨なものであったのである。さらに言うならば、実態が悲惨ということすら認識されていなかったのである。

このことから、個々の医師の経験と勘のみに基くのではなく、データ(エビデンス)に基づくべきであるということで、EBMさらに、(信頼性が高い)エビデンスの中から、一番、医学的に良いものを標準的治療とするものであり、これ自体は、立派な努力であり、悪口雑言の対象とは思えない。
もちろん、あくまでも個々の患者が、平均データであるわけはないのであるから、これをベースに調整がなされるべきだろうし、それを怠る病院・医師に対して、悪口雑言を言うのであれば意味はあろう。

ただし、U澤医師が「悪質」なのは、標準的治療の成果が残念ながら高くないのを責めるのはいいが、評論家でなく、医師である以上、より良い方法を提示できなければ無責任であろう。)
どうやら、本人は自分が行っている「わけのわからない」治療(本人が理由にならない理由で、具体性のない定性的なこと(一般的には「お題目」という)しか明らかにしない以上、これは名誉棄損には当たらないと考える)が優れていると称するものの、その具体的なデータは隠したままである。少なくとも、相手に対して、そのデータに基づき批判し、自分のほうが優れていると称するならば、当然、自分のデータを示さないのは、嘘ツキか、ダブルスタンダードの卑怯者であろう。

さらに言うならば、過去、抗がん剤治療の成績が悲惨だったことは、よく書かれているので、データで検証を行わない個々の医師の経験のみに基づく唯我独尊の治療の危険性を知っているはずなのに、その矛盾には黙して語られない。

もちろん、U澤医師の信者の方々には無視していただいて結構であるし、U澤医師に超能力があり、個々の患者に適した抗がん剤は一目でわかるという「可能性」は否定はしないが。
(
ちなみに「黙って座ればピタリとわかる」という易者を私は信用しないが)

かなり、脇道にずれてしまったので、もとに戻す。

標準的治療は無視すべきものではないが、ほんの少しの点データから選んだというものにすぎないというそれが絶対であり修正が許されないとするには「貧弱」すぎるものである。

点データとても、ないのとあるのを比較すれば大違いである。
といって、単純系(単純化・近似)ほどの内容や精度があるわけではない。
これが、現在の抗がん剤治療の医学的レベルなのである。

したがって、それが、複雑系である抗がん剤治療をきちんとあらわしており、それを適用すればそれなりの近似解が得られるというものではない。

抗がん剤治療は、治療自体が未熟であり、現在進行形のものであるが、さらに、その時点で実現している抗がん剤治療の何が個々の患者にとってベストであるかもわからない。

であれば、どんなに貧弱なデータであろうと、それをベースにした上で、さらに、患者ごとの効果・副作用という個々の現実に即して、より良いと思われる方法に修正しながら行っていただく。
これしかないと思うが、どうだろうか。

当然ながら、患者側において、データ点から離れる、すなわち、多少は別として未知の領域に入ることに対するリスクを受け入れることが大前提であることは忘れてはならないが。

2009年6月 1日 (月)

「ホウレンソウ」でのキーワード

ビジネスに限らず、医師と患者の間の「ホウレンソウ(報告・連絡・相談)」の重要性は何回か書いてきたはずであるし、また、患者側はメモを用意しておくと良いということも書いた。

ところが、現実のホウレンソウでは、一番大事そうなポイントは別として、二番目とか三番目になると忘れたりする。
あるいは、後になってから、ホウレンソウに入れておくべきだったことに気がついたりする。

そういえば、ホウレンソウの重要性はよく言われているが、効率的・効果的・有効なホウレンソウのやり方(具体的にホウレンソウすべき内容の選択)は目にしたことがなかったように思える。
具体的な内容が不明では、ホウレンソウはただの念仏になりかねない。信・不信は問わず念仏を唱えれば救われるという宗派もあるようだが、仏の世界はいざ知らず、現実の世界では、きちんとしたホウレンソウでなければ、「あいつはホットけ」になりかねない。

日経ビジネスの連載コラム「熱血Dr.の診療日誌」に江田証氏(江田クリニック院長)が「患者版「ホウレンソウ」の心得」という記事を書かれていた(日経ビジネス2009518日号)ので、一部を抜粋させていただく。
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ビジネスの世界で要領の良い「ホウレンソウ(報告・連絡・相談)」が円滑な業務遂行に不可欠なのと同様に、良質な医療を受けるには、多忙な現場で働く意志と上手にコミュニケーションを取ることが重要だ。事実、米国では、より良い医療を受けるための患者教育が学校などで行われている。
では、医師とのコミュニケーションを円滑にするためには何が必要か。まずは症状を簡潔に伝えることが重要だ。話が飛んでまとまらないと、医師に敬遠されるだけではなく、正しい診断をしてもらえず、命を落とす恐れもある。
ここで、症状を伝える上で役立つキーワードをお知らせしたい。それは、表に示した「LQQTSFA」である。Hさんの腹痛を例にまとめてみた。

「LQQTSFA」のまとめ方

キーワード

意味

Hさんの腹痛の例

L(Location)

場所

みぞおちから右下腹部に痛みが移動していった

Q(Quality)

性質

しくしくと痛む

Q(Quantity)

程度

今までに経験したことがないほど痛い

T(Timing)

時間

痛み出したのは昨日。食事時間とは関係ない

S(Sequence)

経過

どんどんと痛みが強くなる

F(Factor)

関連要素

食べ物との関連はない

A(Associated

  Symptoms)

随伴症状

高熱とは聞け、嘔吐がある。便は正常


Hさんの症状を聞き、私は虫垂炎と診断した。決め手は「Location(場所)」だった。虫垂炎は最初にみぞおちが痛くなり、時間とともに痛みが右下腹部に移動する。初期に嘔吐があるために、「胃腸炎」と誤診されることが多い。
この「LQQTSFA」は、あらゆる症状を伝える上で有用である。メモを書いてきてくれる患者もいるが、冗長で要領を得ないと、かえって時間がかかってしまうと思う医師は多いのだ。
「LQQTSFA」を基に「医療リスクマネジメントメモ」を作り、診察時に提示すると、医師の判断の助けになる。日本の患者の医療リテラシーもきっと上がるだろう。
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医療でもホウレンソウが重要なことはいうまでもない。
特に、副作用については、「気分の悪さ」とか「吐き気」や「しびれ」など患者本人にしかわからないものも多い。これらは、患者が医師にきちんとホウレンソウをしなければ、医師には伝わらない。
もちろん、医師にとっても、適当な対症療法がなく(例えば、吐き気は多くの場合、吐き気止めにより対応できるが、しびれでは、試してみる価値のあるものはあってもそれほど有力なものはない)、また、かわる有力なレジメンもないため、どうしようもないものもあるかもしれないが、対策があるものもある。
少なくとも、副作用があることを医師に伝えなければ始まらない。
効果については、患者の主観とか、単な好不調の波にすぎないことも多いだろうが、経験豊富な医師ほど、客観的な検査データと組み合わせて、より深く・適切に効果の判断をすることができるであろう。

ホウレンソウが重要であることは間違いがないとしても、適切なホウレンソウとはどのようなものかについては、患者側で知ることは難しい。

確かに、吐き気一つをとっても、投薬直後から吐き気があったのか、数時間後なのか、次の日の朝なのかということで判断は異なるかもしれない。
もちろん、吐き気といっても、その程度もあろう。さらに、食事についても、食べていない~消化の悪い脂ぎったものをいっぱい食べてしまったまで色々だろう。ひょっとすると、副作用と思っていたら、軽い食当たりだったのかもしれない。

適切なホウレンソウについて、具体的に「LQQTSFA」というキーワードでまとめられたものを見ると、自分のホウレンソウについても、重要だと思ったことは伝えているものの、LQQTSFAの全てではなく、ポイントであったかもしれないことが抜けていたこともあったのでないかと反省している。

しかし、なによりもこの記事を歓迎するのは、このような情報発信を医師側がしてくれることである。
さらに、この「LQQTSFA」が(アルファベットでは「とりつき」にくいので、うまく翻訳して)多くの病院の待合室に掲示してあり、また、持ち帰り用のチラシが置いてある・・・こうなれば、日本の3分間医療でも多少は内容が濃くできるのではなかろうか。

患者に対して、説明の要領が悪いと一方的に言うだけではなく、このような、より良い患者に育てる努力(それも、待合室掲示やチラシならば手間はかからない)に医師側も努力をお願いしたい。

なお、この記事について、二つの大きな不満がある。

ひとつは「メモを書いてきてくれる患者もいるが、冗長で要領を得ないと、かえって時間がかかってしまうと思う」のは事実かもしれない。
しかし、メモもなく、冗長で要領を得ない説明を口頭でやられるのと比べてほしい。
多分、要領の良いメモならば1分で済むところ、冗長で要領が悪いメモならば読んで理解するのに数分かかり、不足している情報を得るための質問・回答にさらに数分間かかるかもしれない。しかし、冗長で要領を得ない説明を口頭でやられるならば、これだけで十分や二十分はとんでしまうであろう。
また、患者側のメモを作るという前向きの努力に対し、思っているとしても「かえって時間がかかってしまう」などというマイナス評価(しかも、実態は時間節約になるはず)を一般向けの雑誌に書くというのは、江田医師に驕りを感じるというのは言い過ぎだろうか。このようなことは書かずに、ホウレンソウでポイントを落とさないためにはというだけで十分なはずである。

もう一つの不満は、極めて簡単である。
患者側から医師へのホウレンソウが下手であるとしても、患者は素人であり、やむを得ない面もある。このために、このような啓発記事は大事である。
ところが、玄人のはずの医師から患者側へのホウレンソウがきちんとどれだけなされているだろうか。
一般誌なので、患者から医師へのホウレンソウがメインであることは理解できるが、医師から患者へのホウレンソウについて一言も触れられないのは疑問が残る。
医師が患者に対して、しっかりしたホウレンソウをしているならば、患者側にも自然とホウレンソウに対する姿勢が備わるはずである。
もしも、患者へのホウレンソウを軽視しているならば、そのような医師に患者から医師へのホウレンソウが下手だとは言ってほしくない。
江田医師が患者に対するホウレンソウの達人であることを祈る次第である。

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