2009年11月
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30          

最近のトラックバック

« クルーグマン「謝罪!?」 | トップページ | 「効用の最大(?)化」と「病院選択」 »

2009年5月11日 (月)

ルールべースとプリンシプルベース

最近、金融規制や会計監査の世界でプリンシプルベースという言葉を目にするようになった。

検索で調べてみたら、昨年の4月に金融庁が「金融規制の質的向上(ベター・レギュレーション)の大きな柱の一つとして、「ルールベースの監督とプリンシプルベースの監督の最適な組合せ」という考え方を示し、プリンシプルベースの監督の基軸となる主要なプリンシプルについて、関係する金融サービス提供者の代表の方と議論を重ねてきました。今般、「金融サービス業におけるプリンシプル」をとりまとめましたので公表します。」とのことなので(http://www.fsa.go.jp/news/19/20080418-2.html)、つい最近はじまったものではないようである。

ところで、プリンシプルとは広辞苑でひいてみると、「
1 原理。原則。根本。2 主義。建前。」となるが、上記、金融庁の公表資料を参考にするならば、「法令等個別ルールの基礎にあり、個人や組織(行政を含む)が物事を行う(行わない)にあたって、尊重すべき主要な行動規範・行動原則と考えられる」。そして、プリンシプルベースの規制・監督とは、「上記のようなプリンシプルに沿って、個人や組織がより良くなるように自主的な取組みを行っていくことに重点を置いていく規制・監督の枠組みである」ということになろう。

ところで、最近、マニュフェストが流行している。これについて、朝日新聞土曜版(5月9日)に次のような記事が載っていた。適宜、省略させていただくが・・・
-----------------------------
「毎日、漢字テストをする」
「宿題を全クラスで統一して、学力のぱらつきを防ぐ」
出席した主婦は、今年度の「学校マニフェスト」に感心しきりだった。
学校からマニフェストをもらうのは3度目。当初は「夢を持てる子供に」「のびのびと生活させる」など当たり障りのない表現ばかりで、やる気が感じられなかった。
どんな政策を、いつまでに、どうこなすかマニフェストは、数値目標や財源を示した公約集だ。言葉自体は浸透し、いまや選挙だけでなく教育の現場でも使われている。
以下、マニュフェストについていろいろと書かれているが、ここでは省略させていただく。
--------------------------------
この例でいえば、毎日漢字テストだとか宿題の全クラス統一がルールベースであり、夢を持てる子供とかのびのびと生活というのが、プリンシプルベースである。
ちなみに、マニュフェストは実行したかどうかがチェックされなければならないので、プリンシプルベースにはなじまないだろう。

これまで、ほとんどの行政規制はルールベースでなされてきた。
これは、ある程度詳細なルールや規則を制定し、それらを個別事例に適用していくというものであり、行政の恣意性の排除あるいは規制される側にとっての予見可能性の向上といったことによる。
先ほどの学校のマニュフェストで言えば、「夢を持てる子供に」ということを実行しているかどうかの判断には恣意が入るだろうし、父兄にしても、具体的に何がなされるのか予見できないだろうし、逆に、学校・教師にとっても、どこまで行えばマニュフェストを順守していることになるのかあいまいだろう。逆に「毎日、漢字テストをする」ならば、それを守っているかどうかということが明らかである(もっとも、人間が作るものなので100%ではない。例えば、終業式の日は“毎日”に入るのか)。
プリンシプルベース(夢を持てる子供に)では、法律も規則も変わらないのに、あるときまで問題なかった内容が、解釈(恣意)が変わったとたんに不充分(違法)とされてしまうかもしれない。これでは社会生活が不安定になってしまう。

しかし、ルールベースだけでは問題が起きるかもしれない。
第一に、すべてのことをルールにすることは不可能であり、必ずルールには隙間が生じてしまうということである。例えば、「毎日、漢字テストをする」としても、算数は?理科は?体育は?・・・
全ての科目にこのようなルールを作ったとして、漢字の書き取り以外の国語力はどうするのか。
次に、そもそも「夢を持てる子供に」というような要素(学校において勉強と並んで重要なもののはず)はルールにすることが困難ではあるのに、極めて重要なことが存在し得ることである。一般的に言えば、定性的なことについてはルールベースは対応しにくいはずである。
また、社会が変化した場合、対応するルールが存在していないことがあり得ることである。もちろん、ある程度、確実かつ大きな変化ならば、事前にルールを定めることができるかもしれないが、この変化の激しい社会では無理なことが多いだろう。また、変化に応じて、ルールを追加・変更していくとしても、それには時間が必要であり、ルールと社会の間に隙間が生じてしまう。
さらに、世の中には、常に例外的なこと・稀なことが生じ得る。このようなことを全て包含したルールは、あまりにも巨大すぎてその内容を把握することができないか、あるいは、ルールベースというには、あまりにもあいまいなものを含まざるを得ないはずである。
なお、どんなに厳密に定めたルールであっても、解釈の余地はゼロにはなりえないだろう。

逆に言えば、プリンシプルベースならば、プリンシプルに照らして判断していけば良いので、これらの問題は解決するが、恣意性・予見不能性という問題が起きることは述べたとおりである。
なお、プリンシプルベースといっても、実際には、これを
補足するセミ・プリンシプルが設けられたり、あるいは、その一部がルール化されたりすることもあるだろう。

プリンシプルベースでは、ここはプリンシパルを設ける側と適用される側がプリンシプルを共有していることが重要なのは当然である。プリンシプルの存在を知らない者にこれを適用することは困難である。また、プリンシプルの共有により、予測可能性や透明性が向上していき、プリンシプルベースの欠点が緩和されるであろう。

最後に確認しておきたいことは、ルールベースとプリンシプルベースは、背反するものではなく相補うべきものであるということである。

強制力(罰則)を伴うものはルールベースでなければならないだろう。プリンシプルベースでそのあいまいさに由来する避けられない解釈の違いで罰せられては困ってしまう。主権在民の民主国家の基礎であろう。
他方、ルールには隙間が存在せざるを得ないし、また、重要であってもルールにはそぐわないもの(定性的なもの、特に、倫理)もある。さらに、どのように厳密にルールを作ろうと常に解釈の余地は残る。
プリンシプルを明確に示し、これを共有することにより、罰則を伴うルールほどの強制力はないかもしれないが、ルールの持つ欠点を補うことができるであろう。
さらに付け加えるならば、プリンシプルをきちんとしておくことは、ルールを作る際にも一貫性を保ち、バランスがとれた、また、落ちが少ないルールとすることができよう。
***************************************
我が国の医療行政には、混合診療の禁止をはじめ、そもそも法令の根拠もない不透明きわまりないものがウヨウヨしており、民主国家の行政の体をなしていないので、ルールベースとかプリンシプルベースとか論じる前の世界である。
あほらしくて、論評する気にもならない。

ということで、がん治療について考えてみる。

そもそも医療なるものは、最近まで、そして現在でもその多くは、ルールベースというよりはプリンシプルベースの行いであるように思う。

もちろん、医師であれば、百人中九十九人は同じことを行う、逆にいえば、行わねばならないものは数多くあろうし、それはルールベースと見ることができよう。

しかし、たいていのものは、経験に基づき、医療のプリンシプル(患者のプラスになるように努める)に沿った対応がなされるし、現時点の医学では、それが最も有効というのが現実であろう。
逆に考えると、ルールベース「だけ」で対応できるならば、分厚い医療大百科とかルールを覚えさせたコンピューターさえあれば、医師は必要でなくなってしまう。
もちろん、医師(でなくとも)が、自分の専門外や最新の知見を調べるのにコンピューターは有用であろうが、医師よりもコンピューターを信じる人は少ないだろう。
もっとも、コンピューターよりも劣るお金儲け家が大好きな医師も少数ながら存在しているらしいし、医師よりもコンピューターの向こうにいる得体の知れない業者を信じている患者・家族もいないわけではないが。

では、いわゆる標準的治療はルールベースなのか。
まず、標準的治療のエビデンスとなる治験はルールベースであろう。投薬量や方法、効果や副作用の判定を各医師が経験に基づき行われたならば、客観性のある(=一般性がある)結果は得られにくいであろう。
しかし、これはあくまでも、一定レベル以上の治験で最も成績が良かった治療を示すものにすぎない。

標準的治療であっても、本来は、医師の経験と個々の患者(全身状況、投薬後の状況、患者の性格など)に応じた修正がなされるのが本筋のはずである。
でなければ、医師は不必要でコンピューターで十分である。
もちろん、標準的治療が極めて効果が高く、極めて副作用が低いというならば、この限りではないだろうが、現在の医学水準はこのようなものではない。

プリンシプルベースであるとしても、具体的な治療が違えば、効果・副作用には当然、差がある。最近までは、これらについては、医師が伝承(先輩医師(含む医学教育)の経験)と自分の経験によっているのが普通であったが、それを科学的に検証してみると想定外の結果が出るものもあった。
最近、目にした範囲では、予防目的の日常のうがいについては、単なる水ならばプラスであるが、ヨード(うがい薬)を入れるとかえって逆効果などというものがある(この治験がどこまで確実なものかはわからないが)。
ということで、プリンシプルベースの治療を支えるものとして、治験による客観的なエビデンスの重要性が認識され、その一つの結果が標準的治療ということになる。

エビデンスといっても、その重要性が認識されたのは比較的近年である。したがって、全ての医療にエビデンスがあるわけではないし、新薬治験ならば、最終的なエビデンスというより途中段階の仮のエビデンスとでもいうようなものもある。

標準的治療にしろエビデンスにしろ、プリンシプルベースの治療を進める上で、基礎となり支えるものであるとしても、全てではありえないし、ルールベースの治療などというのは遠い将来の夢なのである。
もちろん、十分な知識・経験がない医師ならば、標準的治療を行うのが一番無難であろうし、患者にとっても得策である可能性は高いだろうが。

ところで、プリンシプルといっても、「患者のため」という根本は同じであっても、それに基づく病院なり医師のセミ・プリンシプルは多様であり得る。
積極的な治療から緩和中心の治療、患者に詳細な(時には、ショッキングな)説明をするのか、必要な範囲で説明するのか・・・
少なくとも、現在のがん治療においては、早期がんなどを除けば、どれが絶対に正解というものではないだろう。
しかし、患者においても、プリンシプル(どのような治療を受けたいのかなど主観)はある。
医療側と患者側のプリンシプルがマッチしていることが、治療時の精神的QOLに重要であるが、残念ながら、そのプリンシプルを公表している病院・医師は少ない。このために、K立がんセンターは最高水準のがん治療を行うことをプリンシプルとしていると勘違いされることが多い。(K立がんセンターは治験もしているがその割合はかなり低い。標準的治療をキチンとしてくれる病院であるが、それだけと思っているほうが確かである。十年前ならば、ほとんどの病院でいい加減な抗がん剤治療しかなされていなかったので存在価値はあったであろうが、現在ではたいしたものではない。なお、標準的な治療(治療の王道)についてセカンド・オピニオンを求めたいならばお勧めできるが。)

脱線するが、医療事故訴訟(本当に医療事故なのか、さらに、事故であったとしても、医療の現状からみて許容範囲と思われるものを、悲しみの転化なり実態解明(これは訴訟制度の目的ではない)という、極端に言えば「憂さ晴らし」としか見えないものが多すぎる)により、医療関係者が萎縮し、ルールベース以外のことをしなくならないか心配である。

話は変わるが、論外の医療行政である。
どのようなプリンシプルを持っているのだろうか・・・
患者のためというプリンシプルをお持ちとはとても見えないし、医療業界を保護するというより崩壊に導いているとしか見えない。
もちろん、法令なくして規制なしという行政の常識がわかっていないのだから、法律を守ろうとしているとも思えない。
多分、制度を変えるのは大変なので、医学水準や社会が変化しても、医療制度は変更しない(墨守)、そのために、患者(国民)がマイナスを被ろうと、あるいは、医療が崩壊に近づこうと関係ないということだろう。
さらに、政治家やマスコミにいろいろといわれると、プリンシプルがないので平気でその場限り、無定見・無貞操な対応を行っても恥じない。
つまり、自分たちすら良ければというのがプリンシプルのように見える。

このため、法令に基づかないルールでしか物事が行えない。(法令の根底となるプリンシプルがないのだから)
しかも、ルールを社会変化に応じて変更しようともしない。

薬の研究開発の速度向上という変化にもかかわらず、それに応じた国内治験体制の整備はしない。
そのため、新薬の承認遅れ(そもそも承認申請すらされないというジャパン・パッシング減少も)を招いている。

はっきりといって、国内治験が必要などという日本人特殊論は放棄すべきではないか。
国内治験のレベルの低さを考えるとなおさらであるが。
さらに、本当に国内治験が必要ならば、マスコミでとりあげられた新薬や大臣のお好みの新薬を、意味ある治験とはとても言えない少数治験だけで承認するなどということはやめるべきではなかろうか。
どうも、言っていることではなく、やっていることを見る限りでは、国内治験は、単なる制度墨守と万一日本人特有の副作用があったときの「逃げ」以外のなにものでもない。
そもそものプリンシプルが「自分たちすら良ければ」であるとすれば、言行不一致を指摘しても意味がないかもしれない。

最後になるが、患者自身においても、自分のプリンシプルをはっきりさせることが必要であろう。
そして、それをルール化(具体化)していく。

「怖いことは知りたくないので無知のままでいたい」というプリンシプルのもと、「医者任せ」というルールを作り、それに従うのも一つの考えであろう。

私は「(それが結果としてマイナスとなる可能性が高くとも)前向きに進むし、進めなくなったら、前向きに倒れて少しでも前進する(ような生き方をするように努める)」というプリンシプルのもと「プラスよりもマイナスの可能性が高くとも、治療があればチャレンジする」というルールでこれまでを過ごしてきた(過ごそうと努めてきた)。
また、「現実を直視し、合理的な判断に努力する」というプリンシプルのもと、いかがわしい治療や健康食品は拒否してきたし、それ以前に、それを支えるための基礎を得るための勉強に努めている。このためにネットというもののありがたみを痛感している。

プリンシプルとその実現のための具体的なルール。
なにもない普通の日常生活ならば、このようなことを考える必要はないかもしれない。
しかし、真剣に何かを行おうとするならば、この両者は欠かせてはならないと信じるがどうであろうか。

« クルーグマン「謝罪!?」 | トップページ | 「効用の最大(?)化」と「病院選択」 »

全記事」カテゴリの記事

粘る稀ながん患者の独善的コラム」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/151351/44971803

この記事へのトラックバック一覧です: ルールべースとプリンシプルベース:

« クルーグマン「謝罪!?」 | トップページ | 「効用の最大(?)化」と「病院選択」 »