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2009年5月25日 (月)

なぜ、新型インフルエンザが見つかったか?

国内初の新型インフルエンザは、国内で人から人への感染が生じていた状態で、かつ、高校バレーボール部を中心にセミ・パンデァックに至ってから見つかった。

ということで、「なぜ、新型インフルエンザが見逃されたのか?」という題名で記事を書こうかと構想を練っていた。

筋としては、

1.「空港等での水際対策→潜伏期などにより水際で発見されなかった者が見つかる→隔離治療→当然ながら、完全はありえないので、それでも人から人への感染→封じ込め→蔓延期の対策」という最も起こりえるシナリオが想定されていた。
2.
医療資源などには限りがあるので一定のシナリオを作り、資源配分の最適化を図ることはやむを得ないし、全ての入国者を一週間隔離・観察することもできないことを考えれば、これはおかしくない。
3.
また、シナリオ自体は自然であり、水際対策がどれくらい有効化というような各部分の評価は別とすれば、おかしなものではない。私も、最初は、水際から漏れた者でなく人から人への二次(以降)の感染者が最初に見つかったのはびっくりした。
4.
これはシナリオを信じすぎてしまい、患者のフィルタリングに「渡航歴」をつけてしまったためである。医療資源から、フィルタリングを行うことはやむを得ないことかもしれないが、そのリスクも認識しておかねばならなかった。
5.
抗がん剤治療でも、治験や治療経験をもとに、最も起こりえるシナリオを想定し、特に注意すべき副作用を考えておくことは有意義であるが、シナリオ通りにいくとは限らないので、シナリオが100%と勘違いすべきではない。

というようなことを考えていた。

ところが、日経メディカルオンラインに「なぜ渡航歴ない新型インフルエンザ患者を拾い上げることができたのか?」という題名で、「国内1例目の新型インフルエンザ感染者が確認された。患者には渡航歴がなかったため、なぜPCR検査が行われ、拾い上げることができたのかについて話題になっている」として「この点について、静岡がんセンター感染症科部長の大曲貴夫氏に解説してもらった」記事が載っていたのをたまたま目にしてしまった。
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 ひと言でいえば、現場の医師の感覚はやはりするどい、ということだろう。

 現在 日本で主に流行している季節性のインフルエンザはB型で、A型は流行していない。それなのにクリニックの医師が診た高校生は、迅速検査でA型陽性だった。この地域の高校生の間でこの時期にインフルエンザ様の症状を訴える方が増えているとの情報もあったようで、これはおかしいと、検体を公的な検査機関に送ったのではないか。

 検査までには3日かかっている。これについては、おそらく検査機関が渡航歴のある発熱外来受診者の検体のPCR検査を優先したのだろう。渡航歴のない人の検体が後回しになるのは自然なことだ。

 今回の事例について、「PCR検査をするまでに3日かかった」と、またもや非難論調が出ている。しかし私たち医師はそこを問題視するのではなく、全国的にはむしろB型インフルエンザが多いこの時期に、A型が限られた地域で多発していることに対して「何やら異常である」という感覚を持てることの重要さを、この事例から改めて学ぶべきだと考える。
(
以下、略)
http://medical.nikkeibp.co.jp/leaf/mem/pub/opinion/orgnl/200905/510717.html
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この記事では明確に書かれていないが、地域の医師間では、この時期にしてはインフルエンザ患者数が多いとか、A型の率が高めということが話題になっていたそうである。

つまり、国の定めたシナリオがどうであれ、実際の現場データーに不審な点があるということで、ある病院の医師がシナリオよりも現場データーを重視してPCR検査を依頼していただいたおかげで、流行が、高校バレーボール部中心のセミ・パンディアック段階で新型インフルエンザ患者を拾い上げることができたということであろう。

もしも、国がシナリオに基づく対策に力を入れる(これは必要であるし、限られた医療資源からやむを得ないことだろう)だけでなく、そのリスク(シナリオ通りに進む可能性が高くとも「絶対ではない」)も念頭に置いていれば、例えば、インフルエンザ(症状)の発生数やA型の比率を地域ごとに把握して「変なデーター」はないかということをチェックするようなシナリオ以外のことに対する警戒網をはっておくような補足対策がなされ得たはずと思うがどうだろうか。

もっとも、現場のことを知らず、ただトップ・ダウンの指示・監督しかできない厚生労働省の立派な医師免許をもった「役人」には、このようなボトム・アップ型の対策は発想のはるかに外かもしれないが。

この記事を読んでいるうちに、なぜ見つからなかったのかということを追求するよりも、なぜ見つけられたのかということから教訓を汲みだすほうが建設的に思えてきて、本記事の題名を「なぜ、新型インフルエンザが見つかったか?」に変更したのである。
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ところで、抗がん剤治療にしても、エビデンス(及びその医師の経験)から、効果や特に副作用について、もっともありそうなこと(シナリオ)を念頭に置きつつ治療を進めていくことは重要であるし、副作用の予防・緩和対策や見落としを防ぐためにも重要だろう。

しかし、個々の患者はシナリオではない。
いや、シナリオは平均値であり、平均値とまったく同一という患者は少数派ではなかろうか。
シナリオがどうあれ、個々の患者ごとの状態(インフルエンザの例でいえば、この時期にしてはインフルエンザ患者が多い)を全体的に把握して、変なことが混じっていれば、対応なり注意深い経過観察をする。

シナリオは、よしんばどのように優れたシナリオであってもシナリオにすぎない。
目の前で展開されている事実を観察し、おかしなことがあればシナリオに拘泥しない。
これが重要ではなかろうか。

2009年5月18日 (月)

「効用の最大(?)化」と「病院選択」

経済学でよく用いられている用語に「効用」(utility)」がある。

Wikipedia
で「効用」を検索し、その一部を抜粋すると。
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効用

効用(こうよう)とは、ミクロ経済学の消費理論で用いられる用語で、人が財(商品や有料のサービス)を消費することから得られる満足の水準を表わす。対語は非効用(不満足)。見込まれている効用は期待効用

近代経済学においては、物の価値を効用ではかる効用価値説を採用し、消費者の行動は、予算の制約のもとで効用を最大にするように消費するとされる。また利潤の最大化をめざす企業部門に対し、家計部門は効用の最大化をめざすものと仮定される。一方、マルクス経済学においては、物の価値を労働ではかる労働価値説を採用している

効用を測定する方法としては、基数的効用(Cardinal Utility)と序数的効用(Ordinal Utility)とがある。前者が効用の大きさを数値(あるいは金額)として測定可能であるとするのに対して、後者は効用を測定不可能ではあるが順序付けは可能であるとする点で異なり、両者の違いは、これは効用の可測性の問題として、効用の概念の発生当初から議論の対象であった。
当初は基数的効用の考えが主流であり、効用は測定可能で、各個人の効用を合計すれば社会の効用が計算され、また、異なる個人間で効用を比較したり足し合わせることも可能であると考えられた。
しかし、効用の尺度として客観的なものを見出すことができなかったため、現在では多くの経済学者が、「ある選択肢が、他の選択肢より好ましいかどうか」という個人の選好関係をもとに、より好ましい財の組み合わせはより大きな効用をもつ、という意味での序数的効用によって効用を考えている。序数的効用では効用は主観的なもので、異なる個人間で比較することも、各個人の効用を足し合わせて社会全体の効用を測定することもできないとされる。

フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より抜粋
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8A%B9%E7%94%A8
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効用といっても、さすがにすべてのものが同一尺度で計測できる(ということは、金銭に置き換えられる)という「基数的効用」については素朴すぎて、人間の実態に合わないと感じる。
それに比べれば、人間は意識・無意識にかかわらず、常に物事を選択しているはずだから、ABを比べてどちらが望ましいかという順位付けのほうが、より正確なように素人ながらも思える。(もちろん、同一人物であっても、この順位は不変ではなく、環境条件などにより異なることはあろうが、ある一瞬をとらえれば順位付けができるはずである)。そうでなければ、等距離に置かれた二つの干し草のどちらも選択できずに飢え死にしてしまったロバになってしまう。

そして、「行動は、その置かれた制約のもとで効用を最大にするようになされる」という近代経済学の仮定もごく当たり前のように思える。
しかし、これには反対もあるらしい。

「市場の秩序学」(塩沢由典、ちくま学芸文庫)の第7章及び第8章を参考にしながら説明したい。

第一の反対は、人間の行動はそれほど合理的なものでなく、衝動買いのような非合理に満ちているというものである。
しかし、客観的に非合理に見えようと、あるいは、冷静になってから後悔するとしても、その人にとって、その瞬間は効用を大きく判断していたということだろう。衝動買いほど極端でなくとも同一物への評価が異なってくるというのは普通のことである。
それ以上に、衝動買いのような非合理が存在するとしても、全体から見れば、合理的な選択がなされているので、経済全体を考える経済学としては反論に当たらないというほうが「経済学」らしい意見かもしれない。

第二の反対は、効用を最大化するというなかには、将来時点で手に入る財の購入や将来に備えての貯蓄が含まれるが、その判断は当然将来のできごとに依存する。そして、未来は人間にとって不確実なものであるから、個人の効用最大化の選択能力はおおいに制約されるというものである。
しかし、人間は、意識・無意識にかかわらず、将来のことも念頭に入れながら、常に行動しているはずである。もちろん、その予想にどれだけの脳内資源を割いているのか、とか、どの程度正確なのかということは問題ではあるが、といって、将来が不確実だからといって、目の前のことを選択(行わないという選択も含めれば)しないことはありえない。
これは、効用最大化の判断と、その結果(時間がたった後の)を見れば、必ずしも最適ではなかったということであり、選択の時点で効用最大化の判断がなさけれなかったということではない。

第三の反対は、もっと興味深いものである。
効用を最大化するためには、対象物について知らなければならない。知らないものについて価値判断はできない。
ところで、あなた(一人の人間)は、どの程度の数のものについて、きちんと効用を判断するに足る知識を持っているだろうか。
10
個はあるだろうし、100個あるかもしれない。しかし、一万個とか十万個ならばどうだろうか。
ちなみに大型のデパートの商品数は十数万個らしいので、デパートの買い物で効用最大化しようとしても知識不足で途方に暮れることになってしまうというものである。
たしかに、経済学は、経済学として取り扱えるようにするために多くの仮定(単純化)を置いているが、それが現実にあっているとは限らない。
第一の反論も同根であるが、人間は決してスーパーマンでも合理的人間でもない。ただ、現在の人間の限られた能力の中で経済を研究しようとすると、このような単純化をせざるをえないというだけのはずである。
ややもすると、単純化のために行った仮定が現実であり、仮定と異なる現実が間違っているとする学者がいらっしゃるようであるが勘違いされては困る。
もちろん、このような観点からの経済学もあり、興味深い結果を出しているらしいが、(私が)知らないことを(私が)このブログで論じることはできない。(←たまには、知らないのに知っているふりをしていることもないと断言しないが。)

第四の反対も興味深い。
第二・第三の反論は、人間が全知のスーパーマンでないということを論拠にしているが、よしんば、人間が全知のスーパーマンであり合理的人間であるとしても、「現実的」に最大効用の選択は不可能であるというものである。
例えば、与えられた予算の中で10個の商品のどれを買うか(及び現金として取っておくか)について、最大効用を考える。
この際、注意しなければならないのは、A及びBという商品の各単独の効用と、ABを同時に有することの効用は異なるということである。同時に持つことにより、相補い個別よりも良くなることもあれば、ほぼ同じものならば、二つ持ったからといって、ひとつ持つ以上の効用増加は少ないかもしれない。つまり、いろいろな組み合わせを、それぞれ比較するしかないということである。
10
個の商品について、それぞれ買う・買わないという選択があるのだから、組み合わせは荷の十乗で約1000。1000のものをそれぞれ比べると約50万回の比較が出てくる。
もちろん、予算の枠内とは限らないので、その比較が必要であり、逆に、これにより候補が絞られて楽になるかもしれないが、いずれにしてもかなりの数の判断が必要となること自体は間違いないであろう。
ちなみに、ひとつの判断を、脳機能にとって瞬時といえる0.01秒としても50万回の判断には1時間20分かかる。
所要時間は累乗的に増えるので、20個ならば組み合わせは百万以上、比較判断は五千億回以上となり、簡単に人間の一生を上回ってしまうだろう。
もちろん、厳密な効用最大化ではなく、おおよその効用最大化(例えば、厳密な最大化と誤差数%)とすれば、かなり時間は短縮できるが、といって、それほど商品数が増やせるわけではない。
これについては、効用最大化とは別の原理がいくつか提案されているようであるが(例えば、ある行動は(他の可能な選択肢と関係なく)あらかじめ決められたある希求水準を超えていれば選択されるという「満足原理」。)

もちろん、この「満足原理」に従っうことがベストとは限らない。
ある商品を買った後で、もっと高い希求水準を満たす商品が現れたが、もはや予算の関係で買えないということもあろうし、最初に甲商品を買っていたがために、後で見た乙商品の効用が低くなってしまったが、甲商品を買う前に乙商品を見ていれば、乙商品のほうが絶対的にも(価格に対して)相対的にも効果が高かったということも起こるであろう。
つまり、この原理に従うときは、人はしばしば後悔することになる。
こうした事態を避けるためには、希求水準の調節が重要である。希求水準が高いほど失敗が少ないという意味で賢明な買い手になるが、あまり高くなると何も買えなくなってしまう。

経済学に照らしてみると、本当に買い物とは難しいものである。
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経済学者でなくとも大変な選択はある。そして、その効用の大小が日常の買い物(しばしば後悔することがあっても大きな悪影響はない)とは異なり、その効用の大小が大問題なものもある。

(
お金持ちならば別であろうが)マンションなどの不動産や自動車という高価であるが、買い替えることが少ないものはその典型であろう。
しかも、これらは、高価であり、買い替えることも少ないため、経験・知識が十分であるとは限らないからなおさらである。

ところで、がん治療での病院選びも重大な問題のはずである。
がんの治療が成熟しており、どこの病院であろうと同様の治療がなされる(と思っている人も多いらしいが)ならばともかくとして、個々の病院により、技術・能力そしてどのような治療を目指すかということがバラバラな現在では、なおさらである。
(
もっとも、早期がんで、かなりの確率で手術しておしまいということならば、病院によるバラつきも少ないので、それなりの病院ならば大差はなかろうが。)

しかし、買い物同様に、がん治療の病院選びに効用最大化を図ることは現実的には困難である。

まずは、「衝動買い」。
○○がんセンターとか大学附属病院という名前に衝動買いをしてしまう危険性である。標準的治療という考え方が広がった現在ならば、このようなブランド病院ならば明らかに誤った治療はされない可能性が高いので実害は低いだろうが、自分が受けたい治療についてきちんとした希望をお持ちの方ならば、それとのギャップに不満を持たれるかもしれない。
それ以上に問題なのは、甘い言葉のトンデモ医療機関に引っかかってしまうことである。
また、トンデモに近い病院を無知なマスコミがスーパー病院であるかのごとく報道したりすることもあるから、注意が必要である。
人間には衝動買いのような、客観的に見れば不合理極まりない選択をしてしまうことがあるということを理解して、うまい話には衝動買いすることなく、主治医なりセカンド・オピニオンという冷静な第三者の意見を参考にすべきであろう。

第二の「将来不確実性」。
たいていの患者は、がんになったのは初めてだろう。また、家族などにがんにかかられた方がいたとしても、その経験どおりになることは少ないであろう。
もちろん、調べれば、「平均的」な経過はわかるだろうが、平均どおりに経過をたどる方は少ないはずである。
つまり、将来、どのような治療が必要となるのかについて、十分な情報もないし、あったとしても、それがそのまま当てはまることは少ないのである。
極端な場合、間違いなく早期がんと診断されたため、外科手術能力を重点に病院を選択したのに、開腹してみたら転移が見つかったとか、確率が低いのに運悪く再発してしまい抗がん剤治療が必要となる可能性もある。
ちなみに、外科・内科(抗がん剤)・放射線・緩和といったすべてに優れた病院を選べばよいと思われるかもしれないが、少なくとも、現在の日本にそのような病院は存在しない。よしんば、それに近い病院があったとしても、ほとんどの場合、治療科ごとに独立しており、実態は、専門病院の集まり、つまり、受診している以外の科での治療は受けられないことが多い。
将来は不確実であり、場合によっては転院が必要となること(あるいは望ましくなること)もあり得ることを常に念頭において、一つの病院に「頼りきりになる」ことは損かもしれない。

第三の「情報不足」。
自由診療の病院(なぜか「?」の病院が多い)を除くと、医療機関の宣伝は極めて限定されたものしか許されていない。
そのため、個々の病院で、どのような治療がおこなわれているのか、また、そのレベルはということを調べようとしても困難である。
病院によっては、HPなどで、治療方針を掲げているところもあるが、抽象的で具体的な内容には結びつかないし、さらにいえば、掲げられた治療方針と実態が一致しているとも限らない。
なお、○○病に対する病院ベスト100のたぐいの情報は、限定された情報をもとに著者の主観により書かれているものが大半であり、「当たらずとも遠からず」ぐらいに思わなければならない。
ある医師(外科)が書かれていたことの中に、「医師どうしの情報ですら当てにならないことがある。医師の間でうまいといわれている先生の執刀を見てみるとたいしたことがないこともある。はっきりと言って、一緒に手術をした医師の評価はできるが、それ以外の医師の評価はできない。」という趣旨のことがあった。
一番、情報に接することが多い医師であってもそうなのだから、外部の患者に十分な情報がわかるわけはない。
また、実際に治療を受けている患者からの情報であっても、主治医が良いだけかもしれないし、さらには、たまたまその患者と主治医のウマがあっただけかもしれないのである。ついでに言えば、その患者は他の病院を知らないだろうから、他との比較ではなく、自分の主観を述べているにすぎないことも忘れるべきではない。
少し脱線するが、抗がん剤治療を行う病院ならば、使用している抗がん剤の一覧程度は示してほしい。もっとも、逆に、患者側に情報の理解能力がないから、病院側も情報提供しても仕方がないと考えているのかもしれない。例えば、使用している抗がん剤の一覧から、おおよその抗がん剤の治療レベルを推測できる私のほうが異常なだけかもしれない。
それにしても、一度選んだら、転院というのは想像以上に大変であるし、場合によっては、ほぼ不可能かもしれない。
如何にして、情報を集めるかというのは、後悔しない買い物(病院選び)のための大きな課題であろう。

第四の「現実的に評価困難」。
病院の選択においても、考慮すべき要素は多い。
外科・内科(抗がん剤)・放射線・緩和などの各治療レベルやもととなる方針。これだけでも多くの要素が出てくるだろう。
さらには、通院時間なども関係しようし、中には、病院の建物が立派かということを気にする方もいるだろう。
看護師さんもポイントかもしれない。
もちろん、ブランド病院に入りたいという方もいるだろう。
これらの要素の多くは比較困難なものである。例えば、ある特定の治療についてのレベルと通院の容易さを比較することは、困難であろう。
多くの、かつ、比較の難しい要素を、厳密に比較考慮し、最大効用の病院を探そうとしても、回答が見つからないかもしれない。

であれば、厳密にベストな病院を選択しようとするよりは、満足レベルに達する病院を探すほうが現実的であるかもしれない。
そして、その際のポイントは、希求レベル(求める満足レベル)の設定であり、これが低すぎれば、後で後悔する確率が高くなろうし、高すぎれば「ないものねだり」となってしまうだろう。

希求レベルの具体的な設定は、個々人の価値観に負うところが大きいだろうから、具体的に書くべきものではないだろう。
ただし、希求レベルの背後には、どのような治療が受けたいのかという患者のポリシーがなければ不十分なものしかできないだろうし、どのような治療が受けたいのかということは、患者自身が望ましいと考えている生き方に裏打ちされたものでなければ「もろい」ものになってしまうと考えるが、どうだろうか。

2009年5月11日 (月)

ルールべースとプリンシプルベース

最近、金融規制や会計監査の世界でプリンシプルベースという言葉を目にするようになった。

検索で調べてみたら、昨年の4月に金融庁が「金融規制の質的向上(ベター・レギュレーション)の大きな柱の一つとして、「ルールベースの監督とプリンシプルベースの監督の最適な組合せ」という考え方を示し、プリンシプルベースの監督の基軸となる主要なプリンシプルについて、関係する金融サービス提供者の代表の方と議論を重ねてきました。今般、「金融サービス業におけるプリンシプル」をとりまとめましたので公表します。」とのことなので(http://www.fsa.go.jp/news/19/20080418-2.html)、つい最近はじまったものではないようである。

ところで、プリンシプルとは広辞苑でひいてみると、「
1 原理。原則。根本。2 主義。建前。」となるが、上記、金融庁の公表資料を参考にするならば、「法令等個別ルールの基礎にあり、個人や組織(行政を含む)が物事を行う(行わない)にあたって、尊重すべき主要な行動規範・行動原則と考えられる」。そして、プリンシプルベースの規制・監督とは、「上記のようなプリンシプルに沿って、個人や組織がより良くなるように自主的な取組みを行っていくことに重点を置いていく規制・監督の枠組みである」ということになろう。

ところで、最近、マニュフェストが流行している。これについて、朝日新聞土曜版(5月9日)に次のような記事が載っていた。適宜、省略させていただくが・・・
-----------------------------
「毎日、漢字テストをする」
「宿題を全クラスで統一して、学力のぱらつきを防ぐ」
出席した主婦は、今年度の「学校マニフェスト」に感心しきりだった。
学校からマニフェストをもらうのは3度目。当初は「夢を持てる子供に」「のびのびと生活させる」など当たり障りのない表現ばかりで、やる気が感じられなかった。
どんな政策を、いつまでに、どうこなすかマニフェストは、数値目標や財源を示した公約集だ。言葉自体は浸透し、いまや選挙だけでなく教育の現場でも使われている。
以下、マニュフェストについていろいろと書かれているが、ここでは省略させていただく。
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この例でいえば、毎日漢字テストだとか宿題の全クラス統一がルールベースであり、夢を持てる子供とかのびのびと生活というのが、プリンシプルベースである。
ちなみに、マニュフェストは実行したかどうかがチェックされなければならないので、プリンシプルベースにはなじまないだろう。

これまで、ほとんどの行政規制はルールベースでなされてきた。
これは、ある程度詳細なルールや規則を制定し、それらを個別事例に適用していくというものであり、行政の恣意性の排除あるいは規制される側にとっての予見可能性の向上といったことによる。
先ほどの学校のマニュフェストで言えば、「夢を持てる子供に」ということを実行しているかどうかの判断には恣意が入るだろうし、父兄にしても、具体的に何がなされるのか予見できないだろうし、逆に、学校・教師にとっても、どこまで行えばマニュフェストを順守していることになるのかあいまいだろう。逆に「毎日、漢字テストをする」ならば、それを守っているかどうかということが明らかである(もっとも、人間が作るものなので100%ではない。例えば、終業式の日は“毎日”に入るのか)。
プリンシプルベース(夢を持てる子供に)では、法律も規則も変わらないのに、あるときまで問題なかった内容が、解釈(恣意)が変わったとたんに不充分(違法)とされてしまうかもしれない。これでは社会生活が不安定になってしまう。

しかし、ルールベースだけでは問題が起きるかもしれない。
第一に、すべてのことをルールにすることは不可能であり、必ずルールには隙間が生じてしまうということである。例えば、「毎日、漢字テストをする」としても、算数は?理科は?体育は?・・・
全ての科目にこのようなルールを作ったとして、漢字の書き取り以外の国語力はどうするのか。
次に、そもそも「夢を持てる子供に」というような要素(学校において勉強と並んで重要なもののはず)はルールにすることが困難ではあるのに、極めて重要なことが存在し得ることである。一般的に言えば、定性的なことについてはルールベースは対応しにくいはずである。
また、社会が変化した場合、対応するルールが存在していないことがあり得ることである。もちろん、ある程度、確実かつ大きな変化ならば、事前にルールを定めることができるかもしれないが、この変化の激しい社会では無理なことが多いだろう。また、変化に応じて、ルールを追加・変更していくとしても、それには時間が必要であり、ルールと社会の間に隙間が生じてしまう。
さらに、世の中には、常に例外的なこと・稀なことが生じ得る。このようなことを全て包含したルールは、あまりにも巨大すぎてその内容を把握することができないか、あるいは、ルールベースというには、あまりにもあいまいなものを含まざるを得ないはずである。
なお、どんなに厳密に定めたルールであっても、解釈の余地はゼロにはなりえないだろう。

逆に言えば、プリンシプルベースならば、プリンシプルに照らして判断していけば良いので、これらの問題は解決するが、恣意性・予見不能性という問題が起きることは述べたとおりである。
なお、プリンシプルベースといっても、実際には、これを
補足するセミ・プリンシプルが設けられたり、あるいは、その一部がルール化されたりすることもあるだろう。

プリンシプルベースでは、ここはプリンシパルを設ける側と適用される側がプリンシプルを共有していることが重要なのは当然である。プリンシプルの存在を知らない者にこれを適用することは困難である。また、プリンシプルの共有により、予測可能性や透明性が向上していき、プリンシプルベースの欠点が緩和されるであろう。

最後に確認しておきたいことは、ルールベースとプリンシプルベースは、背反するものではなく相補うべきものであるということである。

強制力(罰則)を伴うものはルールベースでなければならないだろう。プリンシプルベースでそのあいまいさに由来する避けられない解釈の違いで罰せられては困ってしまう。主権在民の民主国家の基礎であろう。
他方、ルールには隙間が存在せざるを得ないし、また、重要であってもルールにはそぐわないもの(定性的なもの、特に、倫理)もある。さらに、どのように厳密にルールを作ろうと常に解釈の余地は残る。
プリンシプルを明確に示し、これを共有することにより、罰則を伴うルールほどの強制力はないかもしれないが、ルールの持つ欠点を補うことができるであろう。
さらに付け加えるならば、プリンシプルをきちんとしておくことは、ルールを作る際にも一貫性を保ち、バランスがとれた、また、落ちが少ないルールとすることができよう。
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我が国の医療行政には、混合診療の禁止をはじめ、そもそも法令の根拠もない不透明きわまりないものがウヨウヨしており、民主国家の行政の体をなしていないので、ルールベースとかプリンシプルベースとか論じる前の世界である。
あほらしくて、論評する気にもならない。

ということで、がん治療について考えてみる。

そもそも医療なるものは、最近まで、そして現在でもその多くは、ルールベースというよりはプリンシプルベースの行いであるように思う。

もちろん、医師であれば、百人中九十九人は同じことを行う、逆にいえば、行わねばならないものは数多くあろうし、それはルールベースと見ることができよう。

しかし、たいていのものは、経験に基づき、医療のプリンシプル(患者のプラスになるように努める)に沿った対応がなされるし、現時点の医学では、それが最も有効というのが現実であろう。
逆に考えると、ルールベース「だけ」で対応できるならば、分厚い医療大百科とかルールを覚えさせたコンピューターさえあれば、医師は必要でなくなってしまう。
もちろん、医師(でなくとも)が、自分の専門外や最新の知見を調べるのにコンピューターは有用であろうが、医師よりもコンピューターを信じる人は少ないだろう。
もっとも、コンピューターよりも劣るお金儲け家が大好きな医師も少数ながら存在しているらしいし、医師よりもコンピューターの向こうにいる得体の知れない業者を信じている患者・家族もいないわけではないが。

では、いわゆる標準的治療はルールベースなのか。
まず、標準的治療のエビデンスとなる治験はルールベースであろう。投薬量や方法、効果や副作用の判定を各医師が経験に基づき行われたならば、客観性のある(=一般性がある)結果は得られにくいであろう。
しかし、これはあくまでも、一定レベル以上の治験で最も成績が良かった治療を示すものにすぎない。

標準的治療であっても、本来は、医師の経験と個々の患者(全身状況、投薬後の状況、患者の性格など)に応じた修正がなされるのが本筋のはずである。
でなければ、医師は不必要でコンピューターで十分である。
もちろん、標準的治療が極めて効果が高く、極めて副作用が低いというならば、この限りではないだろうが、現在の医学水準はこのようなものではない。

プリンシプルベースであるとしても、具体的な治療が違えば、効果・副作用には当然、差がある。最近までは、これらについては、医師が伝承(先輩医師(含む医学教育)の経験)と自分の経験によっているのが普通であったが、それを科学的に検証してみると想定外の結果が出るものもあった。
最近、目にした範囲では、予防目的の日常のうがいについては、単なる水ならばプラスであるが、ヨード(うがい薬)を入れるとかえって逆効果などというものがある(この治験がどこまで確実なものかはわからないが)。
ということで、プリンシプルベースの治療を支えるものとして、治験による客観的なエビデンスの重要性が認識され、その一つの結果が標準的治療ということになる。

エビデンスといっても、その重要性が認識されたのは比較的近年である。したがって、全ての医療にエビデンスがあるわけではないし、新薬治験ならば、最終的なエビデンスというより途中段階の仮のエビデンスとでもいうようなものもある。

標準的治療にしろエビデンスにしろ、プリンシプルベースの治療を進める上で、基礎となり支えるものであるとしても、全てではありえないし、ルールベースの治療などというのは遠い将来の夢なのである。
もちろん、十分な知識・経験がない医師ならば、標準的治療を行うのが一番無難であろうし、患者にとっても得策である可能性は高いだろうが。

ところで、プリンシプルといっても、「患者のため」という根本は同じであっても、それに基づく病院なり医師のセミ・プリンシプルは多様であり得る。
積極的な治療から緩和中心の治療、患者に詳細な(時には、ショッキングな)説明をするのか、必要な範囲で説明するのか・・・
少なくとも、現在のがん治療においては、早期がんなどを除けば、どれが絶対に正解というものではないだろう。
しかし、患者においても、プリンシプル(どのような治療を受けたいのかなど主観)はある。
医療側と患者側のプリンシプルがマッチしていることが、治療時の精神的QOLに重要であるが、残念ながら、そのプリンシプルを公表している病院・医師は少ない。このために、K立がんセンターは最高水準のがん治療を行うことをプリンシプルとしていると勘違いされることが多い。(K立がんセンターは治験もしているがその割合はかなり低い。標準的治療をキチンとしてくれる病院であるが、それだけと思っているほうが確かである。十年前ならば、ほとんどの病院でいい加減な抗がん剤治療しかなされていなかったので存在価値はあったであろうが、現在ではたいしたものではない。なお、標準的な治療(治療の王道)についてセカンド・オピニオンを求めたいならばお勧めできるが。)

脱線するが、医療事故訴訟(本当に医療事故なのか、さらに、事故であったとしても、医療の現状からみて許容範囲と思われるものを、悲しみの転化なり実態解明(これは訴訟制度の目的ではない)という、極端に言えば「憂さ晴らし」としか見えないものが多すぎる)により、医療関係者が萎縮し、ルールベース以外のことをしなくならないか心配である。

話は変わるが、論外の医療行政である。
どのようなプリンシプルを持っているのだろうか・・・
患者のためというプリンシプルをお持ちとはとても見えないし、医療業界を保護するというより崩壊に導いているとしか見えない。
もちろん、法令なくして規制なしという行政の常識がわかっていないのだから、法律を守ろうとしているとも思えない。
多分、制度を変えるのは大変なので、医学水準や社会が変化しても、医療制度は変更しない(墨守)、そのために、患者(国民)がマイナスを被ろうと、あるいは、医療が崩壊に近づこうと関係ないということだろう。
さらに、政治家やマスコミにいろいろといわれると、プリンシプルがないので平気でその場限り、無定見・無貞操な対応を行っても恥じない。
つまり、自分たちすら良ければというのがプリンシプルのように見える。

このため、法令に基づかないルールでしか物事が行えない。(法令の根底となるプリンシプルがないのだから)
しかも、ルールを社会変化に応じて変更しようともしない。

薬の研究開発の速度向上という変化にもかかわらず、それに応じた国内治験体制の整備はしない。
そのため、新薬の承認遅れ(そもそも承認申請すらされないというジャパン・パッシング減少も)を招いている。

はっきりといって、国内治験が必要などという日本人特殊論は放棄すべきではないか。
国内治験のレベルの低さを考えるとなおさらであるが。
さらに、本当に国内治験が必要ならば、マスコミでとりあげられた新薬や大臣のお好みの新薬を、意味ある治験とはとても言えない少数治験だけで承認するなどということはやめるべきではなかろうか。
どうも、言っていることではなく、やっていることを見る限りでは、国内治験は、単なる制度墨守と万一日本人特有の副作用があったときの「逃げ」以外のなにものでもない。
そもそものプリンシプルが「自分たちすら良ければ」であるとすれば、言行不一致を指摘しても意味がないかもしれない。

最後になるが、患者自身においても、自分のプリンシプルをはっきりさせることが必要であろう。
そして、それをルール化(具体化)していく。

「怖いことは知りたくないので無知のままでいたい」というプリンシプルのもと、「医者任せ」というルールを作り、それに従うのも一つの考えであろう。

私は「(それが結果としてマイナスとなる可能性が高くとも)前向きに進むし、進めなくなったら、前向きに倒れて少しでも前進する(ような生き方をするように努める)」というプリンシプルのもと「プラスよりもマイナスの可能性が高くとも、治療があればチャレンジする」というルールでこれまでを過ごしてきた(過ごそうと努めてきた)。
また、「現実を直視し、合理的な判断に努力する」というプリンシプルのもと、いかがわしい治療や健康食品は拒否してきたし、それ以前に、それを支えるための基礎を得るための勉強に努めている。このためにネットというもののありがたみを痛感している。

プリンシプルとその実現のための具体的なルール。
なにもない普通の日常生活ならば、このようなことを考える必要はないかもしれない。
しかし、真剣に何かを行おうとするならば、この両者は欠かせてはならないと信じるがどうであろうか。

2009年5月 4日 (月)

クルーグマン「謝罪!?」

新聞の夕刊はほとんど読むことがない。
なぜならば、載せてあるニュースは、すでにテレビ・ラジオで報道済みのものばかりである。
現在の感覚からすれば、新聞ではなく旧聞でしかない。また、その内容もほとんど掘り下げがなくテレビを持たない主義の方を除けば意味がないし、テレビを持たない主義の方ならば、そもそもニュースに関心がないであろう。

では、「読物」としての質はというと、はっきりといって、お茶の間ミニ知識を出るものはほとんどない。わざわざ、このようなものを読むのに時間をつぶすよりも有効な時間の使い方はいくらでもある。

ところが、なぜか時間があるのに、手元に読みたい本もパソコン(インターネット)もない時があり、仕方なく、朝日新聞の夕刊を読んでみたら、「池上彰の新聞ななめ読み」に「クルーグマン発言 面白く読んでもらう努力」という記事があった。

池上彰氏は、ウィキペディアによると、元NHK報道記者主幹で『週刊こどもニュース』にニュースに詳しい「おとうさん」役として出演などし、報道局記者主幹を最後に、20053月に退職し独立したそうである。そして、記者時代から一貫して、「難しく思われがちな社会の出来事を、なるべくわかりやすく噛み砕く」というスタンスを持っているとのことである。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%A0%E4%B8%8A%E5%BD%B0

池上氏の記事の内容は、下記の読売新聞と朝日新聞の記事を読み比べているものである。
まずは、両記事を読んでみてほしい。
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【読売新聞】
「日本に謝罪」…かつて対日批判急先鋒の米ノーベル賞教授

【ニューヨーク=山本正実】「私たちは、日本に謝らなければならない」――。
 2008年のノーベル経済学賞を受賞したポール・クルーグマン米プリンストン大教授は13日、外国人記者団との質疑応答で、1990~2000年代のデフレ不況に対する日本政府や日本銀行の対応の遅さを批判したことを謝罪した。
 教授は、「日本は対応が遅く、根本的な解決を避けていると、西欧の識者は批判してきたが、似たような境遇に直面すると、私たちも同じ政策をとっている」と指摘。「(3月で8・5%と)上昇する米失業率を見ると、失われた10年を経験した日本より悪化している」と述べ、経済危機を克服するのは予想以上に難しいとの見方を示した。
 クルーグマン教授は90年代後半、日銀にインフレ目標を設け、徹底的な金融緩和を促す論陣を張るなど、日本批判の急先鋒(せんぽう)だった。
 また、景気回復の見通しについては、「(景気判定では)今年9月に景気後退が終わっても不思議ではない。しかし、失業率は来年いっぱい上昇し続け、回復は実感されないだろう」とし、極めて緩やかな回復になるとの見方を示した。
 「1930年代の大恐慌では、景気の落ち込みには、何度か休止期間があった」とも述べ、回復に向かったとしても、一時的なものにとどまる可能性を指摘した。
http://www.yomiuri.co.jp/atmoney/news/20090414-OYT1T00439.htm
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【朝日新聞】
クルーグマン教授「米、日本の失われた10年より悪い」

【ニューヨーク=丸石伸一】ノーベル経済学賞を昨年受賞した米プリンストン大学のポール・クルーグマン教授は13日、ニューヨーク市内で外国人記者との会見を開き、米経済の現状について「日本の『失われた10年』よりも悪い」と厳しい認識を示した。
 クルーグマン教授は、最近の米株式市場で景気底打ちへの期待が高まっていることについて「経済指標に予想より良いものが出てきたが、これは急激な悪化のペースが遅くなったことを示しているだけで、回復の兆しとはいえない」と指摘した。
 さらに、いまの米国と90年代の日本との比較では「失業率の急上昇に悩む米国をみると、日本の『失われた10年』の方がまだましで、我々は日本よりも悪い」と言及。かつて欧米では日本の対応が遅いと批判されたが、「同じような状況に直面すると我々も同じことをしている」とし、「我々は日本に謝らなければならない」とも述べた。
 経営難に陥っている米自動車大手ゼネラル・モーターズ(GM)の救済の是非については「オバマ政権は完全な破綻(はたん)は避けようとしているが、それは簡単な道ではない」と指摘。ただ、政府支援のもとで破産法を申請させる「事前調整型」と呼ばれる処理について「アフターケアなどを考えて消費者がGMの車を買わなくなるのではないかと心配している。自動車会社は航空会社とは違う」とも指摘し、破綻には慎重な姿勢もにじませた。
http://www.asahi.com/business/update/0415/TKY200904140330.html

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当然ながら、ほとんど内容は同じである。私としては、一企業というより世界経済への影響という観点で注目されているGM救済に対する意見まで触れている点で朝日新聞の記事のほうが優れていると感じる。

しかし、池上氏の記事では(以下、記事の一部を適宜省略する)、「読売新聞の経済面に「日本批判『謝らないと』」という見出しの記事がありました。うまい見出しですね。見出しにひかれて本文を読むと、去年ノーベル賞経済学賞を受賞したクルーグマン教授が、外国人記者団との質疑応答で「私たちは、日本に謝らなければならない」と謝罪したというのです。教授は1990年代から2000年代の日本の不況時に、日本政府や日本銀行の対応を厳しく批判しました。ところが、今回の不況で米も「私たちも同じ政策をとっている」と述べ、日本を批判する資格はなかったと発言したのです。素直な発言で、日本が批判されていたころは、情けない気持ちになったのですが、少しほっとしました」と高得点を与え、他方、「朝日新聞の記事の見出しは、「『失われた10年』より悪い」というものです。「失われた10年」といえば、経済に詳しい人ならばわかる見出しですが、「日本に謝らないと」と発言したことが、見出しではわかりません。」とされている。そして、読売の記事は「書き出しが、「本文を読むと、「私たちは、日本に謝らなければならない」という発言の引用から始まってい」るのに対し、朝日の記事では「最後に発言したくだりが出てきます」とし、「見出しを作る担当者が記事の冒頭部分を引用した」ということであり「朝日の見出しが面白くなかったのは、見出しを作る担当者の工夫が足りなかっただけではなく、記者に「面白く読んでもらおうと」いう努力が足りなかったのではないかという気がします。新聞記者なら、「見出しが立てやすい原稿を書け」と指導はずなのですが」している。

しかし、よく考えてほしい。
クルーグマン教授は、米経済の深刻さを述べたものであり、その比較として、日本の失われた10年との比較を使ったにすぎず、さらにその「おまけ」として「私たちは、日本に謝らなければならない」と言っただけである。しかも、主語は「私」ではなく「私たち」となっているので、一般的な発言のはずである。
つまり、読売の記事はまったく本筋とは関係のない部分を記事を「面白く」するためにメインに持ってきてしまった厳しく言えば「不正確」な記事と言える。
ちなみに、経済の専門紙である日本経済新聞では、少なくともネット記事を読む限りでは「謝罪」について一切触れていない。
http://www.nikkei.co.jp/news/main/20090414AT2M1401B14042009.html

これがジャーナリストである池上彰氏ではなく、どこかの商売人が書いているならばわかる。
しかし、どうやら、読者に「面白く」読ませるためならば、枝葉末節の部分をメインにして、本当の内容を伝えなくともよいということがマスコミの常識らしい。

はっきりと言って、マスコミ、特に新聞は、公器であり、アンタッチャブルであるような顔をしているが、実態は、読者が面白ければ、つまり、販売部数が伸びて儲かればよいというのが本音であることが読み取れる。
その点では、とても池上彰氏のこの記事は、とても良い「読物」であった。
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ところで、このような内容の確かさ・忠実性よりも、読者の「目を引く」ことに重きを置く記事は、がん治療に関しても多い。
「多い」というよりも9割以上はそのように見受けられる。

この場合、二つのパターンに分けられる。

池上氏の記事でもわかるように記事本文を書く記者と、見出しをつけたり、割り振ったりする(その結果、記事の大事な部分が消えたりもする)担当は全く異なっている。
記事本文をきちんと読むと、「単なる実験室での基礎研究」としっかり書かれているのに、見出しの与える印象は「夢の新薬実現」であるかのように読者をミスリードさせようとしているとしか思えない、これが一つのパターンである。
多くの読者は、よほど関心を持たない限り、見出しだけ流し読んで終わりということが多い。
ちょっとでも、大事な記事であると思えたら、きちんと記事本文を読んで、見出しは忘れるように努力しないと、とんだ誤解が残りかねない。

もう一つのパターンは、記者が面白い・わかりやすい記事に努力した結果である。
罪が軽いのは、科学的(医学的)には、やや不正確ではあるものの、読者にわかりやすくしようとしすぎた記事である。これには、そもそも記者が科学(医学)の素人にすぎないことも背景にあるだろう。これは、当たらずとも遠からずでもあるし、患者もそこまで厳密な記事は求めていない(厳密すぎると理解できない)のであるから害もないだろう。
これが、もう一歩進むと、読者にとって、わかりやすいもの(物・者)をネタにしてしまうことである。よく書かれている患者の事例の多くは、かなり恵まれた、あるいは、かなりひどすぎる事例であり、ほとんどの患者には該当しない。無関心な一般読者の問題意識の醸成にはよいのかもしれないが、医療の実態を隠してしまうことにもなりかねない。患者事例の類は、「たまには」このような方もいる程度に受け取ったほうが無難である。
さらに、この流れが強まると、記者(場合によってはマスコミ全部)の思い込みなり、一面的な正義感にもとづく偏った記事になる。
病院の「タライ回し」がその好例である。単に、受け入れ容量を超えている病院がやむを得ず断ることを悪事のように書く。ついでに言えば、「タライ回し」にあった患者とか、「医療ミス(と患者側が考えているにすぎない不可効力のものがかなりあるようであるが)」の患者家族の「涙の会見」など読者の関心(単なる感情)をあおるようなものには、多くの読者=儲けと本音では思っているマスコミは喜んで飛びつくわけである。
さらに、ひどいものになると、トンデモ医療をまっとうな医療であるがごとき記事を書く。きちんとした新聞ならば、デスクがチェックしてボツになるのだろうが、部数減少のために人手がないのか毎日新聞にはこの手の記事が時折見られる。なお、トンデモ医療に限らず、似非科学を追求する人々の間では、また毎日か、やっぱり毎日かというのがよく見られるフレーズである。
ちなみに、読者に対して、面白くなくとも正確な情報(経済情報)を伝えることを存立基盤としている日本経済新聞のほうが、医学という経済専門紙の専門外にもかかわらず、比較的しっかりした記事が多いのは、「面白く読んでもらおう」という雑念とか、「見出しが立てやすい原稿」などいうことよりも、まず正確な情報提供ありきという、新聞本来の(はずの)記者教育を徹底しているのだろうかと推測してしまう。

追記
新聞の見出しで最後に「?」とあれば、これは、何か問題になった時に、「・・・という話もありますが」という意味でしたと言い逃れられるようにしてあるのであり、「!?」とあれば、「・・・という話もありますが、間違いかもしれません」という意味だそうである。
いかにも「・・・」が真実であるかのような印象を読者に与えながら、逃げを打つ・・・これが常識の新聞記事は、情報のとっかかりとし、主治医の話を聞いたりするのには良いかもしれないが、それに頼り信じるのは、少なくとも、がん治療のような自分の寿命という大事なものに対してはどうだろうか。

だから、この記事の見出しは、枝葉末節の一部(ひょっとすると単なるジョークかもしれない)かつ「私」ではなく「私たち」を主語とするものだから「謝罪!」ではなく「謝罪!?」なのである。

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