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2009年4月27日 (月)

予想脳

題名に引かれて「予想脳」(藤井直敬、岩波科学ライブラリー111)という本を読んで見た。
この本は、もちろん真面目な科学についての本であるが、「これは科学論文ではない。引用文献を積み重ねることで今現在可能な議論より、過去の議論にとらわれずに、ある程度自由に未来の議論ができればと思う。通常の科学論文がボトムアップに構成されているとすれば、本書はいわばトップダウンの手法をとる。それゆえ推論に推論を重ねることが多いが、できる限り過去の報告と整合性を保つように努力するつもり」とはじめにに書いてあるように、脳研究の微細な各論を束ねる一つの「概念仮説」を説明する本である。

「概念仮説」であるから、正しいものか、誤っているものかについては、今後出てくるだろう多くの研究成果を待たねばならない。
もちろん、著者は一流の脳科学者の一人であり、これまでに得られている研究成果とは矛盾しないものであるらしい。
そして、研究成果とは言いがたい(自然科学的なエビデンスとは言えない)が、人間の行動や自分自身の行動・思考の内容とあてはめてみると、「当たっている」のではないかと思われる。

ところで、「予想脳」とはどのような概念なのか。
瀬名秀明さんが2006年3月のブログ(瀬名秀明の時空の旅)で、この本を紹介されているので引用させていただく。
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著者はもともと丹治順氏のもとで学んだ研究者。先頃、虫明元さんの講演も大変楽しく拝聴したが、丹治一門の研究はなかなか面白い。
さて本書はジェフ・ホーキンスらの『考える脳 考えるコンピュータ』での議論を踏まえつつも、著者が以前から考えてきたらしい脳の本質について考えをまとめたものである。即ち、情報を予測する装置としての脳、についてである。「予想脳とは、次に生ずる未来を常に予想して、絶えず流入してくる自動処理された外界環境情報と自己が予想した未来とを比較することが、脳の本質的な機能である」。
たぶん、この考えの大筋は正しいと思う。また多くの脳科学者も、予想することが脳の重要な機能であることには同意していると思う。著者はホーキンスを何度も参照した上で、ホーキンスには次のふたつの視点が欠けていると指摘。ひとつは、社会性。知性は他者の存在抜きにしては語れないのに、ホーキンスはむしろじっと瞑想しているときの閃きを重視しているという点。もうひとつは、環境文脈による処理構造の変化という視点。
で、著者は次のようなメカニズムを唱える。人間の脳は、どうやって未来に起きる事象を予想しているのか。それは自己を取り巻く空間情報をベースとした「テンプレート」と、その空間に付随して学習により蓄積された「オブジェクト」によってである、という。ある特定の環境の中で、そういった事象がどういった順序で、どのくらいの確率で生じるか、という経験が、テンプレート上のオブジェクトに蓄積されているのだというわけ。そしてもうひとつ重要なのが、このテンプレート上のオブジェクトをどこから見ているか、どのように世界を縁取りしているか、というフレームである。私たちはこういったフレームを通して世界を見ている。このとき、あらかじめ学習によって持っているテンプレートと、実際に見ている世界がズレてくると、私たちはそれを誤差として認識する。
(
以下、略)
http://senahideaki.cocolog-nifty.com/book/2006/03/__predicting_br_afc1.html
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少し補足すると、ここでいうテンプレートとは、その時々の自分にとっての世界=脳内風景=とでも言うものである。
例えば、現在、パソコンを打っている私のテンプレートはパソコンの画面とキーボード(私はブラインドタッチはできない)からなり、その脇にある辞書なり電卓は視界には含まれていても、抜け落ちている。この文書を打っているときに、言葉の正確な意味を調べる必要が出てくれば、テンプレートは辞書になる。(これにより脳内資源の節約が図られる)

実際の日常生活ではもっとテンプレートは複雑であり、多くの対象(オブジェクト)が載っている。
道路を歩いていれば、向かいから来る歩行者、後ろから聞こえる車の音、商店の安売りの幟、少し先に見える工事中の現場・・・
そして、その時々に応じ、あるオブジェクトに注意が向けられるし、その注意の程度は深かったり、浅かったりする。
これをフレームと呼んでいる。
ビデオカメラでどこを撮影しているか、そのズームの度合いはというようなものに対応するもののようである。

また、個々のオブジェクトは物理的実態というよりも、時間的な変化(予想)も含んでおり、かつ、その予想は一つではなく、高確率のものから低確率のものまでを含む、いわば濃淡のある雲状のものである。

そして、脳はテンプレート上で、フレーム内のオブジェクトについて、そのオブジェクトが正しい(予想と一致)のかを常にチェックし、正しくない(予想と違っている)と信号を発する(認識に登る)とともに、随時、予想との誤差に基づいて、オブジェクト(潜在下の予想と予想を導く公式)に修正を行う。
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この予想脳仮説は、科学的に検証されていないとしても日常生活の体験とはよく整合しているように思われる。

たしかに、視覚・聴覚・触覚などに入る全情報が認識されているわけではない。
多くの場合、自分の関心事にかかるものや、自分の安全にとって重要なことにしか気がつかない。

また、平常どおり(予想と誤差なく)進んでいる間は刺激を受けないが、思わないことがある(大きな誤差が生じる)とびっくりする。
また、ベテラン(予想の精度が高く、予想の範囲が絞り込まれている)ならば、ちょっとしたことも誤差と感じて異常を指摘できるが、素人ならば予想の範囲が絞り込まれていないため、小さな異常ならば予想との違いが不明であり、感じることができない。

新製品(これまでの商品(予想含む)との誤差が大きい)は関心を引くが、そのうちに、予想に取り込まれてしまうと関心を引かなくなる。また、新製品といっても、旧来の延長上で違いが少なければ、予想との誤差が小さく、振り向かれない。

世の中で起こっていることにしても、その人のテンプレート(政治に関心があるとか、芸術がすき、欧米にあこがれているなど)や、その人にとっての当該オブジェクト(過去に会ったことがあるとか行ったことがある。それとも、ただのもの)などによって、受ける刺激(持つ関心の程度)は異なるだろう。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
予想と抗がん剤治療について考えてみよう。

患者は、知識や経験が少ないので、予想はあいまいなものにならざるをえない。
そして、予想がない(予想がつかない)ということは、脳の機能(予想脳)にとって不安定極まりない。そのために「不安」を感じる。

治療を経験し、あるいは、知識・情報を持つと、漠然とした不安は減少するが、経験したり知ったがための「心配」が増えてくる。
また、少しでも異常があれば「副作用」ではないかと考える。

また、知識や経験があるといっても、量的・質的に限られたものである以上、予想は漠としたものであろう。ちょっとしたことでも、想定外(予想の程度が低い)になり、あわてふためく(誤差が大きく、それに対する反応が大きくなる)。

知識・経験豊富な医師ならば、潜在的な予想の精度が高いのみならず、比較的稀な可能性まで予想に含まれる。
このため、いろいろな副作用に対して冷静に処置できるし、一つの抗がん剤レジメンが無効になったときにも次に有効な可能性が高いレジメンを選択・提示できる。

医師にはなれないまでも、患者としての予想精度を高めるためには、やはり知識や経験を少しでも増やす(本当は、経験は増やしたくないのだが)しかないだろう。
それが、自分の病気に冷静に対処できる一つのポイントであろう。

また、患者と医師のテンプレートは異なる。医師は医師としての教育を受け、経験をつんできている。
したがって、両者の価値判断にズレがあっても当然である。
主治医に対して不満を持ったときに、その原因としてテンプレートの違いということを考えて見るのも有効かもしれない。不満から一歩離れて、相手はどのようなテンプレートに基づき考えているのか想像する。
逆に、その想像されたテンプレートに対して、自分の思い(テンプレート)をどのように伝えるのが有効か検討してみる。

また、自分にあった治療を求めるならば、医師のテンプレートの中の自分の「オブジェクト」を正しいものにすることが必要である。このためには、自分(オブジェクト)がどのようなものなのかということを知らしめることが必要である。
このためには、まず自分で自分のことを知ることが必要なはずである。
医師は、多くの患者(オブジェクト)を診ているだろう。多分、数百人であろう。その中で、特段の努力もなく、自分というオブジェクトを熟知して欲しいというのは無理ではなかろうか。

また、ネットの世界は居心地が良い。これは、現在のネットはリアルの世界と違い、想定外のことが少ない(誤差が少ない)ため、不快が少ないためだろう。もちろん、ゲームで想定外なことが起こるとしても、想定外のことが起こることはルールとして示されており(予想の範囲内)、かつ、生命などの人間にとって重大なものにかかわることはない。
ところが、がんに効くと称する健康食品(実態は健康に良いのかすら不明)やトンデモ医療という耳障りの良い世界に嵌まり込んでしまい、不透明(予想がつきにくい)なリアルの世界に戻れない人もいるらしい。そして、生命という自分にとって一番大事なものを「おとぎ話の世界」で空費していたと気づいたときには遅いという悲劇(非難覚悟で書けば「喜劇」)のヒロインを演じている。

予想を深めていく、しかし、予想は予想であることも承知する(予想外のことが起きるかもしれないことも予想しておく)こと、そして、そのための努力をすることは、抗がん剤治療に限らず、すべてのことにおいて重要だと思うがどうだろうか。

2009年4月20日 (月)

マインドマッピング

最近、マインドマップという面白いコンピューターソフトがあるということを小耳に挟んだ。
マインドマップという言葉に興味を持って、検索をかけて見るとマインドマッピッングともいうらしい。

ウィキペディアによると
「マインドマッピング(Mind Mapping)もしくはマインドマップ(Mind Map)は、トニー・ブザンが提唱した、図解表現技法の一つである。ちなみに「マインドマップ」という呼称は、日本国内においてブザン・オーガナイゼーション・リミテッド社によって商標登録されている。

表現したい概念の中心となるキーワードやイメージを図の中央に置き、そこから放射状にキーワードやイメージを繋げていくことで、発想を延ばしていく図解表現技法。この方法によって複雑な概念もコンパクトに表現でき、非常に早く理解できるとされ、注目され始めている。人間の脳の意味ネットワークと呼ばれる意味記憶の構造によく適合しているので、理解や記憶がしやすい。

また、本来は紙とペンで描くものだが、コンピュータ上で描くための専用ソフトウェアもいくつか存在する。」とのことで、

Mindmap_1

Mindmap_2

のようなものが例としてあげられていた。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%9E%E3%83%83%E3%83%94%E3%83%B3%E3%82%B0


もちろん、細かい点は異なるのだろうが、よく企画会議でホワイトボードにいろいろなキーワードを書いた紙を貼り、それらを線で結んだりしながら議論していたのを、図解のやり方を一定のルールに従って行うようにした「だけ」のような気がする。
それにしても、このための専用ソフトウェアがいくつもあるとのこと。このような作業は手を使いながら行うほうが、より実になるような気がするのだがどうだろうか。

ところで、このマインドマッピングとよく似たことを、かなり以前に「脳内」でやってみたことがある。それは、世の中は相互に支えられて成立していることを確認してみようと、「脳内」で次のようなことをやってみたのである。

最初に、当たり前のたいしたことがないものを、ひとつ決める。
例えば、一枚の紙としてみる。

まずは、これが紙として自分の目の前に現れるまでのプロセスをずっと想像していく。
直前には、どこかの店に並んでおり、その前には、問屋の倉庫、製紙工場、原料の木材が生えていた山。これらのどれかが欠けていても、目の前の紙は存在しない。このようなものに支えられて目の前の紙がある。

さらに、店には店員さんがいて、また、店の建物がある。工場には多くの機械があるし、水や化学薬品などのその他の材料も使われているし、もちろん、工員さんがいる。原料となった木にしても伐採する人や山を守ってきた人がいる。さらに、これらの人々は近くの商店などで食料品や必要品を買うことにより存在できている。

また、それぞれの間は、トラックなり船なりの輸送手段により結ばれている。

製紙工場一つをとってみても、多くの機械を作るのには、鉄を中心とする諸材料が必要であるし、機械を作っているのは別の工場である。すると、製鉄工場や機械工場も結ばれていく。それぞれの工場に人や機械があるのはいうまでもない。
さらに、これらを動かすための電気や石油なり石炭・・・

また、個々の機械を見ても、設計した人・作った人・メンテナンスを行っている人・動かしている人がいるし、それらの人を支える事務担当の方もいる。

紙を売ってくれた店にしても問屋にしても、トラックなり船にしても、また、そのために必要な電気や石油、その他の原材料など、それぞれにこれを支える多くの物や人がいる。

この付近までは、マインドマッピングと同様な二次元の世界であるが、これに時間という軸を入れて三次元化してみる。
現在は過去に支えられて成り立っているのであるから。

例えば、紙を例に取れば、石板や粘土板、木簡、パピルスといった古代の記録手段や羊皮紙という中世のヨーロッパの記録手段。中国での木簡・竹簡から紙の発見、そして、中国(元)とアラビアの戦争に伴う製紙技術者・技術のヨーロッパへの伝播。さらに、近代工業による大量生産化。
紙だけならば、別の枝が加わるにすぎないが、これを、店・問屋・製紙工場・原料の木材にも行う。当然ながら、その中で使われている機械や働いている方にも行う。働いている方については、詳細不明だろうから、両親・祖父母・祖祖父母・・・・と考えていく。
また、トラックや船舶、その他原材料も同様である。

そして、祖祖父母の時代(例えば百年前)など同時代別につなぎあわせてみる。
いわば、マインドマッピングの多層建築である。

さらに欲張って四つ目の次元を入れようとした。
例えば、紙ならば、目の前の紙に書かれている情報などの情報流通だったり、白紙の紙ならば、それに何かを書くことによる情報発信、ティッシュならば、それで鼻をかむことによる身体の負荷軽減。
歴史的に言えば、ルターの翻訳聖書と印刷技術(及び紙)が引き起こした宗教改革。これは、時間軸の多層建築の中を何層にも貫いて影響していくし、その枝の一つはイエズス会となりザビエルの来日にも行き着く。

といったところで、ついに脳が破綻してしまった・・・
少なくとも、私の脳が扱えるのは三次元がやっとのようである。

なお、忘れてはならないことがある。
例えば、紙の発明一つをとっても、後漢時代に蔡倫が行ったことになっているが、その裏には、それまでの多くの人のチャレンジ・失敗があってのものであるはずである。
一枚の紙について、作ってみたマップは、それに書かれていることだけではなく、それにかかれていない多くの努力がその背後に潜んでいるのである。
また、原木をとると分かりやすいが、自然環境がさらにその背後にあることも忘れてはならない。

このように見ていくと、全ての人間(に限らず存在するもの)は、それだけで成立しているのではなく、全世界・これまでの全歴史により存在していることがわかる。
逆に、全ての個々人(もの)は、程度としては極めて微細なものであるとしても、同様に全世界に影響を与えており、全未来に影響を与えているはずである。

ところで、このような「世界マップ」を脳内に作ってみても、一時に全てを見れるわけではない。マップ全体はあいまいな状態で、意識のスポットライトを当てたところだけがきちんと見えるに過ぎない。

また、マップに載せられるのは自分が知っていることだけであり、一人の知識などというのは、全知識量から見れば極めて微細なものにすぎない。

しかし、そのような粗末な世界マップであっても自分という存在(生活)が世の中なしには存在しないことを再認識するには十分なものである。
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これを抗がん剤治療に当てはめるとどうだろうか。

がんという病期に関する医学、薬の作用機序といった薬理、治験結果などの研究成果、患者(及び家族)の価値観、健康保険などの社会制度など、ちょっと考えただけで多くの枝が伸びているだろう。
また、がんと言っても、原発臓器や細胞分類によりそれぞれのマップは重なったり、ずれたりしている。直接的なエビデンスがなくともマップが類似している他のがんに効果的ならば、試してみる価値があるかもしれないし、マップが大きく異なるがんならば参考にできるところは少ないだろう。

このがんの世界マップであるが、現在の医学知識では、あちらこちらに穴が開いたり、不明瞭なところも多い粗末極まりないものである。これを完璧な地図であるがごとく、標準的治療「のみ」を振り回す医師は不遜といわざるを得ないだろう。
しかしそれでも、この世界マップには、多くの知識・経験が相互に連関しながら載っている。これらの連関からなる世界も知らずに、突如、がんに効くという健康食品やトンデモ医療が登場する。異星人が存在するのか、しかも、その異星人が地球に訪問しているのかは知らないが、あなたの目の前に世界マップと切り離された異星人がいると言われれば、そんな馬鹿なというのが健全な判断であろう。

ところで、患者の知識・経験は限られており、マップの範囲も、その範囲内の詳細さ・正確さも医師に比べれば劣っている(もっとも、膵内分泌細胞がんに対する抗がん剤治療のみに限定すれば、たいていの医師よりも私のほうが詳細かもしれないが)。
もちろん、全ての医師のマップが立派なわけでもなさそうである。トンデモ医療という確信犯は別として、いわゆる大病院の普通の医師が、私が見ても「?」な治療をしていることもあるようではある。
この意味では、自己防衛のために、最低限のマップを持つべく勉強することが必要であろう。

それ以上に、患者自身の価値観という本人が一番詳細なはずの部分があいまいな方が結構いらっしゃるようである。
であれば、本人の価値観にあわせた治療は期待できないのではなかろうか。少なくとも、自分の価値観については、自分自身が一番のクロウトのはずである。
納得いく治療を願うならば、何をもって納得とするのかを知らなければならないはずである。
(もちろん、その価値観だけがマップの全てではないのであり、医学的見地からあまりにも逸脱したものならばそれに協力できる医師はほとんどいないであろうが。)

2009年4月13日 (月)

双曲割引

最近、行動経済学なるものがはやっている。私の理解するところでは、これまでの伝統的な近代経済学では、人は合理的に行動する、という大前提をおいているのに対して、人は必ずしも完全に合理的ではないし、意思決定を間違えることもあるのではないかという点から出発し、心理学の成果を経済学に応用しようとするものらしい。

よく考えて見ると、そもそも近代経済学においても、個々人が完全に合理的であるとしていたのではないはずである。個々人においては、完全に合理的ではないとしても、集団として見れば合理的に振舞うという「仮定」であり、また、個別の時点(短時間)をとらえれば、社会集団全体として見ても合理的ではないとしても長期的にとらえれば合理的なものに収斂するというという「仮定」を置いていたにすぎない。
あるいは、合理的存在というのは、複雑な人間や社会経済を分析する上でのやむを得ずに行った「近似」にすぎないとも言える。

そもそも、何を持って「合理的」というのかすら、一種の価値判断(主観)であろうから、「合理的」自体を「合理的」に決めることができないはずである。
少し飛躍しての説明になるが、美人(ないし立派な男子)は時代により、飛鳥美人のマルポチャからグラマー、逆にスリムなどと変転してきている。このことは、何を持って「価値」とするかという経済の根本すら絶対・客観的なものでなく、主観的なものであることを表している。

ところで、日経ビジネスの付録のマネジメント(Spring 2009 Vol.005)に「双曲割引 近視眼的なのは当たり前」という記事があった。

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(略)
行動経済学の基本的な考え方によれば、人は本来的にせっかちで、今、目の前で手に入るものの価値を過大評価してしまう生き物である。今の瞬間が訪れるまではそれほどでもなかったことが、目の前に現れた瞬間、価値が余計に大きく感じられる。
この、「今この瞬間」と「明日以降」との違いを、明日と明後日の違いよりも大きく評価してしまう錯覚を「双曲割引」と呼んでいる。
もう少し説明しよう。ある人が、2009年4月1日に、来年もらえる小遣いのことを考えている。この人が、1年後の4月1日にもらえる900円と、翌4月2日にもらえる1000円のどちらかを選ぶ。この時は4月2日の1000円を選んだ。
さて、2010年4月1日。この人は、1年前は翌日の1000円を選んだのに、この日に900円を選んだ。1年前は翌日の1000円を選んだのに、この日に900円を選んだ。双曲割引のせいで、900円から得られる満足度が、翌日の1000円より大きく見える「錯覚」を起こしたのだ。
(略)
今日からダイエットを始めようとしても、目の前にケーキがあると、「やっぱり明日からにしよう」と思ってしまう。(略:仕事の先送り)そんな自分の心の弱さを嘆く人は多いだろう。それも、このような「双曲割引」な判断が働いているから、というわけである。
米ハーバード大学経済学部のデビッド・レイブソン教授は1997年、特に意思決定の影響が長期にわたるときほど、双曲割引による説明があてはまると論じた。
(略)
逆に言えば、人の意思決定が、今日を過大評価する特性を持つ以上、「すべての個人が、自らの意思で長期的な投資をして将来に備えよ」と強いるのは、かなり無理のある理屈と言えるだろう。
(
)
目の前の楽しさを犠牲にして将来に備えるような、堅い決意はしばしば挫折しがちだ。これを実現するには、強制力のある仕組みや制度で欲望を縛るしか、方法はないのかもしれない。
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「双曲割引」などと難しい名前であるが、別にたいそうなことを言っているのではなさそうである。人間のごく当たり前の行動(価値判断)にすぎない。

日本のことわざにも「明日の百より今日の五十」がある。
明日くれるという百文(百両)よりも今日くれる五十文(五十両)のほうに値打ちがあるという意味である。明日のことは当てにならないということ。また、さし迫っている今日、少なくてももらうほうがよいという意味でも使われる。明日のことはあてにならないから、今日、今のことを一生懸命するのがよいという意味でも用いられるらしい。

一応、明日のことはあてにならないという不確実性という合理的な理由をかかげてはいるが、実際のところ単なる人間の本能を言っているだけのように思える。

そもそも、今日の900円より明日の1000円に価値があるという「合理性」とは絶対普遍なものなのだろうか。
人間がまだ文明を持たなかったころは、目の前の小さな獲物は、多分確実に獲れるであろうとしても不確さが残る明日の大きな獲物よりも価値があったに違いない。いや、つい最近まで、明日のことなどあてにならなかった人が大部分であったろう。
多分、目の前の獲物の価値が高いということは、脳の奥底や人間社会の根底に彫りこまれていしまっているに違いない。
であれば、今日の900円を明日の1000円より大きく評価することは、人間にとってこれこそ「真実」なのであり、これを「錯覚」と呼ぶのは経済学というごく最近になってあらわれてきた「新参者」の勝手な言い分にすぎない。

とはいうものの、現代の社会や経済において、「合理(的)」は優れた近似であり、かつ、現状にでは、いろいろなこれに変わる試みや補足する試みがなされているところであるとしても、最善の(少なくとも極めて優れた)近似であることも確かであろう。

私自身は、今日の900円と明日の1000円のどちらに価値があるかについての客観的・絶対的な答えはないと考える。
ただし、今日の900円に価値を見出す人は、合理性の観点よりも他の観点(人間の潜在的本能)を優先しているということを理解しながら行うべきであるし、逆に、明日の1000円に価値を見出す人は人間の潜在的本能に反して合理性を優先しているということを忘れてはならないだろう。
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目の前のものが「おいしく」見えることは多い。
レストランで隣のテーブルのメニューがすばらしく見えたのに後日同じものを注文するとがっかりする。

ひょっとすると、がんに効くと称する健康食品(健康に良いのかさえ定かではない)に嵌まり込むのも同じことが根本にあるのかもしれない。

そうでなく、きちんとした治療についても、患者は現在受けている・今から受ける治療に期待を強くもつ傾向にあるように自覚する。
他方、医師は、多くの例を経験しており、一歩も二歩も離れて「客観的」にみれるせいか「合理的」な判断をすることが多そうである。
そして、この温度差がややもすれば、主治医は冷たいという感想を産むもととなっているのかもしれない。

第一選択薬が無効となり、第二、第三となっていくと、効果が出る可能性は一般的には低くなるが、副作用は変化がない。もしも、その間に全身状況が悪くなっていれば、副作用の危険性は相対的には高まる。

患者(特に私のような)は、目の前の利益(の可能性)に大きく価値を見出すし、医師は合理的に予想されるベネフィットとリスクを計算することが多いだろう。
ネットの掲示板を見る限り、このようなことは結構あるようである。

私の思想では、価値というのは主観であり、個々人により、あるいは、立場により異なるものである。
患者と医師の思う価値が異なるとしても、正否の問題ではない。
とはいうものの、その結果を直接的に受けるのは患者である。であれば、患者の価値観のほうに重みが置かれるべきと考えるがいかがなものだろうか。

いずれにしても、患者は自分の価値観を主張する際にはそれが目の前のことに心奪われて合理的観点からはおかしいものかもしれないことを、逆に、医師は患者に対して話をする際にはそれが合理的観点からは正しくとも患者の価値観からは正しくないかもしれないことを、双方が念頭において話し合うことが建設的なのではないか。
このようなことができれば、医師は合理的観点からは疑念があるにしても許容範囲ギリギリまで患者の価値観に合わせる治療を行ってくれる(場合によっては、より患者の価値観にふさわしい医師を紹介する)可能性が強くなろうし、患者も医師が冷たいなどという感情的な不満は少なくなるであろう。
(自分の価値観しか主張しない患者ならば、結果が自分の価値観と合わなければトラブルを起こすかもしれないと医師が心配してもおかしくない。であれば、患者の価値ではなく自分の安全のための治療(平均的な治療)を行うことが多くなりそうである。)


2009年4月 6日 (月)

時刻表

朝日新聞には天声人語というコラムがあるが、各新聞とも同様のコラムがある。
多少前になるが、3月30日の日本経済新聞の春秋にJTB時刻表通巻1000号にちなむ記事が載っていた。
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 旧ソ連時代につくられたアネクドート(社会風刺の小話)のひとつに、こういうのがあったそうだ。モスクワの書店で客が店員に聞く。「きみきみ、国鉄の時刻表を探しているんだが」「ああ、それならフィクションの棚にありますよ」

▼ダイヤなど乱れっぱなしの鉄道事情をチクリとやっていて笑えるが、それに比べたらわがニッポンの時刻表は徹底したリアリズムの産物だろう。狭い島国の上の緻(ち)密(みつ)な列車運行を、これまた愚直に映した毎月毎月の作品である。今は2種類出ていて、そのうち「JTB時刻表」が5月号で通巻1000号にたどり着く。

▼創刊は大正末年。戦争中には年5回の発行に追い込まれたこともあったという。戦後は豪華寝台特急の登場や新幹線開通に足並みを合わせてどんどん分厚くなった。片や赤字で姿を消した路線も少なくないから巻頭の地図は昔よりも白っぽい。このずしりと重い1100ページは、鉄道史の光も影もまとい続けている。

▼昨今の鉄道ブームで部数が伸びているかと思いきや、インターネットにも押されて約15万部と最盛期の10分の1ほどらしい。とはいえ何気なく繰ってみれば、ぎっしり詰まった数字たちが旅への思いをかき立ててくれる。欄外の駅弁案内も味わい深いのだ。時刻表はやっぱり、フィクションの傑作かもしれない。
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ところで、このコラムの内容は、いろいろなコジツケが可能である。

第一のコジツケ
数字といっても、時刻表の数字は「予定」にすぎない。もちろん、日本のように、運が悪くなければ「予定」どおりに進む国もたまにはあるが、予定どおりに行くなどということは、ほとんど起こらない国もある。
日本人は、予定通りに行くことに慣れすぎてしまっており、予定通りに行かないことを、即、誤りと感じるようになりつつある。
ところで、現在のがん治療のレベルは、残念ながら、どこかの国の鉄道レベルにしか達していない(これは、がん治療が難しいということでもある)。
予定どおりに行かないことを常に想定しておくべきである。
もっとも、どこかの国であっても、時刻表すらなければ、鉄道の安全上も大問題になるだろう。
時刻表ですらない、フィクション(体験談)しか語らない代替医療と称するものや健康食品(そもそも本当に健康によいのかすらも不明)は論外であるが。

第二のコジツケ
数字を見せられると、嘘っぱちのものでも信じてしまう、つまり、数字盲信の人が結構いる。もちろん、数字に無頓着よりもいいのだろうが。
しかし、きちんとした数字のはずであってすらも、それが絶対であると信じないほうが良い。
まっとうな治験で極めて高い有効性を示した抗がん剤が、実用化されて使用が広まってみると過去の薬と大差がないことはよくある話らしい。もちろん、言われていたほどはないということであり、効果がないわけではない。また、薬の種類が増えるということは選択肢が増えるということであり、第二選択薬以下の手立てが広がるということでもあるが。
まっとうな治験でもこのようなことが良くある。いわんや、大学の研究室レベルの段階のマスコミ記事に「夢」をいだくことは仕方がないとしても、実用化など現実的な判断ならば期待は禁物だろう。

第三のコジツケ
旧ソ連の時刻表がフィクションなみであった理由は、多分、机上のプランどおりに列車が運行するはずとして、実際の運行(実際にどれくらいの速度で運行できるか、駅での停車時間、運転員交代や車両整備のための時間・・・そして、これらが、どの程度ゆっくり(=サボりながら)なされるかなど)について、現実との比較がなされていなかったためではなかろうか。
抗がん剤治療で、マニュアルどおりの治療しかしない医師が多いらしい。
もちろん、効果も副作用も予定通り進んでいるならばそれで良いが、少なくとも予定と実際を比較して問題があれば修正するという当然のことがなされないのはどうだろうか。

第四のコジツケ
時刻表が単なる数字の羅列と言っても、1000号を並べてみれば、その時代変化が見えてくるだろう。
抗がん剤治療にしても、個々の治験の結果はある意味では数字にしかすぎないし、個々の治験を見ているとより良くなったと書かれていても、患者の目(期待)から比べれば大差ないものにしか見えないことが多い。
しかし、長年の積み重ねにより、それなりの進歩がなされていることは事実である。
少なくとも、私が患者になった七年前と現在を比べるだけでもそれを感じる。

第五のコジツケ
「欄外の駅弁案内も味わい深い」とあるが、列車の旅では、時刻どおりに到着してくれることは大事なことであるが、その途中の車窓の風景というものも大きな要素である。
たまたま隣の座席に坐った方が楽しい方であれば一層良い。そういえば、昔と比べて、車中でたまたま隣に座られた方との会話というものが極端に少なくなっているように思える。知らない人には気をつけろ・・・これが現在の社会なのかもしれない。
がん治療にしても、効果があり副作用がないことが一番大事なことは言うまでもない。しかし、それにとどまらず、医師・看護師などの医療スタッフと患者の間の付き合いや患者同士の交流というのは、治療時のQOLにとっては大きな要因である。
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花粉症のためなのか、それとも、少量投与とはいえ、倦怠感というeverolimus(CerticanRAD001)の副作用が蓄積して出始めているのか(少なくとも白血球数は少しずつ減少しており、そろそろ限度に近づきつつある)、今ひとつ、つっこんで考える気がしてこない。
ということで、今週はこのような記事でごまかさせていただくことにしたい。

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