2009年12月
    1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31    

最近のトラックバック

« 2009年2月 | トップページ | 2009年4月 »

2009年3月30日 (月)

わかりやすい言葉

前回、緩和医療の本ということで「余命半年」(大津秀一 ソフトバンク新書)を紹介した。
これを書いたのは、現役緩和医師であるが、著者略歴によれば、三十前半の若い医師である。

このためか、いくつかのわかりやすい言葉(説明)が記憶に残った。
一般的に、複雑な医療についてのわかりやすい説明というのは、ある程度は正しくても、わかりやすさゆえに切り落としてしまった部分(不正確さ)がある。
また、わかりさすさ(インパクト)故に、その表面的な印象が一人歩きし、その言葉の奥底に隠された大事な意味が読者から落ちてしまう危険も高い。
このためだろうか、きちんとした本を書く人(年配のベテラン医師)は、正しく書こうと努力しすぎて、わかりやすさが減ってしまうことも多い。

どちらが良いというものではないが、いくつか目にとまった言葉(説明)と、私なりの補足を書いてみたい。

この記事で紹介・補足するのは、「世の中には、①ほぼ治る病気と②治る場合も治らない場合もある病気と③ほぼ治らない病気とに大別される」という言葉(説明)である。
さらに、この本での説明をまとめると 、
①は若年性の風邪や、健康な女性の膀胱炎などがあり、薬剤の使用で、あるいは、使用しなくとも治ってしまう。
②は高齢者の肺炎などがあげられる。重症化して命にかかわるかもしれないし、速やかに治るかもしれない。
③は怖い病気とは限らず、加齢による高血圧もほとんど「根本的には」治らないし、糖尿病も「根治」はほとんどなく、降圧剤やインシュリンなどを用いて対症療法をとっているというものである。
そして手術で取り切れないがんは、根治性が低いか、ない。高血圧や糖尿病と違うのは、治らない上に経過が早く、数年以内あるいはもっと早くに命にかかわるかもしれないことである。
根治性のないがんに対して「治せ」と願うのは、加齢性の高血圧を「完全に治せ」というのとほとんど同じで不可能である。
この社会はお金さえあればいろいろなものが手に入る社会となっている。が、ゆえに世の中には「けして叶わぬこと」があることが忘れられてもいる。
病気にかかったら、この病気は治るのか治らないのか、あるいは、治りやすいのか治りにくいのかをまず確認すべきである。
そして、病気が根治する可能性がある場合には、最も治療の成績が良いであろう病院を探すのが良いだろうが、根治する可能性が低いのであれば、根治のための医療が無効となった際の方針も考えておく必要がある。

最初に読んだときは、(頭の中で理解していたつもりでも)「治らない病気」という言葉に少しショックを受けるとともに、確かにそうであるとスッキリと頭の中に入っていった。

ひょっとすると、治らないならば何をしても同じと思われるのかもしれない。
もちろん、「真実」にそのような価値観ならば、それは一つの意見であり反対するつもりはない。
しかし、例えば、無治療で平均半年、治療をして平均2年である場合、その差の平均1年半は価値がないのだろうか。もちろん、予想される副作用も考慮に入れなければならないが。

よく知らないが、糖尿病の患者さんの平均寿命とそれ以外の人の平均寿命を比較すれば、いくぶんかは、糖尿病の患者さんのほうが少ないのではなかろうか。そして、無治療の糖尿病の患者さんならばもっと低いだろう。
このように考えると、糖尿病の治療にしても(延長期間に大きな差があるとしても)余命の延長ということでは同じもののはずである。

さらに言えば、数百年前は、人生五十年であった。今の日本では平均寿命八十年であり、齢百歳を超える方もいるが二百年生きる方はいない。
であれば、たかたが百年かその程度で死ぬことが避けられないのならば、生きていても仕方がないのだろうか。

より「極論」を言うならば、現在、多くの人が「いつかは(多分、百年以内に)死ぬ」という事実を忘れて、貴重な時間を浪費している。なお、ここで言う浪費とは、死ぬ時点になって、生きているときにああしておけば良かったのに時間を浪費してしまったと思うようなことであり、他人から時間の浪費と見えようと、死ぬときに好きに生きたと満足できるならば浪費にはあたらない。
その点では、きちんと「死」を見つめさせてくれるがんは貴重なものなのかもしれない(ただし、貴重なのは「その点」に関してだけであって、全体として貴重なわけはない)。
もっとも、そのような貴重な機会を与えられても、これから目を背けようとする人が多いことも事実である。

あまりに患者をしているのが長期間になると、それが日常化し、ふとこういう最初の頃の思いを忘れてしまう。

(治療の経緯のカテゴリーに書いているように)そもそも、積極的な抗がん剤治療を選択したのは、余命が、それによりかえって短くなるリスクが高くとも、積極的に前向きに進むのが自分の価値観であり、仕事において自分のみならず部下にも課したものであるからには、その価値観に最後まで背かないようにしたいと考えたからのはずであった。
また、K立がんセンターに(単なる経過観察のために)毎月外来に行っているのは、一つには随時セカンドオピニオンが聞けるからであるが、そもそもは、本当に治療法がなくなった(無理になった)ことを想定して、片足を残しておくためだった。
もちろん、K立がんセンターに緩和医療はあまり期待していないし、看取ってくれることもないだろうことは承知しているが、適切な病院の紹介ぐらいは期待できるということである。

ふと考えると、積極的な治療については、多くはないがいくらかの情報はある。
しかし、緩和については、(ホスピス協会参加リストぐらいはあるが)あまり情報はない。
緩和といっても、様々なはずである。
名前だけの緩和病院も多いらしい。そうでなくとも、他の病院での積極的治療との併用などについての姿勢はいろいろあるだろう。
さらに考えると、きっと主治医との相性の良否は、緩和治療でのQOLに大きな差をもたらすのではなかろうか。
であれば、積極的治療に関する病院選びよりも手間暇をかけるべきなのかもしれない。

私の場合は、現状からは急ぐということはないだろうが、折をみて近隣の緩和系の病院に直接に話を聞きに行ってみるのも必要なように思えてきた。
積極的な治療が無理になり、緩和がメインとなっても、その中での積極的な患者になる・・・これは私にとっては大事なことかもしれない。

2009年3月23日 (月)

緩和医療の本

それなりに長くの期間、積極的ながん患者(本人としては合理的選択の結果であり、「積極的」とは思っていないのだが)として過ごしてきたおかげで、抗がん剤治療には(患者としては)それなりに詳しくなったようだし、外科治療などその他の積極的治療については、ある程度の知識が備わった(ように思う)。

しかし、ふと考えると緩和医療や終末期についてあまり知らない。これは、運悪く交通事故死でもしない限り、早かれ遅かれ、間違いなく体験せざるを得ないことにもかかわらずである。
もちろん、例えば、モルヒネは鎮痛に対して使う限り寿命を縮めたり、中毒になることはなく、かつ、使用量も痛みにあわせて使用する限り上限がないこと(なお、積極的治療の効果などにより痛みが少なくなれば、量を減らせるし、場合によってはゼロにまで戻せる)程度は知っている。点滴による水分補給は、余命一週間ないし数日になればほとんど必要ないし、そのほうが患者に負担が少なくなることも聞いている。また、本来、緩和治療は積極的治療と切り離されたものではなく平行して行われるべきもの(その比重が積極的治療から緩和医療に移っていく)のはずであるが日本の多く病院ではそのようになっていないということくらいならば知ってはいるが・・・

確かに、身内にがん患者がいなかったならば、終末期医療を見る機会はないだろうし、いたとしても、ほとんどの場合、入院治療となるので、ほんのその一部しか知らないことが多いだろう。
もしも、在宅などで一部始終を見ていたとしても、一例を知るにすぎないため、それがどの程度の患者にあてはまるのかはわからない。

健康食品の宣伝本やトンデモ医療の数は多い。それでも、まっとうな治療に関する本もがんの種類別や治療方法別などで、それなりの数がある。しかし、緩和医療に関する本はほどんど目にしない。あっても、体験談のたぐいのものであり、一例としては別として、それが自分自身にどの程度あてはまるのか(正確には、あてはまる可能性が高いのか)わからない。
このような疑問をいだいていたら、「余命半年」(大津秀一、ソフトバンク新書)という本が目にとまった。これまでは、余命半年というのはあまり意味ある言葉ではない(それなりに終末期について予想ができるようになるのは余命3ヵ月)ため、手にとってもみなかった本である。

私なりの感想を言えば、緩和医療の現役医師が、患者(社会)に緩和医療に対する知識や意識が薄いことに危機感を抱いて著したものであるためか、積極的治療に対する評価が低すぎるように思えるし、また、あちらこちらに「脅かす」ような文章があったりして、多分、何割引かしながら読むべきかもしれない。また、文芸評論家風に言えば、若手の医師のためか、やや文章が硬く、力が入りすぎているようだ。それでも、私の知る限り、網羅的・比較的平易に書かれているし、新書であり安価かつ薄い本なので、緩和医療について情報を求めている患者・家族に対しては一読を勧めたい。

なお、若手の緩和という立場からがん治療に携わっている医師だけに、緩和医療に関しない部分(例えば、医師の選び方)にもおもしろいことが書いてあるし、本人がやりたい治療をきちんとできているかという自問もあったりする。
この付近はおいおい紹介していきたい。

嫌なことは知りたくない、知らざるを得なくなるとしても、できる限り後にして欲しい・・・これは、人間である以上、誰でも持っている感情である。
そして、それも一つの価値観である。だから、知らなかった結果として「損」をすることがあり得ることを覚悟してならば、それは立派な態度であるし、そのような方も尊敬する。
しかし、単なる怖いものを見たくない・知りたくないというだけの方ならば、この本の「はじめに」の中の文章を考えて欲しい。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
老いること、病気になること、死ぬこと、それを事前に考えるのは、ものすごく精神力を使い、大変な作業である。ともすれば、抑うつ的になってしまうこともあるだろう。
しかし、その差は必ずいつか出る。ひょっとすると、最期ばかりでなく、明日からも大きな差となって現れるかもしれないのである。
あなたは真剣に自分の余命が残りわずかだったらどうしたら良いか、考えたことはあるだろうか。
あるいは家族がそうなってしまったら・・・・・?
ぜひこの本を読んで、今じっくり考えていただきたい。
なぜなら、いつだって死の裏側に浮かび上がるのは、生なのであるから。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
この本の宣伝をする気はない。これを考えるのにこの本を読む必要はない。しかし、「この本を読んで」を除けば、一つの真実ではなかろうか。
そして、このことは緩和医療のみならず、多少、表現を変えれば、抗がん剤治療やその他の積極的治療にもあてはまることだろう。

2009年3月16日 (月)

新入社員の採用面接

ネタ切れに陥ってしまい、日経ビジネスの以前の号をめくっていたら、「ハズレ社員、企業の責任」と題する樋口弘和氏(人事・採用コンサルティングを行うトライアンフ社長)へのインタビュー記事(日経ビジネス2009年3月2日号 「著者に聞く」)が目にとまった。概要は次のようなものである。
--------------------------------------------------
外資系企業での経験がベースになっていますね。

米国本社では志望者の面接を各事業部門のトップがしていた。同じ人事担当が行う日本企業とは全く違っていた。
事業部門のトップには、人の能力を見抜く力や口説く力に長けている優秀な人が就いている。そういう人が見極めるのが、あるべき採用の姿のはずだ。
日本の新卒採用で幅を利かせてきたのは「大学名」や「意欲」であるが、学生の自己PRを聞いても美しいことしか出てこない。定年までとすれば約40年も働く会社を決めるのに、そんなやり方でいいのか。

「志望動機」や「キャリアビジョン」を聞くことにも疑問を呈しています。

面接は人に対する評価を下す場です。動機とか将来のキャリアは直接関係ないはずです。
例えば、社内での人事評価では、対象となる期間にどんな取り組みをして成果を出したか、それに対して評価する。
採用面接も同じはず。米国で見た面接は、淡々と過去の話を聞き出すものだった。中途採用なら「上司はどういう人だったか」「顧客とはどのような関係を築いてきたか」など、皮をはぐように聞く。大きく見せようとしても、誇張があればすぐに明らかになる。
動機やキャリアビジョンで聞く内容は、未来のことなので、いくらでも大きなことが言える。3年先の状況すらわからない現在、話のとっかかりなら別として、どれほど意味があるのか。
言いたいことは、やってきた事実以外に人の能力を測ることはできないということです。将来のキャリアを聞くならば、3年前にその人が何を考え、3年後の今につながっているかを聞く。向上心のある人ならば勉強会への参加など、向上心のある生き方をしているはずです。

面接に問題があるわけですね。

一般的に日本企業は面接が下手です。面接のスキルを学ぶことがほとんどない担当者は何を聞いていいかわからないので、初めて会う人に意見や価値観を聞いて、自分の好みに合うかで判断してしまう。これまでは、採用側と被採用側にミスマッチがあっても、終身雇用なので10年もたてば修正できたが、今後はそうはいかない。
「どうすればいいのか」と聞かれたときに言うのは「自社で活躍している人のコピーを採用する」ということです。例えば、活躍している上位20人を並べるとどんな人材になるのか、それと採用基準が一致しているかを考えてもらう。
そして、不幸にも採用に失敗があったら、その原因を検証する。「結局のところわからない」で済ませれば同じことを繰り返すだけです。
---------------------------------------------------------
現在の日本の健康保険制度では(自由診療を標榜するごく一部の病院を除いて)、どの病院を選ぶかについては、救急車での緊急入院などを除けば、患者側に自由がある。
そして、標準的治療の普及により病院間の格差は縮まったといっても、「?」な病院は存在するし、優れているないし普通の病院においても、その治療方針なり治療の力点には違いがあることも事実である。

「?」な病院は論外としても、病院の治療方針と患者側の価値観が一致するか否かは、「精神的」に快適な治療を受けられるかという観点からはかなり重要である。

また、標準的治療があるようなメジャーながんではなく、例えば、膵内分泌細胞がんのような稀ながんになると格差が激しいし、しかも、ほとんどの病院がレベル低となる。

膵内分泌腫瘍に対して「抗がん剤はない」と断言する病院がほとんどであろう。
せめて「保険適用内の抗がん剤では効果が低くおすすめできないし、適用外薬は方針として使うことができない」とか「治療した経験がなく、引き受けられない」程度の本音を言って欲しいのだが・・・
他方、あの手・この手で治療を試みる病院も数は少ないようだが存在している。

とはいうものの、このような病院の評価には、かなりの知識・情報・経験が必要であり、いわば、事業部門トップの力量が必要である。
このような力量を患者(それもなりたての患者)が持っているわけはない。いわば、人事の担当者どころかアルバイト学生の域にも達していない。

であれば、「大学名」ならぬ「病院名(大学病院、がんセンター)」に頼らざるをえないし、こうすれば、少なくとも「?」な病院である可能性はかなり低いだろう。

ただし、知識・情報・経験がないため、とりあえず選んだ病院であるということを忘れずに、例えば、「治療法は残っていない」(本当にない場合もあるが、たいていは、うちの病院でできる治療はないという意味である)と言われたらどうするかなどを考え、常に、知識・情報・経験を少しでも増やす努力を怠ってはならないと思うがどうだろうか。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
面接は人に対する評価を下す場であり、動機とか将来のキャリアは直接関係ないのと同様に、薬に対しては効果(及び副作用)について評価するものであり、うたい文句(例えば、「天然の○○成分を濃縮」とか「免疫力向上」)は直接関係ないはずである。
たんたんと事実(治験結果など客観的事実)を慎重に確認する。理屈は重要ではない(昔の言葉に「理屈と膏薬はなんにでもつく」というとおり、理屈だけならば、たいていのことは言える)。体験談の類は、入社希望者のセールストークと同じで、本当だろうと嘘だろうと、大きなことを何でも言える。
ちなみに膏薬を(選挙の)公約と言い換える人もいるが、公約でどのような美辞麗句を並べようと、それをどの程度実行できるか(したか)のほうが重要であることは言うまでもない。

また、「向上心のある人ならば勉強会への参加など、向上心のある生き方をしているはず」とあるが、真に自分(家族)のことを大事に思っているならば、患者(患者の家族)として向上すべく生きていなければならないのかもしれない。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
採用担当者に面接のスキルがないとすれば、突然なってしまったがん患者に患者のスキルがあるわけはない。
何が正しいのかわからないのに(ので)、健康業者さんの甘い意見や価値観を聞いて、自分の好みに合うかで判断してしまう。これまでの人事採用ならば、ミスマッチがあっても、終身雇用なので10年もたてば修正できたが、がん患者ではミスマッチに気がつく前に「死人に口なし」になりかねない。
自分の好みに合うかどうかではなく、「賢明な」患者像を描き、賢明な患者ならばどうするかと懸命に(←駄じゃれ)考えると良いのかもしれない。

また、「不幸にも採用に失敗があったら、その原因を検証する」とあるが、がん患者にとっては、失敗と気がついたときは手遅れであることが多いのではないか。
であれば、常に、自分の選択は失敗ではないのかという自問自答をかかさずに、もしも、選択が間違いであったなら、少しでも早くそれに気がつくようにする・・・という、シンドイことも必要なのかもしれない。

もちろん、真実を知らずに騙されたままで生きていたいという価値観の人は、この限りではない。

2009年3月 9日 (月)

思えば遠くに来たものだ

私の場合、きちんとした「告知」がないままだったので、どこからカウントするか難しい。

一応、「治療の経緯」に書いているが再掲すれば、

人間ドックで異常が発見されたのは2002212日。218日中旬には胃カメラで胃がんだろうと判断されたようだ。ここまでは、単身赴任中のT市の病院である。
告知もなく即時入院・手術を主張する医師(当時でも告知に関してかなり消極的な部類に入る)に対して、単身赴任なので東京でということで紹介状を要求したときに、「わかっているよね」的な表情があった程度。
続く、K大学附属病院では、がん患者として検査し、当方も、がん患者として検査を受けたが、きちんとした説明(胃ガン(未分化ガン)、転移あり)は抗がん剤治療のはじまる直前の3月下旬。さらに、4月早々に膵内分泌細胞がんに訂正。

一応、ドタバタがはじまった2月を起算日にすれば、満7年を既に経過したことになる。
早期がんの場合、手術後5年経過して再発が見つからなければ完治(乳がんでは10年らしいが)とされている。
また、当時、ネットで検索をかけたらアメリカの膵臓学会誌の論文がヒットし、症例報告として7年生存の例が載っていた。それを読んで、こんなに長生きできたら良いなと思ったことを覚えている。

これまでの7年を振り返ると、T市の病院をダメと判断して、K大学附属病院(おかげで胃がんではなく膵内分泌細胞がんと判明)へ、さらにK立がんセンターに転院し1年がかせげた。その間に、調べまくり、未承認抗がん剤を含め積極的な抗がん剤治療をする現主治医(もっとも、当初は勤務医であったが、現在は独立してクリニック)と変わっている。

抗がん剤にしても、ザノザールという古臭い抗がん剤(しかし、日本ではいまだ未承認)中心しかなかったのが、これに匹敵する成績をテモダールがあげ、さらに、上回るものとしてスーテントやRAD001があらわれている。
もっとも、これらは全て未承認ないし適用外ということで、きちんと使ってくれる病院は日本にはほとんど存在しないというのが実情ではあるが。

インフォームド・コンセントやセカンド・オピニオンという言葉は当時からあったが、一般的というにはほど遠かった。

そういえば、HPやネット検索はあったが、ブログなるものは存在していなかった。

9.11の直後であり、ここから、アフガン、イラクへと続いていく。
当時の幼稚園生は中学校に入っていることになる。

しかし、テモダール、スーテントやRAD001という有望な薬が現れたといっても、私にとって残るはスーテントぐらいである。この数年は新規の有望な治験結果の報告はない。

もちろん、RAD001が無効になり、そして、スーテントが無効であっても、7年前のレジメンと同程度の効果ならば、治験規模などから不確実性が高いがFOLFOLI5FU持続投与があるし、エビデンスを気にしなければ、RAD001なりスーテントに他の抗がん剤を併用することに「トライ」する手もあるので、まったく治療法なしということでもない。

長い間、患者を続けているうちに、習わぬお経もかなり覚えてしまった。

そのほか、プライベートな変化は大小いろいろと生じている。

本当に「思えば遠くに来たものだ」

しかし、どこまでもがん患者であることには変わりはない。
「分け入つても分け入つても青い山」 (種田山頭火)

いつまで青い山を歩き続けることができるかわからないが、歩き続けることが生きていることだろうし、生きていることは歩き続けていることだろう。

歩きながら目にしたもの、考えたことを、今後とも書き続けていきたい。
-----------------------------------------
私のことを理系と思われている人も多いだろう。否定はしないが、個人的には文系の要素もかねそなえた論理系と思っているのだが。

しかし、この程度ならば、感情的・感性的な文章も一応書けるのです。

2009年3月 2日 (月)

マイナスイオン

朝日新聞朝刊の生活面に「疑問解決モンジロー」というコーナーがある。2009223日のコーナーでマイナスイオンの効果について扱っていた。

-----------------------------------
電器店に加湿器を買いに出かけたとき、店員から「霧状の水はマイナスイオンを含んでいるので健康にいい」と聞きました。滝の水しぶきの近くでもマイナスイオンが多いということでした。マイナスイオンの健康効果はあるのでしょうか。
<
記事には質問者の住所・職業・氏名・年齢が載せてありますが、ここでは略します。>

マイナスイオンの効果は

科学的根拠はない
マイナスイオンって、そもそも何でごザルか。学校で、イオンは物質を作っている原子が、電子を得たり失ったりして電荷(電気の最小単位)を持ったものだと習ったけれどね。
大阪大学の菊池誠教授(物理学)に聞きに行くと、「マイナスイオンが何を指すか実態がはっきりしていない。普通の科学者は、マイナスイオンという言葉を学術用語と思っていないのでは。」へー、そうなんだ。
マイナスイオンは放電を利用したり水しぶきを噴霧したり、鉱物のトルマリンを使ったりして発生すると言う人もいる。だがいろいろな手段で発生したものをすべてマイナスイオンとくくっており、俗称であっても学術用語とは言えそうにないんだって。
しかも、マイナスイオンの物質の種類は特定されていない。菊池教授は「どんな物質でも、電子がついたり離れたりしたらイオンになるわけだから、物質の種類も言わずにいいも悪いもありえない。健康に効果があるとしても微妙なものです」と説明してくれた。
健康への効果については、何十年も前から研究する人がいたという。一時期テレビが取り上げるなどして、「マイナスイオンは健康にいいと広まったらしい」。
けれども、明確な科学的根拠が示されてきたわけではない。菊池教授は「『昔から言われているから本当だ』という人もいるが、『昔から説があるのにまだもめているから、きっとない』という考え方がある。僕は後者です。」とキッパリ。
漠然と効果が信じられてきたのは、滝のしぶきの中で発生するという説の影響があるようだ。暑い日に木漏れ日が差す中で滝のしぶきを浴びれば、誰でも気持ちがいい。「イオンの効能というよりは、さわやかな自然がもたらすイメージだ」と菊池教授。「曇って寒い日に行ってみてください」

うまい話は疑おう
科学的根拠が低いのに効果効能があるように見せるのが「ニセ科学」。科学者たちが注意を呼びかけているよ。
京都女子大の小波秀雄教授(化学)に聞きに行ったら、代表例は「血液型による性格判断」だって。水に「ありがとう」といった良い言葉を見せて凍らせると美しい結晶ができるという「水からの伝言」や、霊視とか予知などの霊能もそうだって。
「血液型性格判断も楽しむだけならばいいのでは」と聞くと、小波教授は「身体的特性で、生き方や趣味嗜好を思い込むのは危険です。ある血液型は別の血液型よりも融通がきかない、とするのは差別にもつながる」と厳しい。
でも科学的根拠がないのに、どうして信じてしまうのだろう。科学者が「○○は絶対にありえない」という表現を使わないのも、理由となりそうでごザル。
小波教授は「一番不可能に近い証明は、不存在の証明。つまり、それがないという証明です」と言う。例えば「陸上にすむ金魚はいない」という場合、すべての金魚を捕まえて調べるわけにはいかない。一般の人が「いるわけはない」と言っても、科学者は厳密に「完全にいないとは言えないが、おそらくはいないだろう」となる。
だから科学者が「おそらくない」と言った場合、実際はほぼ「絶対ない」を意味している。だけど、一般の人は「おそらくないということは、あるかもしれない」と受けとめがち。それが自分にとっていい解釈につながる恐れがあるんだって。ウキッ!

小波教授によると、一般の人が、ニセ科学にだまされない眼力を高める一番いい方法は、うまい話を疑うことだって。「例えば『がんやアトピーが治る』と言われたら、その瞬間にその話を信じるのをやめた方がいい」
(2009
223日 朝日新聞朝刊 31)
----------------------------------------------------
全体としてよくまとまった記事である。

しかし、このような与太話を広めたマスコミの責任について、「一時期テレビが取り上げるなどして」としか触れていないのは、事故批判精神の欠如である。

健康に良いマイナスイオンを発生させるとするエアコンの宣伝を大々的に行ったことが、マイナスイオン信仰の一番の元凶である。
また、この宣伝は、朝日新聞を含めて、どの新聞にも大きく扱われていたはずである。

マスコミは「CMの内容については責任はない。ただ、宣伝場所を貸しただけである」というのが常套文句である。
このような責任逃れを真摯に反省しなければ、マスコミ起因のエセ科学とそれによる被害は広がり続けるだろう。

ちなみに、朝日新聞(と限らず各新聞)には、エセ医療満載の雑誌の宣伝が載っている。
少なくとも、広告欄には、「大きな文字」で「これは宣伝です。内容の真偽については新聞は責任を持てません」と明記するのが必要なのではなかろうか。

もっとも、マスコミが金主(広告主)に弱いのはわかりきったこと。一線の記者がそれを批判するような記事を書いたとしても、(広告収入を扱う部門からの圧力で)編集のほうで没になったり、手直しをされたり・・・

今回の記事は、マイナスイオンという電器メーカーにとってあまり宣伝価値のなくなったものだから書けたのだろうが、「遠赤外線」とかの流行のものならば書けなかったろう。
本当にエセ科学による被害を心配するならば、現在流行の製品にまつわるニセ科学を記事にするべきなのにそれができないのは、日本のマスコミの本質がエセであることを示している。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
マイナスイオンに似ているのが「免疫」。
もちろん、「免疫」自体は学術用語であろうが、免疫といっても、いろいろなものが組み合わさっている。
したがって、よく使われる「免疫を高める」という言葉は、免疫のどれを高めるのか限定されていなければ、学術的に無意味である。というより、一昔前は「精神的に良い」(これも無意味な言葉である)という言い方をしていたのを、根拠もなく「免疫を高める」と言い換えているのが普通のようである。つまり、「普通用いられている」免疫という用語は、専門的には意味不明な戯言にすぎない。

「『昔から言われているから本当だ』という人もいるが、『昔から説があるのにまだもめているから、きっとない』という考え方がある。」は、言葉足らずのように思える。
たしかに、昔から言われている仮説で正しいか正しくないか証明ができていないものはある。しかし、このようなものについては、その真偽を巡り、研究が進行形で進められており、真偽を明らかにするには至らないとしても、真偽どちらの蓋然性が高いかを示すような論文は示され続けている。このようなでなければ『昔から言われているから本当だ』という人もいるが、『昔から説があるのにまだ証拠が出されていないのは事実と異なるからだ』という考え方のほうが正しいだろうと言うべきだろう。

なお、効果のある・なしならば、ある程度の治験がなされれば、真偽は明白になる。例えば、多くの研究がなされてきたにもかかわらず、肝がんの再発確率低下以上の効果が示されていない既存の免疫療法は、がん治療に有意な効果はないと判断して間違いないだろうし、極めて大多数の人に治験をしているにもかかわらず、成果を示せない丸山ワクチンは、ただの水と思って間違いないだろうる
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
次に、エセ科学が広がる理由であるが、この記事を読むと科学者の責任にしか触れていない。
科学者に(自分に責任がない)エセ科学を防ぐ努力を行う「義務」があるかは別にして、大多数の科学者がエセ科学を推進していないのに、それに染まってしまう一般人の責任は不問に付している。(もちろん、かの基礎免疫学者のアホ教授のようなのもいないわけではないが)

多分、この記事を書いた記者は、心の奥底では、一般国民は無知蒙昧な救われがたき馬鹿なので、このようなエセ科学を信じてしまうことに責任はないという風に、日本国民をみなしているのだろう。(個人的には当たっているかもしれないともおもわないでもない)

はっきりと言って、多くの一般人は、正しい・客観的な事実を欲していない。自分にとって都合の良いこと、あるいは、そうであって欲しいことを求めているに過ぎない。
エセ科学は、自分が求めることを自分に信じ込ませるための小道具に過ぎない。
その証拠に、免疫治療なり丸山ワクチンについての客観的な事実を示しても「夢を壊す冷酷な言葉」と反発されるか、あるいは、不都合な真実は無視するという態度の方がほとんどのように見える。

昔から「都合の良い話ほど疑ってかかれ」という智恵があったはずだが、最近では、自分にとって都合の良い話がないということはケシカランことであるという、自分(人間)の能力は無限という「自分にとって都合の良い」信念の持ち主が急速に増えつつあるように感じる。

なお、人間の能力は無限なのかもしれないが、そうであるとしても、これは「能力=可能性」ということであり、「能力=現実に『なしえる』こと」という意味ならば、有限それも極めて限定されたものでしかない。

« 2009年2月 | トップページ | 2009年4月 »