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2009年2月23日 (月)

孤独な群衆

たまたま読んだ文章に「孤独な群衆」という本の題名があった。
「孤独な群衆」という言葉に関心がそそられたので調べてみると、デイヴィト・リースマンが1950年に書いた本である(David
 Riesman, "The Lonely Crowd")。1961年の簡訳版の訳本がまだみすず書房から出版されているようである。そして「伝統的指向」「内部指向」「他人指向」という社会的性格の3類型が提唱されているらしい。どうもおもしろそうである。
それなりの価格の本なので、図書館から借りだしみた。貸し出し期間の制約もあり、途中までしか読めなかったが、おおよそ、次のようなことらしい。

「伝統的指向」
高出生率・高死亡率の社会(高度成長潜在的な社会)で見られるものであり、また、一次産業が基調となるなどの技術的・制度的要因が重なり合うこととなる。
このような高度成長潜在的な社会では、その典型的な成員は、その同調性が伝統にしたがうことによって保証されるような社会的性格をもつ。こうした人々を、「伝統指向」と呼び、彼らの社会を「伝統指向に依存する社会」と名づけている。

両親と子供の関係を見れば、「伝統指向に依存する社会」では、両親だけでなく親戚(大家族家庭)やその村落社会の大人たち、すなわち大人全体をモデルとして模倣するという形になる。これは、比較的単純な生活が送られているが故に、子供が見よう見まねで模倣することが可能であるいう事情もある。

「内部指向」
高出生率・低死亡率の社会(過渡的成長社会)で見られるものであり、また、二次産業が基調となるなどの技術的・制度的要因が重なり合うこととなる。
この過渡的人口成長期の社会では、その典型的成員の社会的性格の同調性は、幼児期に、目標のセットを内化する傾向によって保証される。
つまり「内部指向に依存する社会」では、家庭の独立性が高まり、そして両親は、子供をたんに「かわいがる」のではなく「育てる」。そこでは、子供の心に、その子供が人生の間、行動すべき方向を示すジャイロスコープをすえつけ、それが機能するようにするということができる。伝統指向社会のような祖母(親戚・村落共同体)の力はなくなり、学校の教師が大きな役割を果たすようになる。そして、教師は両親と並ぶ「権威者」であり、学校は、男女の区別が守られ、知的な問題に力点がかけられる大部分の子供にとって魅力の感じられない非人格的存在である。しかし、子供たちの遊び仲間のこととか友達関係といったことは教師(学校)の役割の範囲外とされている。
ジャイロスコープがすえつけられるということは、子供が自分を監視し、また、性格を訓練していく義務を両親より受け継ぎ、まったく新しい状況に直面し得る準備を完了するということであり、さらに、新しい状況の中で、自分みずからをどうするか決断しなければならないという個人的な責任感や「個人」ということの自覚を持つことを意味する。

「他人指向」
低出生率・低死亡率の社会(初期的人口減退社会) で見られるものであり、また、三次産業が基調となるなどの技術的・制度的要因が重なり合うこととなる。
初期的人口減退の段階の社会では、外部の他者たちの期待と好みに敏感である傾向によってその同調性を保証されるような社会的性格が、その社会の典型的成員にゆきわたる。
この「他人指向に依存する社会」では、子供を育てるのではなく、子供にあわせてその子供を伸ばそうとする。体罰は少なくなる。比喩的に言えば、特定の方向に向けて運動をコントロールするジャイロスコープではなく、他人の行為を探知するレーダー装置を子供の心にすえつける。学校では、子供たちの個性を伸ばすということが目標とされ、知的能力のみならずさまざまな点について教師は注意を払うこととされ、教師の役割は、しばしばオピニオンリーダーのようなものとなる。

リースマンは、社会を人口がS字カーブを描く、つまり、高出生率・高死亡率という高度成長「潜在」的社会から、高出生率・低死亡率という過渡的成長社会、そして、低出生率・低死亡率という初期的人口減退社会へと変化していくとし、社会的性格も、「伝統的指向」から「内部指向」へ、そして「他人指向」に移行していくとしている。
そして、1950年のアメリカの中流社会を「内部指向」から「他人指向」に変化しつつある段階と述べている。(それから約60年を経た現在のアメリカを見ていると、本当に「他人指向」になったのだろうかと思わないでもないが。)

リースマンは、この3類型はあくまでも「社会的性格」に対するものであり他に適用するべきではないことや、もととなった調査が、米国の中流家庭に限られているし、調査規模も小さいこと、さらには前提としている仮説の中にも議論の余地があるものが含まれていることを述べ、この3類型の適用には極めて慎重であるべきことを注意している。最近流行の科学に名を借りながら、「ほんの部分的な基礎的な研究成果」をなんら裏づけがないまま「実生活や社会に拡張・応用」して実利を語る薄っぺらな本とは全く異なっている。

話を変えるが、昔、経営学の大先生がこのような意味のことをおっしゃっていた。
「経営学で、いろいろな説(例えば、成果主義)が言われるが、根拠となるデーターは、経営者インタビューにしろアンケートにしろ、貧弱なものしかない。また、それを証明する実験もできない。では、どのようにして、その説の真偽や価値を判断するか」と前置きされてから、
「説を聞いた瞬間に『あっ、確かに』、『本当にそうだ』と思えるものが、価値ある説である。」と言われた。
この場合、『あっ』とか『本当に』というのがミソでありそれがなければ単なる常識の言い換えにすぎない(価値)。また、『確かに』とか『そうだ』ということでなければ、単なる思い込み・間違いである(真偽)
つまり、人間は誰でも組織に属して生活しているのであるから、潜在意識の中には、正しい組織論(経営論)が存在している。そして、その潜在意識を鋭く摘出することができたものが価値ある説なのである。逆に、『え~』とか『まさか』と思われるものは、日常の経験(すなわち、事実)とは異なるということであり、説としては誤りであると判断してよい。

この経営学の大先生の言葉に従うと、「伝統的指向」「内部指向」「他人指向」という3類型は、社会的性格に限らず広い範囲で、『あっ、確かに』、『本当にそうだ』と感じられるものである。

という言い訳をしたうえで、この3類型を勝手に応用してみたい。

日本は、第二次世界大戦前は、「伝統的指向」であったようである。
よそ様の目を心配するといっても、このよそ様の目なるものは、既存の地域社会のことであり、「伝統」である。
現在の日本は、明らかに「他人指向」である。
他人と同じことをする・他人と同じものを持つことに努力する人がなんと多いことか。
そういえば、教育で問題となっているモンスター・ペアレントも教師が「先生」から生徒のリーダーへ、さらには、生徒への奉仕者にと変化しつつあること、すなわち、他人指向社会の日本型深化に応じているように思える。ブランド志向もそうであるし、グルメ志向(「マスコミで紹介」された名店志向)もそうである。
しかし、その中間であるはずの「内部指向」の人はほとんど育たなかったように思える。敗戦による自信の欠如により埋め込まれるべきジャイロスコープが封建的とか時代遅れとして退けられたり、新たなジャイロスコープたるべき自由とか自己責任というものはこれを埋め込む役目を持っている親が真に有していなかった(伝統指向の教育しか受けてこなかった)ためきちんと埋め込むことができなかったのかもしれない。
日本は、「伝統的指向」から一足飛びに「他人指向」に移行してしまい、本来ならば、間にあるべき「内部指向」が欠如している・・・これが、現在の日本の社会のひ弱さの原因の一つなのかもしれない。

ところで、このブログは「粘る稀ながん患者」である。
がん患者やその家族にこの3類型を適用してみない手はない。

「伝統的指向型」がん患者・家族
これは、やはり昔かたぎの患者になりそうである。
○○がんセンターとか○○大学病院と言った名前(権威)を判断基準にするし、医師の言っていることを絶対視し疑うことはない。
場合によっては、トンデモ本を信じてしまうこともあるが、それは「本」なるものは間違いのない立派なものであると信じているからである。

「内部指向型」がん患者・家族
一番の少数派ではなかろうか。
自分の価値観(ジャイロスコープ)に照らして、どのような治療ないし治療方針を希望するかを自覚する。
がんという状況の中で、自分みずからをどうするか決断しなければならないという個人的な責任感や「(他人とは異なる)自分」という意識を持つ。
ただし、がんに関する正確な知識が少ない場合は、自分の価値観にあっているトンデモ治療にはまってしまう可能性もある。
また、家族であれば、自分が良いと思う治療を患者に押し付けてしまう傾向がある。

「他人指向型」患者・家族
多分、一番の多数派だろう。
受けている治療が「自分にとって」ベストのものであるかというより、他の人より劣った治療を受けていないかを気にする。
普通の治療であるとか、(同じがんの)他の患者も受けている治療であれば納得する。
○山ワクチンが「みんなが良いと言っている」と思うと、自分も受けたく思う。この場合、みんなが言っていると(思う)かどうかが判断の分かれ目になる。

未承認抗がん剤については、このようになるのだろうか。

「伝統的指向型」がん患者・家族
基本的には、権威(医師)に対して受身であるから、未承認抗がん剤などは念頭に浮かばない。
浮かんだとしても、国(権威)が認めていないし、お医者様(権威)も使えないと言っているのだからあきらめる。
そもそも、未承認抗がん剤について考えてみたのも、欧米という先進国(権威)で使われていると聞いたからにすぎない。

「内部指向型」がん患者・家族
積極的な治療がその価値観と一致していれば、承認・未承認を問わずに有望な薬を希望する。
しかし、経済的負担なり使用してくれる医師が見つからずにあきらめることは多いだろう。
もちろん、高価な抗がん剤で多少余命を延ばすよりは、うまいものを食べるほうが良い・家族に財産を多く残したいという判断から希望しない患者もいるはずである。

「他人指向型」患者・家族
どの程度の効果があるかはよく理解できないが、外国(他人)で使えるのに日本(自分)が使えないのは不満である。
といって、国内では他の患者も受けられないのであり、自分だけが受けられないわけではない。
早く認可されると良いが、といって、それまでの期間、個人輸入などにより(他人が使っていないものを)使うということは思わない。
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がん患者・家族への類型適用がどれだけ当たっているかはわからない。

しかし、少しでも当たっていると考えられるならば、「自分はどの類型である」かを思うのではなく、「自分はどの類型になりたいか」ということを考えていただきたい。そして「なりたい類型にあわせた行動を「演じる」(類型に近づくべく努力する)」それが大事なはずである・・・と思う。

2009年2月16日 (月)

情けは人の・・・・・・

岩波書店の発行している月刊誌に「図書」がある。一応、100円という定価がついているが、本屋のレジの横に積んであるお持ち帰り自由の小冊子の一つというほうがわかりやすい。

時々、本屋で他の本を買ったついでに「無料」でもらうことはあるが、定価を払って買ったこともないし、また、本も買わないのにこれだけをもらう度胸もない。

ところで、「図書」の20092月号に今枝由郎氏(フランス国立科学研究センター・チベット史)の書かれた「情けは人の・・・・・・」という文章が載っていた。

詩人俵万智の『言葉の虫めがね』の「情けは人の・・・・・・」という文章をもとに、
俵さんは、本来「情けは人のためならず」(情けを人にかけておけば、めぐりめぐって自分によい報いが来る)であったのが、現在では「情けは人のため『に』ならず」という形、すなわち、「下手に同情したりすると、本人のためにならない」ともちいられていることを述べた上で、
「誤用は誤用だが、私にはなかなかいい解釈だな、と思う。その場限りのヒューマニズムや、安易な同情で親切にしても、かえって本人のためにはならないことは、確かに多い。甘えた根性を、びしっと断ち切ってやることだって必要だ。そういう共感を呼ぶ内容だからこそ、これほどまでに誤用が広がったのだろう」
し、さらに
「いっぽう、本来の意味のほうは、私などには、えらいエゴイズムのように感じられる。人に親切にするときぐらい、見返りなんか忘れたい、と思う。いつかは自分のためになるんだと思って親切にするなんて、ずいぶんセコイ発想ではないか。もちろんここには、「因果応報」という仏教の考え方が、あることはわかるのだが。その考え方自体も、現代社会ではかつてほどポピュラーではなくなってしまった。そのことも、誤用のほうが普及する素地となっているのかもしれない」
と結んでいると述べている。

続いて、今枝氏は「正直者がばかを見る」という言葉について
「正直者がばかをみる、という言葉を聞いて、十代のころ思わずびっくりしたものです。なんだって? これまで正直者がばかをみなかった時代なんて、一度でもあったんだろうか。いまごろ何を言っているのか、と素直に驚いたからです。(中略)
世の中には、正直者がばかをみないことも、ごくまれにはあるのです。それは事実です。(中略)
努力がむくわれることもまた、まれにはあります。めったにないことだが、絶対にあります。努力がむなしいなどとは決して思いません。しかし、それはこの世の中で、ごくごくまれな、大げさに言えば奇跡のような事件としてあるのであって、それ以上ではないのです。
露骨に言ってしまえば、正直者はおおむねばかをみます。努力はほとんどむくわれることはありません。」
という作家五木寛之の「他力」という文章を紹介し、これが正直ということに対する現代日本人の一般的見方を代弁しているであろうとしている。

そして今枝氏は、この両者に時間的スパンの短さが共通するとして、
「すなわち、両者ともに、今生きているこの生だけのスパンでものを考えている、ということである。ところが…「因果応報」…という仏教の言葉は、けっして今のこの世の生だけのスパンではなく、こうした生が何度も何度も連綿と繰り返されるという長いスパンを前提にしている。このスパンの違いは、言葉の解釈に、そしてそれに対する自らの処し方に決定的な影響を与えている。
「正直者がばかをみる」ということは、正直であることと、それが報われるという二つのことがらの間の因果律を、非常に短い、近視的な尺度で計っているから、そうなるのである。ある行為に対して、すぐにその具体的結果・応報が見出せなければ…「努力はほとんどむくわれることはありません」という言葉になる。そして、「情けをかける」ことに関しても、それに対する見返りが期待できるかどうかが問題になる。
しかし、仏教の…因果応報律は、一つの原因は、他のさまざまな要因と結びつき、いつかはわからないが、ある時、それに応じたなんらかの結果を必ずもたらす、というものであり、両者のあいだの時間的長短はいっさい問題にされない。()つまり、輪廻という現象を踏まえた長いスパンで言われていることであって、数十年という短い生涯で完結しているものではない。ところが、それを今の一生という短いスパンに当てはめてみると、ある一つの正直な行為にたいし、そのすぐあとに、少なくとも生きている間に、それに見合った結果・応報を期待することになる。()そうなれば、多くの場合期待は裏切られ、「正直者がばかをみる」ということになる。そして、こうした結果・応報がないと、「神も仏もない」と嘆くことになる。」
と述べた後、同じく仏教の因果応報律に従って生きながらも、そうしたことがないヒマラヤの仏教王国ブータンの人たちを紹介している。

さらに、今枝氏は、サン=テグジュペリの『星の王子様』の中の
C
est le temps que tu as perdu pour ta rose qui fait ta rose si importante.
という一文の和訳について述べた後、次の文章でしめくくっている。

「考えてみると、本当にたいせつなものは、見返りのあるなし、報われる、報われないとは関係なく、時間も、労力も、お金もむだになってしまって、なおかつ純粋にたいせつに思えるものではなかろうか。結果的に一見「むだ」と映るものこそが、ある種の試金石、試練となって、本当に大切なものを獲得させてくれると言えるのではなかろうか。
そうなると、「情けは人のためならず」でもなく、「情けは人のためにならず」でもなく、あるいはそのどちらでもいい。そもそもが、「ため」ということ自体が、本質的なことではなく、副次的なことにしか過ぎないのだから。」

この文章を読みながら考えたのだが、時間的スパンという切り口のほかに、「範囲」という切り口もあるのかもしれない。

つまり、応報を受ける対象が、情けをかけた個人や正直者という一個人ではなく「その個人が含まれる社会」と見ることもできるのではなかろうか。

その情けがどのように小さいものであるにしろ、あるいは、正直の内容が些細なものであろうとも、その情け・正直により、社会は極めて微々たるもので、ほとんどゼロに等しいものであっても、社会にとってプラスであることには間違いない。

もしも、全て(あるいは、ほとんどの)人が、他人に情けをかけることを当然とし、あるいは、正直になることに努めるならば、その社会は住みよい社会になるだろう。

経済学的にいえば、外部経済がプラスであり社会コストの低い社会ということになるのだろうか。

もっとも、外部経済、つまりフリーライド(ただ乗り)の問題が発生する。
一個人だけであれば、他人に情けをかけなくとも、あるいは、正直ではなくとも、住みよい社会という利益は満喫できるし、ひょっとすると「いい思い」もできるかもしれない。
そして、全ての(あるいは、多くの)構成員が、フリーライドをはかると、住みよい社会は崩れ去ってしまうであろう。これは、公害問題を考えてみればおわかりいただけるだろう。

だからこそ、世知辛い(個人利益主義の)世の中では「情けは人のためならず」と言い続けることが必要なのかもしれない。
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ところで、あえて「情けは人のため『に』ならず」とすることがある。

ネットの掲示板などで、何でも他人に尋ねようとか、親しい知人の病気について質問する方がいる。

もちろん、病気になったばかりの方は仕方がないし、知人がネットを使えないために知人から十分に話をきいて知人の代理で質問される方には、できる限りの回答につとめる。

しかし、十分に病気について知識を持っておかしくないのに、あるいは、検索により簡単に解決するような質問については、冷たく「主治医に尋ねよ」「検索しろ」「まず自分で努力しろ」と冷たい回答を送ることもある。
(
ネット情報の不確かさ、とか、まずは自助努力からといった趣旨はつけることが多いが。)

このような場合は「その場限りのヒューマニズムや、安易な同情で親切にしても、かえって本人のためにはならない」と考えるからではある(このほうが本当の情けになる)が、時には、この回答を読んで「冷たい」とおせっかいなコメントを入れる方も多い。
どのような対応が本当の情けなのかは、それぞれに違おうから、批判自体はしかたがないと思うが、なぜか「冷たい」とコメントする方は、冷たいと書くだけであり、もともとの質問に対して、冷たいコメントに代わる暖かい回答を寄せないというのが不思議である。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
ところで、話はまったくかわる。

現在の医学水準では、多くのがんにおいて化学療法の効果は(患者や家族が望むものと比べれば)一昔前より良くなってはいるものの決して高いものではない。

正直者はばかをみるについての五木寛之の文章に習えば、
「世の中には、抗がん剤が著効を表すことも、ごくまれにはあるのです。それは事実です。(中略)
抗がん剤治療により患者・家族の望みに適う成果がでることもまた、まれにはあります。めったにないことだが、絶対にあります。抗がん剤治療がむなしいなどとは決して思いません。しかし、それにより、患者・家族の望みに適う成果が出ることはこの世の中で、ごくごくまれな、大げさに言えば奇跡のような事件としてあるのであって、それ以上ではないのです。
露骨に言ってしまえば、抗がん剤治療により患者・家族の望みに適う成果がでることはおおむねありません。努力はほとんどむくわれることはありません。」
とでも書けるかもしれない。

もっとも、「患者・家族の望みに適う成果」と比べているのがズルイところであり、(十分に長くはないとしても)延命効果ということならば、「平均的」には報われるともいえる。

つまり、本当は、抗がん剤治療という「努力」と「延命(から副作用を引いたもの)」を比較して報われるかどうかを個々人の価値観にしたがって判断すべきということである。

世の中には、エビデンスをもとに延命の程度が低いと言って、かつ、私自身及び私がこれまで見てきた周囲の患者から判断する限りにおいて、副作用を過大に宣伝して、少量抗がん剤治療なるものを主張する医師がいる。
現在の抗がん剤治療の効果・副作用をどのように判断するかは主観の問題でもあり、一つの意見としては良い。
しかし、標準的抗がん剤治療が医学的判断を受けるために示しているエビデンスを根拠に効果が少ないと言い、「かつ」、自分の治療のほうが効果があると主張するのであれば何らかのエビデンスを示さないのは「卑怯」なものとしか見えない。
もちろん、一医師に厳密なエビデンスを示せと要求するのは酷かもしれない。しかし、可能な限りにおいてデーターを示す努力はすべきであるし、体験談まがいしか公表しないこの医師を私は信じることはできない。念のために書いておけば、この医師が健康食品の類を批判する文面がそのままこの医師に対しても当てはまるのである。
(念のために書いておくが、この医師がこの医師なりの考え方で患者のことを思っていることは確かのようにみえる。その意味で良心的な医師であることは否定しない)

脱線してしまったが、抗がん剤治療の効果が一般的にいってあまり高くないことは残念ながら事実である。ただし、現時点において、それを上回るものがないことも忘れてはならない。

今までのところ、私は大当たりとはいかないものの、それなりの当たりくじを引き続けている。しかし、このようなことは少数だろうし、私だっていつまでも当たりくじを引き続けられるわけではない。

そのようなことを考えていたら、最初に紹介した「情けは人の・・・・・・」という文章がひっかかったわけである。

抗がん剤治療を含むがん治療は、確かに進歩しつつあることは間違いない。多くのがんで、私が患者になってからだけでも、確かに進歩している。
(その速度の早い・遅い、程度の大小は別として)
きっとこれらの進歩は、医師の努力によるものが多いだろうが、その裏には、その治験などに参加した患者のおかげ、さらには、より良い治療を願う患者・家族の気持ちがそれを支えているのではなかろうか。

患者がより良い治療を求め、また、そのための努力をしないならば、医師とても努力のしがいがないだろう。

ひょっとすると、「抗がん剤治療は自分のため「だけ」ならず」なのかもしれない。

2009年2月 9日 (月)

在宅緩和医療とサンドスタチン

先日、在宅緩和医療に入る患者さんとその主治医の話に加わる機会を得た。
在宅医療として、週に一回の往診と三回の看護師の訪問とし、高濃度栄養点滴の管理(当該患者さんは、腸閉塞(完全閉塞ではない))は基本的に家族が行うとの内容であった。

その話の中で、腸閉塞に対する治療のサンドスタチンは入院でなければできないというものがあった。
ちなみに、サンドスタチンは腸閉塞そのものを治療するものではないが、消化液の分泌を抑えることにより閉塞した腸への滞留量を減少させて、症状緩和を図るものであり、緩和作用自体は相当なものがあるようである。

このブログで過去に書いたようにサンドスタチンは、私自身ずっと投薬されているし、月一回注射で済むサンドスタチンの徐放剤が保険適用される前は、入院などはせずに一日二回の自己注射(皮下注射)をしていたし、さらに、高濃度点滴を受けているのならば皮下注射の必要すらなく、点滴に混入させれば良いだけなのでで、つい、脇から質問してしまった。

すると、「健康保険上できない。このことは僕は製薬会社の講演でも明言しているくらいだから間違いない」というお言葉を胸をはってのたまう。
完全閉塞でもなく、サンドスタチン投与が必要な状況でもなかったし、それ以上に、胸を張った態度につい黙ってしまった。

帰宅してネットで調べてみると、
1.確かに、膵内分泌細胞がんなどにおけるホルモン症状緩和としてならば、自己注射可能であるが、腸閉塞に対しては認められていないらしい。
2.しかし、かなりの病院で医師の指導の下などという理屈をつけて在宅でも使用しているらしい
ことがわかった。

なぜ、このような差別があるのだろうか不思議である。
まさか、投与量が同じでも、ホルモン症状緩和と腸閉塞症状緩和では副作用に差異があることはあるまい。

多分、一番有りそうなのは、サンドスタチンという高価な薬(一月分で約30万円)が「乱用」されないようにという、患者のことを気にかけない「財政的配慮」なのだろう。
しかし、医療費削減(と患者の在宅要望)にかなうべく在宅緩和医療を進めようとしているようなのに、これで良いのだろうか。

いつもながらの厚生労働省の近視眼がちらついてくる。

話を戻す。

それにしても、この主治医の言葉は、医師が胸を張って言うようなものなのだろうか。もちろん、健康保険組合なり厚生労働省のお役人に対してならば別である。
患者や家族に対して言うのであるから「在宅での使用は健康保険で認められていないし、この病院には、それを破る勇気もないので申し訳ないが」とでも言うべき内容なのではなかろうか。

ふと緩和医療の医師について次のようなことを感じた。

私は緩和医療とは「苦しませずに生かす」ことであるべきなのではと思っている。しかし、実際の緩和医療では、「苦しませずに」には熱心であるが「生かす」ということには極めて消極的なことが多すぎるのではないかと感じている。

もちろん、緩和医療医師が「苦しまさず」を担当し、別の医師が「生かす」を担当するというグループ医療ならばかまわないが、日本でグループ医療が機能しているところは少ないだろう。

たしかに、ある時期が来れば「苦しませずに」と「生かす」が両立し得なくなり、片方に比重をかけざるを得ないことになるかもしれない。
そのような場合に緩和医療医師が「苦しませずに」を重点としてもおかしくはない。

ではあるが、まだ十分に「生かす」ための治療ができる時にもこれに消極的なことが多そうに見える。

これでは、緩和医療とは「苦しませずに死なせる」ことしかしようとしないものではなかろうか。

もっとも「苦しませずに」すら、まっとうにできないホスピスも増えているようであるので「苦しませずに死なせる」だけでもマシなのかもしれないが。

2009年2月 2日 (月)

相談のマナー

徒然なるままに、新聞の土曜版をみていたら、実践マナー塾「相談は内容を整理してから」という記事が目にとまった。
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立場上いろいろな方から相談を受けることがあり、力になりたいと時間を割くのですが、何を相談されているのかつかめず、困ることがよくあります。
最も多いのがとにかく話が長く、まとまっていない人。「今度上司が代わったんですが、どうもうまくいかないんですよ。先日も支持されたことを……・」と延々状況説明が続きます。
途中で質問をしても肝心の当人の考えが整理されていないせいか、さらに雑談に発展するばかりで要領を得ません。つまりこの人は「ご相談を」と言ったものの、愚痴を聞いてもらいたかっただけなのではと、疲労の末に思うわけです。
ですから、もし何か教えてもらいたいことがあったにしても、適切な助言ができるはずはありません。
何か困ったとき、立ち往生してしまったとき、頼れる人生の先輩に相談し、知恵を借りることはとても大切なことです。その「相談」を有効に生かすためには「何について相談したいのか」を具体的に整理しておく必要があるでしょう。
そうすることでアポイントを取るときに「○○について相談に乗っていただきたいのですが、お時間を三十分ほどいただけますでしょうか」と、テーマと所要時間の希望を伝えることができるはずで、これは、相談するときの基本的な礼儀といえます。
また、もらうのは丸ごとの「答え」ではなく、あくまでも「ヒント」であることも肝に銘じておきましょう。
(コミュニケーション塾主宰 今井 登茂子)
2009
124()日本経済新聞Plus1
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「相談は内容を整理してから」などということは、有意義な相談をする上で当然欠かせてはならないものであることは確かであるが、これが「マナー」(行儀・作法)に該当するのかどうかは疑問がある。

それはそうとして、相談に当たっては、何について相談したいのか、また、その前提となる置かれている状況の整理(何について相談したいのかにより、相談相手に示すものが異なってくる)をきちんと考えておくことは、相談を有意義に行うためにも、あるいは、相談相手の負担軽減のためにも、必要であることは間違いない。

このようなことは、職場の上司との関係の相談や人生相談だけにあてはまるものではない。

ネットでのがん患者や家族からの相談をみていると、アドバイスを欲しいと書きながら何について相談したいのかわからないものもある。
また、必要な情報(例えば、がんの種類、進行度、これまでの治療内容、患者の全身状況)がまったく書かれていないものはかなりみられる。

これらの投稿の中には、何が投稿で必要なのか分からないで書いたものであり、コメントによりアドバイスに必要な情報を指摘されて、追加投稿を行うものもあるが、多くは、投稿したことだけで満足しているのか、コメントの指摘(必要な情報)について反応しないものがほとんどである。

多分、このような投稿の多くは、アドバイスを欲しいと書きながら、本人も気づかない本心としては、「愚痴りたい」「外部に示して気持ちを発散したい」「単に同情して欲しい」というものだったのではなかろうか。
もちろん、「愚痴ること」や「同情しあうこと」は精神衛生上よいことであろうから、愚痴目的などの投稿をあるべきではないなどとは思わない。
しかし、コメント者のことを考えるならば、きちんと、何を相談したいのか(あるいは愚痴りたいのか)をきちんと整理してから投稿するのが「マナー」(社会人として他者を思いやる)にかなうものであろう。

ちなみに、何を相談したいのか、その前提となる状況はということを整理できれば、がん治療に限らず、多くの場合、その整理により8割方は解決策ができあがっていることが多い。

ところで、これは医師との関係についてもなりたつ。
特に、日本の医師は一人当たり多くの患者を抱えている。数時間待ち・3分間診療ということを是認する気はないが、これが日本の医療のおかれている現実である。
もっと、社会医療費を増大して医師の数を増加するか(なお、現在の医師の待遇は勤務環境や持たされている責任を思うと最低限に近い)、あるいは、自己負担を大幅に引き上げて患者数を減らすしかないだろうが、いずれにしても国民合意は大変だろう。つまり、3分診療という現実は当面変わらないだろう。

相手のことを思いやることがマナーの根本であるならば、「『とにかく話が長く、まとまっていない人。「今度上司が代わったんですが、どうもうまくいかないんですよ。先日も支持されたことを……・」と延々状況説明が続きます。途中で質問をしても肝心の当人の考えが整理されていないせいか、さらに雑談に発展するばかりで要領を得ません。つまりこの人は「ご相談を」と言ったものの、愚痴を聞いてもらいたかっただけ』」の診察版は控えるべきだろう。

なお、私の今までの経験によれば、「何を相談したいのか、その前提となる状況はということ」をきちんと整理しておきさえすれば(できれば、これをメモにして医師に示せば)3分間もあれば、かなりつっこんだ相談ができるものである。

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