孤独な群衆
たまたま読んだ文章に「孤独な群衆」という本の題名があった。
「孤独な群衆」という言葉に関心がそそられたので調べてみると、デイヴィト・リースマンが1950年に書いた本である(David Riesman, "The Lonely Crowd")。1961年の簡訳版の訳本がまだみすず書房から出版されているようである。そして「伝統的指向」「内部指向」「他人指向」という社会的性格の3類型が提唱されているらしい。どうもおもしろそうである。
それなりの価格の本なので、図書館から借りだしみた。貸し出し期間の制約もあり、途中までしか読めなかったが、おおよそ、次のようなことらしい。
「伝統的指向」
高出生率・高死亡率の社会(高度成長潜在的な社会)で見られるものであり、また、一次産業が基調となるなどの技術的・制度的要因が重なり合うこととなる。
このような高度成長潜在的な社会では、その典型的な成員は、その同調性が伝統にしたがうことによって保証されるような社会的性格をもつ。こうした人々を、「伝統指向」と呼び、彼らの社会を「伝統指向に依存する社会」と名づけている。
両親と子供の関係を見れば、「伝統指向に依存する社会」では、両親だけでなく親戚(大家族家庭)やその村落社会の大人たち、すなわち大人全体をモデルとして模倣するという形になる。これは、比較的単純な生活が送られているが故に、子供が見よう見まねで模倣することが可能であるいう事情もある。
「内部指向」
高出生率・低死亡率の社会(過渡的成長社会)で見られるものであり、また、二次産業が基調となるなどの技術的・制度的要因が重なり合うこととなる。
この過渡的人口成長期の社会では、その典型的成員の社会的性格の同調性は、幼児期に、目標のセットを内化する傾向によって保証される。
つまり「内部指向に依存する社会」では、家庭の独立性が高まり、そして両親は、子供をたんに「かわいがる」のではなく「育てる」。そこでは、子供の心に、その子供が人生の間、行動すべき方向を示すジャイロスコープをすえつけ、それが機能するようにするということができる。伝統指向社会のような祖母(親戚・村落共同体)の力はなくなり、学校の教師が大きな役割を果たすようになる。そして、教師は両親と並ぶ「権威者」であり、学校は、男女の区別が守られ、知的な問題に力点がかけられる大部分の子供にとって魅力の感じられない非人格的存在である。しかし、子供たちの遊び仲間のこととか友達関係といったことは教師(学校)の役割の範囲外とされている。
ジャイロスコープがすえつけられるということは、子供が自分を監視し、また、性格を訓練していく義務を両親より受け継ぎ、まったく新しい状況に直面し得る準備を完了するということであり、さらに、新しい状況の中で、自分みずからをどうするか決断しなければならないという個人的な責任感や「個人」ということの自覚を持つことを意味する。
「他人指向」
低出生率・低死亡率の社会(初期的人口減退社会) で見られるものであり、また、三次産業が基調となるなどの技術的・制度的要因が重なり合うこととなる。
初期的人口減退の段階の社会では、外部の他者たちの期待と好みに敏感である傾向によってその同調性を保証されるような社会的性格が、その社会の典型的成員にゆきわたる。
この「他人指向に依存する社会」では、子供を育てるのではなく、子供にあわせてその子供を伸ばそうとする。体罰は少なくなる。比喩的に言えば、特定の方向に向けて運動をコントロールするジャイロスコープではなく、他人の行為を探知するレーダー装置を子供の心にすえつける。学校では、子供たちの個性を伸ばすということが目標とされ、知的能力のみならずさまざまな点について教師は注意を払うこととされ、教師の役割は、しばしばオピニオンリーダーのようなものとなる。
リースマンは、社会を人口がS字カーブを描く、つまり、高出生率・高死亡率という高度成長「潜在」的社会から、高出生率・低死亡率という過渡的成長社会、そして、低出生率・低死亡率という初期的人口減退社会へと変化していくとし、社会的性格も、「伝統的指向」から「内部指向」へ、そして「他人指向」に移行していくとしている。
そして、1950年のアメリカの中流社会を「内部指向」から「他人指向」に変化しつつある段階と述べている。(それから約60年を経た現在のアメリカを見ていると、本当に「他人指向」になったのだろうかと思わないでもないが。)
リースマンは、この3類型はあくまでも「社会的性格」に対するものであり他に適用するべきではないことや、もととなった調査が、米国の中流家庭に限られているし、調査規模も小さいこと、さらには前提としている仮説の中にも議論の余地があるものが含まれていることを述べ、この3類型の適用には極めて慎重であるべきことを注意している。最近流行の科学に名を借りながら、「ほんの部分的な基礎的な研究成果」をなんら裏づけがないまま「実生活や社会に拡張・応用」して実利を語る薄っぺらな本とは全く異なっている。
話を変えるが、昔、経営学の大先生がこのような意味のことをおっしゃっていた。
「経営学で、いろいろな説(例えば、成果主義)が言われるが、根拠となるデーターは、経営者インタビューにしろアンケートにしろ、貧弱なものしかない。また、それを証明する実験もできない。では、どのようにして、その説の真偽や価値を判断するか」と前置きされてから、
「説を聞いた瞬間に『あっ、確かに』、『本当にそうだ』と思えるものが、価値ある説である。」と言われた。
この場合、『あっ』とか『本当に』というのがミソでありそれがなければ単なる常識の言い換えにすぎない(価値)。また、『確かに』とか『そうだ』ということでなければ、単なる思い込み・間違いである(真偽)。
つまり、人間は誰でも組織に属して生活しているのであるから、潜在意識の中には、正しい組織論(経営論)が存在している。そして、その潜在意識を鋭く摘出することができたものが価値ある説なのである。逆に、『え~』とか『まさか』と思われるものは、日常の経験(すなわち、事実)とは異なるということであり、説としては誤りであると判断してよい。
この経営学の大先生の言葉に従うと、「伝統的指向」「内部指向」「他人指向」という3類型は、社会的性格に限らず広い範囲で、『あっ、確かに』、『本当にそうだ』と感じられるものである。
という言い訳をしたうえで、この3類型を勝手に応用してみたい。
日本は、第二次世界大戦前は、「伝統的指向」であったようである。
よそ様の目を心配するといっても、このよそ様の目なるものは、既存の地域社会のことであり、「伝統」である。
現在の日本は、明らかに「他人指向」である。
他人と同じことをする・他人と同じものを持つことに努力する人がなんと多いことか。
そういえば、教育で問題となっているモンスター・ペアレントも教師が「先生」から生徒のリーダーへ、さらには、生徒への奉仕者にと変化しつつあること、すなわち、他人指向社会の日本型深化に応じているように思える。ブランド志向もそうであるし、グルメ志向(「マスコミで紹介」された名店志向)もそうである。
しかし、その中間であるはずの「内部指向」の人はほとんど育たなかったように思える。敗戦による自信の欠如により埋め込まれるべきジャイロスコープが封建的とか時代遅れとして退けられたり、新たなジャイロスコープたるべき自由とか自己責任というものはこれを埋め込む役目を持っている親が真に有していなかった(伝統指向の教育しか受けてこなかった)ためきちんと埋め込むことができなかったのかもしれない。
日本は、「伝統的指向」から一足飛びに「他人指向」に移行してしまい、本来ならば、間にあるべき「内部指向」が欠如している・・・これが、現在の日本の社会のひ弱さの原因の一つなのかもしれない。
ところで、このブログは「粘る稀ながん患者」である。
がん患者やその家族にこの3類型を適用してみない手はない。
「伝統的指向型」がん患者・家族
これは、やはり昔かたぎの患者になりそうである。
○○がんセンターとか○○大学病院と言った名前(権威)を判断基準にするし、医師の言っていることを絶対視し疑うことはない。
場合によっては、トンデモ本を信じてしまうこともあるが、それは「本」なるものは間違いのない立派なものであると信じているからである。
「内部指向型」がん患者・家族
一番の少数派ではなかろうか。
自分の価値観(ジャイロスコープ)に照らして、どのような治療ないし治療方針を希望するかを自覚する。
がんという状況の中で、自分みずからをどうするか決断しなければならないという個人的な責任感や「(他人とは異なる)自分」という意識を持つ。
ただし、がんに関する正確な知識が少ない場合は、自分の価値観にあっているトンデモ治療にはまってしまう可能性もある。
また、家族であれば、自分が良いと思う治療を患者に押し付けてしまう傾向がある。
「他人指向型」患者・家族
多分、一番の多数派だろう。
受けている治療が「自分にとって」ベストのものであるかというより、他の人より劣った治療を受けていないかを気にする。
普通の治療であるとか、(同じがんの)他の患者も受けている治療であれば納得する。
○山ワクチンが「みんなが良いと言っている」と思うと、自分も受けたく思う。この場合、みんなが言っていると(思う)かどうかが判断の分かれ目になる。
未承認抗がん剤については、このようになるのだろうか。
「伝統的指向型」がん患者・家族
基本的には、権威(医師)に対して受身であるから、未承認抗がん剤などは念頭に浮かばない。
浮かんだとしても、国(権威)が認めていないし、お医者様(権威)も使えないと言っているのだからあきらめる。
そもそも、未承認抗がん剤について考えてみたのも、欧米という先進国(権威)で使われていると聞いたからにすぎない。
「内部指向型」がん患者・家族
積極的な治療がその価値観と一致していれば、承認・未承認を問わずに有望な薬を希望する。
しかし、経済的負担なり使用してくれる医師が見つからずにあきらめることは多いだろう。
もちろん、高価な抗がん剤で多少余命を延ばすよりは、うまいものを食べるほうが良い・家族に財産を多く残したいという判断から希望しない患者もいるはずである。
「他人指向型」患者・家族
どの程度の効果があるかはよく理解できないが、外国(他人)で使えるのに日本(自分)が使えないのは不満である。
といって、国内では他の患者も受けられないのであり、自分だけが受けられないわけではない。
早く認可されると良いが、といって、それまでの期間、個人輸入などにより(他人が使っていないものを)使うということは思わない。
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がん患者・家族への類型適用がどれだけ当たっているかはわからない。
しかし、少しでも当たっていると考えられるならば、「自分はどの類型である」かを思うのではなく、「自分はどの類型になりたいか」ということを考えていただきたい。そして「なりたい類型にあわせた行動を「演じる」(類型に近づくべく努力する)」それが大事なはずである・・・と思う。


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