<まとめ> 凡夫が十牛図に思う
最初に真面目に禅に向き合われている方に、このような形で「十牛図」をとりあつかった失礼をお詫びしたい。
私は凡夫であるし、凡夫であることを楽しんでいる。
また、宗教の根本は「信じること」であると思うが、自分が信じるにいたっていないのに(「信じてしまうほうが楽」であるとしても)「信じる」ことは、自分に対する否定であり侮辱であると考える。
逆に、神(仏)が存在しないということも断言する理由はない。
神(仏)が存在するかどうかということは、人間の理解を超えた「メタ」の次元のものであろうと思う。
したがって、不可知論者ということになるのだろう。
私は、客観的事実をもとにしない観念論・概念論は、どのように魅力的であろうとそれに対して不安を感じている。これは、私自身が観念論・概念論を好むという性格なので、そのようなことに陥らないように、かえって用心深くなっているのかもしれない。
このような私であるから、宗教的な意味合いで十牛図を説明する資格も能力もない。
がん患者として、考えてきた「非宗教的」「現実的」なことについて書く際に、なんらかかわりない十牛図をイントロとして利用させてもらい、また、この内容と多少引っかけながら自分の考えを書いたにすぎない。
さて、尋牛から入鄽垂手まで書いたことを簡単にまとめておきたい。
まず、満足するがん治療を受けたいならば、その前提として、「自己」に向き合うことが必要である。
もちろん、宗教的に深い意味での自己ではない。
例えば、「名医を求む」といっても、自分にとっての名医とはどのようなものであるかはっきりとしていなければ、自分にとっての名医は見つからないだろう。
リスクに対する姿勢がはっきりとしていなければ、具体的にどのような治療を希望するのかはっきりとすることはできないだろう。
この際、治療に対する知識や他の患者の経験というものは極めて貴重なものである。
ただし、正しい情報のみとは限らない。自分にとって都合の良い情報だからといって鵜呑みにしては、かえっていけない。
次に、がんとの闘いであるが、一筋縄ではない。自分に対して鞭打ち続けることが必要である。
といって、鞭打ち続けてばかりでは、凡夫の体が持たない。時には、がんとうまく「折り合い」をつけて休むことも必要かもしれない。といっても、がんは、いつ暴れ出すかわからない。手綱から伝わる感覚は(無意識のなかで)忘れてはならない。
さらに、がん治療というものは、患者だけのものではない。家族や医師などの医療スタッフ、社会、あるいは、健康保険のような社会制度により成り立っていることを忘れてはならない。
このような「周囲」に対する「感謝」や周囲をより良くするための「努力」を忘れてはならない。
最後に自分の経験をいかにして残すか。
また、そのために、どのような生活(がん治療)を送るのか。
今年も凡夫は凡夫なりの努力をしていきたい。


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