アリストテレスの天動説とプトレマイオスの天動説
天動説と聞くと、下図のように地球を中心として、太陽、月、惑星が同心円を描いて回っているようなものを考えられないだろうか。
http://kakuda.ed.niigata-u.ac.jp/semi/ob/thesis/99niwata_thesis2-21/space/pto_fou/pto_fou.html
これは、ギリシア時代の天動説であり、紀元前4世紀のエウドクソスに始まり(始まると言われており)、最終的にはアリストテレスにより自然哲学と結びつけられたものであり、いわば、アリストテレスの天動説である。
このアリストテレスの宇宙論は、同心円状の階層構造として論じられている。世界の中心に地球があり、その外側に月、水星、金星、太陽、その他の惑星などが、それぞれ各層を構成している。これらの天体は、前述の4元素とは異なる完全元素である第5元素「アイテール(エーテル)」からなる。そして、「アイテール」からなる故に、これらの天体は天球上を永遠に円運動しているとした。さらに、最外層には「不動の動者」である世界全体の「第一動者」が存在し、すべての運動の究極の原因であるとした。
ところが、現実の観測結果を比べるとおかしなことが出てくる。
一番分かりやすい例としては、惑星の明るさは周期的に変わるが、地球と各惑星の距離が一定のアリストテレスの天動説ではその理由が説明できない。
このため、アポロニウスの周転円という考えが出てきた。
紀元前3世紀ごろのアポロニウスあるいは 紀元前2世紀のヒッパルコスは、惑星が単に円運動を描くのではなく、円の上に乗った小さな円の上を動くと考えた。この小さな円を周転円、周転円が乗っている大きな円を従円と呼ぶ。感覚的には、遊園地の乗り物のコーヒーカップがこれに近い。コーヒーカップの取っ手を中心から見ると、2種類以上の円運動が合成されて、進む方向や速さが変化するように見える。これによって惑星の接近による明るさの変化、巡行と逆行の速度の差を大雑把に説明できた。
この考えを、観測データーをもとにさらに精緻(?)にしたのが、2世紀にアレクサンドリアで活躍したプトレマイオスである。
アリストテレスの天動説をギリシアの天動説とすると、プトレマイオスの天動説はヘレニズムの天動説と言うことができる。
これは、周転円という考えに加えて、さらに、離心円とエカント (equant) を導入したものである。恒星球の中心は地球だが、惑星の従円の中心はこれとは異なる(離心円)。周転円の中心は離心円上を定速では回らないが、エカント点からこれを見ると一定の角速度で動いている。
言葉ではわかりにくいので、下図を見て欲しい。
プトレマイオスによる惑星の運動
離心円の中心Xは地球の中心とは異なる。離心円の回転は、
エカント点(・)から見る角速度が一定となるように動く。
参考:ウィキペディア
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%86%E3%83%AC%E3%82%B9
惑星は、
1.単なる円運動ではなく、従円の上での円運動(周転円)
2.地球と従円の中心は異なる。
3.さらに、周転円の中心は離心円上の中心ないし地球からみて定速(一定の角速度)で回らず、エカントという別の点に対して定速(一定の角速度)で回る
という、お世辞にも綺麗(簡単)とは言いにくい考え方である。
しかしながら、プトレマイオスの天動説は、観測に即して作っただけあって、極めて精度が高いものである。16世紀になってコペルニクスが地動説を唱えたが、その精度はプトレマイオスの天動説を上回るものではなかったほどである。(コペルニクスの地動説は観測データー等の科学的根拠に基づくものというより、絶対王政(皇帝を「太陽」と唱えた。)という社会環境に影響された太陽中心思想がバックにあると言われる理由である。)
まさしく、アリストテレスの天動説がギリシアらしく思弁的・自然哲学的なのに対して、プトレマイオスの天動説はヘレニズムらしく現実に即したものである。
以下、「近代科学の源流」(伊藤俊太郎、中公文庫)から引用する。
アリストテレスでは天文学は自然学の一部であり、これと和合していなくてはならないが、プトレマイオスではそれは「現象を救う」幾何学的仮説にすぎない。
「できるかぎり簡単な仮説を天体運動に適用しなければならない。しかしこの仮説が不充分であることがわかれば、もっとよく適合する他の仮説を選ばなくてはならない。こうした仮説に保証されて、すべての現象的運動が救われるならば、天体運動が生じるのは、こうした(周転円・離心球の組み合わさった)複雑な運動からであることを見出しても、いったい驚く必要があろうか。われわれがつくりあげた構成の仮説は、実在的に不可能だというようなことを言うのはやめよう。どだい(地球のような)人間的事物と(天体のような)神的事物とをくらべることが適当でないのだ。」(『アルマゲスト』Ⅶ-2)
このように、プトレマイオスの現象主義的な『アルマゲスト』と、アリストテレスの自然的原理に基礎を置く『天体論』とは、互いに背馳し、前者をとれば後者を捨てねばならず、後者をとれば前者を捨てねばならないという面がある。この背反は、二世紀後半のペリパトス派のソシゲネスSosigenesによってまず明確に指摘され・・・た。(略)
古代末期に提起されたこの問題は、その後、アラビア世界でも中世ラテン世界でも引き続きとりあげられ、天文学の大きな争点となった。すなわち、天文学体系は単に現象を救うための数学的仮説を提供すればよいと考える人々と、自然学に基礎づけられるべきと考える人々の争いである。(略)そしてコペルニクスCopernicusは断乎として後者の立場に立ち、結果として、プトレマイオスもアリストテレスも超える近代科学を樹立するに至ったのである。
私としては、コペルニクスの部分については、かなり筆が足らない(もちろん、引用は「ギリシア科学の遺産」の章からであり、コペルニクスについて説明する所ではないが)と感じる。
第一に、コペルニクスが唱えたのは、惑星の明るさの変化などアリストテレスの天体論では説明ができなかった現象論もカバーする新しい自然論(地動説)である。あくまでも、現象論も踏まえた自然論であった。第二に、コペルニクスの時代ではプトレマイオスの天動説よりも精度が悪く、その意味では、現象論(観測)よりも自然的原理(仮説の簡単さ)が先に立っているものではあったが、後人による観測の積み重ねなどによりプトレマイオスの天動説よりも現象論的にも優れたものになった。すなわち、最終的には、現象論によっても裏付けられたことの二点が抜けているのである。
いずれにせよ、観念(自然哲学)と事実(現象論)の争いの一つの歴史としておもしろいものである。
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「観念」は「思想」とか「理論」に、「事実」は「実験」とか「データー」に言い換えることができるように思う。
この両者は、互いに背馳し、前者をとれば後者を捨てねばならず、後者をとれば前者を捨てねばならないというものではないはずである。
目に映る現実(現象)は複雑なことがほとんどである。そのままでは、(人間の能力では)理解することは困難である。
また、目の前の現実は、「たまたま」のもので普遍性がないこともありえる。
「観念」(理論)により、複雑な現実から分析対象を切り出したり、あるいは、集められた個々の事実から、普遍的な事実(だろうもの)を抽出できてこそ、現象論は意味を持ち得る。
逆に、「観念」(理論)は、事実により裏打ちされてこそ「妄想」や「へ理屈」から救われるのである。
プトレマイオスにしてもアリストテレスの同心円の宇宙観が根底にあったに違いない。ただし、この「理論」を事実により裏打ちしようとした際に、周転円・離心球という加えるべき観念(理論)を付加することが必要となったのに違いない。
また、コペルニクスについても、天動説に対して地動説という新しい観念を打ち出した(古代にも太陽中心の観念もあったので「再提出」というのが正しいのかもしれないが)、これも「同心円」という宇宙観は根底に残っているし、他方、アリストテレスの簡素な宇宙観では説明ができなかった(そのため、プトレマイオスの複雑な天動説が生まれた)惑星の明るさの変化、順行・逆行という現象論に基づく(しかし、簡素な)宇宙論という側面もあるのである。
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やけに前置きが長くなったが(このブログはいつもそうであるが、特に、この記事では長くなってしまった)、医学あるいは治療にも、観念と事実という二つの要素があろう。
そもそも、医学というのは実学の代表のはずである。理論・理屈よりも、患者の治療に有効かどうかによりその可否が判断されてきたはずである。
たしかに、人体や病気(生命)は、科学が進んできた今日においても、人間が十分に理解するに至っていない複雑なものである。
少なくとも、現在の人間の能力において、脳内ですべてを理解でき、正しい解決策を見つけることができると考えるならば、「無知」「傲慢」「思い上がり」としか思えない。
とはいうものの、科学(医学)の進歩により、データーに裏打ちされた理論が得られ始めている。もちろん、データーにより裏付けられたといっても、人間を対象とするデーター(実験)であるから、限定されたデーター(すなわち、極めて誤差の大きいもの)であり「裏付け」の程度は高くはないものも多い。また、理論といっても、人体や病気(生命)全体に対する万能のものではなく、局部限定的なものにすぎない。
であっても、これらを活用することにより、以前よりも、効果的・効率的な医療が可能となったものもある。
ちなみに、抗がん剤のなかでも、イレッサ、ハーセプチン、アバスチンなどの分子標的薬は、理論主導により生まれた薬である。(もちろん、治験により効果が実験的に裏付けられてはじめて実用化されている。)
他方、これまでの経験的治療は、昔の祟りに対するお祓いなどとは異なり、専門家集団(医師)による有効性の経験的実証に基づいてなされていると思われてきた。
しかしながら、科学指向の高まりの中、従来の治療(効果、副作用)を客観化(データー化)して科学的(統計的)なチェックをかけたところ、集団的(すなわち、単独の医師よりも確実なはず)な経験によってきたはずの治療でも、有効性がなかったり、あるいは、極めて少なかったりするものも見つかったりしている。
これは、純粋の理論化とは異なるものではあるが、経験を科学的(統計的)に確認し、標準化しようとするという、(これまでの経験的な治療と比べると)より科学ないし理論に近づくアプローチといえよう。
このように見てみると、医療においても、(人間の能力未熟な現在)未だに経験の占める比重が大きいとはいえ、その「理論」と「事実」が互いに背馳し、前者をとれば後者を捨てねばならず、後者をとれば前者を捨てねばならないというものではなく、両者が相補っていくべきものとなっているのは確かであろう。
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しかし、現実はどうであろうか。
トンデモ理論、すなわち、事実による裏付けのない「思いつき」「思い込み」(言葉を変えると「脳内妄想」)をがん患者に勧める「無責任」人間。
例えば、がんの原因はすべて食生活であるとの「思い込み」をもとに、食生活を改善すればがんが治る(これは「思いつき」であるのみならず、すでに起こっていることに対して原因を除去すれば解決するという論理的誤りですらある。例えば、タバコの不始末が原因で火災が起こった後に、そのタバコに水をかけても仕方がない)などということをネットに書き込むトンデモ人間の類があちらこちらにいる。しかも、その誤りを指摘されても反論すらしない。発言には責任を伴うという常識すらない。
これが健康食品業者さんとなれば、そもそも治療を目的としていないのだから、その内容たるや言うまでもない。しかし、このようなものを信じる被害者も多い。
免疫の基礎研究(つまり、人へ効果があるかどうかは専門外)のA教授。基礎研究では大家らしいのに、データーに基づかない理論の不確かさもおわかりにならないらしい。きっと大家から退化してしまい、お名前どおりのアホになったのであろうか。
祟りに対するお祓いという治療も、ある意味では、「理論」(すなわち、悪霊→病気→お祓い)は存在している。ただし、その「理論」を裏付ける事実がないだけである。
してみると、現在の日本には、お祓い治療を信じる人が結構いるらしい。
他方、標準的治療以外を否定する科学を標榜する医師もいるらしい。
しかし、標準的治療のもととなっている事実を考えれば、次のことはすぐにわかる。
すなわち、標準的治療とは「『比較的確実性の高い』データー」がそろっている治療について、その有効性を「医学的観点」から評価した場合に、「統計的」にもっとも有効と「考えられた」治療にすぎない。
この条件を前提とするならば、標準的治療は最も優れたものかもしれない。
しかし、これを「理論」とするには、あまりにもそろっているデーターが少なすぎる。どう考えても、これ以外を否定する「定理」であるとは思えない。
にもかかわらず、それ以外のものを否定する。視野狭窄の自信過剰というべきか、単なる周囲のことがわからない自己中なのか。医師というより「石」頭であることは間違いない。
逆に、標準的治療を敵視しているがごとき、休眠療法を標榜する医師がいる。
もちろん、少量抗がん剤とか休眠療法という観念(理論)が優れている「可能性」は、現時点において否定できない(肯定もできないが。)。
その医師が、自分の主観として「標準的治療よりも優れているとの感触を有している」と言うのは理解できる。
しかしながら、標準的治療をそのデーターに基づき効果が低いと攻撃し、自分の治療が優れていると対外的に主張するならば、それが基づく事実を説明できねばならない。
もちろん、説明精度が低いものかもしれない。一医師に対して、論文ベースの精度を求めることは酷かもしれない。そうであっても、本人が信じているほど、対外的に標榜しているほどのものならば、経験のある医師がみれば「優れている可能性はある」程度のものは出せるはずである。
例えば、膵臓がんステージⅣの平均的余命は標準治療ベースで9ヵ月であり、実際には、これ以外の努力もなされているため、一年(~一年半)程度というのが現在の相場のようである。これに対して、この医師の膵臓がん(膵管細胞がん)患者の平均余命が1年半とか2年というのであれば、その内容の精査が必要であるとしても、「優れている可能性はかなりありそうである」と言えるだろう。
しかし、この医師は、四の五の理由にもならない理由をもって、可能な範囲のデーター公表も放棄してしまっている。
さらに、おかしいことに、健康業者の話などに対しては、体験談はたまたまかもしれないと評価している。では、自分の治療に対してはどうなのだろうか。
この医師がその価値観に基づき、きちんと患者のことを思いやっていることや、治療法に対しても信念をもっており金儲け目的のトンデモではないことは、そのブログを読む限りでは確かであろう。
しかしながら、経験・主観のみにもとづく効果の評価が間違っている可能性があるという過去の貴重な歴史を無視しているということは事実である。
さらに言えば、自分の治療と標準的治療に対する評価において「ダブルスタンダード」を犯している「卑怯」な医師と言われても仕方あるまい。
そして、それ以上に残念なのは、最近のブログを読む範囲では、自分に対する悪い評価に対して「感情的」でしかない反発を示し始めていることである。
自分が信じる「理論」を唱えることも、治療成果に対する自分の感触を「主観」として話すことも自由である。
しかし、きちんとしたデーターを持って客観的に示さなければ、単なる「理論」「主観」にすぎない。
本当に、自己の治療が優れていると信じており、かつ、患者のためにその普及が望ましいと思っているならば、やるべきことは自明のはずである。
いずれにしても、「観念/理論/主観」と「事実 /実験(治験)/客観」という両輪は背馳するものではなく相補うものであり、一方に偏ったものは危ういものである。



この医師だけではありません
情熱のある医師も多いのでしょうが、勘違いした情熱で突き進む医師、医療者も信じられないくらい多い。
そしてそうしたまやかしの情熱にちょうちん持ちをする患者。
日本の医療崩壊は、モンスター患者や、割りばし事件、産婦人科壊滅といった目に見えるものだけでなく
トンでも医師絶対視のお祭り患者たちによって形成されているといっても過言ではないのでしょう。
いつから医療が宗教になったのだか。。。。。
投稿: | 2008年12月 8日 (月) 22時07分
ごめんなさい・・全然反論するつもりも、そんな議論するほどの知識も頭脳も持ち合わせてはいないのですが、患者やその家族は毎日を普通に生きたいと願っています。
副作用も少なく、標準治療よりも治療の成果もあるというのであれば、やはりその先生に診て頂きたいと思う気持ちはあります。
データとか理論とか定理とか・・・
難しい事はわからないですが、家族の者としてはもがき苦しむ姿を見てるのはあまりにも辛いんです・・・。
少しでも快適に治療を受ける事が出来るのであればそうしたいと願っています。
ましてそれが患者のためを思って情熱を感じる事も出来る先生なら尚更です・・。
それをお祭り患者とその家族と言われてしまうのでしょうか・・。
投稿: 家族の者 | 2008年12月17日 (水) 02時27分
家族の者 様
まず、このコラムは「粘る稀ながん患者の『独善的』コラム」ですから、反論おおいに結構です。
なお、いただいたコメントにはメールアドレスも記載されていましたが、迷惑メール(特に悪質な健康食品業者からの)の可能性もあるので、こちらのほうでアドレスについては削除させていただいています。積極的に公開したいということでしたら、メールなりコメントいただきましたら直させていただきます。
ところで、いただいたコメントに対する私の考え方は次のとおりです。
「患者やその家族は毎日を普通に生きたいと願っています」(私も同じです)のであれば、「そんな議論するほどの知識も頭脳も持ち合わせてはいない」などと言うのはどうでしょうか。もちろん、「謙遜」ならば別ですが。
がん治療については、それに対する考え方も、あるいは、具体的治療法についても非常に難しいものであることはたしかです。
私も、その何%もわかっていないと思います。しかし、「難しい」からあきらめるのではなく、わかる範囲を少しでも広げるべく努力をすることが大事なのだと考えています。
少しでも「普通に生きたい」と思っているならば、できる限りの努力(できることが限られているとしても)は惜しむべきではないはずでしょう。
「副作用も少なく、標準治療よりも治療の成果もあるというのであれば、やはりその先生に診て頂きたいと思う気持ちはあります」というのは当然でしょう。私だって同じです。
しかし、単に、ある医師が「副作用も少なく、標準治療よりも治療の成果もある」と言っているというだけで、これを「鵜呑み」にし、これを選ぶかどうかは別問題です。
悪意を持って嘘をついていないとしても、その医師の「思い込み」にすぎない可能性もあります。
このような危険性を理解しつつ、かつ、医師の話が正しいか精一杯考え、その上で、その医師の治療を選ぶかどうかを決断すべきと思います。これを放棄するのは、極端にいえば患者の命に対する怠慢ではないでしょうか。
また、「それが患者のためを思って情熱を感じる事も出来る先生なら尚更です」というのはそのとおりです。
しかし、患者のためを思う情熱を持たれた医師だからといって、その治療が正しいものであるかどうかは別問題のはずです。「患者のためを思う情熱」はたしかに重要ですが、このことにどの程度の重みを与えるのかは、価値観の問題でしょう。
ちなみに、「これだけの情熱をもってくれるのだから、よしんばその治療が間違っていてもかまわない」というのであれば、それは一つの立派な決断であると思います(私の価値観とは異なりますが)。
あえて厳しい書き方をすれば、「もがき苦しむ姿を見てるのはあまりにも辛い」からといって、「副作用も少なく、標準治療よりも治療の成果もある」という「言葉」を、それがどのように甘いものであるにせよ、正しいものかどうか「議論するほどの知識も頭脳も持ち合わせてはいない」として考えることを放棄して、無批判にとびつくというのであれば、お祭り患者とその家族という言葉が妥当かどうかは別として、真に患者のためにできる努力を惜しんでいる方のように私には思えます。(精一杯の努力をした上ならば、どのような選択をされようと、それは立派な選択だとも思います。)
本当に「議論するほどの知識も頭脳も持ち合わせてはいない」と思っているのであれば、「間違いの可能性が少ない」標準的治療に頼ることが無難です。
そして、患者のために、そうでない道を探されるのであれば、それにふさわしい努力と覚悟(もちろん、それぞれの「できる限り」で)を持たれることが必要ではないでしょうか。
投稿: 粘る稀ながん患者 | 2008年12月17日 (水) 12時29分