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2008年10月27日 (月)

明治時代の軍隊

最近、「湛山回想」(石橋湛山、岩波文庫)を読んでいる。

石橋湛山氏は、私の年代では今ひとつ記憶に薄い人物ではあるが、昭和のことを語る本では、時折出くわす名前であった。
ウィキペディアによると、
「石橋 湛山(いしばし たんざん、1884年(明治17年)925 - 1973年(昭和48年)425日)は、日本のジャーナリスト、政治家。第55代内閣総理大臣。自由民主党総裁。従二位勲一等。早稲田大学名誉博士(Doctor of Laws
戦前から一貫して日本流の植民地経営を批判し加工貿易立国論を唱え、戦後は日中米ソ平和同盟を主張し政界で活躍した。保守合同後初の自民党総裁選を制して総理総裁となるが、在任2ヵ月弱で脳梗塞を発症して退陣した。
なお湛山は日蓮宗の僧侶として得度してからの名前で、俗名は省三。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E6%A9%8B%E6%B9%9B%E5%B1%B1


この「湛山回想」は、石橋湛山氏によるおいたちから戦後占領時代の政界までの半生をつづったものである。まだ、途中までしか読めていないし、内容の本筋でもない部分ではあるが、いくつか興味を覚えたところがある。

まず、湛山氏が明治の末に、軍隊に入隊した体験・意見。

湛山氏の経歴(W大卒)から社会主義者(当時は、共産主義はなかった)と誤解されたおかげで「厚遇」を受けたとのこと。具体的には、ある士官から英語を教えよということで、毎夜のように士官室に招かれた。実は、これは、湛山氏を「監視」するためだったということである。少なくとも、当時においては、暴力により士卒の思想を矯め直そうとか、社会主義者に無理な圧迫を加えるようなことはなかったそうである。

また、新兵に対して、演習外の雑事(掃除、せんたく、銃の手入れ、靴磨きなど)を古兵の分もおしつけたり、やりかたが悪ければビンタの一つ二つはあるものの、それほど大きいものではなかった。鞭声粛々をもじって「新兵シクシク夜厠に泣く」と言われていたが、いわゆる虐待を受けてというより、慣れない軍隊生活に気をつかい、郷愁を感じてのためだったろうとのことである。

さらに「将校下士馬卒」という言葉があるらしいというについて、士官に尋ねたところ、戦線に出すため将校は中等学校卒以上のものを1年以上、下士は高等小学校卒業以上のものを2年以上、馬も数ヶ月の調教を必要とするが、卒は招集して銃の撃ち方を教えれば数日間で役に立つ。つまり、補給が難しい順番を示したのが「将校下士馬卒」であるが、いまは使っていないとの答えだったとのこと。
湛山氏は、これに対して、人権が尊重されるのは、それが社会上必要で価値がある場合であり、軍隊は戦争を目的とする機関であるから、一切の価値判断がこの目的に照らして行われるのが当然である。こう考えれば、将校下士馬卒という言葉は、戦争と軍隊を肯定する限り全く正しい哲学で、非民主的でも、野蛮でもないと書かれている。
もっとも、これに続いて、「私の説明は裏返せば、反軍的にもなる。戦争を肯定し、軍隊の存在を許す限り、兵卒すなわち一般民衆は、人権どころか、馬ほどの価値も認められないぞと、それは教えるものだからである」と、より本質をきちんと述べられているので誤解なきように。

そういえば、最近の政治家の議論を聞いていると、「将校下士馬卒」はけしからんというレベルの議論ばかりであり、それがもたらされた原因である「戦争なり軍隊」レベルの議論がなされていないように思える。

さらに、軍隊がその存在の理由を肯定する限り、決して不合理の社会ではないとして、戦闘の基本法則を記した「野外要務令」を引き合いに出している。
「各機関ノ将校ハ専ラ心力ヲ職責ノ在ル所ニ竭(つく)シ、他ノ補助ニ依頼セズ、確然自立シテ其(その)任務ヲ全クスベシ、大小ノ機関各々此心ヲ以テ心トセバ、全軍ノ協同一致始メテ得テ期スベキナリ。」
「凡(およ)ソ命令ニハ服従ヲ要ス。然レドモ其実施ニハ独断ヲ要スル場合尠(すくな)カラズ、此服従ト独断トハ正ニ相反スルモノノ如シト雖(いえど)モ、其実ハ則(すなわ)チ然ラズ。」
「独断専行」という言葉は、この綱領から出たのだそうである。

なお、このほか、新兵が入営すると、同時にそれぞれの市町村役場から、その者の経歴、特技、性状、嗜好等が細かく記入された身上調査票が来る。これを参考に、各新兵の個性と能力を観察し、これに応じた教育と任務を与えるようにと将校は指導されていたとのことである。
軍隊は、正しい意味での団体主義、したがって正しい意味の個人主義をその哲学としていた。もちろん、それが全て正しく行われていたとはいえず、新兵虐待のごとき事実も起こっていたが。と湛山氏は、論じた上で、
「一見機械的に見られる軍隊が、個人の価値をかく真剣に認めていたことは注目すべき事実であって、もちろんそれは単なる人道主義や天賦人権主義論から出たことではない。強力なる団体は、これを構成する個人の個性を最大限に生かして初めて組織される。この実用上の必要が、軍隊をして右の方針を取らしめたものと思う。」
というように書いている。

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これは明治の末の話であるから、戦前・戦中の日本軍のことをそのまま示しているものではないだろう。
もっとも、(善し悪しは別として)軍隊の存在理由を判断基準としての合理性を追求するならば、ある意味で、これはあるべき軍隊像になのかもしれない。
そうであるとしても、戦時中の軍隊について伝えられているところとのギャップの大きさというか堕落には驚かされる。これは、民主主義などという現在の価値観から見てだけではなく、軍隊がその存在理由から持つべき合理性から見てもである。

ところで、個々の兵卒を「馬以下」としてしか扱わない軍隊においてすら、個々人の身上調査票をもとにその経歴、特技、性状、嗜好等を把握し、さらに、個性と能力を観察し、これに応じた教育と任務を与えるようにと将校は指導されていたという「個性尊重」の精神には感心する。もちろん、これが軍隊を強力にするためには、個々を最大限に生かすことが有用であるという現実的理由からだとしてもである。

ひるがえって、現在のがん治療ではどうだろうか。患者の個性・価値観を把握し、それにふさわしい治療がなされる努力はなされているのだろうか。
標準的治療を固守し、患者の価値観などというソフトなものどころか、患者により異なる副作用に応じ、副作用低減策・薬の減量や薬の変更すらも行われていないことも多いらしい。
既存のデーターから見る限りでは、標準的治療は、医学的には優れたものなのかもしれない。しかし、患者の満足(これこそ医療(医学ではなく)の目指すべきものと思うが)は、医学的な判断基準とは同じとは限らない。さらに、医学的に優れたものといっても、これは平均値にすぎないはずであり、個々の患者に対する効果・副作用を観察し、それに応じて適切に治療に変更を加えることは、個々の治療レベルをより良くするもののはずである。
医療全体をより良いものにするためには、平均的に優れていることがわかっている標準的治療を最初のとっかかりとすることは合理的かもしれないが、治療が始まり、個々の患者の個性(効果・副作用)が明らかになったら、標準に拘泥せずに、個々の患者にとってのベストを目指して修正していく。個々を最大限にすることにより、全体が強力になるのではなかろうか。
なお、標準的治療のもととなっている既存のデーター群は極めて限られたものにすぎず、完璧とははるかに離れたものであることを考えるとなおさらである。

それ以上にびっくりしたのは、「独断専行」という言葉が軍隊からのものであり、それも肯定的に使われていたということである。

本来、軍事行動というものは、個々の部隊・兵卒が勝手なことをするならば、その被害は全軍に及ぶかもしれないものである。もっとも、上意下達が求められる組織のはずである。
しかし、よく考えてみると、命令というのは、事前の予想によるものである。戦いというのは生き物であろうから、実際の実施段階では何が起こるかわからない。
実施に当たってまで、現実に何が起こっていようと、命令に拘泥することは、軍隊としても非合理なはずである。

標準的治療とは、「既存」の「網羅的とは言い難い」治験データーを踏まえて、最も有望な治療を示したものにすぎない。なかには、確度が高くこれに従わないことは医学的には疑問といえるものもあろうが、治療における参考にすべきガイドライン程度というのが抗がん剤治療については事実であろう。少なくとも軍隊における命令と比すれば、緩やかなものであることには異議がないにちがいない。

軍隊においてすら「凡(およ)ソ命令ニハ服従ヲ要ス。然レドモ其実施ニハ独断ヲ要スル場合尠(すくな)カラズ、此服従ト独断トハ正ニ相反スルモノノ如シト雖(いえど)モ、其実ハ則(すなわ)チ然ラズ。」と独断専行が肯定されている。

にもかかわらず、抗がん剤治療においては、標準的治療を機械的にそのまま行うことしか認められないという「専門家」がいるという驚き。

ひょっとすると、このような個々人の存在を認めない医師の治療を受けると「新兵シクシク夜厠に泣く」ならぬ「患者シクシク常時病室に泣く」ということになってしまうかもしれない。

金美齢さんの言葉

日経ビジネスの今週号(2008.10.27)の中の「著者に聞く」で金美齢さんが答えている部分から。

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政治不信という言葉が、日本でよく使われます。もちろん、有権者に媚びる政治家にも問題があります。ただ、それ以上に問題なのは日本の有権者の意識の低さです。常に、政治におねだりをする。何かを「やってもらう」ことばかりを考える。負担は少なく、受益は多く。短期的な視野でそんなことばかり考えている。
 背景には、メディアの責任があります。とりわけテレビ。センセーショナル、スーパーフッシャル(表面的)、センチメンタルという3つのSで視聴率を稼ごうとしているのが見え見えです。軽佻浮薄としか言いようがない。
 例えば後期高齢者医療制度についてテレビ番組で「これじゃ、姨捨て山です」と誰かがコメントすれば、そこを強調して映し出す。決まり文句が「政治は何をやっているんでしょうか。」
 医療費に対して相当の負担をするのはやむを得ないはず。そんな“まともな”コメントを私が言っても、そこはカット。「3つのS」に合致しないからでしょうね。そしてテレビの前の有権者は皆、弱者になったふりをする。
(略)
 ツッパリかな。旦那に言われたことがあるんだよね。利害、損得を超えちゃうことがあるって。でも幸い、それでここまで生き延びてきた。日本に来て半世紀、自分の心に偽りなく、信じる主張を続けることができた。
 私には「国」がありません。それゆえ国の大切さが分かる。日本人にとって国とは空気のような存在でしょう。自分たちが選んだ政治家に文句ばかり言って、そして困ったら生活保護で守ってもらう。もっと有権者としての品格を持ってはいかがか。私は日本に守られてきたから、感謝している。いい国になってもらいたいと思う。だからこそ耳障りなことも言うのです。
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日本人にとって国とは空気か。
そういえば、経済成長華やかなりし頃、多くの企業は、平気で大気中に有害物質を含んだ排気を垂れ流していた。空気(大気)は、いくら汚しても、自然浄化により回復するもののように思われていた。
しかし、現在、そのような企業があれば、「公害企業」として反社会的と見なされるだろう。
これまで、日本国民は、国(社会、政治)が無限に能力があるかのごとく、注文はしても、その持続には注意を払わなかった。
早く気づくべきだろう。国という空気が生活するのに耐えられなくほど汚れてしまう前に。

あまりに同感なので、これ以上のコメントなし。

2008年10月20日 (月)

クール・マインド、ウォーム・ハート

雑誌を読んでいたら、政治家に求められる資質として「クール・マインド、ウォーム・ハート」という言葉があげられていた。

「クール・マインド、ウォーム・ハート」は「クール・ヘッド、ウォーム・ハート」とも言われるようで、こちらのほうが意味ははっきりとする(語呂はマインドのほうがよさそう)

ネットで調べて見たところ、これは、そもそもケインズの師匠アルフレッド・マーシャルの言葉らしく経済学者や経済政策・金融政策決定者に必要なものとして言われていたもののようである。

例えば、インフレや不況などへの対策として、各種指標や多くのデーターを分析して、適切に政策金利を変更する(クール・ヘッド)ことは重要であるが、その際に、それにより経済弱者が受ける影響にも思いをはせなければならない(ウォーム・ハート)というようなものである。
たしかに、政策金利の上げ下げなどは、個別利害にとらわれず、経済全体を分析して決定しないと、局部的には良くても経済全体にとってはマイナスでしかないだろう。しかし、数値の示す経済像だけを見つめて、その影響が及ぶところ、特に弱者への影響を思わないならば、経済合理性を追求し、国民の福祉を無視するものであろう。

もっとも、現実の政治家のほとんどは、「ウォーム・マインド、クール・ハート」のようにも見える。
この場合の「ウォーム・マインド」は、あたたかな頭脳ではなく、生ぬるい頭脳と言う意味である。いや、それよりも「ノー・マインド、クール・ハート」のほうがより正確かもしれない。

いかに、論理的な、あるいは、冷静な思考力がないかについては、民放の政治家の討論番組 (と称するもの)を、ちらっとでも見たことがある方ならば、相手の発言を遮るヤジ(というか「うなり声」)、相手の発言にかまいなく自分の主張を話すことしかしない「こわれたテープレコーダー」、さらには、議事進行がなされても、それも無視。
このような番組は、小学生に対して、このようなことを会議でしたらダメですよという、立派な反面教材にはなるのかもしれないが、立派な成人であると思っている私個人としては、頭痛と吐き気のもとになるので、十秒以内にチャンネルを切り替えることにしている。
しかし、このような「ガキ」に一票を投じる人間がいるとは信じられない・・・

ところで、「クール・マインド、ウォーム・ハート」が最善、「ウォーム・マインド、クール・ハート」が最悪であるとして、「クール・マインド、クール・ハート」と「ウォーム・マインド、ウォーム・ハート」のどちらが良いだろうか。

これは、ケース・バイ・ケースだろう。例えば、科学的な内容についてアドバイスを受けたいならば「クール・マインド、クール・ハート」が良いし、精神的に落ち込んでいる時の相手ならば「ウォーム・マインド、ウォーム・ハート」が良いだろう。
そして、政治家としてならば、「クール・マインド、クール・ハート」のほうがましと思う。やはり、国という巨大かつ複雑、そして、その結果が重要なことを委ねるためには「クール・マインド」は必須アイテムではなかろうか。
ついでにいえば、現在の日本においては「クール・ハート」であっても「ウォーム・ハート」のまねをしなければ、政治家になれないし、なりつづけられない。まねであっても、「ウォーム・ハート」の行いをしてくれるのであれば、本質が「クール・ハート」でも「ウォーム・ハート」でも結果的には大差がないのかもしれない。
でも、日本人が、政治家に「ウォーム・ハート」を求めても、「クール・マインド」は求めない(場合によっては、庶民的でないとして拒否する)のは何故なのだろうか。

この「クール・マインド、ウォーム・ハート」は医師にとってもあてはまるだろう。
患者の病態を冷静に把握し、医学的知識・経験に基づき、医学的にベストな治療法を判断するためには「クール・マインド」が必要である。しかし、患者が血の通った人間であることを忘れずに、実際の治療に当たっては、その価値観や感情も大事にする。

もちろん、これは理想であるが、世の中には、理想的な人ばかりいるわけではない。
というよりも、理想的な人はほとんど存在しないというのが現実である。(だから「理想的」という言葉が使われる。)
また、現実的には「ウォーム・ハート」でありすぎると「クール・マインド」にはなりえないし、真に「クール・マインド」であるためには「ウォーム・ハート」は邪魔になる部分もあるかもしれない。

では、もし、「クール・マインド、クール・ハート」と「ウォーム・マインド、ウォーム・ハート」のいずれかを主治医に選ばなければならないとすればどうだろうか。

主治医といっても、近所のかかりつけ医者ならば「ウォーム・マインド、ウォーム・ハート」のほうが良さそうである。風邪や腹痛など、ベストの医療とほどほどの医療に大差がないような日常の病気ならば、「ノー・ヘッド」は困るにしても「ウォーム・ヘッド」でもあまり支障はなさそうである。それに、「ウォーム・ハート」ならば、自分の手に余りそうならば、適当な病院・医師を紹介してくれるだろう。

しかし、命(ないし余命の長短)がかかった難しい病気ならば、「クール・マインド、クール・ハート」のほうが私にとっては望ましい。
命(ないし余命の長短)のことを大事にするならば、「クール・マインド」の医師による治療が間違いなく優れている可能性が大きい。
そして、「クール・ハート」のほうは、そのようなものであると割り切ってつきあえばかなりのことまで許容できるだろう。ひょっとすると、医師と患者で「人情芝居」を演じるよりも、かえって、すっぱりと割り切れるかもしれない。
さらにいえば、優れた治療のためには、医師とその「クール・マインド」が必要であるが、人間的な慰めのためには「ウォーム・ハート」は必要であるが、それは医師のものである必要はないかもしれない。

にもかかわらず、掲示板などの相談を見ていると、医師の態度であるとか、話し方などが悪い、すなわち、「クール・ハート」であるとして、主治医を変えたいという投稿はよくみるが、治療内容に疑問、すなわち、「ウォーム・マインド」かもしれないという投稿をほとんど見ないのは、日本人の国民性なのだろうか。

ついでに言うならば、表面的な態度・話し方が悪いからと言って「クール・ハート」であるとは限らない。「ウォーム・ハート」なのに、それを表に出すことが下手なだけかもしれない。
にもかかわらず、主治医を変えたいという人たちで、積極的に患者側から主治医を作っていこうとする努力をきちんとした人はきわめて少ないようである。

政治家でも、経済学者でも、医師でも、あるいは、あなたの周辺の人に対する思い・評価・選択で、それぞれにおいて、クール・マインドとウォーム・ハートの「どちら」を「どれくらい」重視して選択すべきか、してきたのか、たまには考えてみてはどうだろうか。

2008年10月13日 (月)

治療歴その9 エベロリムス(Everolimus: RAD001)+サンドスタチン(2008.10~2009.11)

10月最初の外来日、外来の最初にCTの読影レポートを示される。

前回と比較して、多発肝転移と肝内胆管拡張の程度は、おおむね変化ありません。門脈腫瘍栓もあまり変化ありません。
膵腫瘍と脾浸潤と左副腎転移は、前回よりも若干増大しています。
胸部、腹部、骨盤に新たな病変は認めず、明らかな転移所見は認めません。
Impression:
若干増悪傾向

以下のやりとりを記憶により紹介(記憶ですから不正確です)。また、その裏の意味などを[]で補足。なお、これまでの治験結果(論文)は話されてといないが、お互いに知っていることはわかっている。

「微妙なんだよね。方針は二つ。このまま、テモダール+アバスチンを続けるか、エベロリムスにするか。」
CTの結果は、無効になったと断言するには微妙。膵内分泌腫瘍は進行が遅いし、まだ、余裕もあるので、現状維持で様子見をするか、変更するか。]

「最近、骨髄が疲れているようですし、たしか、エベロリムスは骨髄に対する負担は低かったですよね。」と色気を示しつつ、

「しかし、最近、少し肝機能が気になっているんです。先週のK立がんセンターの血液検査では、治療に支障はない程度ですが、肝機能関係の検査値が正常値を超えていましてね。もっとも、その前後数日かなりだるかったので、一過性の胆管炎とは思いますが。」
[白血球及び血小板数が、徐々に低下傾向であり赤信号とはいわないが黄色点滅信号程度になったことから、先月のアバスチンはとりやめていた。このため骨髄抑制が少ないということは魅力であるが、他方、エベロリムスは肝機能に影響しやすいという情報はすでに主治医と共有していた。]

「(最近の血液検査結果を見ながら)たしかに、最近やや高めだけれど、多分、2mg/日でいくから大丈夫。もっとも、GOT,GPT100くらいにはなるかもしれないが。」
2mg/日ですか。10mg/日は多いとしても5mg/日程度かなと思っていましたが。」
[現在行われている国内治験は、欧米と同様に、10mg/日でスタートして、副作用によっては5mg/日に減量というもの。しかし、非公式情報では、国内では強い倦怠感のため、10mg/日で継続できている者は少ないらしい。2階に階段を上るのもきついという例もあるらしい。]

「実際のところ、5mg/日でも持たずに、隔日5mgという人もいるらしい。それならば、最初から2mg/日のほうを推奨する。継続できなければ意味がないから。」
[膵内分泌腫瘍の場合は、エベロリムスは効果が出ればかなりの長期間効果が継続することが多そうである。継続できなければ意味は低い。また、私は一応仕事を継続しているのでQOL(生活の質)への影響の大小は比較的重要。]

「(体格や肝臓の能力(薬物代謝)の差から)日本人は欧米人の7~8割が適量といわれていますし、薬による差があるにしても5割というところかと思っていたのですが。しかし、欧米の治験論文では副作用は強くないような印象をもったのですが・・・1/5ですか。」
「欧米人も10mg/日ではかなりしんどいのを論文はごまかしているのかもしれない。」

「他の抗がん剤と組み合わせるならば候補は?」
[量が1/5と少ないので、単剤でなく多剤ですかという趣旨]
「やるならば、ザノザールだけれど、2番手以降にしたいでしょう。」
「よく気持ちがわかりますね。」
「長い付き合いだからね。」
[たしかに、ピカピカの新薬を最初から多剤にする勇気は少ない。しかも、骨髄を休ませることができなくなる。]

「これまで何人ぐらいに使いましたか。」
「4人。そのほかに、K立がんセンター治験を受けている人が一人。」
[決して多いとは言えないが、といって、国内治験の人数と比べてみれば、少なすぎるということもない。]

「スーテント(Sutent)と比べてどうですか。また、やはりソラフェニブ(sorafenib)は劣りますか。」
「スーテントは効果の出る人には(膵内分泌腫瘍としては)著効が出ることもあるが、心臓への副作用の可能性もあるし、現時点では、エベロリムスのほうを優先したい。ソラフェニブはこれらよりも明らかに優先度が低い。」
[他の候補薬との比較を質問。エベロリムスとスーテントの優劣は難しいが、スーテントは切れ味がよい(こともあり得る)が副作用管理にも注意がいる。病状が追い込まれてもいない現状では「切れ味」より副作用のほうを重視。ソラフェニブは効果が劣り優先度低。]

結局、今回はまだテモダールが一回分(100mgX5)手元に残っているので、次回(10月下旬)から切り替えることになる。

なお、RAD001治験参加にトライしなかった理由は、「経済性(治験なら無料)や投与量が少なく効果がでない可能性」と「QOL低下(強い倦怠感により現在の生活(仕事を含む)や肝機能へのリスク(投与量の自由がない)」を私なりに比較した結果であり、これは人により様々であろう。

現時点で特に心配しているのは、
・ 投与量が低すぎて効果が出ない可能性

・ 肝機能への影響(多少の影響なら問題ないが)
・ QOLへの影響
というところである。もっとも、やってみなければわからないのだから「歩きながら考えよう」。 

そもそも、テモダールは一年間(半年でも)くらい効果があって欲しいと思ってはじめたのでピッタリということなのかもしれない。

ちなみに、2mg/日の場合、月額で十数万円(数十万ではなく)の負担となる。

2008年10月 6日 (月)

「情報」と「覚悟」

私は「知ること」の大事さを何回もこのブログで書いてきた。
しかし、それを軽くいなすかのようなことを養老孟司先生が日経ビジネス(2008.9.29)巻頭の有訓無訓で語られている。

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()インターネットの中にあるのは、全部過去の遺物です。ああいうネットの情報や使いこなしに詳しいということは、極端に言うと、後ろ向きに全力で生きている、ということなんです。()
情報は「情報」として書き込まれた時点で固定される。()出来事は「情報」になった時点で変化が止まる。これはいい悪いではなく当たり前のことです。けれど、メディアやネットが行き渡ったおかげで、我々は固定された過去の情報に縛りつけられている。()
そんなばかな、とお笑いになるかもしれない。でも、()部下に「まず、情報を、もっと情報を」と要求したり、あるいは上司から求められる傾向が強くなっていないでしょうか。「やってみなければ分からない」と言うと、無責任だと責めたり、責められたりしていませんか。逆に情報さえ用意すれば、責任を果たしたような気分になったりね。
(
)自分で前に向かって動かずに、過去の情報さえ検索すれば答えがあるように思い込んでしまう。
(
)「じゃあ、前を向いて生き抜くには、具体的にはどうしたらいいんですか」と皆さん必ずお聞きになる。僕はいつも「それは、『ああすればこうなる』と言って生きるのをおやめになることでしょう」とお答えしています。
「ああすればこうなる」の前提は、人間は因果関係を、状況を読み解くことができる、ということですよね。でも、変化の中では読み解けない状況が必ず訪れます。それを我々は「危機」と言う。
だから危機に「ああすればこうなる」で立ち向かうのは無理なのです。()では、変化とそして危機に対して必要なものは何でしょうか。
それは「覚悟」という言葉に尽きます。「地震が来たらどうしますか」「金融危機がきたらどうしますか」「いや、覚悟しています」と。いいかげんなと思われるかもしれませんが、どんなに対策をしたって完璧なことはあり得ないんですから「覚悟」は常に必要になる。
それに「ああすればこうなる」が分からない、先が読めない、だから怖いというのはおかしな話じゃないでしょうか。先は読めないから面白い、読めたら面白くないんですよ。虫取りの面白さなんか、何が捕れるか分からないから行くのであって、どこに行ったら何が何匹捕れて、と分かっていたら、ちっとも楽しくない。
前を向いて生きていく以上、我々は生きている限り不安です。不安じゃなければ、おかしいくらい。だって私もあなたも、自分が死ぬ日は誰も分からないまま生きているんですから。いつ死ぬか分からないのに、先が分からないことを悩み、ひたすらに過去を見つめたりするなんて、もったいないなといつも思います。()

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さすがに、養老先生だけあり、個々で「そうだよな」と納得しているうちに最後まで行き着いてしまう。

とはいうものの、どこか変である。批判的な目できちんと読み直して見る。
(以下、内容がしつこいので、次の点線まで読み飛ばしていただいて結構です。)

まず、最初の「インターネットの中にあるのは、全部過去の遺物・・・」のパラグラフ。

たしかに、情報は、情報として蓄積された段階で過去のものである。例えば、標準的治療にしてもそれを決めた時点では「標準的」であっても、その後の進歩は含まれない。最新の治験論文にしても、その治験実施時点のものである。5年生存率に至っては、少なくとも5年前の患者しか対象になっていない。
情報を「全て」と思い込んではいけないことには同意しよう。しかし、人間は「現在」の「全て」のものを知ることは不可能である。インターネットは、従来と比較して、情報更新速度や情報範囲が極めて広い。「全て」と思い込むことはできないが、現在の全てに「近づく」ための手段として最も優れているものの一つであることは事実である。限界があるものを限界がないがごとくみなすのはいけないが、限界があることを承知して活用することには問題がないはずである。
これに続く「ネットの情報や使いこなしに詳しいということは、…後ろ向きに全力で生きている」というのは一面的な見方であり、偏見である。
たしかに、ネットの情報が全てと勘違いし、情報収集のみに全力を傾ける者にはこの言葉は当てはまるかもしれない。しかしながら、より正しいだろう方向に進むために、これまでの歩みや経験を振り返ることが「後ろ向きに生きる」ことなのだろうか。必要に応じてバックミラーを見ながら運転をすると車は後ろに進むのだろうか。養老先生の理屈は、情報収集という行為が、情報収集それ自体が目的としてなされているもの「だけ」であるという偏見に基づいている。情報収集という行為が「前向き」か「後ろ向き」かは、情報収集が収集するだけで終わるのか、何らかの行為のためになされるのかで異なるはずである。

次のパラグラフは、最初のパラグラフと次のパラグラフのつなぎなので飛ばして、「情報を求める上司」のパラグラフ。
情報を求めるだけで何もしない上司ならば養老先生のおっしゃるとおりかもしれない。しかし、上司が何かをするならば、情報が多いほど(それを的確に判断できることを前提として)より間違う可能性が小さくなり、また、より成果が増える可能性が高くなるはずである。他方、収穫逓減の法則は情報にも当てはまる。情報が増えれば増えるほど、追加情報を得るための労力は増大するし、追加して得られる内容は減少していく。
上司が情報を得るための労力よりも得られる内容が大きいと判断して「もっと情報を」求めているのか、闇雲に情報を求めているのかにより、その上司の評価は大きく異なるであろうのに、養老先生は、(闇雲に情報を求める上司を暗黙に前提にしながら)あたかも全ての上司に当てはまるように述べておられる。
なお、「情報さえ用意すれば」については、その個人の任務が情報を上司に提供するだけならば、まさしく責任を果たしたことになるだろう。そうでなくとも、次のパラグラフの「過去の情報さえ検索すれば答えがある」も含めて、世の中には、きちんと情報を集め、それを整理さえすれば、「答はおのずから明らか」ということがあふれているものなのである。
このような多くのものとは異なり、たしかに「やってみなければ分からない」というものはある。そして、重要な問題のほとんどはこちらに属するようだ。しかし「やってみなければ分からない」としても、情報をあらかじめ集めることによりその不確定さを出来る限りを低くしたものもあれば、ろくに準備もせずに「やってみなければ分からない」と開き直っているものもある。後者ならば、私には無責任と思えるのだが。

「ああすればこうなる」の部分も同様である。文字通り「ああすれば、100%こうなる」と決め付けるのは問題かもしれない。しかし、「危機」に面して、経験や情報をもとに「ああすればこうなるだろう(可能性が大きい)」と予測しながら行動することは、やみくもに行動するよりも助かる確率は多いだろう。
もちろん、「だろう(可能性が大きい)」ということなので、そのとおりにならないことを常に「覚悟」しておくことは必要である。といって、助かる可能性を高くする手立てもしないで「危機がきたらどうしますか」「いや、覚悟しています」というだけでは、危機に会う確率は高くなり、助かる確率は低くなる。どことなく「神風」を頼った戦時の日本人の精神構造と似ているようにも思える。

たしかに先は完全には読めない。しかし、読める範囲で先を読むことは大事である。そして「残った『分からない』」を楽しむべきなのだろう。養老先生だって、熱帯に住む蝶を採集するのにシベリアには行かないだろう。その蝶が住む森なりに訪れるであろう。
(神でもないのに)先を完璧に読みつくせると信じ、読みつくそうとすることと、先を読む出来る限り努力をして不確実性を減らそうとすることには大きな違いがあるはずである。

最後のパラグラフも同じである。
「前を向いて生きていく以上、我々は生きている限り不安です。不安じゃなければ、おかしいくらい。だって私もあなたも、自分が死ぬ日は誰も分からないまま生きているんですから。」。まさにおっしゃるとおりである。私の場合は、がんのおかげで養老先生よりは先の見通しは得やすいが、具体的な死ぬ日はわからない。ひょっとして、間違って長生きする可能性も極めて低いがゼロではないことために、かえってわかりにくくなっているが。
しかし、「いつ死ぬか分からないのに、先が分からないことを悩み、ひたすらに過去を見つめたりするなんて、もったいない」のは確かかもしれないが「「いつ死ぬか分からないとしても、より有意義に過ごすために及ぶ限り先を見通すために、過去を見つめる」のは立派な行いではなかろうか。
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つまり、
1.「情報は過去のものであるのに、全てだと勘違いし、情報だけにより全てが解決できると思い込んで、情報収集のみに全力を費やすのはおかしい」というだけのことを、「情報収集に力をかけることはおかしい」と短絡させている。
2.「情報は、前に向かって進む際により良くするための(良い可能性を増やす)材料であるが、情報を集めることが目的となりどちらに進むかの判断を避けるようになってはならない」ということを「情報を集めようとすることは、判断を避けるようにさせる」がごとくに書いている。
3.「人間の能力には限界があるので『ああすればこうなる』と『決め付ける』ことはやめるべきだ」ということを「ああなればこうなるだろう(=こうなる可能性が大きい)。もちろん、そうならないかもしれないが。」とことまで否定するがごとくしている。
4.「先が読めないのことを悩まずに、先が読めないことを楽しむべき」ということが「先が読める範囲は先を読み、準備をする。」ことまで否定するがごとく書いている。

総じて言えば、

「『Xはaであるのに、XをAと勘違いして、BのためにYをする(例:情報は過去のものであるのに、全てだと勘違いし、情報だけにより全てが解決できると思い込んで、情報収集のみに全力を費やす)』ことは避けるべきである」
ということのはずなのに「Yをすることは避けるべきだ」だけを強調し、
「Xがaであることを承知の上で、bのためにYをする(例:情報は最新のものでも全てのものでもないが、それを承知の上で、より良い選択肢(良い可能性がより大きい選択肢)を選ぶ参考とするために情報を集める)」
ことまで否定するような書き方である。
このような一種のミスリードは、結構、いろいろな文章(特に、情緒的・感情的なもの)に見られるだけでなく、良く考えて見ると自分自身の日常の思考の中にもあるようである。少なくとも、重要性が高いことを思考・判断するときには、よく注意しなければならない。
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養老先生がどのようにおっしゃろうとも「情報」は大事である。
世の中の多くのことは、「情報」を集めてこれを整理するだけで、結構、結論が見えてしまうものである。もちろん、そのような簡単・単純なものばかりではない。そのような場合でも「予測の精度」を高めて、より確からしいことを選択できる。
もちろん、「情報」には限界がある。また、全ての関係する情報を集めようとしたら時間や労力がいくらあっても足りない。
「情報」は「判断」するために集めるものである。情報集めが全てではない。どこまで情報を集めて、どの時点で判断するかの「決断」が必要である。世の中には、「判断」したくないために、情報収集にあけくれて、この決断を行わない人もいる。しかし、この「決断をしないという潜在的決断」は、たいていの場合、最悪、ないし、これに近い選択である。

養老先生がどのようにおっしゃろうとも「こうすればああなるだろう」との「予測」は重要である。
これにより、より正しい方法を選択できる可能性が大きくなる。
もちろん、「予測」であるから「絶対確実」ではない。「予測」なのに「確実」と信じたとたん、予測が多少なりともはずれたら対応ができなくなるかもしれない。
しかし、「予測」であることをきちんと承知しておけば、予測とはずれたとしても、事前に何も考えていなかった場合と比べて、それに対応し被害を少なくすることが可能になることが多い。

養老先生のおっしゃるように「覚悟」は大事である。
人間は神様ではない。どのようにベストを尽くそうと予定したとおりになるとは限らない。
「覚悟」がなければ、予定外に対応できないだろうし、そもそも最初の決断すらできないかもしれない。
しかし、「覚悟」だけで十分なのだろうか。
私は、人事を尽くしたからこそ天命を待てると考える。可能なことすら行わず「覚悟」だけで十分というのは、この精神により多大な人命を犠牲にした第二次世界大戦中の軍人だけで結構である。

たしかに、判断したくないために情報収集に逃げ込み、また、予想外の発生を覚悟したくないがために、予想を絶対確実なものと信じ込む人はいる。
他方、十分な情報集めや、これに基づく予測もせずに、重要な決断を下す人もいる。(もっとも、重要な決断を下していることすら気づいていないのかもしれない。)
前者の方々には「覚悟」の重要性を、後者の方々には「情報」そして「予測」の重要性を認識してもらうことが必要なのだろう。

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