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2007年2月 2日 (金)

医療制度についての一つの見方 ―医療・患者・社会― その4

多少前までは小児科医不足がいわれていたが、(当時から言われていたものの、あまりマスコミではとりあげられなかった)産科医不足が叫ばれ出した。
(児童数の減少にも関わらず)小児科医不足については、大人の治療と比べて手間がかかり、かつ、夜間の緊急診療などの負担が大きいという理由のようである。そうであるとすれば、それにふさわしい報酬などにより小児科医の増大を図ることができるように思われる(もちろん、このほかに緊急の当面の対策も必要ではあるが)。
小児科医不足については、単に、現在の「医療」の中で小児科医になるということに対する相対的効用が低下しているということであり、比較的対策は容易であるかもしれない。*1

他方、産科医不足には、小児科医同様、夜間の緊急診療の必要性などの共通要因はあるものの、そのように簡単ではないように思われる。
日経メディカルオンラインの福島・大野病院事件の記事をまず読んで欲しい。

記事の本筋とは異なるので、*2に書かせていただくが、記事を読む範囲では検察側の無理筋としか思えない。
なぜ、このようなものが逮捕・立件に至ったのであろうか。

これについては、大きく分けて二つのS(Society)の変化があると思っている。
一つは、科学技術の発達に伴う人間の能力限界の増大を背景とした社会のノー・リスク視と結果責任思想である。
もう一つは、公の世論尊重・国民本位といえば聞こえはよいが、間違えると衆愚政治化の動きである。理性重視から感情(感覚)重視へともいえる。そして、これに関連した「不寛容精神」の広がりである。

この数十年間の科学技術の急速な発展の果実として、人間(個々人)のなしえることは急速に拡大したし、しつつある。この流れの中で、人間や社会は完璧である(完璧になれるとか、完璧に近づきつつあるではなく、完了形で)という考え方が潜在的に広まりつつあるように思える。
人間や社会が完璧であれば、リスクは存在するはずがないこととなる。何か、問題が生じたら、「たまたま」「運が悪かった」のではなく、問題を生じた原因(←あるべきではない)があるはずである。結果が悪ければ、その責任を負うべき者(具体的人間)がいることとなる。物事は、その実施にどの程度の努力が払われたかではなく、(ベストが尽くされていても)結果が悪ければそれに対して責任が問われることとなる。そういえば、同様の自己であっても、人の「死亡」に至ったとたんにマスコミは、大きくとりあげる傾向を強く感じているのは私だけだろうか。
福島・大野事件では、まさしく、「女性の出血死」という望ましくない結果であり、この「結果」に対してS(Society)が反応を示したのではなかろうか。(もちろん、その大元には、P(Patient、この場合は家族)があるわけだが、Pの反応はSの一員として培われた価値観に基づくものであるし、また、Pのみが問題視してもSが反応しなければ事件化はなかったであろう。)
もう一つは、公まで含めての衆愚社会化の流れである。このようなそもそもリスクを含んでいる分野で、かつ、専門的事項(医療上の過失の有無)なことに対しては、良いにしろ悪いにしろ、公(行政や警察)は及び腰といっても過言ではない対応をとり続けてきた。それが急変しつつある。
もちろん、このような変化はじわじわと広がるものであり、時期を特定することは困難であるものの、小選挙区制の導入を境に加速しつつあるように思える。
まず、国会議員が選挙民の機嫌を損ねないようになり(国民におもねり)、この立場から行政を追求するし、マスコミも一緒になってとりあげる。
もちろん、国民が中心であるべきことは間違いないが、しかし、いたずらに国民感情に流された場合、たいへんなことになりかねない。歴史は、太平洋戦争やこの時期の警察ファッショという教訓を残していてくれていると思うのだが・・・。
はっきりといって、現在の国民のレベルは理性よりも感情優先である。なかには、理性は冷たいマイナスのものであり、感情(気持ち)が最優先されるべきとの見方も多いように思う。たしかに、感情は尊重されるべきである。しかし、感情だけにまかせたらどうなるのか、常に理性によるチェックが必要である。*3
議会やマスコミでいじめられないように、多少無理筋であっても、世論に阿る方が得策だという感覚が公(行政)に蔓延してくるのも当然であろう。(行政官・司法官だって、神様ではなく人間であり、また、Sの一員なのだからSの変化は当然影響を与える。)
国民は国民相当の議会と、国民相当の行政しか持ち得ない。

以上について、私の「偏見」にすぎないのではという意見もあろう。私だって、このような考え方が偏見であることを祈っている。

しかし、このような見方を裏付ける事件は多数ある。

例えば、日航機の乱高下事故はどうであろうか。
航空機も気象レーダーなどの発達により、以前のようには乱高下にまきこまれることは少なくなっているものの、それでも時折、乱高下に伴い数人の乗客や乗務員が怪我をしたとの報道をきくことがある。多分、100%これを避けるには至っていないのであろう。
それにもかかわらず、なぜ、刑事裁判に持ち込まれたのだろうか。1審、2審ともに過失が認定されていないことをみると、はっきりした過失というのは見つからなかったのであろう。それにも、かかわらず、「死亡」という結果の重さのみで、立件・起訴に至ったものであるような気がする。

また、脇見運転により、幼稚園児の列につっこんだという事件について、害の大きさから刑罰の大きい危険運転致傷罪を適用するべきだという署名活動がなされているらしい。
たしかに、この運転手は厳しく罰せられるべきである。しかし、危険運転致傷罪というのは、暴走運転のようなものに対して適用されるものであり、(結果の重大性は別として)脇見運転に対して適用せよというのは、やはり結果のみをみた感情的なものとしかいえない。
この意見に従うならば、脇見運転をして、他人に「かすり傷」を負わせても危険運転致傷罪が適用されることとなる。結果の大小ではなく、運転の危険性の大小(暴走運転に相当するものか)で判断されるべきものである。
このようなケースにも十分な罰が与えられるように、業務上過失致死(傷害)の罪の上限をひきあげるべきというならば筋がとおっているが。
これも、結果責任(原因の大きさではなく、結果の大きさを問題とする)や感情優先(たしかに、幼稚園児の事故であり痛ましい)を優先し、公(警察・司法)はこれに従うべきとの意識が大元にあるように思えてならない。

誤解のないように書いておくが、感情を重んじることには異議はない。しかし、感情だけを重んじるならば、考えもしなかった(←そもそも感情であって「考えていない」)大きなマイナスを引き起こすこともある。福島県内では出産を手がけない産科が出ている。
ひょっとすると、国(行政・警察)が国民感情を利用して、民主主義を破壊しようとするかもしれない。(もっとも、最近の国には、そのような「根性」はみられないが)
感情に基づき、そして、理性で判断する社会が求められる。

*1社会の変化<従来の核家族化に加えて、子の数が減少することによる家庭内経験蓄積の不足。また、子どもの病気(リスク)を直ちに他(医師)に転嫁しようとするリスク嫌悪症の広がり>による夜間緊急診療の増加はあるにしても

*2刑事裁判としてのポイントは、医師に(罪に問うだけの)過失があったかのはずである。多くの医療過誤において医師同士の「かばいあい」が見られ、医師側の見解には信頼しにくいという面はあるにしろ、複数の学会から抗議文とか、記事にはないものの資金カンパなどがあることやこの立件に影響されて出産医療を辞める産婦人科医が出ていることなどから推測すると、大きな過失があったとは考えられない。むしろ、この程度のことで刑事裁判になるのならば、医師はやっていられないというもののようである。
さらに、記事のある検察側主張のように「専門書」からはずれた医療は過失というならば、現実の医療は生身の人間(教科書どおりではない)の治療を十分に行うことは不可能であろう。「専門書」の記載と、多くの医学界の反応を天秤にかければ、どちらが重いかは明白である。なお、このようなことが認められると、抗がん剤も薬剤の添付書類を逸脱した治療は全て過失ということとなり、標準的治療一辺倒という歪んだものになろう。ちなみに、ナベルビン+ジェムザールやTS-1+ジェムザールなどは(現在は知らないが、少なくとも最近までは)添付書類では認められていなかったはずである。
そもそも、刑事裁判は「情に訴える」べきものではない(量刑では考慮されるべきだが)はずであるし、検察側鑑定人の専門が腫瘍であったというのにはあきれはててしまった。どうみても、記事にある医療の専門性以前の問題である。

*3 副作用のないと謳う民間療法にはまるのも同根のような気がしている。たしかに、感情の上では、そのようなものがあって「欲しい」。しかし、感情にまかせ、事実についての理性チェックを行わずに、これにはまりこんでも良い結果がでるとは思えない。

かなり話が拡散してしまったが、産科不足問題について、MPS(Medicine, Patient and Society)の立場から整理をしておく。
まず、夜間の緊急診療の必要性などのMの問題だけならば、報酬の見直しなどで対応できよう。しかし、産科というリスクの高い分野において、社会をノーリスクと見なしているSがリスクの受忍を拒否し、さらに、刑事訴訟という形でMに対して罰しようとするならば、Mとしては出産医療の停止というSにとってマイナスの形ではねかえることもやむを得ないだろう。そして、これは、ノーリスク・結果責任・感情優先というSのものの考え方の本質に結びついているだけに解決は困難なように思えてならない。

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福島・大野病院事件の初公判、被告は無罪主張
情に訴えた検察側、専門性強調する弁護側

 福島県立大野病院で2004年12月、帝王切開手術時で女性を出血死させたとして、業務上過失致死と医師法第21条の異状死の届け出義務違反の罪に問われた産婦人科医、加藤克彦被告の初公判が1月26日、福島地裁で開かれた。加藤医師は、罪状認否で「忸怩(じくじ)たる思いがあるが、非常に切迫した状況の中で、冷静にできる範囲のことを精一杯やった」と述べた上で、起訴事実を否認した。
 初公判では、被告の過失の有無はもちろん、検察側、弁護側双方のスタンスや意見の違いも鮮明になった。冒頭陳述で検察側は、産婦人科の専門書を引用して被告の過失を主張、証拠提出の際は遺族の供述調書を読み上げるなど被害者感情を公にし、情に訴える場面もあった。これに対して、弁護側は専門書の記載は個別事例の医療行為の妥当性を論じたものではないと反論。その上で、今回の事件については、複数の学会から抗議文が出されるなど医学界の関心は高く、真摯(しんし)に専門家の意見を聞くべきだと訴えた。
異状死を定めた医師法第21条の違憲性まで言及
 初公判は午前10時に開廷し、途中1時間の休憩をはさんで、午後4時前まで続いた。
 起訴状では、加藤被告は2004年12月、前置胎盤の女性の帝王切開手術を実施、その際、子宮に癒着した胎盤を無理に剥離し、大量出血させて出血死させたという業務上過失致死と、それを異状死として警察に届け出なかった医師法違反が認められるとしている。この女性は、帝王切開手術の既往があり、今回は2度目の出産だった。帝王切開手術の既往と前置胎盤は、癒着胎盤の確率を高める要因となるとされる。
 主な争点は、(1)術前に癒着胎盤であることや、胎盤の剥離時に大量出血の危険性をそれぞれ予見できたか、(2)用手的剥離が困難あるいは不可能になった時点で、癒着胎盤と判断し、直ちに子宮摘出に切り替えるべきだったか、(3)医師法第21法違反を問えるか――などだ。
 例えば(2)について、検察側は冒頭陳述で、加藤医師から押収した産婦人科の専門書を引用し、「『癒着胎盤は適切に対応しなければ、大量出血を来し、母体死亡の原因にもなるため、その対応は極めて重要である』と記載されている」などと主張、剥離を続ければ大量出血を引き起こす危険があることから、直ちに剥離を中止し、子宮を摘出すべきだったなどとした。
 一方の弁護側は、「高度に専門化した領域における専門家の判断の妥当性については、結果だけからレトロスペクティブに過失の有無を判断できず、その相当性判断についてはその領域の専門家の意見が必要不可欠である。本件起訴は、この点を十分に検討した上でなされたとはいえない」と主張。その上で、既に生じた出血を止めるためには剥離を完遂させ、剥離後に止血措置を取る必要があったのであり、「直ちに胎盤の剥離を中止する」義務はなかった、などと反論した。
 また双方の主張の根拠となったのが、鑑定や病理検査の結果だが、依頼先にも相違があった。検察側が証拠として提出した医学鑑定は、産婦人科医によるものではあるものの、その医師の専門は腫瘍だった。これに対し、弁護側は胎盤病理や周産期医療の専門家に聞いた意見を論拠とした。
 さらに現在、異状死の届け出をめぐっては、各学会のガイドラインに相違があるなど、関係者の間で解釈が定まっているとはいえない。今回の初公判で弁護側は、異状死の届け出義務を定めた医師法第21条そのものが、憲法第31条や第38 条に違反するという論まで展開した。第31条では罪刑法定主義(どんな行為が犯罪に当たり、いかなる刑罰が科せられるかは、あらかじめ法律によって定めておかなくてはいけないという主義)、第38条ではいわゆる黙秘権等をそれぞれ規定している。
 今回の裁判は、2006年2月に加藤医師が逮捕された直後から、関係学会から抗議文が出されるなど、もともと医療界の注目度は高かった。起訴事実はもちろん、医療の専門性と医療刑事裁判のあり方、さらには医師法第21条の違憲性までも法廷の場で議論される様相を呈している。これはこれまでの裁判ではあまり見られなかった、今回の裁判の特徴といえる。
日経メディカルオンラインより
http://medical.nikkeibp.co.jp/leaf/mem/pub/report/200701/502356.html

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機長、二審も無罪 日航機の乱高下事故

 三重県志摩半島付近の上空で97年6月、香港発名古屋行きの日本航空706便が大きく揺れ、乗員1人が死亡、乗客・乗員13人がけがをした事故で、業務上過失致死傷の罪に問われ一審で無罪(求刑禁固1年6カ月)となった機長の高本孝一被告(56)の控訴審判決が9日、名古屋高裁であった。門野博裁判長は「事故につながるような意図的な操縦桿(かん)の操作があったとは言えず、機長に過失はない」と述べ、一審判決を支持し、検察側の控訴を棄却した。
 死者が出た国内の航空機事故で、大型旅客機の機長が操縦について過失責任を問われるのは異例だったが、改めて無罪の判断が下ったことで、航空事故の責任追及のあり方に影響が出そうだ。
 門野裁判長は、高本機長の意図的な操作で自動操縦が解除され、機首上げが生じて事故につながったと認定した一審判断について、「自動操縦中に操縦桿を引いても効果は期待できないのに、減速のための機首上げを意図したというのは不自然だ」と指摘。「風速の変化などで機体が揺れ、操縦桿に思わず力を加えた可能性も否定できない」と述べた。
 さらに、「自動操縦の解除が機首上げに与えた影響は不明で、死傷事故につながったとも認められない」とし、「機長の行ったような操作が事故を招く危険のあることがパイロットの間で認識されていたということもなく、犯罪の証明がないとした一審は正当だ」と結論づけた。
 控訴審で検察側は、機長の意図的な操作で機体が上下動したとし、こうした操作で事故の可能性があることは当時の運航マニュアルに記され、パイロットに周知されていたと主張。「極めて強い力を操縦桿に加えており、危険は十分に予想できた」と無罪判決の破棄を求めていた。
 一方で、弁護側は、機長の故意による操作を否定した上で、「機体の上下動は、操縦桿以外の原因が作用した」と反論。マニュアルに関しても、事故当時の高度や気流の状態には適用されないとしていた。
 一審の名古屋地裁は04年7月、機長の意図的な操作で自動操縦が解除され、機首上げの程度が大きくなったと認定。検察側の求めで証拠採用した運輸省航空事故調査委員会(当時)の報告書に沿う形で事実を認定した。
 一方で、マニュアルは操縦桿による自動操縦の解除を禁じていたとは認められないとし、「機長は、機体の上下動や事故の発生までは予想できなかった」として無罪を言い渡していた。

asahi.comより
www.asahi.com/national/update/0109/NGY200701090002.html

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蛇足

このような専門性の高い分野における訴訟について、個人的考えを書いておく。

まず、民事と刑事について、厳然たる区別が必要である。

民事については、「被害者救済」「弱者保護」の立場から専門職(医師・パイロット)の過失を広く認定すべきだろう。ただし、ここでいう「過失」は「被害者救済」の観点から便宜上認定するものであり、「間違い」・「ミス」とか「罪」というものとは異なるものである。
あえていえば、被害者が発生した場合、(加害者には当たらなくとも)専門職には賠償する義務を認めるのである。そして、専門職は、これに対して賠償保険制度に加入することで対応し、その保険料は、例えば診療費の一部として実質的に社会が負担するのである。これならば、裁判所という非専門機関においても、被害の有無と医療などとの因果関係のみを判断すれば良く、専門性のなさは大きな問題とはならない。
<医療のようなある程度のリスクがありえるものについて、そのリスクが現実化した場合、しかたがない(受忍義務)とすることも一つの考え方であるが、被害者であると認めて社会がこれに対して負担(保険)するというのも一つの考え方である。社会全体が裕福となった現在は後者のほうが妥当であろう。>

他方、刑事については、(特に医療のようにリスクをはらんでいる)専門職については「重過失」以外は罪に問うべきではないと考える。理由の一つは、単なる過失で罪を問うことは、専門職の責任回避行動(例えば、出産医療の放棄)を招き、社会的にマイナスが大きいことと、また、過失か否かの認定を(重過失のようなはっきりしたケース以外では)非専門機関の裁判所が行うことには無理が大きすぎることにある。

本来は、このような「過失」については、専門家集団として、例えば、医師会などの専門職内でチェック及び処置がなされることが望ましいし、それが一番現実的な方式であろう。
しかし、このような自主浄化作用はすくなくともつい最近まで機能してこなかった(というよりも「かばいあい」というほうが適切)。
これが、専門職不信を社会から招いている大きな要因であり、単に、検察の行動を問題視するのではなく、自主浄化メカニズムを一刻も早く確立されることを望みたい。

 

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