はじめての訪問者に -このブログの説明-

プロフィールに書いたように、このブログは膵内分泌細胞がんという稀ながん患者のものです。
未承認抗がん剤の効果もあり、かなり進行した段階で見つかったにもかかわらず、かなりの期間、生きています。

しかし、このブログは、日々の生活日記・闘病記ではありません。
このようなものならば、いくらでもより適当なブログがあふれています。

一つの柱としては、膵内分泌細胞がん(膵内分泌腫瘍、ラ氏島腫瘍などともいう)に関する化学療法の情報です。
多分、国内はいうに及ばず、海外を含めても、かなり充実していると思っています。
(といっても、そもそも稀ながんですから、絶対量は多くはありません。)
当方の治療歴・投薬歴も、参考までにということでまとめています。

もう一つの柱としては、「がん患者」として考えてきたことを独断と偏見のもとに書いています。
この中には、マスコミ報道批判があります。

膵内分泌細胞がんにだけ興味があるが、独断と偏見には関心がないという人もいるでしょうし、その逆もいるでしょう。

このため、記事は、いくつかのカテゴリーにわけてあります。
必要なカテゴリーのみをお読み下さい。

「全記事」
文字通り、全ての記事が入っています。かなり暇ならばどうぞ。

「膵内分泌細胞がん」
膵内分泌細胞がんについての情報です。膵内分泌細胞がん自体については、記事で紹介しているHPをご覧下さい。
化学療法については、世界で最も権威のあるASCOでの発表を中心にまとめています。

「治療の経緯」「治療歴(投薬歴)」「静脈瘤」
治療の経緯は、発見から現在までの転院などの治療経緯です。
投薬歴は、具体的にどのような抗がん剤を受けてきたかを示しています。
静脈瘤は、腫瘍による副次的な影響として静脈瘤が出ていますので、それについて書いていますが、直接、がん治療には影響しません。

「未承認抗ガン剤」
未承認抗がん剤を使っているので、未承認抗がん剤についての情報を書いています。
記事の量としては、多くはありません。
なお、未承認抗がん剤は夢の薬では決してありません。安易に未承認抗がん剤を使用しようとするならばやめたほうがいいでしょう。
記事をお読みの上で、さらに関心のある方はメール(プロフィール欄参照)をいただけると幸いです。

「粘る稀ながん患者の独善的コラム」
「がん患者」として考えてきたことを独断と偏見のもとに書いたものです。
ただし、がんが分かる前から考えていたことを「患者」の視点を加えて書いたものや、患者としてではなく一人の人間として考えたことに「患者」としての視点を加えたものがほとんどです。
したがって、かなりこじつけたものもありますがご容赦を。

「がん報道を評価」
マスコミ記者のほとんどは素人です(患者以下)。
新聞などのマスコミが正しいと「盲信」するととんでもないことになります。
気が向いた時に、ヘンチクリンなマスコミ記事について批判しています。

「ユーモア・エスプリ・実話」
いろいろなユーモアをがん患者風に味付けしてみました。
また、診察室での笑い(実話)もひろっています。
人によっては、不謹慎な内容と思われるでしょうが、患者本人が書いたということでご勘弁を。

「その他」
年始の挨拶代わりの記事です。
一応、文学も好むことを知って下さい。

コメント・TBについては、歓迎です。
このブログは訪問者(一日に50~100人)のわりにコメントなどが極端に少ないという特徴がありますが、これは当方の望みではありません。
健康食品関係や業者さん、ないし営利のもの、また、ピンク系といったものは削除しますが、そうでなければ、かなり関係なさそうなものでも排除しません。

引用は自由ですが、できれば出もとは明記して下さい。

リンクフリーですが、こちらからリンクするとは限りません(多分、しません)。
なお、リンクされる際は、一言連絡をいただければ幸いです。

当方に直接連絡をされたい方は、プロフィール欄にメールアドレスを書いています。
これは、フリーのアドレスです。当然、そちらもフリーのアドレスを利用頂いてかまいません。
ただし、毎日、メールチェックはしませんので、ご返事に多少時間がかかるかもしれませんのでよろしく。
(なお、アドレスは、迷惑メールが増えてくれば変更します。過去に送ったメールアドレスが変更されているかもしれませんので、プロフィール欄の確認は忘れずに)

2008年7月 7日 (月)

尊敬と崇拝

良寛さん。名前は良く聞くが、本当はどのような人物だったのかあまり知らない。
本屋で「良寛の四季」(荒井魏著 岩波現代文庫)という本が目にとまったので、つい買ってしまった。

残念ながらハズレ。禅僧としての良寛もわからなかったし、子どもと遊ぶ俗僧としての良寛も聞いたことがある程度にしかわからない。書で有名であるが、これは生きているうちから偽物が出るほどだったとか、和歌のうちでも旋頭歌を良く作ったり、漢詩(たいして出来がよいとは思えないのだが)も良く作ったということがわかったという程度。

出家の動機などにからんで、家族(父)との軋轢がほのめかされているが、これについては、単に、ほのめかしにとどまる。

何を思って、この程度の本(全くダメとは言わないが、最近はやりの乱造新書レベル)を何を思って岩波書店は「戦後日本人の知的自叙伝ともいうべき書物群」(岩波現代文庫の発足に際して)にふさわしいと評価したのか・・・
(もっとも、この本は新聞の日曜版への連載記事を書き換えたものなので、レベルがそもそも日曜版程度というのは著者の責任ではなかろうが。)

一つだけ面白かったのは、良寛研究にかかる次の部分である。

良寛さんの記録については、江戸時代のものもいくつかあるが、一番大きなものは大正に出された「北越偉人 沙門良寛全伝」であるが、(著者が旧制長岡中学の国語教師であったためか)明治以来の国家政策の影響なのか、修身・道徳イメージがしみついた良寛像となっている。また、この全伝の大きな下敷きになったのがある家の家譜であり、そして家系伝説は一般的に美化されやすい。
そして、戦後に家譜にいろいろな誤りがあることが明らかになったり、そのほかの新事実も続々と出てきて、良寛さんについて新しい分析、人間的な解釈が加えられようとしているとしたうえで、次の意見を書いている。
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 良寛さんの謎を追うのは、興味本位の話ではない。人間的強さ、弱さはなんだったのか、その上で思想をより深く理解したい、と思うのだ。人は、強さも、弱さも美徳となりえる。本当の尊敬とは、そうした人間的強さ、弱さも理解し、批判も含みながら敬愛することではないか。
 日本人の悪い癖の一つは、しばしば尊敬と崇拝の区別がなくなることかもしれない。同時に、極端に言えば石ころ一つでも対象になりえる。良寛さんも死後、時に崇拝の対象とされ、そうした良寛像が一人歩きしてきた観もあるが、生きていればそれを最も嫌ったのは、良寛さん自身だったろう。
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戦前であっても、社会の風潮に流されなかった人はいる。また、家譜が美化されていやすいのは常識らしいので、資料として扱う時にきちんとそれに配慮して扱いさえすればよい。
研究者としてのレベルの低さをこのような形で社会の責にしようとすることはいただけない。といっても、元教師であり、多分プロの研究者ではなかろうから、レベルの低さを追求することも失礼ではあるが。

それは別として、尊敬と崇拝の違いについては的確なものと感じた。
もっとも、これを「日本人の悪い癖」とするのはどうだろうか。確かに西欧では「神」という崇拝の対象があるだけに、実在の人物を崇拝することは少ないかもしれない。しかし、「主義」とか「思想」といった非人格的なものでならば、昨今を問わず多くあるのではないか。特定の「主義」ないし「思想」を崇拝の対象とし、崇拝の対象について「弱さも理解し、批判も含みながら敬愛」するなどという相対化をする者に対して、崇拝の対象を貶めるとして批判・迫害を加えるなどというのは、国・文化を超えて、いくらでも見られることである。

がん治療においても、しばしば崇拝が起こるようである。

患者のことを親身になって考え、また、それなりに優れた治療を行う医師がいると、その医師を「崇拝」する患者(複数)があらわれる。周囲がその医師の治療について、建設的批判をしても、その医師に対する攻撃として感情的な反発をする。
一般的に医師は自分のことを万能とは考えないので、建設的批判に対して謙虚であることが多いようであるが、トリマキ患者に囲まれているうちに、外部に対する感受性が低下し、医療の内容も医学の進歩に遅れていく。

これは、悲劇ではあるが、まだしもである。
トンデモ医療やがんに効くという健康食品、あるいは永遠の治験薬の某ワクチンを崇拝して、科学的な批判に耳を傾けない(もっとも、「崇拝」とはそのようなものであるが)だけでなく、周囲も洗脳しようと努める。
本人は好意・善意であるだけに質が悪い。

がんの患者会についてはよく知らないが、伝え聞くところでは、その患者会なりその会の活動を「崇拝」しているメンバーも多いらしい。

また、患者が自分自身のことを「崇拝」の対象としてしまい、間違った知識なり一面的な知識を絶対的なものとしてしまう。

どのような個人(医師)も神ではない。現在のがん治療は完璧ではない。患者も極めて勉強しても、玄人まがいのものは持てるかもしれないが、「患者(素人)としては」という但し書きがつくだろう。しかし、その中で、ベストをつくすことは「尊敬」に値する。
そして、この「尊敬」は「強さ、弱さも理解(強さだけでなく弱さもあるはずということを忘れず)し、批判も含みながら敬愛すること」でなければならないはずである。

2008年6月30日 (月)

ある精神科医師の本より

「医師と患者」(吉松和哉著 岩波現代文庫)という本を読んでみた。
読み始めて、書いてあることが私の頭の中身となかなかかみ合わない。
疑問に思って、あとがきなどを見てみると、著者は、精神科の医師であり、また、この本はもともと叢書「精神の科学」の中の一冊であったとのことであった。

であれば、叢書からこの本を独立して文庫本として出版する時に「医師と患者」のような一般的な名前をそのまま使うのではなく、例えば「精神科医と患者」のような題名に変更しなかった岩波書店は、羊頭狗肉(というほど内容は悪くはないが)と言われても仕方がないだろう。
ついでに言っておけば、「岩波現代文庫は、戦後日本人の知的自叙伝ともいうべき書物群」などと謳っているが、かなり内容的に偏ったり、中身の薄いものが散見される。
まぁー、戦後日本人の知的レベルに似合ったものなのかもしれないが。

(多分)精神的には健康なので、幸いにして精神科なるものはよくわからない。
しかし、人間の精神(心)を扱うのだから、EBMといっても、なにをもって客観的なデーターにするのかすらも決めにくいだろうし、病気の発現機構にしても脳研究の進展により少しは明らかになってきたとしてもほとんどが謎であろう。
想像するに、現代医学の中では、最も伝統的な医療に近いところにいるのではなかろうか。
このような分野の医師が、その分野の叢書の一つとして書いた「医師と患者」であるから、私の頭の中身とかみあわなくともおかしくはない。

ではあるが、次の部分には、納得させられた。
例によって、長文の引用となるが、著者様及び岩波書店殿ご勘弁を・・・
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 ところで臨床の営みとは一種の実験的要素を含むものだと筆者は考えている。それは患者を実験動物にすることではない。現実の姿と思考過程との照らし合せが実験をする時のそれに似ているという意味である。具体的には、その日患者を診察して得た診断とは診察時の身体的、精神的所見から、考えられ得るもっとも可能性の高い病気を選択して、これに基づく治療方針を立てる。この診断をつける際、医師の頭の中には今診た所見から色々な病気や疾患が浮かんでくるはずである。その中からもっともあり得そうな病気を選び、これに適した治療方針を立てる。その場合も原則としてできるかぎり副作用の少ない方法を選ぶ。すると、この時点である一定の時間の経過と共に病状はこのように変化してくるだろうとの予測が立てられるはずである。(略)ここで診断についての選択肢が複数あれば、その時点では取り敢えず一つの病気に絞り込むが、それが間違っている場合もあり得る。そこで次回の診察に訪れたがあったのではないか、またどの点でそのような誤った診断をしてしまったのかと、自分の思考過程を検証する必要がある。(略)検証についてであるが、その中身としてはじめの診察時に患者の状態像について見落としをしていなかったか、さらには患者の訴えを聞き漏らしたことはなかったか、またその推論過程に落ちや飛躍がなかったかなど、大いに反省させられると共に、診断に至る思考のやり直しをする必要が出てくる。ここで大切なことは、最初の診断過程で自信をもってくだしたはずの診断もあくまでもその時点における仮説だという点である。それは変更の可能性のない固定的な確信ではなく、最善を尽くしたとしても、あくまでも仮説的意味を含んだ診断である。だからこそ、その仮説が正しかったかどうかの慎重な検証が必要とされる。このようにして、漸次あらわれてきた事実と自分のくだした判断とを照らし合わせる一種の思考実験の繰り返しを通し、はじめて診断は事実により近づいていく可能性をもつことができる。このような意味で臨床の場で診断を立てることは一種の実験であると述べたのである。そうであれば、医師は厳粛な現実の前に立たされるのであるから、自分が結論として出した診断の正誤について謙虚にならざるを得ないのではなかろうか。またより強い表現を使えば、絶対の真理に到達できるというのは並大抵のことではないので、診断とはいつもその時点における自分の努力した限界としての仮説的判断だと承知していれば、その診断的判断について、また特に仮説的診断と相違することもあり得る厳粛な現実の結果に対して、医師は謙虚にならざるを得ないはずである。しかもことが一人の人の生死や苦痛に関わっていることを十分に認識していれば、以上に述べたような態度は当然出てくるはずのものであろう。
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あとがきによれば、これが書かれたのは昭和62年と20年以上も前のことである。
また、精神科という(多分)医療の中でも特殊な分野がベースとなっている。
しかし、それでも、現在の医療(ないし抗がん剤治療)において通じる点は多いのではなかろうか。

抗がん剤治療にあてはめてみる。

がんの場合、病名がわからないことは稀であろう(もっとも、原発不明がんはあるが、その場合でも、がん細胞から、原発臓器は不明であっても、例えば腺がんであるなどということはわかるだろう。)。また、どの程度、進行しているのかということも検査によりかなり正確に(もちろん完全にではないが)わかっているだろう。
さらに、メジャーながんならば、標準的治療も示されているだろう。

そうであっても、実際の患者の全身状況は直接見て、話してみないとはっきりとしない部分もあるだろう。
また、患者の価値観など(例えば、効果が出る可能性と低い副作用のどちらを好むか。入院治療と外来治療へのこだわり。患者個人のみならず、家族も関係するだろう。ひょっとすると経済力も関係するかもしれない。)というものは、患者を見て、話してみないとわからないだろう。
病状に余裕がかなりあるようならば、あえて抗がん剤の量を落として、副作用に万全を払うという選択肢があるかもしれない。逆に、余裕がなければ、効果優先ということになるだろう。
また、標準的治療を熟知していることは必要ではあるが、単純に標準的治療を適用するのではなく、一方では、患者の状況(患者の希望(価値観))を考慮し、他方では、論文ベースの最新知見、薬の作用機序に関する知識、そして、その医師の過去の経験に基づき、その患者にとっての最善と思われる抗がん剤を選択する。

とにかく、多くのデーター(検査データーのみならず、患者を見て、話して得られた文字や数値にできない「感触」も含めて)、知識、そして経験に基づき、その患者にとって最善と思われる治療(抗がん剤のレジメン)を判断する。・・・そうあって欲しい。

抗がん剤治療は、効果にしても副作用にしても、確率の世界である。
選んだ抗がん剤のレジメンが、最善の選択であったとしても、「結果として」どうであったかは、やってみないとわからない。
きちんと、効果・副作用を判断し、機動的に薬量を調整したり、あるいは、レジメンの見直しを行う。
その際には、CTなどの画像情報(確実であるが、薬の投与結果が画像にあらわれるまで時間を要して迅速性に欠ける)や腫瘍マーカー(迅速性はあるが誤差が大きく確実性に劣る)といったデーターのみでなく、患者の主観や「見た目(覇気)」といったものまでも考慮する。

治療の結果に応じて、常時、機動的に治療の見直し(結果が良好であるから、続行というのも見直しの一つである)を行う。・・・そうあって欲しい。

そして、なによりも、標準的治療にしろ、最善と判断して選んだ治療にしろ、個々の患者において正しかったのかどうかは、最終的には結果が示すものである。治療法を選択した時点では、どのように優れた判断であったにしろ、一つの仮説にすぎない。常に結果を踏まえ、反省し、自分の経験を充実させる。・・・そうであって欲しい。

それにしても、標準的治療「だけ」が正しい治療であるがごとくのたまう一部の医師は、治療というのはいつもその時点における自分の努力した限界としての仮説的判断とは思っていないに違いない。このような医師は、きっと、統計データーは見えても、あるいは、画像や血液検査といったデーターは見えていても、生きている個々の患者も、あるいは、そこに巣くっているがんという病気も見えていないのではなかろうか。

もちろん、患者にとっても、どのように医師が最善を尽くしたとしても、結果がそのとおりになるとは限らない。がんとは、人間にとって、まだまだ未知な領域なのである。これをきちんと念頭に置かなければ、不必要な軋轢を生んでしまうかもしれない。

医師は患者に対して、患者は医師に対して、敬意を払うことが必要だろう。
そして、両者ともに、がんという病気に対しては、常に謙虚であるべきなのだろう。
謙虚であるからこそ、新たな知識・経験を深めていくことができるのだから。
(もっとも、患者としての「新たな知識・経験」を深めずにすめば最高であるが、それを望むのは、やはり謙虚さに欠けるということだろう。)

2008年6月23日 (月)

不安定化と二極化(希望格差社会 -3-)

「希望格差社会」の著者の主張は、現代社会は「不安定化(リスク化)」と「二極化(階層化)」の二つが組み合わさったものということのようである。

「不安定化」

江戸時代のような伝統的な社会では、身分相応にしている限り、あるいは、同じ環境の仲間と同じことをしている限り、内部リスクは発生しない。逆に、これが社会から求められる(拒めば、「はみ出し者」としてリスクに放り込まれる)。
なお、戦争・飢饉などの外部リスクについては、個々人では(あるいは社会でも)対応できるものではなく、外部リスクが現実化しないことを願い、また、現実化したリスクを耐えるしかなかった。

さらに、伝統社会から近代社会に入ってからも、社会全体が右肩上がりの成長を続けている間は、終身雇用制(定期昇給・昇進)や「お嫁さん」(専業主婦)、あるいは学歴(大学を卒業すれば一定の地位が見込める)という形で、内部のリスクは著しく低いものであった。

ところが、現在の社会では、終身雇用制は崩れつつあり、また、離婚などの増加、さらには、学歴への評価が極めて低下している。
身分相応にしている限り、あるいは、同じ環境の仲間と同じことをしている限り、地位や身分が保障されるのではなく、新しいことにチャレンジしたり、仲間と別のことをすることが求められているのである。

つまり、「安心社会」=リスクが少なく予測可能で、社会的対処が可能な社会=から、「リスク社会」=リスクを避けることは不可能で、個人的に対処しなければならない社会=に移ったということである。
(ちなみに、飢饉・災害といった外部リスクについては社会の成長とともに以前よりも低くなっているのではなかろうか。)

見方によれば、このようなリスクに挑戦して大きな利益を得るというチャンスが広がった)ということにもなる。これは、社会の活性化につながるし、また、個人の自由の拡大という観点からは望ましいことであろう。しかし、その反面、リスクに挑戦して失敗すれば失うものも多い(宝くじと同じであり、成功者の陰には、その何倍もの敗残者が存在する)。なお、リスクに挑戦しなければ、大きく失う可能性は低い(それでも会社が倒産するかもしれないが)ものの、(現状維持ではなく)緩慢な低下を覚悟しなければならないようである。
生活を向上(ないし、現状維持)しようと思えば、内部リスクに身をさらし、成功するしかなくなっているのである。
リスクに挑戦するのであるから、成功することも失敗することもある。

身分相応・周囲と同じという要求に従えば現状維持が見込めた伝統社会(逆にそれ以外のことは許されなかった)や、個々人はリスクに挑戦しなくともが社会全体の成長のお裾分けとして一定の果実が与えられた過去の社会と比して、個々人がリスクに挑戦することが要求される、そして、リスクである以上、成功も失敗もあるという「不安定化」に社会も個人も直面しているわけである。

「二極化」

希望格差社会で述べられている二極化にはいくつかの異なる事項が含まれている。

第一に、職業では、専門的能力を要求される職種とそれ以外(マニュアルに従えば良い職種)の二極化である。
リスク化社会では、前者の価値が高くなり、後者は低くなる。また、前者に必要な資質を持つのは比較的少数である。
この結果、専門的能力を有する少数者(の中の成功者)とそれ以外の一般の者との差は拡大する。
それ以上に、専門的能力を有さない多くの人は、上位層に上る見込みがない。

第二に、親の経済力(すなわち、上位層にいるかどうか)により、子どもの環境(教育による専門能力の獲得)に格差が生じてしまう。つまり、「生まれ」による二極化の定着の可能性である。

第三に、高所得(学歴)層は高所得層と、低所得層は低所得層と結婚する傾向があることによる格差拡大である。

第四に、リスクヘッジの可否である。
低所得層であっても、例えば、年間所得2~300万円であっても結婚して共稼ぎを続ければ、家庭の所得は500万円となり、相当の生活が可能である。しかし、夫婦の一方が病気などにより収入をなくせば、とたんに貧困に陥る。
他方、高所得ならば、所得の一部を投資や貯蓄に回す余地が大きく、リスクヘッジが可能である。
また、会社自体が不安定といっても、大企業と中小企業ではそのリスクに差があるだろう。リスクヘッジではないが、そもそものリスク自体にも差がある。
なお、専門能力を有していれば、リスクに挑戦して失敗しても、再就職・リスクへの再挑戦は比較的可能であろうが、一般職であれば、いったん職を失えば、同等の待遇での就職も難しいであろう。

男性の収入が安定かつ増大し、生活の格差を感じなくてすむ「中流化社会」から仕事に質的格差が出現するとともに家族形態による格差が拡大する「格差拡大社会」に変化したとするのである。

「希望格差社会」

そして、この本では、「リスクが普遍化する以前は、そこそこの能力をもつものであれば、リスクを避ける選択肢が用意されていたし、発生したリスクから守ってくれる集団が存在した。しかし、今では、リスクを避けるのも、リスクに対処するのも、個人の能力次第ということになる」としている。

そして、このような社会では、「能力のない人のやる気をなくす。つまり、乗り越えられない階層を感じると、その壁を乗り越える努力をしても無駄だと感じ、人々のやる気は奪われるのである」とし、努力が報われない機会の増大(大学を出てもフリーター、リストラ、離婚・・・)から、希望なき人々が増大したり、リスクからの逃走を図る人(パラサイトシングル、フリーター)も増える。

経済面にとどまらず心理面に及ぶ「リスク化社会」と「二極化」が結びついた格差社会を「希望格差社会」として問題にしているのである。

追記
念のためにいえば、この本にも書いてあるとおり、格差と人々の意識(やる気や絶望感)の関係は微妙である。単純に、善悪にすり替えてはならない。
・ 過度な平等は、能力のある人のやる気(努力のしがい)をなくす。
・ 「生まれ」といった、能力が関係のない要因による格差拡大は、能力のある人のやる気をなくす。
・ あまりに能力による格差が強調されると、能力のない人のやる気をなくす。つまり、乗り越えられない階層を感じると、その壁を乗り越える努力をしても無駄だと感じ、人々のやる気は奪われるのである。
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ところで、このような格差社会化は真実か、そもそも格差拡大は真実かということについて、まだまだ議論がなされているところでその決着はまだついていないらしいが、個人的にはいろいろと肯ける指摘の多い本であった。

個人的には、「身分相応にしている限り、あるいは、同じ環境の仲間と同じことをしている限り、内部リスクは発生しない」というこれまでの社会を否定はしないが、しかし、これに満足せずに、リスクに挑戦しようという人に対して、これまでの社会はあまりに評価が低すぎたのではないか。
その意味では、リスクテーカーに対して、やっと正当な評価がなされだしているように思える。
なんとなく、最近、上位層に対して、嫉妬ともねたみともとれるような反応過敏な傾向が広がりつつあるような雰囲気を感じるが思い違いであれば幸いである。

しかし、とったリスクに対しての報酬があまりにも高い例も散見されるし、リスクを取らなかった人=社会を堅実に支えている普通の人=に対する報酬が低すぎるとも感じる。

リスクテーカーにしても、その成功は、この社会(つまり、それを支えている多くの普通の人)があってのことであるし、また、成功についても個人の能力によるところが大きいとしても「運」の要素もあったはずである。
であれば、その成功の果実の一定部分は社会に還元すべきはずである。
これができない成功者は、ただ何らかの専門能力があり、また、運に恵まれた単なる成り上がりにすぎないであろう。
仕事に限らず、社会においても、「地位」は「義務」を伴うことを理解して欲しい。

別の切り口になるが、格差問題を考える場合、単なる差の大小よりも、最低層がより貧しくなっていないかという観点が重要である。
この点、社会がリスク化することに伴い、(本来はセイフティ・ネットとしてより充実が図られるべきものが)社会の世知辛さにより、「実質的」に下がりつつあるのではないかという不安を持っている。

他方、リスクから解放された最低層の方が、リスクにさらされている勤労層により成立している社会に対して、「当然の権利」のごとく、不満・不平・主張を述べていることにも疑問を感じないものでもない。(誤解のないようにしておけば、主張することは権利であり、自由である。しかし、「当然の権利」のごとく不満・不平を述べるとすれば、リスクにさらされながらも税金という形で最低層を支えている多くの国民に対して失礼ではなかろうか。)
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これまでの内容に対して、キーワードをふるとすれば、自由=リスク、格差、能力=二極化、セイフティ・ネットといったところであろうか。

そうであれば、がん治療の世界にも、確実に「リスク化社会」「格差社会」は押し寄せつつある。

例えば、平岩医師のHPである「がんのWeb相談室」の過去の相談と回答を見て欲しい。
最初の頃は、おまかせ医療しかなく、また、重篤な副作用はないが見込まれる効果も少ないUFT単剤による治療(アリバイ治療)があふれている。また、セカンド・オピニオンということも定着していず、インフォームド・コンテントということも十分ではなかった。
http://2nd-opinion.eee.ne.jp/
しかし、ほかに選択肢もなく、また、治療に関する情報もほとんど流通していなかった当時としては、治療法を希望する自由がないかわりに、格差を感じることもなければ、治療能力の違いということを知ることもなかった。
ほんの10年前のがん治療は、いわば江戸時代のような伝統社会であったのです。

それが、セカンド・オピニオンやインフォームド・コンテントという形で、ある病院から示された治療法が絶対唯一のものではないことが示されるようになってきた。

そして、最近ではネットでの書き込みを見ていると、治療に関して患者の希望に配慮するような努力なり、場合によっては、患者の提案をも受け入れる医師も、数は多くはないものの出てきているようである。そこまでいかなくとも、治療に関して複数の選択肢を示して患者に選択させるという例もあるようである。
ネットでの書き込みからであるので、その正確度は不明であるが、患者側により自由が認められつつあるように思える。
なお、患者側に非常に熱意があり、かつ、患者側の提案が(ベストであるかは別として)きちんとした情報に基づく立派な選択肢であるような場合に、医師が患者側の希望を尊重してくれるように思われる。

私の予想としては、現行健康保険制度は行き詰まりつつあり、早晩、健康保険では標準的医療程度までに制限し、それ以上は、自由ということになっていくだろう。
制度全体が行き詰まらなくとも、情報化社会において、未承認抗がん剤や適用外抗がん剤などを混合医療禁止・保険適用外という形で「禁止」することを継続することは困難であろう。
そうであれば、一層の自由が患者側に提供されることとなる。

しかしながらこれを喜んでばかりはいられないはずだから。

自由(選択の自由)は、リスクの裏返しである。
また、きちんとした知識を持つならば、患者本人として望む医療が得られる可能性が高まるが、知識がなければ、トンデモ医療にはまってしまうかもしれない。

ただし、現実社会と異なるのは、そこそこの能力をもつものであれば、リスクを避ける選択肢が用意されているということである。すなわち、大学病院なり公立がんセンターなりのブランド病院を選べば、「標準的治療」は受けることができる。
この「標準的治療」には良いところもあれば、悪いところもある。しかしながら、がん医療の最低レベル(すなわち、セイフティ・ネット)を引き上げたことは間違いがない。

そして、「標準的治療」と「最新の医療」の差は、「極めて大きい」というものではない。
逆に言えば、「最新の医療」に挑戦したいならば、両医療の差がどれくらいあるのかとか、最新の医療に避けられない不確実性をきちんと理解することなどの「知識」が必要とされよう。
医療過誤に対する不信が不必要に大きくなり、医療側に自己防御の必要性を感じさせている現在(そして、この傾向はより強くなるのではないか)、きちんとした知識のない患者に「最新の医療」をほどこすというリスクが高いことをする医療機関はなくなっていくだろうから。

「希望格差社会」によると、リスクという言葉は、イタリア語のriscareに由来し、もともとは「勇気を持って試みる」という意味だったという。

がん医療のリスク社会化により、「最新の医療」にチャレンジする戸口は広くなるであろう。
しかし、それは「勇気を持って試みられる」べきものである。

リスクに挑むためには能力(知識)が必要である。能力(知識)がなければ単なる無謀である。
そして、どんなに能力があっても、成功するとは限らない。失敗することのほうが多いかもしれない。
リスクとは、そのようなものであることは絶対に忘れてはならない。

2008年6月16日 (月)

不確実性(希望格差社会 -2-)

前の記事での引用を再掲する。
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リスクという言葉は、近代社会になってできた言葉である。イタリア語のriscareに由来し、もともとは「勇気を持って試みる」という意味だったという。ルネサンス時代のヨーロッパ社会では、中世の伝統を守る生活に別れを告げ、外には、大航海に「勇気を持って」船を出し、内ではサイコロ賭博などのギャンブルが始まった。
『リスク社会(原題)』は、日本では『危険社会』と訳されたが、リスクをそのまま「危険」と訳すと、誤解が生じてしまう。
日本語の「危険」は、英語のdangerに近い。近づくと確実に生命、健康、財産などを失うものをいう。また、英語には、hazardという言葉があり、「差し迫った危険」というニュアンスがあり、潜在化した危険ということができる。これらの言葉は、常に悪い意味で使われる。
しかし、リスクは、原義が「勇気を持って試みる」という意味であるから、必ずしも悪い意味ではない。何かを得るためについてまわる危険性であり、必ず出会うわけではないというニュアンスがある。危険が伴うことを知りながら、その危険に出会うかもしれない状況に身をさらして、何かを達成しようという時、その危険をリスクと呼ぶ。中国の「虎穴に入らずんば虎児を得ず」ということわざを思い出していただきたい。
似たような言葉に、「不確実性」と訳されるuncertaintyという言葉がある。これは、将来予測が立たない状況を表す。まったく予測が立たないとは、何が起こるかまったく想像がつかないことを意味する。一方、リスクは、生起する危険の内容について想像でき、ある程度計算が可能という意味を含んでいる。コロンブスが大西洋に初めて乗り出したケースは、客観的に見れば「不確実性」であり、二度目の航海以降は、「リスク」と言えば、分かりやすいだろうか。最初の航海では、インドに本当に着くのか、何があるのか、何日くらいかかるのか、まったく想像もできなかったことだろう。しかし、二回目以降では、新大陸に着くか、着かないかであり、危険の中身がだいたい予測できるのである。
「希望格差社会」(山田昌弘、ちくま文庫)
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前の記事では、リスクについて書いたが、この文には、リスクのほかに「不確実性」ということが区別されて説明されている。

現実の判断においては、「リスク」と「不確実性」が区別されずに(総合されて)取り扱われていることがほとんどのような気がする。

この世の中にあるもので、「不確実性」がゼロのものはない。
正しくは、宝くじやサイコロ賭博のような純粋人工物を除けば、であるが(もっとも、サイコロ賭博にはイカサマかもしれないという不確実性があるし、宝くじの場合ですらも抽選までの間に核世界戦争が起きて日本が滅亡しているかもしれないという不確実性があるかもしれない。)

たいていの人、たいていの場合は、リスクを考える時に、「不確実性」を足しあわせて考える。客観的には、成功確率が同程度であっても、「不確実性」(なにも、マイナスになるとは限らずプラスになるかもしれなくとも)が高い方が、危険性(リスク)は高いと判断される。
このような形で処理されることが多いため、不確実性はあまり意識に上らない。

もっとも、高い不確実性に対しても臆さない人が「度胸が高い」のであり、高いリスクを(それに見合うリターンもないのに)とる人は「無謀な人」なのかもしれない。

ところで、抗がん剤治療について考えてみると「リスク」と「不確実性」を区別した方が良いことも多いようである。

私なりに考える抗がん剤治療の(広い意味の)リスクとは、簡単に言えば、○%の効果で△%の副作用ということである。もっとも、効果といっても、著効もあれば変化なしというものまでは幅広く分布しているので○%の効果(△%の副作用)という表現は簡単にすぎるかもしれない。また、経済的なものや生活への支障(例えば、入院か外来か)といったものも、効果・副作用に含まれる。
なお、忘れてはならないのは、常に複数選択(なぜならば、無治療・放置という選択肢は常にあるから)なので、Yes、Noではなく、どれにするかということであることだ。
この場合、問題となるのは、全ての選択肢が示されているのか、また、効果・副作用が全て提示されているのかということであるが、これについても、とりあえず無治療(=追加情報収集)と考えて、その効果(ひょっとすると、より良い選択肢が見つかる)と副作用(その間の増悪)と整理すれば、上記の中の選択肢の一つとできる。
後は、各選択肢の効果(ベネフィット)と費用(コスト)を考えて、最も好ましい(最も悪くない)ものを選ぶだけである。
(といっても、医師から提示される効果・副作用を「理解」したり、あるいは、各々の効果・副作用を自分の価値観(←自分の価値観がわかっていない人が多い)というフィルターを通して、「自分としての」好ましさ・悪さに直すということは、結構大変であることは事実ではあるが。)


いずれにしても、複雑であり大変であるとしても、質的には困難はない。
付け加えれば、このようなものは、手間暇や努力をかけるほど情報量は増えるが、一定の手間暇・努力により得られる追加情報量は低減していくものである。時間を費やすというマイナスがあることを理解していれば、後は、どこで決断(あきらめる)するかという、まさしく「決断」の問題である。
ついでながら書いておくと、選択肢のいずれもがマイナスということも多い。ややもすると、存在しないプラスの選択肢を求めることに時間を費やして、結局、マイナスを一層増すだけという場合もあるようである。つらいことではあるが、悪いなかで、最もより悪くないということを選択することがベストというのであれば、それを選ぶのに躊躇しないように「努める」のが良いだろう。

話を本題の「不確実性」に戻す。

「不確実性」と言っても、相異なる二つのものがあると思う。

一つは、現在までの知見は○○であるが、○○が真実とは限らないということである。
この場合は、一応、○○という現在までの知見が示す「推定の中心値」は与えられているが、「真実」と「推定の中心値」には差があるだろうという「不確実性」である。
これは、経験(データー)が蓄積されていくにつれて減少していくだろう。
その意味では、「希望格差社会」のコロンブスの例えは不正確である。第一回目の航海の前であっても「机上の知識」という曖昧なものであっても、西向き航路でインドにつくという推定はあったのだし(だから、コロンブスはリスクを取ったのだし、それにイザベル女王も出資したわけである)、二回目の航海でも(一回目の航海では運良く襲われなかった)海竜に遭遇するかもしれないというような「不確実性」はあったはずである。もちろん、第一回目よりも第二回目のほうが大きく不確実性は減ったであろうが、all or nothingというようなものではない。

このような視点で見ていくと、EBMに基づく標準的治療というのは、利益の期待値(効果から副作用を引いたもの)が最大という性格のものではない。「不確実性」が低いという条件を前提として利益の期待値が最大というものである。ある時点における単なる利益の期待値ということならば、第Ⅰ相治験、第Ⅱ相治験で好成績をあげており、次の標準的治療と目されているもののほうが上である。
しかし、このような治療は、「EBMに基づく標準的治療」となるにはデーターが不足(「不確実性」が高い)ということである。けっして、期待される利益が低いということではない。

未承認薬は、既存の抗がん剤よりも期待される利益が大きく、かつ、それは「不確実性」を加味しても、承認レベルを超えるという(海外)データーがあるからこそ、海外では承認されるわけである。
これを国内データーがないためリスクが高いので承認しないという説明は正しくない。この場合は、「国内データー」がないため、「不確実性」が高いため承認できないというべきであろう。
日本人の方が外国人よりも抗がん剤が効きにくく、かつ、副作用も高いという知見があるならば別であるが、同じ人間に対するものである海外データーは「推定の中心値」となるものである。国内データーが加われば、リスクは高くなるかもしれないが、低くなることも同様にあるはずである。

このようなリスクと不確実性の混同は、標準的治療論者に多いように思える。
少なくとも海外で既存抗がん剤よりも利益の期待値が高いことが示されているものを、何らの根拠もなくリスクが高い(すなわち、利益の期待値が低い)と言うのはおかしなことである。
真実を伝えたいのであれば、海外データーからは利益の期待値は高い(すなわち、リスクは低い)が不確実性が高く、それが真実でない可能性は高いかもしれないというべきである。
また、未承認薬を使えない理由として、健康保険などの制度上の問題(うるさいこと、儲からないのに当局からにらまれたくないことは避けたい)に逃げるのはまだ良いとして、リスクの問題をあげるのならば、不確実性が生じた時に対応する「能力がない」というように説明すべきであろう。

逆に、未承認薬を検討される患者さんには、国内データーがない(かつ、多くの場合は、既存抗がん剤に比べれば世界レベルでの経験数も少ない)という「不確実性」があることを覚悟しておいて欲しい。これは、未承認薬ほどではないが、新薬にもあてはまるものである。新薬は承認に必要な程度のデーターはあるが、それしかない。使い慣らされた既存薬に比べれば不確実性ははるかに高い。このようなことさえ考えていれば、あのイレッサ騒動は防げたはずである。なお、「このようなことさえ考えていれば」の主語は、患者であっても良いが、それ以上に医師が主語たるものである。

この付近は、最新の機械と慣れ親しんだ機械のどちらが職人にとって良いのかということに通じるのかもしれない。
少なくとも、「常に」最新の機械のほうが良いとは限らない。初期トラブルは多いかもしれないし、当初の間は使い勝手も悪いだろう。しかし、慣れ親しんだ機械にいつまでもこだわっていると、最新の機械に慣れ親しんだ別の職人の後塵を拝することになる。

少し脱線しかけたので、話を「不確実性」に戻して、第二の「不確実性」である。
これは、「現在までの知見は○○である」ということ自体が間違いであるという「不確実性」である。○○(限られたデーターに基づく推定値)と真実との差ではなく、そもそも○○が推定の中央値でありえるのかということである。

一番わかりやすい例は、がんに効くと称する健康食品である。これは「がんに効く」ということ自体が間違いであるという「不確実性」が極めて高い、というよりも、間違いであるという「確実性」が極めて高いものである。
また、間違いであるという「不確実性」というのはオーバーであるが、治験などで劇的な成果を示した薬が承認されて広く使われてみると、既認可薬と大きな差が出てこないというのも、ひょっとすると、この意味の「不確実性」に加えることができるかもしれない。

かなり長くなったので、頭の整理をかねてまとめてみたい。

まずは、リスク。これは、例えば成功が7、失敗が3という時に、それにチャレンジするかどうかの判断。

次に、不確実性その1。これは、これまでの観察の結果として「成功が7、失敗が3」だとしても、本当は、「成功が6.8、失敗が3.2」かもしれないということ。(不確かさ)

最後に、不確実性その2。これは、「成功が7、失敗が3」ということ自体が間違いかもしれないこと。

そして、がん治療においては、不確実性その2は排除し、不確実性その1はなるべく減らし(ただし、減らすことだけに努めすぎると、かえってマイナスの可能性あり)、かつ、不確実性その1の存在を知りつつ、リスク(単なる危険ではなく、効果引くことの副作用)が一番低いものを選ぶことを目指すということになるだろう。


2008年6月 9日 (月)

リスクの原義(希望格差社会 -1-)

最近の日本の格差社会論のはしりの一冊である「希望格差社会」(山田昌弘、ちくま文庫)を読んだ。

文庫本になったのは昨年のことであるが、最初の刊行は2004年のことらしい。
各論部分の中には疑問なしとは言えないところもあるが、全体としては、現在社会及びその向かいつつある方向について確かにそうだと納得させられる。

この本では、「リスク化」と「二極化」という二つの方向とその相互連関が近年の社会の変化としている。

『リスク化』は、「安心社会」(リスクが少なく予見可能で、社会的対処が可能な社会)から「リスク社会」(リスクを避けることは不可能で、個人的に対処しなければならない社会)への変化であり、『二極化』とは、「中流化社会」(男性の収入が安定かつ増大し、生活水準の格差を感じなくて済む社会)から「格差拡大社会」(仕事の質的格差の出現、家族形態による格差の拡大)への変化であるとしている。

全体的には同感するものの、最も気になったのは、主観的なものと客観的なものが混在されているきらいが強いことである。

例えば、リスク化進展の例として、中国からの食糧輸入(2004年の本なので、当然、冷凍食品ではなく、野菜への農薬)があげられている。
しかし、日本も、野菜は農薬漬けであり(嘘か本当かは知らないが)実情を知っている農家の人は市場に出荷する野菜は食べないとまで言われていたのは、そんなに昔のことではない。さらに、食品保存技術や衛生管理が完全ではなく、食中毒も現在と比べるとかなり多かったはずである。
しかし、当時は、食品安全から話題になっても、これを「リスク」としてはと
らえなかったはずである。
つまり、食料品の安全については、今も昔も(ただしくは、昔の方が)リスクを避けることは不可能で、個人的に対処しなければならなかったはずであるが、当時は、これは「当たり前」のことであり、「リスク」とは感じていなかったということである。
この本では、中国からの食糧輸入をリスク化の進展としてとらえているが、私から見ると、客観的なリスクは低下しているにもかかわらず、社会の変化に伴うリスクへの敏感化(過敏化)から主観としてリスクを認識し始めたということなのだろう。

ところで、この本では、リスクについて次のような説明をしている。(以下、適宜省略しながら「希望格差社会」から引用。)
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リスクという言葉は、近代社会になってできた言葉である。イタリア語のriscareに由来し、もともとは「勇気を持って試みる」という意味だったという。ルネサンス時代のヨーロッパ社会では、中世の伝統を守る生活に別れを告げ、外には、大航海に「勇気を持って」船を出し、内ではサイコロ賭博などのギャンブルが始まった。
『リスク社会(原題)』は、日本では『危険社会』と訳されたが、リスクをそのまま「危険」と訳すと、誤解が生じてしまう。
日本語の「危険」は、英語のdangerに近い。近づくと確実に生命、健康、財産などを失うものをいう。また、英語には、hazardという言葉があり、「差し迫った危険」というニュアンスがあり、潜在化した危険ということができる。これらの言葉は、常に悪い意味で使われる。
しかし、リスクは、原義が「勇気を持って試みる」という意味であるから、必ずしも悪い意味ではない。何かを得るためについてまわる危険性であり、必ず出会うわけではないというニュアンスがある。危険が伴うことを知りながら、その危険に出会うかもしれない状況に身をさらして、何かを達成しようという時、その危険をリスクと呼ぶ。中国の「虎穴に入らずんば虎児を得ず」ということわざを思い出していただきたい。
似たような言葉に、「不確実性」と訳されるuncertaintyという言葉がある。これは、将来予測が立たない状況を表す。まったく予測が立たないとは、何が起こるかまったく想像がつかないことを意味する。一方、リスクは、生起する危険の内容について想像でき、ある程度計算が可能という意味を含んでいる。コロンブスが大西洋に初めて乗り出したケースは、客観的に見れば「不確実性」であり、二度目の航海以降は、「リスク」と言えば、分かりやすいだろうか。最初の航海では、インドに本当に着くのか、何があるのか、何日くらいかかるのか、まったく想像もできなかったことだろう。しかし、二回目以降では、新大陸に着くか、着かないかであり、危険の中身がだいたい予測できるのである。
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リスクというものについては、それなりに考えてきたし、このブログでもいろいろと書いてきたが、その原義が「勇気を持って試みる」という意味とは知らなかった。

たしかに、『必ずしも悪い意味ではない。何かを得るためについてまわる危険性であり、必ず出会うわけではないというニュアンスがある。危険が伴うことを知りながら、その危険に出会うかもしれない状況に身をさらして、何かを達成しようという時、その危険をリスクと呼ぶ。』であるし、中国の「虎穴に入らずんば虎児を得ず」ということわざを持ち出さなくとも、「買わなきゃ当たらない宝くじ」という宣伝のとおりである。

もっとも、宝くじはあまりにリスクが高い(返金率は50%以下)ので、「宝くじ売り場のおばさんの給料」を払っているようなものとしか思えないので、買う気にはならないが。(おばさんの給料に当てられる部分はごく一部にすぎないが。)
宝くじは買わなかったからといって、マイナスはない。「買わなければ、はずれない宝くじ」なのでもある。

他方、がん治療になると、これとは事情が異なる。

がんの治療については、たしかにリスクはつきものである。
外科手術にしろ、化学療法にしろ、その治療において危険が伴わないものはない。
そして、まさしく、危険が伴うことを知りながら、その危険に出会うかもしれない状況に身をさらして、生命なり延命を達成しようというものである。

しかし、忘れてはならないのは、がんになったという時点で、リスクではなく「危険」にまさしく遭遇してしまっているのである。
リスクを取らなかったからといって、危険に出会わずに済むわけではない。
がんという「危険」がそのまま残るだけである。

これが、宝くじにおけるリスクと大きく異なるところである。
「買わなければ、『確実』に損をする」のである。
もっとも、買えば、「損をせずに済む(手術により完治)」ないし「損が少なくて済む(延命)」かもしれないが、「逆に損が拡大する(治療に伴うリスクが顕在化)」こともあるのも事実である。

リスクをとるかどうかは、それぞれの人の価値観ではある。

ただし、がん治療においては、とらなかったからといって、ゼロになるわけではない。
そして、がんという病気は、多くの患者の場合、かなり進行するまで明確な症状が出てこないとか、あっても小さいことが普通である。
このため、抱え込んでいる危険の程度が実感できないことがほとんどである。
そして、この実感に基づいて判断すれば、危険を過小評価することとなり、もし、正しくすでにある危険を理解していれば、取っただろうリスクを取り損ねることにもなりかねない。

リスクをとるかどうかは、それぞれの人の価値観ではある。しかし、それが正しい情報を踏まえたものでなければならないということを忘れてはならない。
(続く)

2008年6月 2日 (月)

NHKの朝のニュースを見ていたら

NHKの朝のニュースを見ていたら、次のようなもの内容のものがあった。

一日60本から80本のタバコを吸っている喫煙者が肺がんになり入院・治療。
入院したら、一日2~3本に減らせたので禁煙治療を希望したが、入院中は健康保険の対象とならず、4万2千円が自己負担と聞いて、断念。

結局、退院後は、元通り。年金(だったか生活保護費)の中から、食費を削ってタバコを吸っている。(医師からは、再発の可能性が増すよと言われてはいるのだが・・・)

国の考えは、常時、医療関係者の監視のある入院中は、禁煙パッチなどによらなくとも禁煙治療は可能。なお、同様の考え(喫煙歴が浅く、中毒が軽い)から、若者も対象とならない。
(5月31日のNHK総合の朝のニュース)
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いろいろな見方ができる。

まずは、NHKのように、国が悪いというのが一つである。

たしかに、NHKの言うとおり国もかたくななのかもしれない。本気で喫煙率の低下を目指すならば、もっと禁煙に力を入れるべきである。少なくとも、メタボなどという、その健康上への影響の有無について、まだ、医学的にも争いがあるものについて、メタボが多い健康保険組合に対してペナルティを課すならば、それ以上に、喫煙率の高い健康保険組合にペナルティを課すべきではなかろうか。

しかし、それ以上に・・・・

まずは、その病院。
入院患者、それも、肺がんの患者に対して、入院中の禁煙もさせられないのか。
しかも、この患者の場合は、再発が話題となっているので、外科手術であったのだろう。
外科手術の患者に対して、入院中の禁煙もさせられない病院というのは、あまりにも質が低いのではないか。手術前の喫煙が手術に及ぼすマイナスを理解していない、医師・病院失格である。
ちなみに、某がんセンターの呼吸器外科は、禁煙ができない患者は受け入れないということを公言しているらしい。これはこれで、やりすぎのような気もするが、といって、禁煙の「自己努力」もしない患者ならば、その治療優先度を下げたいという気持ちもよくわかる。

なによりも問題なのは、その患者。
肺がんで入院しても禁煙できない。退院後は、ヘビースモーカーに逆戻り。
そして、その理由を、入院中の禁煙治療が保険適用できなかったということに押しつけている。

たしかに、4万2千円は、年金(だったか生活保護費)暮らしの中で負担だろう。
しかし、喫煙量から計算すれば、たかが2月分のタバコ代程度にすぎない。退院後、食費を削ってまでタバコを続けるならば(逆に言えば、その程度の余裕を作れるならば)、そのお金で禁煙治療をなぜ受けなかったのか。
せめて、退院後、保険適用が可能となった時点で、禁煙治療を受けないのか。
はっきりと言って、自己努力をする気など持ち合わせていない、甘ったれではないか。

しかし、この報道記事を作った(そして、それをチェックし、オンエアした)国営放送の感覚は、日本国民は自己努力ができないのが当たり前であり、お国が健康保険で負担してくれないと、禁煙の努力すらしない(かつ、それを健康保険のせいにする)というのが当然と思っているのではなかろうか。

このような感覚が常識となれば、現在急速に進行している日本の社会の劣化は一層進展していくだろう。(私が10年後まで生きている確率はきわめて低いので、その結果を味あう心配がないのは幸いであるが。)

追記
同日の朝日新聞朝刊に、タバコ1箱千円にすべきとの、ある国会議員のアイデアが載っていた。このようなことでもしないとどうしようもないのかもしれない。
(個人的には、それよりも喫煙者の肺がんには、健康保険適用を認めない、ないし、自己負担率を倍増するというのが良いと考える。ちなみに、けんか・泥酔・自傷行為等の場合、健康保険給付の一部が制限できることが認められている。喫煙者の肺がんも、自傷と同じはずである。)
http://www.asahi.com/life/update/0530/TKY200805300303.html

追記2
タバコは、発がんの強いイニシエーターであり、肺がんなど多くのがんの発生率を上げることは間違いない。また、最近の研究では、プロモーターとして、発生したがんの成長を促進する働きもあるらしいことがわかっているらしい。
しかし、「再発」の場合は、手術でも残った、見えなかったがんが、見えるまで大きくなることである。

喫煙が本当に「再発率」を上昇させるのだろうか。プロモーターとしての促進効果があるのでその可能性もあるが、喫煙による他の害のために、対象患者が早く死ぬ=見えるようになる前に死ぬという効果が、それを上回る効果もあり得る。

追記3
現時点において、年金にしろ、生活保護費にしろ、現役世代からの持ち出し(年金には、ある程度の自己積み立て分が入っているが、それを大きく超える給付を受けている)である。
月に1万円以上もタバコ代に使えるのならば、その部分を減額して欲しい。もっとも、これが暴論であることは承知しているが。

2008年5月28日 (水)

膵内分泌細胞がん患者を対象としたRAD001治験

<膵内分泌細胞がん患者さんへのお知らせ>

ご存じのように日本では、膵内分泌細胞がんに対して、海外で第一選択とされているザノザール(ストレプトゾシン)は未承認であるし、これについで有望であるテモダールも脳腫瘍に対してしか認可されていない。
このため、保険適用の範囲で化学治療を受けようとすれば、これらよりも効果が落ちることが見込まれるシスプラチン+エトポシドかジェムザール程度(これらに、サンドスタチンを追加しても良い)であろう。

ところで、最近、海外では、分子標的薬であるスーテント(海外では承認)やRAD001が、既存の抗がん剤を遙かに上回る効果が見込めるという治験結果が発表されている。
残念なことに、スーテントについては膵内分泌細胞がんを対象とする治験は行われていないようなので、これが我が国で膵内分泌細胞がんに適用されることは、健康保険制度が大幅に変わらない限りなさそうである。

他方、RAD001の方は、国内治験が開始されている。
それだけでなく、まだ、参加枠が残っているようなので、条件が折り合えば、これに参加してRAD001の投与を受けることができるという、ある意味で、極めて耳寄りな情報である。

以下、知り得た治験情報とそれに対する私見を書くので、膵内分泌細胞がん患者の方は、良く読んでいただきたい。
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RAD001について
RAD001
は、mTOR阻害薬という新しい分子標的薬である。
といっても、患者にとっては、mTORがどんなものかよりも、薬の効果・副作用が大事である。
これについては、2007年のASCOで第Ⅱ相治験結果が発表されている。

すでにこのブログで前に書いたが、
治験者数60名(カルチノイド(C)30名、膵内分泌腫瘍(I)30)に対して、PR10(17%(C13%I20%))SD45(75%)(うち、15%以上の縮小15名)、5PDとより結果が良くなっている。また、24週時点で効果が継続(PFS)している割合は86%であり、効果継続の中間値(median PSF duration)59(C:69週、I:39)である。
副作用は、弱い口内潰瘍?(aphthous ulceration)であるとしているが、グレード34の副作用も報告されている」というものである。

http://neuroendocrine-tumor.cocolog-nifty.com/pancreac_endocrine_tumor/cat5059515/index.html
この成績は、スーテントには及ばない(といっても、対象数が少ないし、比較治験はなされていないので、現実に劣っているかどうかは不明)ものの、これまでの抗がん剤の治療成績を大きく上回るものである。
すなわち、RAD001は極めて有望な治療の選択肢である。

治験の概要

我が国の治験は、国際共同治験の一部として位置づけられているらしい。
米国NCIのHPに情報が載っているので、確認したい方は、下記を見てください。
http://www.cancer.gov/search/ViewClinicalTrials.aspx?cdrid=563761&version=pati#ContactInfo_CDR0000563761

(国内の参加医療機関のHPをみても、本治験についてはなぜか載っていないので、ネットで得られる情報はこの程度である。)

これではわからないところも多いので簡単に説明すると、
「進行性膵内分泌腫瘍の患者を対象にRAD001 10mg/日と至適支持療法(BSC)の併用をプラセ
ボとBSCの併用を比較する第Ⅲ相、ランダム化、二重盲検試験」というのが正式名称である。

(1)対象
進行性の高分化型膵内分泌腫瘍患者(ただし、現在、増悪しつつあること)である。
治験であるから、全身状態、骨髄抑制、CTで計測可能であることなどいくつかの条件はあるが、これまでの治療歴はmTOR剤の経験のないこと以外は問わないということで、この種の治験としては、極めて対象が広く設定されている。
なお、治療を受けている(受けていた)場合には、治験と最終治療の間に4週間以上が必要(wash out期間) とされる。

(2)内容
治験の名前の通りであるが、至適支持療法というのは、例えば、疼痛緩和のようなものだから、RAD001 10mg/日と偽薬(つまり消極的治療のみの無治療)を医師も患者がどちらに入っているのかわからない状態で比較する試験であると大筋思ってもらえばよい。
ただし、「偽薬(つまり消極的治療のみの無治療)」に入った人に対しても、増悪判明などにより試験終了後に、オープン試験として(本人が希望し、全身状況などに問題がなければ)RAD001の投薬を受けることができるというものである。
RAD001
は経口薬なので入院ではなく、自宅で決められたとおりに薬(または偽薬)を毎日服用し、数週間に一回、治験機関の外来を受診することとなる。
なお、治験費用は、当然ながら無料のようである。それどころか、外来ごとに、ある程度の謝金がもらえるようである。
(ちなみに、RAD001は承認前であり値段は不明であるが、同程度の効果が見込まれるスーテントならば月に50~100万円が薬代だけで必要となる。)

(3)治験の申込先
国内での治験機関の数が限定されており混乱を避けるため、ネットでのオープンは避けて欲しいとのことである。
このため、これ以上の情報が必要な方は、製薬企業(ノバルティス)に直接にコンタクトしていただくか、私のフリーアドレス(プロフィール欄に記載)にメールをいただきたい。

(4)注意点
できる限り間違いないように書いているつもりではあるが、治験内容や条件などは治験機関できちんと確認した上で判断いただきたい。
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治験に対する私見

この治験の特徴を私なりに分析してみたい。

治験として見ると、薬vsプラセボの二重盲治験ということと前治療歴を問わないというのが本治験の大きな特徴のように思える。
これは、患者数の少ない稀ながんにおいて、厳密な治験をするためには、通常の治験と同様に前治療歴を制限すると患者を集めることが困難になるし、逆に、これを緩めて、信頼性と意味のあるデーターをとるためには、「薬vsプラセボの二重盲治験」という厳密な形式が要求されるということだろう。
この場合、プラセボ群の使用という倫理問題が残るが、これについては、オープン試験参加ということにより、無治療期間が発生するものの、膵内分泌細胞がんは比較的進行が遅いため影響が限定されるだろうこと、もしも参加しなかった場合の代替に適当なものが少ないこと(特に、治療前歴がある場合)から正当化しているのだろう。
ということで、本治験の基本プロセスは膵内分泌細胞がんの性格に見合ったものになっているということのようである。

次に、この治験に対する評価である。

少なくともこれまで公表された結果を見る限り、RAD001は、膵内分泌細胞がんに対する極めて有力な治療薬である。しかも、我が国では、有力な既存薬が未承認ないし適用外であるだけになおさらである。
もしも、治験に参加して、RAD001が投薬されて効果があれば問題ないし、残念ながら、無効であったとしても、他によりよい選択肢もないのだから、これは、どのような治療にもつきものの、運・不運の問題である。
問題は、プラセボに当たった場合である。
この場合、最初の効果判定まで、wash out 期間を含めると、4ヶ月程度無治療となる可能性がある。
この時点で増悪に伴い、オープン試験に参加できないというのが最悪の可能性である。
次に悪いのは、オープン試験に参加して、RAD001の効果がなく、つまり、半年以上、無駄になるというものである。もっとも、この場合でも、RAD001自体は立派な選択肢だったのだから、無治療4ヶ月の損失というも

である。

ということで、総合的に意見を書けば、
1.進行の程度から、まだ余裕がある(例えば、無治療でも1年以上の余命が見込める)ならば、4ヶ月のマイナスは大きな負担にならないのであるから、参加を勧める
2.余裕が少ないならば、他に有効な治療もないのだから、損をする可能性承知ということで参加することは有力な決断ではあるが、といって、他人に勧めるというところまではいかない。なお、治験に参加しない場合の代替策としては、あまり成績が良くない認可薬を使うか、経済的負担を覚悟でスーテントを個人輸入するかというところだろうか。

自分自身の治験参加希望について明らかにしておかねば、無責任だろう。
現時点において、「がんが進行していること」と「骨髄抑制(血小板数)」の二つから治験参加条件を満たしていない。
前者の方は、そのうちに現行レジメンが無効になるだろうからよいとして、問題は後者である。現行レジメンが無効になった後、ある程度の休薬で骨髄抑制が回復してくれれば、是非とも参加したいと考えている。
しかし、なかなか回復しないようであれば、無治療をどこまで続けて回復を待てるか、かなり、その時点での思い切りに基づく決断が求められるかもしれない。
(いずれにしても、その時点での治験枠が残っていることが大前提ではあるが)

2008年5月26日 (月)

教育用ロボットのプログラミング

ロボットといっても、いろいろなものがある。
ただの機械のようにしか見えない産業用のロボット、ASIMO のような人型のロボットなどもあれば、その中間の警備用(本当に役に立つのかな)とかお掃除ロボットというのもあるらしい。
もっとも、お掃除ロボットの持ち主によると、ロボットが掃除をしやすいように床はきれいにしているということだそうなので・・・

個人が作り、プログラミングを楽しむロボットもいろいろなキットが発売されているらしい。時々、TVでみるロボット・コンテスト(ロボット・バトル)でパンチやキックを応酬し、ダウンしても立ち上がるロボットなどがそうである。
このようなロボットのキットは、10万円前後の値段らしいが、高いと思うか、安いと思うかは人様々であろう。(個人的には、あれだけのことができる2足ロボットが10万円というのは安いと思うが、そもそもそのような趣味がないので買ったり、作ったりする気にはならない。)

この個人が作り、プログラムも行うタイプのものの中に、教育用のロボットがある。小学校高学年ないし中学校の生徒の教育利用を目的としているものなので、ロボット・バトルのロボットと比較して、構造も簡単であり、性能もかなり限定されるが、そのかわり値段も数千円から高いもので数万円程度である。
もちろん、2足歩行ではなく、車型ないしこれを多少工夫した昆虫型だったりするし、センサーの数も限られている。
これでも、ロボットのプログラミングの体験がきちんとできる。

実は、過去にこの教育用のロボットの製作・プログラミングを体験したことがある。
格好は3輪車である。
YY
製作といっても、キット化されているので、手引きに従って、パーツを順番にねじ止めしたり、配線を接続したりするだけである。
もっとも今どきの子供は、ドライバーにプラスとマイナスがあることすら知らないことが結構あるようであり、また、簡単な製作手引きといっても、このようなものを、きちんと読んで、その指示通りに行動する(そうでなければ、ロボットができない)というのは、新鮮な経験らしい。

ロボットのプログラミングは、パソコンを使ってプログラムを作り、これをロボットに転送するというものであるが、簡単なプログラム作成ソフトが添付されており、これを利用して行うものである。
これには、教育用ロボットの種類により、簡単なものから複雑なものまで様々らしいが、私が体験したものは、次のようなものであった。

プログラム例1
(1)
 スタート
(2)
 前進5cm、速度5 (ロボットの中では、右モーター及び左モーターが○ミリアンペアでXX回転と変換されているのだろうが)
(3)
 右前回転90度、速度3(ロボットの中では、右モーターが△ミリアンペアでYY回転と変換)
(4)
 後退7cm、速度3
(5)
 終了

これは一番、簡単である。5センチ前にいって、右前に曲がり、7センチ後退して止まる。
これだって、実際には、床の滑りやすさなどにより、きちんと動かそうとすれば、5cmでなく、5.3cmにするとかの修正がいる。
もっとも、これは、判断もなく、ロボットのプログラムとは言えない。

プログラム例2
(1)
スタート
(2)
A←0 (メモリーAを0にする。)
(3)
左前回転360度、速度3

(4)停止 0.2

(5)A←A+1 (メモリーAをその時点のメモリーAの値に1を加えたものに置き換える。)
(6)
A<2ならば(3)に行く。
(7)
音種類5 (種類5の音を鳴らす)
(8)
終了

これは、「3回回ってワン!」である。(6)に判断という新しい方法が入っている。もっとも、これと同じものをプログラム例1と同じように書くこともできるが、これが、「1000回回ってワン」だとすれば、この有効性はおわかりいただけよう。

プログラム例2の方法により、かなりいろいろなプログラムが書けるようになるが、まだ、これではロボットのプログラムとは言えない。

プログラム例3
(1)
スタート
(2)
床色センサー>100ならば右前回転45度、速度5 (床色センサーの下の色が100を超えている(かなり黒い)ならば右前45度)

(3)左前回転1度、速度1
(4)(2)
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プログラム例3は、何をするプログラムなのかわかるだろうか。
実は、黒い線に沿って動くライントレースの最も簡単なプログラムである。
線の上から右前回転(つまり、右車輪を中心として)する。そして、ゆっくりと線の上に戻るまで左前回転する。((2)に戻っても、線の上になければ、そのまま、また(3)に行く。)
右前回転(右車輪を中心とする回転)と左前回転(左車輪を中心とする回転)の組み合わせというのがミソであり、これで、黒い線に沿って前進していくことになる。

簡単なプログラムであるが、プログラム例1のようなものを、少し複雑なコースで苦労させた後に、そのコースに黒い線を引いて、これで動かすと、ロボットは偉いと思ってしまう。

このプログラム例3のようなロボット外部からの情報(センサー情報)に応じて、判断をするというのが、ロボットたるゆえんである。
あとは、工夫とアイデア次第で、この程度の教育用ロボットでも、かなり難しいことができる。
プログラム例3ならば、線の上なり、そのそばにロボットがなければ、ロボットはぐるぐると回り続けるだけであるが、そうではなく、線を探しに行かせることもできる。

子供の教育用なのに、結構、大人の私も楽しんでしまった。
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ところで、がんにおける標準的治療をロボット・プログラミングと比較してみると、まだまだ「程度の低い」ものにしか見えない。

極端に言えば、「○○がんについては、抗がん剤Aを体表面積あたりXX mg、抗がん剤BをYY mg、ただし白血球数が△△以下になれば中止」、これだけである。

これでは、ロボット・プログラミングの例1のようなものである。
言葉を換えると、がん治療という大きな白紙の中の一点を指示するだけのものである。
同じ種類のがんであっても、個々人により、例えば、ある抗がん剤の効果にも副作用にも大きな差があるという多様な世界に、本当にこれで十分だと思っている専門家がいるならば、よほどのアホだろう。

少なくとも、「副作用aが強い場合は、a1という薬で対策し、さらに、不十分ならば、a2を追加、副作用bの場合には、薬の量を80%に減らす・・・。また、効果がみられなかったり、効果がなくなった場合には、Bというレジメンに変更・・・。」というような一連の流れを定めるものであって欲しい。
この中では、患者の価値観などにより、複数の選択肢が示されることもありえるし、また、あるべきだと思う。

これは、ロボット・プログラミングの例2のようなものであり、条件により判断・修正までが組み込まれているものである。
これは、言葉を換えると、一点ではなく、(場合によっては、枝分かれする)で指示するということになろう。

もちろん、これは、ある意味では、無理な注文である。
標準的治療が、科学的根拠に基づいた医療(EBM:Evidence Based Medicine)を謳う以上、きちんとしたデーターが整っていなければならない。

しかし、現実的には、このようなデーターはないようである。
例えば、ある副作用に対して、どのような対策を行えば、副作用に耐えきれずに治療を放棄(ドロップアウト)する方をどの程度少なくできるのか、経験的なものは別として、データーとして整理されているだろうか。
また、薬を例えば80%に減量した時に、どの程度効果が減少し、また、副作用が減少するのかというデーターもないだろう。

逆にみると、現在の標準的治療は、使える科学的根拠が十分に整備されていないための貧弱なものにすぎない。
もちろん、乏しいといいながらも、科学的根拠に基づいたものは、単に経験だけに基づくものよりも、有効性は高いだろうから、軽視するのは間違っている。
しかし、これが唯一無二であり、これ以外は間違いという医師がい