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はじめての訪問者に -このブログの説明-

プロフィールに書いたように、このブログは膵内分泌細胞がんという稀ながん患者のものです。
未承認抗がん剤の効果もあり、かなり進行した段階で見つかったにもかかわらず、かなりの期間、生きています。

しかし、このブログは、日々の生活日記・闘病記ではありません。
このようなものならば、いくらでもより適当なブログがあふれています。

一つの柱としては、膵内分泌細胞がん(膵内分泌腫瘍、ラ氏島腫瘍などともいう)に関する化学療法の情報です。
多分、国内はいうに及ばず、海外を含めても、かなり充実していると思っています。
(といっても、そもそも稀ながんですから、絶対量は多くはありません。)
当方の治療歴・投薬歴も、参考までにということでまとめています。

もう一つの柱としては、「がん患者」として考えてきたことを独断と偏見のもとに書いています。
この中には、マスコミ報道批判があります。

膵内分泌細胞がんにだけ興味があるが、独断と偏見には関心がないという人もいるでしょうし、その逆もいるでしょう。

このため、記事は、いくつかのカテゴリーにわけてあります。
必要なカテゴリーのみをお読み下さい。

「全記事」
文字通り、全ての記事が入っています。かなり暇ならばどうぞ。

「膵内分泌細胞がん」
膵内分泌細胞がんについての情報です。膵内分泌細胞がん自体については、記事で紹介しているHPをご覧下さい。
化学療法については、世界で最も権威のあるASCOでの発表を中心にまとめています。

「治療の経緯」「治療歴(投薬歴)」「静脈瘤」
治療の経緯は、発見から現在までの転院などの治療経緯です。
投薬歴は、具体的にどのような抗がん剤を受けてきたかを示しています。
静脈瘤は、腫瘍による副次的な影響として静脈瘤が出ていますので、それについて書いていますが、直接、がん治療には影響しません。

「未承認抗ガン剤」
未承認抗がん剤を使っているので、未承認抗がん剤についての情報を書いています。
記事の量としては、多くはありません。
なお、未承認抗がん剤は夢の薬では決してありません。安易に未承認抗がん剤を使用しようとするならばやめたほうがいいでしょう。
記事をお読みの上で、さらに関心のある方はメール(プロフィール欄参照)をいただけると幸いです。

「粘る稀ながん患者の独善的コラム」
「がん患者」として考えてきたことを独断と偏見のもとに書いたものです。
ただし、がんが分かる前から考えていたことを「患者」の視点を加えて書いたものや、患者としてではなく一人の人間として考えたことに「患者」としての視点を加えたものがほとんどです。
したがって、かなりこじつけたものもありますがご容赦を。

「がん報道を評価」
マスコミ記者のほとんどは素人です(患者以下)。
新聞などのマスコミが正しいと「盲信」するととんでもないことになります。
気が向いた時に、ヘンチクリンなマスコミ記事について批判しています。

「ユーモア・エスプリ・実話」
いろいろなユーモアをがん患者風に味付けしてみました。
また、診察室での笑い(実話)もひろっています。
人によっては、不謹慎な内容と思われるでしょうが、患者本人が書いたということでご勘弁を。

「その他」
年始の挨拶代わりの記事です。
一応、文学も好むことを知って下さい。

コメント・TBについては、歓迎です。
このブログは訪問者(一日に50~100人)のわりにコメントなどが極端に少ないという特徴がありますが、これは当方の望みではありません。
健康食品関係や業者さん、ないし営利のもの、また、ピンク系といったものは削除しますが、そうでなければ、かなり関係なさそうなものでも排除しません。

引用は自由ですが、できれば出もとは明記して下さい。

リンクフリーですが、こちらからリンクするとは限りません(多分、しません)。
なお、リンクされる際は、一言連絡をいただければ幸いです。

当方に直接連絡をされたい方は、プロフィール欄にメールアドレスを書いています。
これは、フリーのアドレスです。当然、そちらもフリーのアドレスを利用頂いてかまいません。
ただし、毎日、メールチェックはしませんので、ご返事に多少時間がかかるかもしれませんのでよろしく。
(なお、アドレスは、迷惑メールが増えてくれば変更します。過去に送ったメールアドレスが変更されているかもしれませんので、プロフィール欄の確認は忘れずに)

2009年7月 6日 (月)

行列に並びますか?

日本経済新聞の土曜日版(日経PLUS1)に「その行列、並びますか?」という記事が載っていた(2009.6.27,s1)

この記事の題名を見て、20年くらい前の大阪人との会話を思い出した。
もちろん、詳細は覚えていないが、次のようなことを言われたという記憶がある。
「東京人のグルメは中身がない。有名だから、とか、雑誌で紹介されたからというだけで行列が出来る。それに比べて、大阪人は厳しい。例えば、安くてうまい焼き肉屋と安くて味は普通の焼き肉屋が二軒並んであったとする。東京人は、安くてうまい焼き肉屋に長い行列が出来ていると、隣の焼き肉屋も安いし、まずくはないのだからと、つい入ってしまう。それにひき換え大阪人は、どんなに行列が出来ていようと、安くて、かつ、うまくないと納得しないので、隣の焼き肉屋には絶対に入らない。大阪で行列の出来ている店があれば、並んで入って損をすることはない。」
不運にして、あるいは、幸運にも、大阪で暮らしたことはないので事実かどうかはわからないが、おもしろい指摘である。

そういえば、数年前だったか、漫画で、一年前のグルメ本を読んでいるのを質問された女子社員いわく「まだ、閉店せずに残っていれば、本当においしい店だろうから」などと答えているものもあった。

ところで、日経の記事であるが、
・ インターネット調査会社による調査によると、「並びたくなる」人が約3割、「わくわくする」人が約6%。なお、「並びたくない」人でも半数以上が「人気・話題の店」に並んだことがある。
・ 行列に並ぶ理由について、早稲田大学高等研究所の渡部幹准教授は「並ぶという行為は、その分コストをかけているということ。行列自体がその先への期待を高め、さらに行列を呼ぶ」と説明。
・ 博報堂買物研究所の長谷川宏所長によると、特に不況になると「買い物に失敗したくない」という気持ちが強くなり、周りと同じ行動をしようとする現象が起こりやすい。
・ イベントの企画・運営会社のプロデューサーによると「意図的に並んでもらうケースもある」とのことで「4,5人が並ぶと一気に列が長くなることが多い」といい、展示会や販促キャンペーンでは集客につながる
というようなもの(このほかに、待ち時間の表示についても解説)であった。

たしかに、行列が出来ると、行列が出来ているからには良いことがあるに違いないということで行列参加者が増えて、行列が一層長くなるというプラスのフィードバックがかかることは間違いない。
であれば、最初に行列が出来たのが本当に良いということではなく、単なる偶然(ノイズ)であったり、あるいは、人為的(グルメ本、イベント会社に雇われたアルバイト)な場合も多くあろう。

しかし、話による大阪人のように真の意味でうるさい人ばかりであれば、このような偶然や人為的なものは長続きしないだろうし、行列を人為的に仕掛けても見返りは少ないだろう。

とこのように考えていくと、行列といっても信頼のある行列(=並ぶとお得なもの)と、たまたまできただけだったり仕掛けがあったりという信頼性のない行列(=並ぶに足りないもの)があり、そして、その社会の構成員が対象の価値をきちんと判断できればできるほど、その社会の行列の信頼性は高いだろうし、その社会の構成員の判断能力が低ければ、行列の信頼性は低いということがわかる。
さらには、その社会の構成員の判断能力が低ければ、行列はその対象の価値ではなく、ハヤリ(例えばグルメ本)とか人為的な仕掛けを表していることが多く、行列があっても並ぶ価値がないものがあるのと同様に、本来、行列すべき価値があるのにだれも並ばないということも生じるだろう。

ふと気がついたが、行列と書いてきたが、これは、世論・国民の声・選挙結果と言い換えても通用することであった。
そうすると、多分、「「並びたくなる」人が約3割、「わくわくする」人が約6%。なお、「並びたくない」人でも半数以上が「人気・話題の店」に並んだことがある」という調査結果以上に、日本人は「行列」好きと感じられるがどうだろうか。
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がん治療にも「行列」は見られる。

ここでいう行列とは、3時間待ちの3分外来で3時間待っている患者というような「物理的」な行列ではない。
例えば「○○がんセンター」というような「看板に対する『行列』」とか、「がんに効く健康食品」というような「都合のよいものに対する『行列』」、あるいは、「重粒子線」のような「最新科学成果に対する『行列』」というようなものである。

つまり、他人が並んでいるから、(その価値は不明だが)自分も並んでいる・並びたいということである。

このように見ると、健康食品やトンデモ医療の「体験談」は、イベント運営会社が仕組む行列並びアルバイトに相当しようか。いや、アルバイトならば列に並んでいるという事実はある(並行して通常医療を受けているのに、これを隠したり、効果をあたかも健康食品のためとするようなものならば、これに相当するかもしれない)。それどころか、まったくの作り話の体験談では、生身のアルバイトではなく、そこらのマネキンを並ばせているだけであろう。

このような金儲け目的の作為的な行列は別として、一般的に見られる「行列」は、大阪人のように並ぶ価値の有無を判断しての行列であろうか、それとも、東京人のように行列があると並びたくなるという周囲雷同による行列なのだろうか。

私には、きちんとした価値を理解して並んでいる人はほとんどいないのではないかと思える。しかも、価値を理解していないまま並んでいることにすら気が付いていない。

例えば、免疫療法。
ここでいう免疫療法とは、現在、研究段階なりまじめな治験段階(したがって、ごく一部のところで「無料」でなされている)ものではなく、ネットで検索すれば、あちらこちらの病院・クリニックでなされている「現在実用化(?)されている」免疫療法のことである。
ほんの少し勉強すれば、これらの免疫療法は、せいぜい一部のがんの再発率を下げる(下げているかもしれない)程度の効果しか示されていないことはわかるはずである。つまり、行列に並んでいる現役の患者に対して効果が出る可能性は皆無ではないかもしれないが、皆無に近いであろう。

このような現実の価値(当該病院が「自称」する価値ではなく)を知った上で、かつ、経済的負担も考慮に入れたうえで、並ぶ価値ありと判断しているならば、それは一つのあり方ではあるが、行列に並んでいる大半の人は、体験談であるとか誰のチェックも経ていない一般向けの本(表現の自由、すなわち、作りごとの自由が保障されている)のようなマネキン人形をみて、それにつられて並んでいるだけである。

次に、重粒子線はどうだろうか。
ここの行列自体は、それほど長くはないものの常に列に並びたがる方もかなりいる。また、いわゆる免疫療法と異なり、治療機関が限定されており、イカガワシイ病院はないる
確かに局所療法としての重粒子線には優れた点もある。同じ局所療法の一般の放射線治療よりも患部に集中できるため、効果が高く副作用が少ないことは理解できる。

しかし、局所療法は局所療法にすぎない。
転移があり、すなわち、全身にがんが広がっていると予想される状況において、局所療法が有意な意味を持つ場合は、特定の転移のみがクリティカルであってそれに対応すればかなりの延命を見られる場合などレア・ケースであろう。
もちろん、手術を行うには術後の生活の質の低下が激しく、一般の放射線では困難ないし効果が弱いというような場合には、重粒子線がかけがえのない治療法であることはありえる。

いずれにしても、重粒子線の列に並ぼうとする人の多くは、このような効果と限界を理解した上で並びたがっているとは思えない。

では、未承認抗がん剤はどうだろうか。

数年前はこの行列に並びたがる人も多かったが、最近では、かなり列が減っている。
少なくとも、保険適用になり「他人のお金」で出来るようにしてほしいという声はあっても、自腹を切ってまで行列に参加したい人はかなり少ないようである。

こっそりと実質的な混合診療をしてくれる病院がわずかなりとはいえ、増えたせいもあるだろうが、この絶対数は大きいとも思えず、これが行列が減った理由とも思えない。多くの患者に関する限り、数年前の行列盛況の時点と客観的には状況には大差があるとは思えない。

もちろん、未承認抗がん剤は、(トンデモ医師による使用を除けば)世界的には、もっとも効果が期待できる選択肢であることは多い。
しかし、あくまでも従来の抗がん剤との比較であり、かつ、とびぬけた成績であるとは限らない。少なくとも「夢の薬」ではないことは確かである。他方、世界的には効果が認められていても、日本人においては人種差によりそれほど効果がないという不確実さはある(といっても、同じヒトである。また、同様により効果があるということもありえるのであるのであるから、否定するデーターが出るまで欧米人と日本人で同程度とみなしてもおかしくないと思うのだが・・・)

さらに、実質混合診療(薬代は完全自費)ならば、薬によっても異なるが、「それなり」ないし「かなり」の経済負担が生じる。

私自身は、経済的などの負担が可能な範囲での、ベストと思われる治療(その期待される効果が負担に見合ったものでなくとも)を受けたいという価値観の結果、以上のようなことは十分承知でこれを選んでいる。
しかし、数年前に行列を作った多くの方は、単に、欧米で優れたものとして使われている(行列ができている)ものを、日本でも使えないのはおかしいという、一種の行列志向で騒いでいただけのように見える。

価値を理解しての行列でなければ、行列が消え去るのも早いということだろうか。

このように見ていくと、がん治療における行列のほとんどは、その価値を理解してというよりも、単に、他人が並んでいる・良いという噂があるなどということによるもののように見える。
また、ある行列について、並ぶ価値があるかについて、絶対的なものではなく本人の価値観によるところが大きいケースも多いだろうが、患者自身がきちんとした価値観を持っていないことも多いように見える。

とは、いうものの、いったんがん患者になってしまえば、いやおうなくどれかの列(無治療・放置という列も含めて)を選ばなければならない。
行列の価値がわからないのにどの列に並べば良いのであろうか。

まず、常識的に言えるのは、様子がわからないのであれば、平均的・可もなし不可もなしを選ぶことが無難ということである。もちろん、利益が不明であってもリスクを取ることが好きという人は別である。

それでは満足できないという人は、やはり価値がわかっているグルメに聞くしかない。
といっても、誰がグルメか、単なる自称グルメかわからない。
特に、見せかせグルメ(真の姿は金の亡者)のトンデモ医師のセカンド・オピニオンでは、ネギを背負って、かつ、鍋までぶら下げた鴨になる。
とりあえずは、平均的・最低限の知識をがんセンターなり大学病院で得てからというのが良いだろう。

再度、質問したい。

「あなたは行列に並びますか?
そして
「あなたは、どの行列に並びますか?

2009年6月29日 (月)

豚インフルエンザ -所変われば・・・-

暑くなっている気候に体(と頭)が慣れないためか、先週に引き続き、今回の記事の切れ味は良いとは思えない。
あまり期待しないで読んで欲しい。

新聞報道によると、厚生労働省は豚インフルエンザが下火(←マスコミ報道が下火)になりつつあるのを待ったかのように、発熱外来の廃止など「体制の通常化」をはじめたようである。

素人から見て、現在の豚インフルエンザの毒性及び日本国内での流行状況を考えると、この判断自体はまっとうなものであるように思われる。

しかしながら、今回の国内対応の問題点や教訓の検討を国レベルにおいて、関係者(国、地方、医師、患者、学校など影響を受けたところ、そして、マスコミ報道)を集めて検討がなされているとは、新聞などを見る限りでは、聞いたことがない。

秋から冬にかけて、豚インフルエンザが再上陸することは、ほぼ確実であろう。その時に、どのような対策をとるべきなのか、今回の教訓を「他山の石」とするために残された期間はあまりない。
問題が生じるまでは何もしないという公衆予防の観念のない(他方、問題が生じた場合、マスコミがとりあげなければ無視、マスコミが騒げば過剰対応)厚生労働省らしいといえばそれだけであるが、ならば、やはり厚生労働省はつぶれたほうが世のためなのかもしれない。
ついでに言えば、今回のケースは、鳥インフルエンザが現実の問題となった場合のテストケースとしても大事なはずであるが。

などと思っていたら、ニューヨーク市保健精神衛生局の「H1N1 ’豚インフルエンザ’ : あなたが知るべきこと」という文書を見つけてしまった。
しかも、日本語訳のものまである。

日本語なので、とりあえず下記で全文をお読みいただくことをお勧めする。
http://www.nyc.gov/html/doh/downloads/pdf/cd/h1n1_flu_basic_faq-ja.pdf

ちなみに、これは66日版であるので古い情報ではないかと思われる方もいるかもしれない。が、最新(626)は下記のとおりである。ただし、英文であるし、内容も大差ないようであるが、慎重なタイプの方は確認されるとよい。
http://www.nyc.gov/html/doh/downloads/pdf/cd/h1n1_flu_faq.pdf

私なりに(←つまり、私にとって都合のよいように)抜粋してみると、
最初に「ニューヨークや全米においては、このウィルスによる症状は軽度です。症状を訴えた人たちは皆処方箋なしに回復しています」と端的に個人に対するリスクの低さを明示した上で、ワクチン(開発中)や予防法(うがい・手洗いなど)を簡単にわかりやすく説明している。
そして、いよいよ「インフルエンザの様な症状があった場合どうすればいいでしょうか?」に入る。

「咳、喉の痛み、そして熱があった場合は少なくとも1日、十分良くなるまで自宅で安静にしましょう。咳が続いているが他の症状はない場合は、 (英文では、If you have one of the underlying medical conditions listed above, and you develop flu-like illnessとなっているので、「咳が続き、かつ、下記の症状の一つがある場合は」というのが正しいようである) 医師の診察を受けましょう。病気になってから1週間ほど経過すれば、仕事や学校に戻ってもよいでしょう。軽い症状の場合は病院にいく必要はありません」とし、日本での騒動と比べると驚くべきことを告げたうえで
逆に、「どのような症状になったら病院にいくべきでしょうか?」として「もし症状がひどい場合や悪化している場合」や「下記のような兆候(呼吸困難又は息切れなどの具体的な例示あり)がある場合は治療を受けましょう」としている。

簡単にいえば、呼吸困難とか激しい嘔吐などを伴わない限り、病院に行く必要はなく、自宅で寝ていればよいということのようである。

日本の騒ぎ方と比べてギャップの大きさに驚くばかりである。
日本で感染者が見つかって国もマスコミも「大騒ぎ」しているときに、その本拠地である米国・カナダでは、比較的平静だったというのも、これだけ認識に差があるとうなづけるところである。

さらに言えば、普通の風邪ならば医者に行くより家で寝ているほうが良いときちんと考える人は少ないながらいるだろうが(問題はただの風邪と思っていたら別の病気だったというリスク)、インフルエンザならば病院に行ってタミフルなどを飲むのが当然とほとんどの人が(私も)思っている。
しかし、インフルエンザにしても一週間も家で休んでいれば­ほとんどの方が治ってしまう。タミフルなどは一週間休むのを数日縮める効果しかない。(このような話は以前何かで見た記憶はあるが、ほとんど気にとめていなかった。)
逆にいえば、高齢者のようなハイリスク者や症状が激しい方を除けば、通常のインフルエンザについても、日本人は過剰対応をしているのかもしれない。

(
その結果、日本でのタミフルの使用量は異常に大きく、これだけ(医療費)ならともかくタミフル耐性シンフルエンザ出現の早期化に貢献していることになる)

誤解されないように、別に米国のほうが優れているというつもりはない。

これらの裏側には、皆保険制度がなく、多くの保険未加入者がいるという「現実」があるはずである。
日本は、安い保険料(安いとは感じられないだろうが、国際的にみれば、極めて安いものであることは疑うことができない)しか負担せず、しかし、病院にかかる必要もないほどのことで「安心」のために利用することができるという「天国」である。(さすがに、天国も崩壊して地上に急降下中であるが)

このようなわが国では、タミフルなどを安易に使用しすぎて、耐性ウィルスの発言を早めるのではないかということを除けば、患者側からみれば、病院に行くに越したことはない。


しかしながら、本当に豚インフルエンザ(現在と同程度の弱毒性が維持されているとして)が一気に広がったら、ただでさえ崩壊しかかっている日本の医療体制が持つだろうか。
(
といくら言っても、寝ているのが一番の薬の単なるカゼですら、緊急外来に行く現在の日本人に言っても、馬の耳に念仏だろうが)

さらに、真打ちの鳥インフルエンザが流行したらどうなるのだろうか。

豚インフルエンザすらも適切なリスク管理ができない厚生労働省にきちんと対応できるとは思えない。
自己防衛のためには、食料を備蓄して、家に立てこもるしかないかもしれない。(なにせ、ただでさえ白血球数が低いのだから。)

しかしながら、いつもながらわからないのは、日本のマスコミである。

少なくとも三大紙ならば米国に支局があるだろうし、共同通信もある。それがなくとも、ここに書いたこと程度はネットで簡単に手に入れることができる情報である。

日本と米国の対応のいずれが良いのかは別としても、このような対応もありえることをきちんと報道しないのは、なぜ、なのだろうか。

いくつか理由が考えられる。

国民をあおったほうが「売れ行き」が伸びるという「さもしさ」。
戦時中に、軍部(在郷軍人会)による不買運動をおそれて、軍部にしっぽを振った報道しかしなかった体質は健在のようである。

また、このようなことを報道して、千一、国内で患者が亡くなった(通常のインフルエンザと同じく千人に一人程度は死亡するらしい)時に、責められたくないという「逃げ」。
これまた、真実の報道よりも責任回避に重きを置くというマスコミの真の姿の発現である。

そもそも、マスコミは国内視野しかない井の中の蛙の集まりにすぎないということ。
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と、ここまで元気よく書いてきたのはいいが、このブログはがん患者のブログなのだった。

どのように日本とニューヨーク市の豚インフルエンザへの対応の違いをがん治療と結びつけようか・・・・

よく考えていくと、がん治療に関する問題と相似していることが含まれている。

一つには、「井の中の蛙」であるということである。

例えば、国内の治験データーがなければ、世界で広く使用されている抗がん剤ないしその適用を認めようとしない厚生労働省。

あるいは、国内の基礎研究段階の発表や、どうでもいいような発表はとりあげるものの、ASCOなど世界的な権威のある学会での発表については取り上げる気もないマスコミ。

二つには、その狭い井戸の中で騒ぎが起こると過剰に反応するが本質的な対応はしない体質。

未承認抗がん剤などで特定の薬について、患者が騒ぎ(これだけならば無視)、マスコミや国会でとりあげられると、民族差を確認するための治験ともいえないような少数治験だけで「迅速」承認をしてしまう。しかし、騒がれない他のものについては何もしないし、本当に国内治験が必要なのかなど根本的な問題には目をつぶる。

マスコミもこの点では厚生労働省と同じであり、熱しやすく冷めやすい。

三つとしては、国民の個人リスク過敏症

インフルエンザかもしれないと思うと、実際のリスク無視(豚インフルエンザのリスクの低さ、逆に、インフルエンザでなかったのに「発熱外来」で本当の患者から感染するリスク、さらには、発熱外来のパンクなどの社会リスク)して、個人リスクを心配してルール無視で発熱外来を「直接」受診。
そして、それを批判しようともしないマスコミ。

この体質は、逆に医療の副作用や治療リスクを許容しないということにもつながる。
社会リスクには鈍感であっても、個人リスクには過剰に反応する。

この延長線上に、いわゆる医療過誤訴訟があり、国内の医療制度の崩壊がある。

がん治療は患者にとって、個人リスクの塊である。
鈍感になってもいけないが、かといって過敏になりすぎてもマイナスである。

そう考えていくと、がんに効くという健康食品の愛用者は、個人リスクに過敏かつ鈍感なのだろう。
つまり、避けられないリスクに過敏に反応(=効果があるのに副作用がないという「言葉」を反射的に信用)し、他方、そのような夢物語を信じることの危険さに鈍感ということである。

四つ目には、それにもかかわらず病院依存体質。

治療の意味(例えば、タミフルの効果)も知ろうとせずに病院に行き、薬をもらいたがる。
さらにいえば、治療してもらって当然としか考えない。

もちろん、風邪(や重症ではないインフルエンザ)と異なり、がん治療は家で寝ていればよいというものではない。
病院・医師に頼らなければならない。

しかし、多くの患者は、病院に「頼りきり」であり、自分で可能な範囲の知識を持つ努力もしない。

ネットの掲示板で、よく「良い病院(医師)」を知らないかという書き込みを見るが、「○○という治療ができる病院」という書き込みはあまり見ない。
これも、お任せできる病院探しの表れなのだろう。

病院(医師)に頼ること自体は当然である。そして、普通よりも優れた治療を行う病院(医師)に頼ろうとするのも当たり前かもしれない。

しかし、普通以上の治療には、普通の治療以上のリスク(正確には不確実性)があるはずである。患者側が病院(医師)に任せきりで、このリスクを理解していないのならば、(私が医師であれば)怖くて普通以上の治療はしないというのは仕方がないこととも思えるがどうだろうか。

いずれにしても、今回の豚インフルエンザ「騒ぎ」の教訓が、この秋・冬の豚インフルエンザ第二波やいずれか発生する鳥インフルエンザに反映されることを望むが、そのようなことは、厚生労働省でもマスコミでも日本国民においても起こらないだろう。これは、残念ながら、がん患者となって、それなりの期間、日本の医療を見てきた私の実感である。

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2009年6月22日 (月)

豚インフルエンザ ― 終息宣言(?)関連 ―

豚インフルエンザ(鳥インフルエンザと峻別するために新型インフルエンザという名前は使わない)について、終息宣言と称されるものが出されて以来、急に落ち着きつつある日本である。

しかし、「終息」のわけがないと、その当時から思っていた。
一つには、世界では、少なくともこれから冬となる南半球での流行はないわけがないし、そして、日本と南半球の人的交流はあるのだから、これからだって入ってこないわけはない。
また、日本国内に入った豚インフルエンザウィルスが根絶されてもいないだろうから、あちらこちらで散発的に流行しないわけはない。

と思っていたら、やはり、国内のあちらこちらで、散発的な流行が生じている。
一番の違いは、マスコミが「感情刺激的」にとりあげないようになっていること程度である。

ひょっとすると、豚インフルエンザの終息ではなく、マスコミによるパンディアミック報道の終息という意味だったのかもしれない。

ところで、いつもながら、自分勝手な大阪の方々による「弱毒性」だからという発言が相次いでいた。
単純に、自分たちの対応能力を上回っており、やっていられないと素直に言えばよいのに、自分たちのことは棚に上げて、国に要求する関西根性丸出しである(もっとも、それがたまたま関西だったということであり、地域が関東ならば対応能力に問題がないということではないが。)

この言い分は、半分は正しいが半分は間違っており、全体的には、関西地域の有名知事の危機管理の基本の無知の丸出しである。

簡単にこの点を説明してみよう。

このような危機では、個人リスクと社会リスクの双方を考える必要がある。

例えば、個人リスクがこれまでのインフルエンザと同程度以下であったとしても、これが、社会全体に「集中的」に流行したら、社会システムの維持などに支障が生じるかもしれない。

現在のところ、豚インフルエンザは、一般のインフルエンザ(季節型インフルエンザ)と同程度以下の毒性を有しているようなので、個人リスクは(判断する方の主観によって異なろうが)確かにそれほど大きなものではないだろう。
少なくとも、日本におけるインフルエンザ予防ワクチンの低接種率からすると、平均的な日本人は小さなリスクととらえているようである。

しかし、これと社会リスクはわけて考える必要がある。
ヒトに免疫がないのであるから、一気に爆発的に流行する可能性がある。
そして、一週間程度自宅で隔離ということならば、下手をすると(よほどうまくむしなければ)地域全体、場合によっては日本全体がマヒする可能性もある。

つまり、関西地域の有名知事が、その言葉どおり、弱毒性ということのみを理由に制限緩和を求めているならぱ、危機管理のイロハも知らないこととなる。

もちろん、個人リスクと社会リスクは無関係なわけではない。
仮に、毒性がもっと弱く、鼻かぜ程度の症状しか生じないのであれば、一気に爆発的に流行しようと社会リスクにつながることはないだろう。

もっとも、制限緩和がおかしいと主張するものではない。

社会リスクを低くしようとすること(例えば、広い範囲で学校休校にする)は、コストにつながる。
抑えられるリスクと必要とされるコストを比較して、コストが高すぎるため制限を緩和するというのは十分に納得できる。

また、制限がほとんど意味をなさないという理由もあり得る。
感染が広がり、蔓延状況になってしまえば、多少の制限をしたからといって効果はほとんど期待できないだろう。

しかし、豚型インフルエンザの検査も不要としたのは、あまりにもいただけないものである。
これにより、豚型インフルエンザの感染状況が不明になってしまっている。
マスコミでは、国内のこれまでの感染者数を「いまだに」記事に書いているが、関西地区の大英断のおかげで、○○名と書くのは真実ではなくなってしまった。
例えば、○○名以上とするか、関西地区を除き○○名と書かないとおかしい。

さらにいえば、関西地区は自ら豚型インフルエンザの蔓延地区であることを認めたことに等しいわけであるから、成田などの空港で海外の感染国からの乗客にしていたのと同様の検疫を関西地区から外部へ出る人にしないというのは、外国差別であると思うがどうだろうか。

まぁー、本当は、準備不足のため、まじめな対応ができなくなったということであろう。
これは、別に関西地区に限らず、現在の貧困な医療行政の一つの結果にすぎないが、このようなことを「正直」に話せば、準備不足の責任を追及されるということで、「弱毒性なのに」ということで国民を騙したというのが真相ではあろうが。

しかし、豚でこれくらいならば、鳥ではどうなるのだろうか?
居酒屋では焼きトンも焼き鳥も似たようなものであろうが、インフルエンザではそうもいかないだろう。

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未承認抗がん剤(及び適用外抗がん剤)を含む混合診療についても、個人リスクと社会リスクを区別する必要がある。

日本人に対するデーターがないので、思わぬ副作用が出るかもしれないというのは、「個人リスク」の話である。
もちろん、健康保険適用にして、広く使用できるように国がするというならば別として、個人輸入のような形で行う分には「個人リスク」はあるとしても「社会リスク」は考えにくい。

そして、現在の抗がん剤治療(健康保険適用)についても、相当の個人リスクがあるところ、外国のデーターではあるもののリスクに大差ないというものについて、国が規制をかけることは法規制として相当性を欠くと考えるがどうだろうか。

さらに言うならば、ある程度の不確実性(=外国人と日本人の差が不明)を含む「個人リスク」を許容するかどうかは、患者個人の価値観の問題であり、また、インフォームド・コンセントに属することにすぎない。

少なくとも、登山のようなハイリスクのものを含め(喫煙だって周囲に煙をださないならば)「個人リスク」を受けるかどうかは、(十分な情報が与えられていることを前提に)個人の自由に属するというのが、これまでの人間の歴史の積み重ねの結果として選ばれている、自由主義の本質のはずである。

ついでに言えば、混合診療が「個人リスク」の観点から違法とすべきほど問題があるならば、トンデモ医療が横行している自由診療は許されるべきものではありえないが、この付近について、国はダンマリを決め込んでいる。

他方、「社会リスク」はどうであろうか。

がんという病気は伝染するものではないし、副作用はさらに伝染することはない。
その意味では、「社会リスク」ということは本質的には存在しないはずである。

厚生労働省的な社会リスクとしては「医療に貧富の格差が生じる」ということかもしれない。

しかし、効果・副作用が未確認のため健康保険適用できないというものならば、そのような治療を受けることができようと、できまいと「格差」には当たらないはずである。

本当に「格差」が問題となるのは、それが効果を有する(副作用も加味して)場合であり、それならば、健康保険対象にすべきものをしていないという国の怠慢を罪のない他人に転嫁しているということとなる。

少なくとも、一から十まで個人負担の「自由診療」は合法なのである。
混合診療は、一から十までは負担できないとしても、適用外の部分だけならば負担できる患者の救済となるのであり、「自由診療」が認められているわが国では、格差を幾分か解消するもののはずである。

このようなことまで書かなくとも、混合診療(未承認抗がん剤)を違法とするだけの「社会リスク」は見つからないような思うがどうだろうか。

ひょっとして、未承認抗がん剤による治療が広がることにより、その有効性が知れ渡ること、すなわち、厚生労働省が不作為の怠慢を働いていることが知れ渡るという「官僚の自己リスク」を警戒している、これが一番、的をついているように感じるのはおかしいだろうか・・・
(
厚生労働省の怠慢体質は社会保険庁(年金)で十分に公知の事実なのだから今更警戒しても仕方がないと思うのだけれども)

2009年6月15日 (月)

カテゴリー・ミステイク

「心脳問題」(朝日出版社、山本貴光+吉川浩満)なる本を読んでいる。
基本的にこのような本は、時間の無駄になるのでできる限り読まないようにしている。

たいていの哲学者(と称する者)の議論は、用いている用語をきちんと定義していないために(厳密に定義しているつもりになっているが、「概念」などはいくら厳密にしたつもりでも幅が残らないわけがない。厳密に定義しているというのは哲学者の単なる思い上がりである)、生じているものがほとんどであるし、あるいは、単なる無知(例えば、無限の扱いについて、有限のものを無限個足し合わせても無限になるとは限らないという単純な数学的事実を忘れていたり、命題は真か偽のいずれかであるという古来からの素朴な排中律が信じられているが、真とも偽ともわからない命題が無限に存在するこというゲーデルの定理はお粗末な哲学者の理解を超えるものらしい)によるものが目に余るからである。

さらに言えば、事実に立脚しない形而上の議論がいかに非生産であるのみならず、明らかな間違いにより社会を不幸に陥れたという歴史的事実すら忘れている。

心脳問題については、それほど真面目に考えたことはないが、「心」の定義、「脳」の定義、あるいは、脳がわかれば心がわかるという文章であれば「わかる」の定義があいまいなために生じているものがほとんどであるし、そうでないものは、まさしくゲーデルの不完全性定理の一例にすぎないと「直感」している。
さらに言うならば、この世(含む「自分」)が一炊の夢に過ぎないとしても、一炊の夢なのかどうかは不可知(ゲーデルの不完全性定理の一応用)であるから、哲学者諸侯とは異なり、このような無駄なことに人生の一部を割く気にもならないということでもある。

このようなことを書く私が、「心脳問題」という本を読んだのは矛盾ではないかとしかられそうであるが、いかに直感的にアホラシイと判断しているにしろ、心脳問題でどのようなことが議論されているのか・いたのかということをある程度は、知っておくのも悪くはないだろうと、ふと思ったからです。
つまり、がんに効くと称する健康食品について、単に馬鹿らしいと判断するだけではなく(もっとも、馬鹿らしいで十分でしょうが)、その業者のHPを除いて、そのいい加減さを確認しておくことも有意義だろうというのと同じ感覚です。

本全体の感想としては、予想通り、定義に厳格さを欠いているための意味ない疑問や排中律を当然のものとして議論しているための妄想的議論が目につきました。
もちろん、一般向けの本ということで、あえて厳密さを欠かせているのかもしれませんし、単に、筆者が三流哲学者(なのかどうかは知りませんが)であり、きちんとした哲学者ならばこのようなことはないのかもしれません。

このような全体的な感想は別として、中には、言われてみればそうである(=潜在的にはわかっているが、自覚できていなかった)というものや、このような明確な説明方法があるのかというものも、もちろんありました。

その一つが「カテゴリー・ミステイク」という概念(言葉)です。

同書によると、カテゴリー・ミステークとは、
「子供を動物園に連れて行きます。あなたは「これがウサギ」「これがカバ」「これがキリン」といちいち説明してあげるのですが、最後に子どもはこう尋ねます。「わかったよ。それで動物はどこにいるの?」・・・・・・・・・・このようにちがうカテゴリー(範疇、区分、分類)に属する物事を同列に並べる誤り」のことであり、
プラトンの「パイドン」に書かれているソクラテスがアテナイの青年たちを堕落された罪で投獄され(逃げて外国に亡命するのも可能なのに)牢獄にいるのは「ソクラテスの骨と腱が動くことによって彼が牢獄に移動したからか」「ソクラテスが有罪判決にしたがって牢獄に座ることがよいと考えたからか」
も同様の問題である。「脳がわかれば心がわかる」というのも「脳」と「心」という異なるカテゴリーに属するものを同一に扱っているとしている。
(
この説明はWikipediaの説明(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%86%E3%82%B4%E3%83%AA%E3%83%BC%E9%8C%AF%E8%AA%A4)とかなり異なって見えるが、これは単に私が哲学の素人のためであろう。)

私に言わせれば、その前に「脳」「心」がきちんと定義されていない以上、これは正しいとも間違っているとも判断できない空虚な説明である。

さらに、言うならば、「脳」・「心」を異なるカテゴリーであるように定義していれば、正しい命題であるし、同じカテゴリーとなるように定義していれば誤った命題である。
つまり、同書の説明は、つきつめると、単に「異なるカテゴリーは異なるカテゴリーである」という同義反復を述べているにすぎないように思われる。

個人的には、この文章は「わかる」という「同じ言葉」が語る人によって別のこと(別のカテゴリー)をあらわされているだけ、それがより適切な説明のような気がする。

脳科学者が言う「わかる」とは、例えば、「脳の中でどういう物質とどういう物質が相互作用して、どういう細胞とどういう細胞が相互作用し…その結果、個体全体として、どういう現象がおこるのかということが微細にわかるようになり、脳のDNAレベル、細胞レベル…というふうに展開していく現象のヒエラルキーの総体がわかっててきたら、嗜好・情感などという心の現象も、物質的に説明できるようになる」こと(利根川進「私の脳科学講義」)という意味であり、すなわち、心として観察されるものと科学的観察結果(物理的反応システム)が一対一で対応できるようになることなのだろう。
他方、一般人の「わかる」というのは、科学的メカニズムが解明されるということでなくその説明で「納得できる」ということが近いのではなかろうか。
そして、心脳問題では、前半の「脳がわかれば」の「わかる」は「脳科学者」のわかるを、後半の「心がわかる」の「わかる」は一般人(ないし哲学者)のわかるという別のものをあたかも同一であるがごとく扱っているという、その意味でのカテゴリー・ミステイクをしているのではなかろうか。

このように、カテゴリー・ミステイクにおいて、現実的に、一番問題となるのは、同じ言葉にもかかわらず、その中に、異なる多くのカテゴリーを有している場合ではなかろうか。しかも、日常生活では、よほど厳密に言葉を取り扱っていない限り(すなわち、「普通」は)一つの言葉に複数の意味が気づくと気づかざるとにかかわらずこめられている(厳密なはずの哲学ですら、その点に注意しながら見てみると、いい加減なものがほとんどである。逆に、これが現在の人間の「性能」限界ということでもある。)

そして、それに気がつかず、自分一人の発言の間で別々のカテゴリーで用いながら、それに気がつかないために空虚な妄想に陥ってしまったり、あるいは、同じ言葉について互いに自分が使っているカテゴリーが他方とは異なっていることに気がつかずに話をして、相手の発言について誤解してしまう。


これが、多くのもめごとの直接原因ないし潜在的原因となっているように思える。
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がんの治療においても、このようなカテゴリー・ミステイクはあちらこちらで生じている。

患者側が「この抗がん剤は効きますか」(心脳問題に置き換えれば、「心とはなんですか」)という質問に対して、医学側は「XXという作用機序でがん細胞の分裂を妨げるものであり、腫瘍の縮小効果はPRが○%・・・」(「大脳基底部の神経細胞が活動し、その刺激が大脳の前頭葉のXXという部位の神経細胞につながり…」)と答える。
もちろん、実際には、もっと簡単に(つまり、わかりやすいが不完全に)話しているだろうが根本的にはこのようなものであろう。

というより、一般人と医学者という立場を異にする者では、使っている言葉が同じであったとしても、そのカテゴリーは異なっていることが多いように思われる。

そして、医学者においては、自分がどのような意味(カテゴリー)において「抗がん剤の効果」を語っているかはわかっている(なぜならば、大学以降という年長=客観認識ができる=になってから得たものだから)が、ややもすると、世の中には別のカテゴリーがあることも、あるいは、患者が医師のカテゴリーとは異なったカテゴリーにおいて質問していることを忘れているように思える。
あるいは、別のカテゴリーにおける説明は「医師」の領域ではなく(これは、ひょっとすると正しい)、これを行うことは医師の道から逸脱すると思っているのかもしれない。もっとも、これも「医師」という言葉をどのようなカテゴリーにおいて扱うかというカテゴリー・ミステイクになるのかもしれない。

他方、患者のほうは、「普通の言葉」で語っているつもりであることが多そうである。実のところ「普通の言葉」には多くの意味があることが「普通」である。そして、ギリギリの局面で使っている言葉は決して多くの意味がある普通の言葉ではなく、その時点・その患者個人の「特有の言葉」である(はず)ということに気がつかない。

それどころか、「治療に対するアドバイスが欲しい」と言いながら、潜在的な本音は「慰めの言葉が欲しい」「嘘でもいいから安心できる言葉が欲しい」というような、カテゴリー以前の表向きの言葉と潜在的な本音が異なっていることも多いようである。
そして、本人すらもそれに気がつかず、きちんとした治療に対するアドバイスに満足感を覚えないという不幸なこともよく見受けられる。

もちろん、このような「土俵の違い」はいつでもどこでも見られることである。特に、我が国の最高機関と「されている」国会では、質問者と答弁者のカテゴリーが全く異なる意味不明の会話がよく交わされているようである。もっとも、政治通と称する方々によると、あの意味不明な会話にも当事者同士(及び政治通)だけに通ずる意味があるとのことである。
すなわち、同じ言葉を全く別のカテゴリーで使っている意味不明な会話に見せかけて、実は、同じカテゴリーで会話をしているという哲学者には想像もつかない世界らしい。

このような高度な特殊かつ無意味な技術はがん患者には不用であろうが、自分の話している言葉と医師の言葉の発音が同じであっても、まったく別カテゴリーのことがあることや、自分の潜在的本音に自分が気が付いていないために本音と異なる言葉を発しているのに対しての返答を見て、患者じゃないから(=属しているカテゴリーが違うので自分の言葉を理解してくれない)と思ってしまうことも多い。

もちろん、日常会話において、このような厳格さは必要とされることはほとんどないだろうし、また、このようなことに常に注意を払っていると簡単な日常挨拶すらできなくなるだろう。
このようなアイマイさを許容し、利用しているところがコンピューターにはできない(少なくとも、かなり将来までできそうもない)、人間の脳の不思議さである。

とはいうものの、がん治療という重大事において、さらに、その中でもポイントとなるかもしれない場面では、医師と患者で使っているカテゴリーが異なっているだろうことや、患者自身が自分の本当(=潜在的本音)のことに気が付いていないかもしれないことを頭の片隅において忘れないようにしておくことは結構大事なことかもしれない。

2009年6月 8日 (月)

複雑系

「複雑系」という(私に言わせれば)「概念」がある。
類似の概念自体は、例えば、アリストテレスの「全体とは、部分の総和以上のなにかである」のように、大昔からあるものであるが、「複雑系」ということで流通し始めたのは、1984年のサンタフェ研究所の設立のころからと言っていいだろう。
「複雑系」の概念が複雑なのか、きちんとした定義付けは見たことがない。複雑系を主張したり、研究する方であっても、とらえ方に差があり、中には、どこが「複雑系」なのかというものもあるように思える。
一応、Wikipediaでの説明を掲げておく。
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A4%87%E9%9B%91%E7%B3%BB

複雑系
複雑系(ふくざつけい complex system)とは、多数の因子または未知の因子が関係してシステム全体(系全体)の振る舞いが決まるシステムにおいて、それぞれの因子が相互に影響を与えるために(つまり相互作用があるために)、還元主義の手法(多変量解析、回帰曲線等)ではシステムの未来の振る舞いを予測することが困難な系を言う。
これらは狭い範囲かつ短期の予測は経験的要素から不可能ではないが、その予測の裏付けをより基本的な法則に還元して理解する(還元主義)のは困難である。
複雑系は決して珍しいシステムというわけではなく、宇宙全体、天候現象、経済現象、人間社会、政治、ひとつひとつの生命体、あるいは精神的な現象などは、みな複雑系である。つまり世界には複雑系が満ち満ちており、この記事を読んでいる人間自身も複雑系である。ただし研究者にとって具体的な研究成果が出しやすく、書籍などで一般読者などに紹介されやすいものとなると、もう少し小規模の複雑系あるいは限定したものとなりがちで、例えばウイルスの流行状況、大規模交通(フラックス)、バタフライ効果、エントロピー(熱力学第三法則)などが多い。あるいは、パーコレーションやセル・オートマトンなども好んで扱われる。最近では、系の自己組織化の様子をコンピュータにプログラミングして、複雑で法則がないように思える目で見えない発達形成過程を視覚化して把握しようと試みられている。

背景
複雑系は還元主義的なアプローチが適用できない系として有名である。そのため現象を単純な法則や原理に落とし込むことで理解したとする、今までの科学がとってきた基本姿勢に対し、複雑系の分野の研究姿勢はその基本的立場に関して若干の違いを持つ。複雑系の分野を貫く基本スタンスとして「複雑な現象を複雑なまま理解しようとする姿勢」を挙げることができる。
複雑な現象を複雑なまま理解しようとする学問、手法は「複雑系の科学」などと呼ばれることが多いが、その源流に眼を向けると、アリストテレスの「全体とは、部分の総和以上のなにかである」といった言い回しにまで遡ることができる。近代になって還元主義が蔓延すると、それに対して警鐘を鳴らすように、全体を見失わない見解を深化させ、個々の分野で具体的な研究として全体性の重要性を説く論文・著書などを発表する学者・研究者らが現れるようになった。現在ではこうした見解・立場の研究は「ホーリズム」または「全体論」などと呼ばれている。こうしたことに関する哲学的で深い議論は現在でも、哲学の一分科である科学哲学の世界などで行われている。現在のいわゆる「複雑系の科学」などと呼ばれているジャンルは、広義のホーリズムのひとつである、と位置づけられていることが多い。
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私に言わせれば、「宇宙全体、天候現象、経済現象、人間社会、政治、ひとつひとつの生命体、あるいは精神的な現象などは、みな複雑系である」とあるが、単に、これは現在の人間の認識・判断・処理能力と「比して」複雑すぎるということを述べているにすぎない。

昔において、複雑で人間の理解の届かないと思われていたもので、その後の科学や技術の進歩により認識・判断・処理能力が高まり、原因やプロセスが解明されてみると、人間により十分に理解可能・予測可能(単純型?)になってしまったものも多数ある。

逆に、ほとんどのものが、そのまま全体として扱うには、「人間にとって」複雑すぎるが故に、単純化・近似化(例えば、合理的経済人などほとんどの経済学で、その基礎に単純化・近似化した概念を「与件」として使っている)したり、全体をコントロールして変化させる要素を絞り込む(例えば、他の環境条件を一定とし、温度変化の影響のみを見る)ことにより、近似的に、あるいは、全体の中の一面を理解可能にしようとしてきたというのが正しい認識であろう。
なにも、ものごとが単純であると思うから、単純な把握をしようとしているのではなく、複雑すぎるので、単純化してその一面を理解し、それらを積み重ねることにより全体に迫ろうとしているということであろう。

さらに言うならば、中世を中心に、全体を論じようとして、事実と反することを含む「概念」(そもそも人間の能力で全体を把握しえないのであるから、全体を論じるとなれば、把握できない部分も含めてわかっていることするしかない。であれば、事実と反することが含まれてしまうことは不可避である)を戦わせてしまい、不毛だけならばいざしらず、それが、実際に生きている人間や社会にとってマイナスとなってしまったことへの反省もその根底にはあるのではなかろうか。

真実に迫るためには、神ならぬ人間にとっては、単純化・近似化が不可避であるとして、その有用性、すなわち、「個」を積み上げることにより「全体」を示せるのか、それとも、「全体とは、部分の総和以上のなにかである」のか、そのどちらが正しいのであろうか。
これについては、そもそも真実の「全体」が人間の能力では把握不可能である以上、正しいのか間違っているのか、明らかになるはずはない。

ただし、次のように考えることはできよう。

どのようなものについても、その見方・切り口を無限に持つはずである。
他方、人間が単純化することにより、一つの見方・切り口について完全に知りえたとして、さらに、多くの見方・切り口について知りえたとしても、有限個にすぎない。
したがって、個をいくらつみあげてもまだ「残り」があることは自明であろう。

ではあるが、知りえた見方・切り口が全体に占める割合が多いならば、全体のうちの大きな割合を知りえることになろうし、また、知りえた見方・切り口が増えれば、その分、「残り」は少なくなるだろう。
あとは、これを積み重ねることにより、「残り」を限りなくゼロに近づけることができるのか、その以前に限界にぶつかるのかということである。
多くの科学者は、限りなくゼロに近づくことができるという思想・信念のもとにあるに違いない。
私も、この思想・信念は共有するものであるが、根拠があるものではない。
ただし、まだまだゼロまでは距離があり、単純化の積み重ねにより、着実に「残り」を減らせている現時点で、この当否を問うても単なる不毛な哲学論争になるだけであろう。

さらに、この点と予想・予測について考えると次のように言えるのではなかろうか。
当然ながら、単純化・近似化により得られた知見により、全体の内容が分かるほど、予測精度はあがるであろう。しかし、常に「残り」はあるのであり、この「残り」の部分が決定的な役割を果たし、その結果として、予想外の結果が生じることは当然あり得ることである。
ただし、知見が増えて、知りえている範囲が増える(残りが小さくなる)ほど、予想外のことが生じることは少なくなることとなろう。

なお、単純なことの結果が、複雑なものとなることはいくらでもある。
これについて、「複雑系」の研究者を称する人には、あたかも特別な驚くべきこととでもいうようなことが多いが、これは「複雑系」のためではなく、当該研究者の「単純性」の結果に過ぎないように思える。
逆に、単純型を扱っている研究者は、現実が「複雑」であることを不当なことと思いがちである。例えば、合理的経済人しか扱わない経済学者の中には、実際の人間が不合理な行動をとることを「けしからぬこと」と見なす方もいるようであるが、そもそも、人間は決して合理的経済人ではない複雑な存在であるが、これでは、経済学者の手に余るために、近似として、合理的な人間という仮定(単純化・近似化)をしたのである。間違っては困ってしまう。

それにしても、「複雑系」というのは魅力的な概念であるが、残念なことに(複雑系の研究者はいろいろな大きな成果が得られていると言ってはいるが)私が見たところ、たいした成果はあげられていない。
よく考えてみれば当たり前である。「全体」を扱うのは人間の能力から困難であるから単純化・近似化によるアプローチにつとめている段階である。少なくとも、現時点で得られている単純化・近似化による成果の積み重ねでは、まだ不十分であるということは正しいとしても、だからといって、人間の能力を超えている「全体」に一気に迫ろうとしても、大きな成果があがる可能性は低いだろう。
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抗がん剤治療も複雑である。

がんの種類によって効果の出る可能性はかわるし、効果の出る可能性の高い抗がん剤であっても患者ごとに異なる。
さらに、同じ患者に対して、ある抗がん剤が効かなくなっても別の抗がん剤と組み合わせると効果が出ることは、それなりにある。
逆に、組み合わせて使っていた抗がん剤が効かなくなっても、種類を減らして、その分、薬量を増やせば効くこともある。
同系統の抗がん剤であれば、ひとつが無効ならば、他の抗がん剤もたいていは効果が出る可能性は低い(交差耐性)が、交差耐性が低いものもある。
さらに、放射線など他の治療との組み合わせということもありえる。

効果について、少し考えただけでも、いろいろな要素があるが、副作用というファクターも当然ある。

さらに、主治医など医療側の方針(価値観)や、患者の価値観も多様である。

また、抗がん剤治療は進歩中であり、毎年、治験などにより新しいデータが示されたり、新薬が出たりする。
新しいデータといっても、被験者数などによりその信頼性は異なってくる。新薬も当初喧伝されていたよりも実際の効果が「何故か」低いということも、ままあるらしいので、このようなことに対する注意も必要とされる。

しかも、治験データは、ある抗がん剤(の組み合わせ)を、ある一定量(ルールに基づく減量ありというものもあるが、減量ルールは単純なものでしかない)投与した結果を、数個の尺度に基づいて評価した、いわば、一点に対するものにすぎない。そして、広大な抗がん剤治療の中で、これまでに得られている「点」の数は極めて少ない。
例えば、効果は認められるが副作用が許容できないため、減量せざるを得ない場合、薬量80%ならばどの程度副作用が低減する可能性が高く、効果はどの程度の低減が見込まれるのか、といったデータはないと言って過言ではない。

そして、標準的治療は、この程度にすぎない「点」データをもとに、しかも、信頼性の高いデータにしぼった上で、かつ、医学的観点のみという立場において、一番ベストのもの(しかも統計上であるので個々の患者ではやってみないとわからない)という、近似化・単純化というのすらはばかられるようなものにすぎない。

ただし、誤解されては困るのは、どこかのU澤医師のように標準的治療が「悪」のごときことをいうつもりはない。

そもそも、EBM(Evidence based Medicine)の重要性が認識される前(日本では、ほんの十年程度前)までは、このような点データすらも考慮せずに、医師がその経験のみに基づく治療(もっと正確には教授に指示されたとおりの治療)を行っており、その結果を客観的にデータで反省してみたら、余命延長にほとんど寄与が認められないという悲惨なものであったのである。さらに言うならば、実態が悲惨ということすら認識されていなかったのである。

このことから、個々の医師の経験と勘のみに基くのではなく、データ(エビデンス)に基づくべきであるということで、EBMさらに、(信頼性が高い)エビデンスの中から、一番、医学的に良いものを標準的治療とするものであり、これ自体は、立派な努力であり、悪口雑言の対象とは思えない。
もちろん、あくまでも個々の患者が、平均データであるわけはないのであるから、これをベースに調整がなされるべきだろうし、それを怠る病院・医師に対して、悪口雑言を言うのであれば意味はあろう。

ただし、U澤医師が「悪質」なのは、標準的治療の成果が残念ながら高くないのを責めるのはいいが、評論家でなく、医師である以上、より良い方法を提示できなければ無責任であろう。)
どうやら、本人は自分が行っている「わけのわからない」治療(本人が理由にならない理由で、具体性のない定性的なこと(一般的には「お題目」という)しか明らかにしない以上、これは名誉棄損には当たらないと考える)が優れていると称するものの、その具体的なデータは隠したままである。少なくとも、相手に対して、そのデータに基づき批判し、自分のほうが優れていると称するならば、当然、自分のデータを示さないのは、嘘ツキか、ダブルスタンダードの卑怯者であろう。

さらに言うならば、過去、抗がん剤治療の成績が悲惨だったことは、よく書かれているので、データで検証を行わない個々の医師の経験のみに基づく唯我独尊の治療の危険性を知っているはずなのに、その矛盾には黙して語られない。

もちろん、U澤医師の信者の方々には無視していただいて結構であるし、U澤医師に超能力があり、個々の患者に適した抗がん剤は一目でわかるという「可能性」は否定はしないが。
(
ちなみに「黙って座ればピタリとわかる」という易者を私は信用しないが)

かなり、脇道にずれてしまったので、もとに戻す。

標準的治療は無視すべきものではないが、ほんの少しの点データから選んだというものにすぎないというそれが絶対であり修正が許されないとするには「貧弱」すぎるものである。

点データとても、ないのとあるのを比較すれば大違いである。
といって、単純系(単純化・近似)ほどの内容や精度があるわけではない。
これが、現在の抗がん剤治療の医学的レベルなのである。

したがって、それが、複雑系である抗がん剤治療をきちんとあらわしており、それを適用すればそれなりの近似解が得られるというものではない。

抗がん剤治療は、治療自体が未熟であり、現在進行形のものであるが、さらに、その時点で実現している抗がん剤治療の何が個々の患者にとってベストであるかもわからない。

であれば、どんなに貧弱なデータであろうと、それをベースにした上で、さらに、患者ごとの効果・副作用という個々の現実に即して、より良いと思われる方法に修正しながら行っていただく。
これしかないと思うが、どうだろうか。

当然ながら、患者側において、データ点から離れる、すなわち、多少は別として未知の領域に入ることに対するリスクを受け入れることが大前提であることは忘れてはならないが。

2009年6月 1日 (月)

「ホウレンソウ」でのキーワード

ビジネスに限らず、医師と患者の間の「ホウレンソウ(報告・連絡・相談)」の重要性は何回か書いてきたはずであるし、また、患者側はメモを用意しておくと良いということも書いた。

ところが、現実のホウレンソウでは、一番大事そうなポイントは別として、二番目とか三番目になると忘れたりする。
あるいは、後になってから、ホウレンソウに入れておくべきだったことに気がついたりする。

そういえば、ホウレンソウの重要性はよく言われているが、効率的・効果的・有効なホウレンソウのやり方(具体的にホウレンソウすべき内容の選択)は目にしたことがなかったように思える。
具体的な内容が不明では、ホウレンソウはただの念仏になりかねない。信・不信は問わず念仏を唱えれば救われるという宗派もあるようだが、仏の世界はいざ知らず、現実の世界では、きちんとしたホウレンソウでなければ、「あいつはホットけ」になりかねない。

日経ビジネスの連載コラム「熱血Dr.の診療日誌」に江田証氏(江田クリニック院長)が「患者版「ホウレンソウ」の心得」という記事を書かれていた(日経ビジネス2009518日号)ので、一部を抜粋させていただく。
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ビジネスの世界で要領の良い「ホウレンソウ(報告・連絡・相談)」が円滑な業務遂行に不可欠なのと同様に、良質な医療を受けるには、多忙な現場で働く意志と上手にコミュニケーションを取ることが重要だ。事実、米国では、より良い医療を受けるための患者教育が学校などで行われている。
では、医師とのコミュニケーションを円滑にするためには何が必要か。まずは症状を簡潔に伝えることが重要だ。話が飛んでまとまらないと、医師に敬遠されるだけではなく、正しい診断をしてもらえず、命を落とす恐れもある。
ここで、症状を伝える上で役立つキーワードをお知らせしたい。それは、表に示した「LQQTSFA」である。Hさんの腹痛を例にまとめてみた。

「LQQTSFA」のまとめ方

キーワード

意味

Hさんの腹痛の例

L(Location)

場所

みぞおちから右下腹部に痛みが移動していった

Q(Quality)

性質

しくしくと痛む

Q(Quantity)

程度

今までに経験したことがないほど痛い

T(Timing)

時間

痛み出したのは昨日。食事時間とは関係ない

S(Sequence)

経過

どんどんと痛みが強くなる

F(Factor)

関連要素

食べ物との関連はない

A(Associated

  Symptoms)

随伴症状

高熱とは聞け、嘔吐がある。便は正常


Hさんの症状を聞き、私は虫垂炎と診断した。決め手は「Location(場所)」だった。虫垂炎は最初にみぞおちが痛くなり、時間とともに痛みが右下腹部に移動する。初期に嘔吐があるために、「胃腸炎」と誤診されることが多い。
この「LQQTSFA」は、あらゆる症状を伝える上で有用である。メモを書いてきてくれる患者もいるが、冗長で要領を得ないと、かえって時間がかかってしまうと思う医師は多いのだ。
「LQQTSFA」を基に「医療リスクマネジメントメモ」を作り、診察時に提示すると、医師の判断の助けになる。日本の患者の医療リテラシーもきっと上がるだろう。
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医療でもホウレンソウが重要なことはいうまでもない。
特に、副作用については、「気分の悪さ」とか「吐き気」や「しびれ」など患者本人にしかわからないものも多い。これらは、患者が医師にきちんとホウレンソウをしなければ、医師には伝わらない。
もちろん、医師にとっても、適当な対症療法がなく(例えば、吐き気は多くの場合、吐き気止めにより対応できるが、しびれでは、試してみる価値のあるものはあってもそれほど有力なものはない)、また、かわる有力なレジメンもないため、どうしようもないものもあるかもしれないが、対策があるものもある。
少なくとも、副作用があることを医師に伝えなければ始まらない。
効果については、患者の主観とか、単な好不調の波にすぎないことも多いだろうが、経験豊富な医師ほど、客観的な検査データと組み合わせて、より深く・適切に効果の判断をすることができるであろう。

ホウレンソウが重要であることは間違いがないとしても、適切なホウレンソウとはどのようなものかについては、患者側で知ることは難しい。

確かに、吐き気一つをとっても、投薬直後から吐き気があったのか、数時間後なのか、次の日の朝なのかということで判断は異なるかもしれない。
もちろん、吐き気といっても、その程度もあろう。さらに、食事についても、食べていない~消化の悪い脂ぎったものをいっぱい食べてしまったまで色々だろう。ひょっとすると、副作用と思っていたら、軽い食当たりだったのかもしれない。

適切なホウレンソウについて、具体的に「LQQTSFA」というキーワードでまとめられたものを見ると、自分のホウレンソウについても、重要だと思ったことは伝えているものの、LQQTSFAの全てではなく、ポイントであったかもしれないことが抜けていたこともあったのでないかと反省している。

しかし、なによりもこの記事を歓迎するのは、このような情報発信を医師側がしてくれることである。
さらに、この「LQQTSFA」が(アルファベットでは「とりつき」にくいので、うまく翻訳して)多くの病院の待合室に掲示してあり、また、持ち帰り用のチラシが置いてある・・・こうなれば、日本の3分間医療でも多少は内容が濃くできるのではなかろうか。

患者に対して、説明の要領が悪いと一方的に言うだけではなく、このような、より良い患者に育てる努力(それも、待合室掲示やチラシならば手間はかからない)に医師側も努力をお願いしたい。

なお、この記事について、二つの大きな不満がある。

ひとつは「メモを書いてきてくれる患者もいるが、冗長で要領を得ないと、かえって時間がかかってしまうと思う」のは事実かもしれない。
しかし、メモもなく、冗長で要領を得ない説明を口頭でやられるのと比べてほしい。
多分、要領の良いメモならば1分で済むところ、冗長で要領が悪いメモならば読んで理解するのに数分かかり、不足している情報を得るための質問・回答にさらに数分間かかるかもしれない。しかし、冗長で要領を得ない説明を口頭でやられるならば、これだけで十分や二十分はとんでしまうであろう。
また、患者側のメモを作るという前向きの努力に対し、思っているとしても「かえって時間がかかってしまう」などというマイナス評価(しかも、実態は時間節約になるはず)を一般向けの雑誌に書くというのは、江田医師に驕りを感じるというのは言い過ぎだろうか。このようなことは書かずに、ホウレンソウでポイントを落とさないためにはというだけで十分なはずである。

もう一つの不満は、極めて簡単である。
患者側から医師へのホウレンソウが下手であるとしても、患者は素人であり、やむを得ない面もある。このために、このような啓発記事は大事である。
ところが、玄人のはずの医師から患者側へのホウレンソウがきちんとどれだけなされているだろうか。
一般誌なので、患者から医師へのホウレンソウがメインであることは理解できるが、医師から患者へのホウレンソウについて一言も触れられないのは疑問が残る。
医師が患者に対して、しっかりしたホウレンソウをしているならば、患者側にも自然とホウレンソウに対する姿勢が備わるはずである。
もしも、患者へのホウレンソウを軽視しているならば、そのような医師に患者から医師へのホウレンソウが下手だとは言ってほしくない。
江田医師が患者に対するホウレンソウの達人であることを祈る次第である。

2009年5月25日 (月)

なぜ、新型インフルエンザが見つかったか?

国内初の新型インフルエンザは、国内で人から人への感染が生じていた状態で、かつ、高校バレーボール部を中心にセミ・パンデァックに至ってから見つかった。

ということで、「なぜ、新型インフルエンザが見逃されたのか?」という題名で記事を書こうかと構想を練っていた。

筋としては、

1.「空港等での水際対策→潜伏期などにより水際で発見されなかった者が見つかる→隔離治療→当然ながら、完全はありえないので、それでも人から人への感染→封じ込め→蔓延期の対策」という最も起こりえるシナリオが想定されていた。
2.
医療資源などには限りがあるので一定のシナリオを作り、資源配分の最適化を図ることはやむを得ないし、全ての入国者を一週間隔離・観察することもできないことを考えれば、これはおかしくない。
3.
また、シナリオ自体は自然であり、水際対策がどれくらい有効化というような各部分の評価は別とすれば、おかしなものではない。私も、最初は、水際から漏れた者でなく人から人への二次(以降)の感染者が最初に見つかったのはびっくりした。
4.
これはシナリオを信じすぎてしまい、患者のフィルタリングに「渡航歴」をつけてしまったためである。医療資源から、フィルタリングを行うことはやむを得ないことかもしれないが、そのリスクも認識しておかねばならなかった。
5.
抗がん剤治療でも、治験や治療経験をもとに、最も起こりえるシナリオを想定し、特に注意すべき副作用を考えておくことは有意義であるが、シナリオ通りにいくとは限らないので、シナリオが100%と勘違いすべきではない。

というようなことを考えていた。

ところが、日経メディカルオンラインに「なぜ渡航歴ない新型インフルエンザ患者を拾い上げることができたのか?」という題名で、「国内1例目の新型インフルエンザ感染者が確認された。患者には渡航歴がなかったため、なぜPCR検査が行われ、拾い上げることができたのかについて話題になっている」として「この点について、静岡がんセンター感染症科部長の大曲貴夫氏に解説してもらった」記事が載っていたのをたまたま目にしてしまった。
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 ひと言でいえば、現場の医師の感覚はやはりするどい、ということだろう。

 現在 日本で主に流行している季節性のインフルエンザはB型で、A型は流行していない。それなのにクリニックの医師が診た高校生は、迅速検査でA型陽性だった。この地域の高校生の間でこの時期にインフルエンザ様の症状を訴える方が増えているとの情報もあったようで、これはおかしいと、検体を公的な検査機関に送ったのではないか。

 検査までには3日かかっている。これについては、おそらく検査機関が渡航歴のある発熱外来受診者の検体のPCR検査を優先したのだろう。渡航歴のない人の検体が後回しになるのは自然なことだ。

 今回の事例について、「PCR検査をするまでに3日かかった」と、またもや非難論調が出ている。しかし私たち医師はそこを問題視するのではなく、全国的にはむしろB型インフルエンザが多いこの時期に、A型が限られた地域で多発していることに対して「何やら異常である」という感覚を持てることの重要さを、この事例から改めて学ぶべきだと考える。
(
以下、略)
http://medical.nikkeibp.co.jp/leaf/mem/pub/opinion/orgnl/200905/510717.html
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この記事では明確に書かれていないが、地域の医師間では、この時期にしてはインフルエンザ患者数が多いとか、A型の率が高めということが話題になっていたそうである。

つまり、国の定めたシナリオがどうであれ、実際の現場データーに不審な点があるということで、ある病院の医師がシナリオよりも現場データーを重視してPCR検査を依頼していただいたおかげで、流行が、高校バレーボール部中心のセミ・パンディアック段階で新型インフルエンザ患者を拾い上げることができたということであろう。

もしも、国がシナリオに基づく対策に力を入れる(これは必要であるし、限られた医療資源からやむを得ないことだろう)だけでなく、そのリスク(シナリオ通りに進む可能性が高くとも「絶対ではない」)も念頭に置いていれば、例えば、インフルエンザ(症状)の発生数やA型の比率を地域ごとに把握して「変なデーター」はないかということをチェックするようなシナリオ以外のことに対する警戒網をはっておくような補足対策がなされ得たはずと思うがどうだろうか。

もっとも、現場のことを知らず、ただトップ・ダウンの指示・監督しかできない厚生労働省の立派な医師免許をもった「役人」には、このようなボトム・アップ型の対策は発想のはるかに外かもしれないが。

この記事を読んでいるうちに、なぜ見つからなかったのかということを追求するよりも、なぜ見つけられたのかということから教訓を汲みだすほうが建設的に思えてきて、本記事の題名を「なぜ、新型インフルエンザが見つかったか?」に変更したのである。
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ところで、抗がん剤治療にしても、エビデンス(及びその医師の経験)から、効果や特に副作用について、もっともありそうなこと(シナリオ)を念頭に置きつつ治療を進めていくことは重要であるし、副作用の予防・緩和対策や見落としを防ぐためにも重要だろう。

しかし、個々の患者はシナリオではない。
いや、シナリオは平均値であり、平均値とまったく同一という患者は少数派ではなかろうか。
シナリオがどうあれ、個々の患者ごとの状態(インフルエンザの例でいえば、この時期にしてはインフルエンザ患者が多い)を全体的に把握して、変なことが混じっていれば、対応なり注意深い経過観察をする。

シナリオは、よしんばどのように優れたシナリオであってもシナリオにすぎない。
目の前で展開されている事実を観察し、おかしなことがあればシナリオに拘泥しない。
これが重要ではなかろうか。

2009年5月18日 (月)

「効用の最大(?)化」と「病院選択」

経済学でよく用いられている用語に「効用」(utility)」がある。

Wikipedia
で「効用」を検索し、その一部を抜粋すると。
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効用

効用(こうよう)とは、ミクロ経済学の消費理論で用いられる用語で、人が財(商品や有料のサービス)を消費することから得られる満足の水準を表わす。対語は非効用(不満足)。見込まれている効用は期待効用

近代経済学においては、物の価値を効用ではかる効用価値説を採用し、消費者の行動は、予算の制約のもとで効用を最大にするように消費するとされる。また利潤の最大化をめざす企業部門に対し、家計部門は効用の最大化をめざすものと仮定される。一方、マルクス経済学においては、物の価値を労働ではかる労働価値説を採用している

効用を測定する方法としては、基数的効用(Cardinal Utility)と序数的効用(Ordinal Utility)とがある。前者が効用の大きさを数値(あるいは金額)として測定可能であるとするのに対して、後者は効用を測定不可能ではあるが順序付けは可能であるとする点で異なり、両者の違いは、これは効用の可測性の問題として、効用の概念の発生当初から議論の対象であった。
当初は基数的効用の考えが主流であり、効用は測定可能で、各個人の効用を合計すれば社会の効用が計算され、また、異なる個人間で効用を比較したり足し合わせることも可能であると考えられた。
しかし、効用の尺度として客観的なものを見出すことができなかったため、現在では多くの経済学者が、「ある選択肢が、他の選択肢より好ましいかどうか」という個人の選好関係をもとに、より好ましい財の組み合わせはより大きな効用をもつ、という意味での序数的効用によって効用を考えている。序数的効用では効用は主観的なもので、異なる個人間で比較することも、各個人の効用を足し合わせて社会全体の効用を測定することもできないとされる。

フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より抜粋
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8A%B9%E7%94%A8
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効用といっても、さすがにすべてのものが同一尺度で計測できる(ということは、金銭に置き換えられる)という「基数的効用」については素朴すぎて、人間の実態に合わないと感じる。
それに比べれば、人間は意識・無意識にかかわらず、常に物事を選択しているはずだから、ABを比べてどちらが望ましいかという順位付けのほうが、より正確なように素人ながらも思える。(もちろん、同一人物であっても、この順位は不変ではなく、環境条件などにより異なることはあろうが、ある一瞬をとらえれば順位付けができるはずである)。そうでなければ、等距離に置かれた二つの干し草のどちらも選択できずに飢え死にしてしまったロバになってしまう。

そして、「行動は、その置かれた制約のもとで効用を最大にするようになされる」という近代経済学の仮定もごく当たり前のように思える。
しかし、これには反対もあるらしい。

「市場の秩序学」(塩沢由典、ちくま学芸文庫)の第7章及び第8章を参考にしながら説明したい。

第一の反対は、人間の行動はそれほど合理的なものでなく、衝動買いのような非合理に満ちているというものである。
しかし、客観的に非合理に見えようと、あるいは、冷静になってから後悔するとしても、その人にとって、その瞬間は効用を大きく判断していたということだろう。衝動買いほど極端でなくとも同一物への評価が異なってくるというのは普通のことである。
それ以上に、衝動買いのような非合理が存在するとしても、全体から見れば、合理的な選択がなされているので、経済全体を考える経済学としては反論に当たらないというほうが「経済学」らしい意見かもしれない。

第二の反対は、効用を最大化するというなかには、将来時点で手に入る財の購入や将来に備えての貯蓄が含まれるが、その判断は当然将来のできごとに依存する。そして、未来は人間にとって不確実なものであるから、個人の効用最大化の選択能力はおおいに制約されるというものである。
しかし、人間は、意識・無意識にかかわらず、将来のことも念頭に入れながら、常に行動しているはずである。もちろん、その予想にどれだけの脳内資源を割いているのか、とか、どの程度正確なのかということは問題ではあるが、といって、将来が不確実だからといって、目の前のことを選択(行わないという選択も含めれば)しないことはありえない。
これは、効用最大化の判断と、その結果(時間がたった後の)を見れば、必ずしも最適ではなかったということであり、選択の時点で効用最大化の判断がなさけれなかったということではない。

第三の反対は、もっと興味深いものである。
効用を最大化するためには、対象物について知らなければならない。知らないものについて価値判断はできない。
ところで、あなた(一人の人間)は、どの程度の数のものについて、きちんと効用を判断するに足る知識を持っているだろうか。
10
個はあるだろうし、100個あるかもしれない。しかし、一万個とか十万個ならばどうだろうか。
ちなみに大型のデパートの商品数は十数万個らしいので、デパートの買い物で効用最大化しようとしても知識不足で途方に暮れることになってしまうというものである。
たしかに、経済学は、経済学として取り扱えるようにするために多くの仮定(単純化)を置いているが、それが現実にあっているとは限らない。
第一の反論も同根であるが、人間は決してスーパーマンでも合理的人間でもない。ただ、現在の人間の限られた能力の中で経済を研究しようとすると、このような単純化をせざるをえないというだけのはずである。
ややもすると、単純化のために行った仮定が現実であり、仮定と異なる現実が間違っているとする学者がいらっしゃるようであるが勘違いされては困る。
もちろん、このような観点からの経済学もあり、興味深い結果を出しているらしいが、(私が)知らないことを(私が)このブログで論じることはできない。(←たまには、知らないのに知っているふりをしていることもないと断言しないが。)

第四の反対も興味深い。
第二・第三の反論は、人間が全知のスーパーマンでないということを論拠にしているが、よしんば、人間が全知のスーパーマンであり合理的人間であるとしても、「現実的」に最大効用の選択は不可能であるというものである。
例えば、与えられた予算の中で10個の商品のどれを買うか(及び現金として取っておくか)について、最大効用を考える。
この際、注意しなければならないのは、A及びBという商品の各単独の効用と、ABを同時に有することの効用は異なるということである。同時に持つことにより、相補い個別よりも良くなることもあれば、ほぼ同じものならば、二つ持ったからといって、ひとつ持つ以上の効用増加は少ないかもしれない。つまり、いろいろな組み合わせを、それぞれ比較するしかないということである。
10
個の商品について、それぞれ買う・買わないという選択があるのだから、組み合わせは荷の十乗で約1000。1000のものをそれぞれ比べると約50万回の比較が出てくる。
もちろん、予算の枠内とは限らないので、その比較が必要であり、逆に、これにより候補が絞られて楽になるかもしれないが、いずれにしてもかなりの数の判断が必要となること自体は間違いないであろう。
ちなみに、ひとつの判断を、脳機能にとって瞬時といえる0.01秒としても50万回の判断には1時間20分かかる。
所要時間は累乗的に増えるので、20個ならば組み合わせは百万以上、比較判断は五千億回以上となり、簡単に人間の一生を上回ってしまうだろう。
もちろん、厳密な効用最大化ではなく、おおよその効用最大化(例えば、厳密な最大化と誤差数%)とすれば、かなり時間は短縮できるが、といって、それほど商品数が増やせるわけではない。
これについては、効用最大化とは別の原理がいくつか提案されているようであるが(例えば、ある行動は(他の可能な選択肢と関係なく)あらかじめ決められたある希求水準を超えていれば選択されるという「満足原理」。)

もちろん、この「満足原理」に従っうことがベストとは限らない。
ある商品を買った後で、もっと高い希求水準を満たす商品が現れたが、もはや予算の関係で買えないということもあろうし、最初に甲商品を買っていたがために、後で見た乙商品の効用が低くなってしまったが、甲商品を買う前に乙商品を見ていれば、乙商品のほうが絶対的にも(価格に対して)相対的にも効果が高かったということも起こるであろう。
つまり、この原理に従うときは、人はしばしば後悔することになる。
こうした事態を避けるためには、希求水準の調節が重要である。希求水準が高いほど失敗が少ないという意味で賢明な買い手になるが、あまり高くなると何も買えなくなってしまう。

経済学に照らしてみると、本当に買い物とは難しいものである。
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経済学者でなくとも大変な選択はある。そして、その効用の大小が日常の買い物(しばしば後悔することがあっても大きな悪影響はない)とは異なり、その効用の大小が大問題なものもある。

(
お金持ちならば別であろうが)マンションなどの不動産や自動車という高価であるが、買い替えることが少ないものはその典型であろう。
しかも、これらは、高価であり、買い替えることも少ないため、経験・知識が十分であるとは限らないからなおさらである。

ところで、がん治療での病院選びも重大な問題のはずである。
がんの治療が成熟しており、どこの病院であろうと同様の治療がなされる(と思っている人も多いらしいが)ならばともかくとして、個々の病院により、技術・能力そしてどのような治療を目指すかということがバラバラな現在では、なおさらである。
(
もっとも、早期がんで、かなりの確率で手術しておしまいということならば、病院によるバラつきも少ないので、それなりの病院ならば大差はなかろうが。)

しかし、買い物同様に、がん治療の病院選びに効用最大化を図ることは現実的には困難である。

まずは、「衝動買い」。
○○がんセンターとか大学附属病院という名前に衝動買いをしてしまう危険性である。標準的治療という考え方が広がった現在ならば、このようなブランド病院ならば明らかに誤った治療はされない可能性が高いので実害は低いだろうが、自分が受けたい治療についてきちんとした希望をお持ちの方ならば、それとのギャップに不満を持たれるかもしれない。
それ以上に問題なのは、甘い言葉のトンデモ医療機関に引っかかってしまうことである。
また、トンデモに近い病院を無知なマスコミがスーパー病院であるかのごとく報道したりすることもあるから、注意が必要である。
人間には衝動買いのような、客観的に見れば不合理極まりない選択をしてしまうことがあるということを理解して、うまい話には衝動買いすることなく、主治医なりセカンド・オピニオンという冷静な第三者の意見を参考にすべきであろう。

第二の「将来不確実性」。
たいていの患者は、がんになったのは初めてだろう。また、家族などにがんにかかられた方がいたとしても、その経験どおりになることは少ないであろう。
もちろん、調べれば、「平均的」な経過はわかるだろうが、平均どおりに経過をたどる方は少ないはずである。
つまり、将来、どのような治療が必要となるのかについて、十分な情報もないし、あったとしても、それがそのまま当てはまることは少ないのである。
極端な場合、間違いなく早期がんと診断されたため、外科手術能力を重点に病院を選択したのに、開腹してみたら転移が見つかったとか、確率が低いのに運悪く再発してしまい抗がん剤治療が必要となる可能性もある。
ちなみに、外科・内科(抗がん剤)・放射線・緩和といったすべてに優れた病院を選べばよいと思われるかもしれないが、少なくとも、現在の日本にそのような病院は存在しない。よしんば、それに近い病院があったとしても、ほとんどの場合、治療科ごとに独立しており、実態は、専門病院の集まり、つまり、受診している以外の科での治療は受けられないことが多い。
将来は不確実であり、場合によっては転院が必要となること(あるいは望ましくなること)もあり得ることを常に念頭において、一つの病院に「頼りきりになる」ことは損かもしれない。

第三の「情報不足」。
自由診療の病院(なぜか「?」の病院が多い)を除くと、医療機関の宣伝は極めて限定されたものしか許されていない。
そのため、個々の病院で、どのような治療がおこなわれているのか、また、そのレベルはということを調べようとしても困難である。
病院によっては、HPなどで、治療方針を掲げているところもあるが、抽象的で具体的な内容には結びつかないし、さらにいえば、掲げられた治療方針と実態が一致しているとも限らない。
なお、○○病に対する病院ベスト100のたぐいの情報は、限定された情報をもとに著者の主観により書かれているものが大半であり、「当たらずとも遠からず」ぐらいに思わなければならない。
ある医師(外科)が書かれていたことの中に、「医師どうしの情報ですら当てにならないことがある。医師の間でうまいといわれている先生の執刀を見てみるとたいしたことがないこともある。はっきりと言って、一緒に手術をした医師の評価はできるが、それ以外の医師の評価はできない。」という趣旨のことがあった。
一番、情報に接することが多い医師であってもそうなのだから、外部の患者に十分な情報がわかるわけはない。
また、実際に治療を受けている患者からの情報であっても、主治医が良いだけかもしれないし、さらには、たまたまその患者と主治医のウマがあっただけかもしれないのである。ついでに言えば、その患者は他の病院を知らないだろうから、他との比較ではなく、自分の主観を述べているにすぎないことも忘れるべきではない。
少し脱線するが、抗がん剤治療を行う病院ならば、使用している抗がん剤の一覧程度は示してほしい。もっとも、逆に、患者側に情報の理解能力がないから、病院側も情報提供しても仕方がないと考えているのかもしれない。例えば、使用している抗がん剤の一覧から、おおよその抗がん剤の治療レベルを推測できる私のほうが異常なだけかもしれない。
それにしても、一度選んだら、転院というのは想像以上に大変であるし、場合によっては、ほぼ不可能かもしれない。
如何にして、情報を集めるかというのは、後悔しない買い物(病院選び)のための大きな課題であろう。

第四の「現実的に評価困難」。
病院の選択においても、考慮すべき要素は多い。
外科・内科(抗がん剤)・放射線・緩和などの各治療レベルやもととなる方針。これだけでも多くの要素が出てくるだろう。
さらには、通院時間なども関係しようし、中には、病院の建物が立派かということを気にする方もいるだろう。
看護師さんもポイントかもしれない。
もちろん、ブランド病院に入りたいという方もいるだろう。
これらの要素の多くは比較困難なものである。例えば、ある特定の治療についてのレベルと通院の容易さを比較することは、困難であろう。
多くの、かつ、比較の難しい要素を、厳密に比較考慮し、最大効用の病院を探そうとしても、回答が見つからないかもしれない。

であれば、厳密にベストな病院を選択しようとするよりは、満足レベルに達する病院を探すほうが現実的であるかもしれない。
そして、その際のポイントは、希求レベル(求める満足レベル)の設定であり、これが低すぎれば、後で後悔する確率が高くなろうし、高すぎれば「ないものねだり」となってしまうだろう。

希求レベルの具体的な設定は、個々人の価値観に負うところが大きいだろうから、具体的に書くべきものではないだろう。
ただし、希求レベルの背後には、どのような治療が受けたいのかという患者のポリシーがなければ不十分なものしかできないだろうし、どのような治療が受けたいのかということは、患者自身が望ましいと考えている生き方に裏打ちされたものでなければ「もろい」ものになってしまうと考えるが、どうだろうか。

2009年5月11日 (月)

ルールべースとプリンシプルベース

最近、金融規制や会計監査の世界でプリンシプルベースという言葉を目にするようになった。

検索で調べてみたら、昨年の4月に金融庁が「金融規制の質的向上(ベター・レギュレーション)の大きな柱の一つとして、「ルールベースの監督とプリンシプルベースの監督の最適な組合せ」という考え方を示し、プリンシプルベースの監督の基軸となる主要なプリンシプルについて、関係する金融サービス提供者の代表の方と議論を重ねてきました。今般、「金融サービス業におけるプリンシプル」をとりまとめましたので公表します。」とのことなので(http://www.fsa.go.jp/news/19/20080418-2.html)、つい最近はじまったものではないようである。

ところで、プリンシプルとは広辞苑でひいてみると、「
1 原理。原則。根本。2 主義。建前。」となるが、上記、金融庁の公表資料を参考にするならば、「法令等個別ルールの基礎にあり、個人や組織(行政を含む)が物事を行う(行わない)にあたって、尊重すべき主要な行動規範・行動原則と考えられる」。そして、プリンシプルベースの規制・監督とは、「上記のようなプリンシプルに沿って、個人や組織がより良くなるように自主的な取組みを行っていくことに重点を置いていく規制・監督の枠組みである」ということになろう。

ところで、最近、マニュフェストが流行している。これについて、朝日新聞土曜版(5月9日)に次のような記事が載っていた。適宜、省略させていただくが・・・
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「毎日、漢字テストをする」
「宿題を全クラスで統一して、学力のぱらつきを防ぐ」
出席した主婦は、今年度の「学校マニフェスト」に感心しきりだった。
学校からマニフェストをもらうのは3度目。当初は「夢を持てる子供に」「のびのびと生活させる」など当たり障りのない表現ばかりで、やる気が感じられなかった。
どんな政策を、いつまでに、どうこなすかマニフェストは、数値目標や財源を示した公約集だ。言葉自体は浸透し、いまや選挙だけでなく教育の現場でも使われている。
以下、マニュフェストについていろいろと書かれているが、ここでは省略させていただく。
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この例でいえば、毎日漢字テストだとか宿題の全クラス統一がルールベースであり、夢を持てる子供とかのびのびと生活というのが、プリンシプルベースである。
ちなみに、マニュフェストは実行したかどうかがチェックされなければならないので、プリンシプルベースにはなじまないだろう。

これまで、ほとんどの行政規制はルールベースでなされてきた。
これは、ある程度詳細なルールや規則を制定し、それらを個別事例に適用していくというものであり、行政の恣意性の排除あるいは規制される側にとっての予見可能性の向上といったことによる。
先ほどの学校のマニュフェストで言えば、「夢を持てる子供に」ということを実行しているかどうかの判断には恣意が入るだろうし、父兄にしても、具体的に何がなされるのか予見できないだろうし、逆に、学校・教師にとっても、どこまで行えばマニュフェストを順守していることになるのかあいまいだろう。逆に「毎日、漢字テストをする」ならば、それを守っているかどうかということが明らかである(もっとも、人間が作るものなので100%ではない。例えば、終業式の日は“毎日”に入るのか)。
プリンシプルベース(夢を持てる子供に)では、法律も規則も変わらないのに、あるときまで問題なかった内容が、解釈(恣意)が変わったとたんに不充分(違法)とされてしまうかもしれない。これでは社会生活が不安定になってしまう。

しかし、ルールベースだけでは問題が起きるかもしれない。
第一に、すべてのことをルールにすることは不可能であり、必ずルールには隙間が生じてしまうということである。例えば、「毎日、漢字テストをする」としても、算数は?理科は?体育は?・・・
全ての科目にこのようなルールを作ったとして、漢字の書き取り以外の国語力はどうするのか。
次に、そもそも「夢を持てる子供に」というような要素(学校において勉強と並んで重要なもののはず)はルールにすることが困難ではあるのに、極めて重要なことが存在し得ることである。一般的に言えば、定性的なことについてはルールベースは対応しにくいはずである。
また、社会が変化した場合、対応するルールが存在していないことがあり得ることである。もちろん、ある程度、確実かつ大きな変化ならば、事前にルールを定めることができるかもしれないが、この変化の激しい社会では無理なことが多いだろう。また、変化に応じて、ルールを追加・変更していくとしても、それには時間が必要であり、ルールと社会の間に隙間が生じてしまう。
さらに、世の中には、常に例外的なこと・稀なことが生じ得る。このようなことを全て包含したルールは、あまりにも巨大すぎてその内容を把握することができないか、あるいは、ルールベースというには、あまりにもあいまいなものを含まざるを得ないはずである。
なお、どんなに厳密に定めたルールであっても、解釈の余地はゼロにはなりえないだろう。

逆に言えば、プリンシプルベースならば、プリンシプルに照らして判断していけば良いので、これらの問題は解決するが、恣意性・予見不能性という問題が起きることは述べたとおりである。
なお、プリンシプルベースといっても、実際には、これを
補足するセミ・プリンシプルが設けられたり、あるいは、その一部がルール化されたりすることもあるだろう。

プリンシプルベースでは、ここはプリンシパルを設ける側と適用される側がプリンシプルを共有していることが重要なのは当然である。プリンシプルの存在を知らない者にこれを適用することは困難である。また、プリンシプルの共有により、予測可能性や透明性が向上していき、プリンシプルベースの欠点が緩和されるであろう。

最後に確認しておきたいことは、ルールベースとプリンシプルベースは、背反するものではなく相補うべきものであるということである。

強制力(罰則)を伴うものはルールベースでなければならないだろう。プリンシプルベースでそのあいまいさに由来する避けられない解釈の違いで罰せられては困ってしまう。主権在民の民主国家の基礎であろう。
他方、ルールには隙間が存在せざるを得ないし、また、重要であってもルールにはそぐわないもの(定性的なもの、特に、倫理)もある。さらに、どのように厳密にルールを作ろうと常に解釈の余地は残る。
プリンシプルを明確に示し、これを共有することにより、罰則を伴うルールほどの強制力はないかもしれないが、ルールの持つ欠点を補うことができるであろう。
さらに付け加えるならば、プリンシプルをきちんとしておくことは、ルールを作る際にも一貫性を保ち、バランスがとれた、また、落ちが少ないルールとすることができよう。
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我が国の医療行政には、混合診療の禁止をはじめ、そもそも法令の根拠もない不透明きわまりないものがウヨウヨしており、民主国家の行政の体をなしていないので、ルールベースとかプリンシプルベースとか論じる前の世界である。
あほらしくて、論評する気にもならない。

ということで、がん治療について考えてみる。

そもそも医療なるものは、最近まで、そして現在でもその多くは、ルールベースというよりはプリンシプルベースの行いであるように思う。

もちろん、医師であれば、百人中九十九人は同じことを行う、逆にいえば、行わねばならないものは数多くあろうし、それはルールベースと見ることができよう。

しかし、たいていのものは、経験に基づき、医療のプリンシプル(患者のプラスになるように努める)に沿った対応がなされるし、現時点の医学では、それが最も有効というのが現実であろう。
逆に考えると、ルールベース「だけ」で対応できるならば、分厚い医療大百科とかルールを覚えさせたコンピューターさえあれば、医師は必要でなくなってしまう。
もちろん、医師(でなくとも)が、自分の専門外や最新の知見を調べるのにコンピューターは有用であろうが、医師よりもコンピューターを信じる人は少ないだろう。
もっとも、コンピューターよりも劣るお金儲け家が大好きな医師も少数ながら存在しているらしいし、医師よりもコンピューターの向こうにいる得体の知れない業者を信じている患者・家族もいないわけではないが。

では、いわゆる標準的治療はルールベースなのか。
まず、標準的治療のエビデンスとなる治験はルールベースであろう。投薬量や方法、効果や副作用の判定を各医師が経験に基づき行われたならば、客観性のある(=一般性がある)結果は得られにくいであろう。
しかし、これはあくまでも、一定レベル以上の治験で最も成績が良かった治療を示すものにすぎない。

標準的治療であっても、本来は、医師の経験と個々の患者(全身状況、投薬後の状況、患者の性格など)に応じた修正がなされるのが本筋のはずである。
でなければ、医師は不必要でコンピューターで十分である。
もちろん、標準的治療が極めて効果が高く、極めて副作用が低いというならば、この限りではないだろうが、現在の医学水準はこのようなものではない。

プリンシプルベースであるとしても、具体的な治療が違えば、効果・副作用には当然、差がある。最近までは、これらについては、医師が伝承(先輩医師(含む医学教育)の経験)と自分の経験によっているのが普通であったが、それを科学的に検証してみると想定外の結果が出るものもあった。
最近、目にした範囲では、予防目的の日常のうがいについては、単なる水ならばプラスであるが、ヨード(うがい薬)を入れるとかえって逆効果などというものがある(この治験がどこまで確実なものかはわからないが)。
ということで、プリンシプルベースの治療を支えるものとして、治験による客観的なエビデンスの重要性が認識され、その一つの結果が標準的治療ということになる。

エビデンスといっても、その重要性が認識されたのは比較的近年である。したがって、全ての医療にエビデンスがあるわけではないし、新薬治験ならば、最終的なエビデンスというより途中段階の仮のエビデンスとでもいうようなものもある。

標準的治療にしろエビデンスにしろ、プリンシプルベースの治療を進める上で、基礎となり支えるものであるとしても、全てではありえないし、ルールベースの治療などというのは遠い将来の夢なのである。
もちろん、十分な知識・経験がない医師ならば、標準的治療を行うのが一番無難であろうし、患者にとっても得策である可能性は高いだろうが。

ところで、プリンシプルといっても、「患者のため」という根本は同じであっても、それに基づく病院なり医師のセミ・プリンシプルは多様であり得る。
積極的な治療から緩和中心の治療、患者に詳細な(時には、ショッキングな)説明をするのか、必要な範囲で説明するのか・・・
少なくとも、現在のがん治療においては、早期がんなどを除けば、どれが絶対に正解というものではないだろう。
しかし、患者においても、プリンシプル(どのような治療を受けたいのかなど主観)はある。
医療側と患者側のプリンシプルがマッチしていることが、治療時の精神的QOLに重要であるが、残念ながら、そのプリンシプルを公表している病院・医師は少ない。このために、K立がんセンターは最高水準のがん治療を行うことをプリンシプルとしていると勘違いされることが多い。(K立がんセンターは治験もしているがその割合はかなり低い。標準的治療をキチンとしてくれる病院であるが、それだけと思っているほうが確かである。十年前ならば、ほとんどの病院でいい加減な抗がん剤治療しかなされていなかったので存在価値はあったであろうが、現在ではたいしたものではない。なお、標準的な治療(治療の王道)についてセカンド・オピニオンを求めたいならばお勧めできるが。)

脱線するが、医療事故訴訟(本当に医療事故なのか、さらに、事故であったとしても、医療の現状からみて許容範囲と思われるものを、悲しみの転化なり実態解明(これは訴訟制度の目的ではない)という、極端に言えば「憂さ晴らし」としか見えないものが多すぎる)により、医療関係者が萎縮し、ルールベース以外のことをしなくならないか心配である。

話は変わるが、論外の医療行政である。
どのようなプリンシプルを持っているのだろうか・・・
患者のためというプリンシプルをお持ちとはとても見えないし、医療業界を保護するというより崩壊に導いているとしか見えない。
もちろん、法令なくして規制なしという行政の常識がわかっていないのだから、法律を守ろうとしているとも思えない。
多分、制度を変えるのは大変なので、医学水準や社会が変化しても、医療制度は変更しない(墨守)、そのために、患者(国民)がマイナスを被ろうと、あるいは、医療が崩壊に近づこうと関係ないということだろう。
さらに、政治家やマスコミにいろいろといわれると、プリンシプルがないので平気でその場限り、無定見・無貞操な対応を行っても恥じない。
つまり、自分たちすら良ければというのがプリンシプルのように見える。

このため、法令に基づかないルールでしか物事が行えない。(法令の根底となるプリンシプルがないのだから)
しかも、ルールを社会変化に応じて変更しようともしない。

薬の研究開発の速度向上という変化にもかかわらず、それに応じた国内治験体制の整備はしない。
そのため、新薬の承認遅れ(そもそも承認申請すらされないというジャパン・パッシング減少も)を招いている。

はっきりといって、国内治験が必要などという日本人特殊論は放棄すべきではないか。
国内治験のレベルの低さを考えるとなおさらであるが。
さらに、本当に国内治験が必要ならば、マスコミでとりあげられた新薬や大臣のお好みの新薬を、意味ある治験とはとても言えない少数治験だけで承認するなどということはやめるべきではなかろうか。
どうも、言っていることではなく、やっていることを見る限りでは、国内治験は、単なる制度墨守と万一日本人特有の副作用があったときの「逃げ」以外のなにものでもない。
そもそものプリンシプルが「自分たちすら良ければ」であるとすれば、言行不一致を指摘しても意味がないかもしれない。

最後になるが、患者自身においても、自分のプリンシプルをはっきりさせることが必要であろう。
そして、それをルール化(具体化)していく。

「怖いことは知りたくないので無知のままでいたい」というプリンシプルのもと、「医者任せ」というルールを作り、それに従うのも一つの考えであろう。

私は「(それが結果としてマイナスとなる可能性が高くとも)前向きに進むし、進めなくなったら、前向きに倒れて少しでも前進する(ような生き方をするように努める)」というプリンシプルのもと「プラスよりもマイナスの可能性が高くとも、治療があればチャレンジする」というルールでこれまでを過ごしてきた(過ごそうと努めてきた)。
また、「現実を直視し、合理的な判断に努力する」というプリンシプルのもと、いかがわしい治療や健康食品は拒否してきたし、それ以前に、それを支えるための基礎を得るための勉強に努めている。このためにネットというもののありがたみを痛感している。

プリンシプルとその実現のための具体的なルール。
なにもない普通の日常生活ならば、このようなことを考える必要はないかもしれない。
しかし、真剣に何かを行おうとするならば、この両者は欠かせてはならないと信じるがどうであろうか。

2009年5月 4日 (月)

クルーグマン「謝罪!?」

新聞の夕刊はほとんど読むことがない。
なぜならば、載せてあるニュースは、すでにテレビ・ラジオで報道済みのものばかりである。
現在の感覚からすれば、新聞ではなく旧聞でしかない。また、その内容もほとんど掘り下げがなくテレビを持たない主義の方を除けば意味がないし、テレビを持たない主義の方ならば、そもそもニュースに関心がないであろう。

では、「読物」としての質はというと、はっきりといって、お茶の間ミニ知識を出るものはほとんどない。わざわざ、このようなものを読むのに時間をつぶすよりも有効な時間の使い方はいくらでもある。

ところが、なぜか時間があるのに、手元に読みたい本もパソコン(インターネット)もない時があり、仕方なく、朝日新聞の夕刊を読んでみたら、「池上彰の新聞ななめ読み」に「クルーグマン発言 面白く読んでもらう努力」という記事があった。

池上彰氏は、ウィキペディアによると、元NHK報道記者主幹で『週刊こどもニュース』にニュースに詳しい「おとうさん」役として出演などし、報道局記者主幹を最後に、20053月に退職し独立したそうである。そして、記者時代から一貫して、「難しく思われがちな社会の出来事を、なるべくわかりやすく噛み砕く」というスタンスを持っているとのことである。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%A0%E4%B8%8A%E5%BD%B0

池上氏の記事の内容は、下記の読売新聞と朝日新聞の記事を読み比べているものである。
まずは、両記事を読んでみてほしい。
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【読売新聞】
「日本に謝罪」…かつて対日批判急先鋒の米ノーベル賞教授

【ニューヨーク=山本正実】「私たちは、日本に謝らなければならない」――。
 2008年のノーベル経済学賞を受賞したポール・クルーグマン米プリンストン大教授は13日、外国人記者団との質疑応答で、1990~2000年代のデフレ不況に対する日本政府や日本銀行の対応の遅さを批判したことを謝罪した。
 教授は、「日本は対応が遅く、根本的な解決を避けていると、西欧の識者は批判してきたが、似たような境遇に直面すると、私たちも同じ政策をとっている」と指摘。「(3月で8・5%と)上昇する米失業率を見ると、失われた10年を経験した日本より悪化している」と述べ、経済危機を克服するのは予想以上に難しいとの見方を示した。
 クルーグマン教授は90年代後半、日銀にインフレ目標を設け、徹底的な金融緩和を促す論陣を張るなど、日本批判の急先鋒(せんぽう)だった。
 また、景気回復の見通しについては、「(景気判定では)今年9月に景気後退が終わっても不思議ではない。しかし、失業率は来年いっぱい上昇し続け、回復は実感されないだろう」とし、極めて緩やかな回復になるとの見方を示した。
 「1930年代の大恐慌では、景気の落ち込みには、何度か休止期間があった」とも述べ、回復に向かったとしても、一時的なものにとどまる可能性を指摘した。
http://www.yomiuri.co.jp/atmoney/news/20090414-OYT1T00439.htm
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【朝日新聞】
クルーグマン教授「米、日本の失われた10年より悪い」

【ニューヨーク=丸石伸一】ノーベル経済学賞を昨年受賞した米プリンストン大学のポール・クルーグマン教授は13日、ニューヨーク市内で外国人記者との会見を開き、米経済の現状について「日本の『失われた10年』よりも悪い」と厳しい認識を示した。
 クルーグマン教授は、最近の米株式市場で景気底打ちへの期待が高まっていることについて「経済指標に予想より良いものが出てきたが、これは急激な悪化のペースが遅くなったことを示しているだけで、回復の兆しとはいえない」と指摘した。
 さらに、いまの米国と90年代の日本との比較では「失業率の急上昇に悩む米国をみると、日本の『失われた10年』の方がまだましで、我々は日本よりも悪い」と言及。かつて欧米では日本の対応が遅いと批判されたが、「同じような状況に直面すると我々も同じことをしている」とし、「我々は日本に謝らなければならない」とも述べた。
 経営難に陥っている米自動車大手ゼネラル・モーターズ(GM)の救済の是非については「オバマ政権は完全な破綻(はたん)は避けようとしているが、それは簡単な道ではない」と指摘。ただ、政府支援のもとで破産法を申請させる「事前調整型」と呼ばれる処理について「アフターケアなどを考えて消費者がGMの車を買わなくなるのではないかと心配している。自動車会社は航空会社とは違う」とも指摘し、破綻には慎重な姿勢もにじませた。
http://www.asahi.com/business/update/0415/TKY200904140330.html

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当然ながら、ほとんど内容は同じである。私としては、一企業というより世界経済への影響という観点で注目されているGM救済に対する意見まで触れている点で朝日新聞の記事のほうが優れていると感じる。

しかし、池上氏の記事では(以下、記事の一部を適宜省略する)、「読売新聞の経済面に「日本批判『謝らないと』」という見出しの記事がありました。うまい見出しですね。見出しにひかれて本文を読むと、去年ノーベル賞経済学賞を受賞したクルーグマン教授が、外国人記者団との質疑応答で「私たちは、日本に謝らなければならない」と謝罪したというのです。教授は1990年代から2000年代の日本の不況時に、日本政府や日本銀行の対応を厳しく批判しました。ところが、今回の不況で米も「私たちも同じ政策をとっている」と述べ、日本を批判する資格はなかったと発言したのです。素直な発言で、日本が批判されていたころは、情けない気持ちになったのですが、少しほっとしました」と高得点を与え、他方、「朝日新聞の記事の見出しは、「『失われた10年』より悪い」というものです。「失われた10年」といえば、経済に詳しい人ならばわかる見出しですが、「日本に謝らないと」と発言したことが、見出しではわかりません。」とされている。そして、読売の記事は「書き出しが、「本文を読むと、「私たちは、日本に謝らなければならない」という発言の引用から始まってい」るのに対し、朝日の記事では「最後に発言したくだりが出てきます」とし、「見出しを作る担当者が記事の冒頭部分を引用した」ということであり「朝日の見出しが面白くなかったのは、見出しを作る担当者の工夫が足りなかっただけではなく、記者に「面白く読んでもらおうと」いう努力が足りなかったのではないかという気がします。新聞記者なら、「見出しが立てやすい原稿を書け」と指導はずなのですが」している。

しかし、よく考えてほしい。
クルーグマン教授は、米経済の深刻さを述べたものであり、その比較として、日本の失われた10年との比較を使ったにすぎず、さらにその「おまけ」として「私たちは、日本に謝らなければならない」と言っただけである。しかも、主語は「私」ではなく「私たち」となっているので、一般的な発言のはずである。
つまり、読売の記事はまったく本筋とは関係のない部分を記事を「面白く」するためにメインに持ってきてしまった厳しく言えば「不正確」な記事と言える。
ちなみに、経済の専門紙である日本経済新聞では、少なくともネット記事を読む限りでは「謝罪」について一切触れていない。
http://www.nikkei.co.jp/news/main/20090414AT2M1401B14042009.html

これがジャーナリストである池上彰氏ではなく、どこかの商売人が書いているならばわかる。
しかし、どうやら、読者に「面白く」読ませるためならば、枝葉末節の部分をメインにして、本当の内容を伝えなくともよいということがマスコミの常識らしい。

はっきりと言って、マスコミ、特に新聞は、公器であり、アンタッチャブルであるような顔をしているが、実態は、読者が面白ければ、つまり、販売部数が伸びて儲かればよいというのが本音であることが読み取れる。
その点では、とても池上彰氏のこの記事は、とても良い「読物」であった。
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ところで、このような内容の確かさ・忠実性よりも、読者の「目を引く」ことに重きを置く記事は、がん治療に関しても多い。
「多い」というよりも9割以上はそのように見受けられる。

この場合、二つのパターンに分けられる。

池上氏の記事でもわかるように記事本文を書く記者と、見出しをつけたり、割り振ったりする(その結果、記事の大事な部分が消えたりもする)担当は全く異なっている。
記事本文をきちんと読むと、「単なる実験室での基礎研究」としっかり書かれているのに、見出しの与える印象は「夢の新薬実現」であるかのように読者をミスリードさせようとしているとしか思えない、これが一つのパターンである。
多くの読者は、よほど関心を持たない限り、見出しだけ流し読んで終わりということが多い。
ちょっとでも、大事な記事であると思えたら、きちんと記事本文を読んで、見出しは忘れるように努力しないと、とんだ誤解が残りかねない。

もう一つのパターンは、記者が面白い・わかりやすい記事に努力した結果である。
罪が軽いのは、科学的(医学的)には、やや不正確ではあるものの、読者にわかりやすくしようとしすぎた記事である。これには、そもそも記者が科学(医学)の素人にすぎないことも背景にあるだろう。これは、当たらずとも遠からずでもあるし、患者もそこまで厳密な記事は求めていない(厳密すぎると理解できない)のであるから害もないだろう。
これが、もう一歩進むと、読者にとって、わかりやすいもの(物・者)をネタにしてしまうことである。よく書かれている患者の事例の多くは、かなり恵まれた、あるいは、かなりひどすぎる事例であり、ほとんどの患者には該当しない。無関心な一般読者の問題意識の醸成にはよいのかもしれないが、医療の実態を隠してしまうことにもなりかねない。患者事例の類は、「たまには」このような方もいる程度に受け取ったほうが無難である。
さらに、この流れが強まると、記者(場合によってはマスコミ全部)の思い込みなり、一面的な正義感にもとづく偏った記事になる。
病院の「タライ回し」がその好例である。単に、受け入れ容量を超えている病院がやむを得ず断ることを悪事のように書く。ついでに言えば、「タライ回し」にあった患者とか、「医療ミス(と患者側が考えているにすぎない不可効力のものがかなりあるようであるが)」の患者家族の「涙の会見」など読者の関心(単なる感情)をあおるようなものには、多くの読者=儲けと本音では思っているマスコミは喜んで飛びつくわけである。
さらに、ひどいものになると、トンデモ医療をまっとうな医療であるがごとき記事を書く。きちんとした新聞ならば、デスクがチェックしてボツになるのだろうが、部数減少のために人手がないのか毎日新聞にはこの手の記事が時折見られる。なお、トンデモ医療に限らず、似非科学を追求する人々の間では、また毎日か、やっぱり毎日かというのがよく見られるフレーズである。
ちなみに、読者に対して、面白くなくとも正確な情報(経済情報)を伝えることを存立基盤としている日本経済新聞のほうが、医学という経済専門紙の専門外にもかかわらず、比較的しっかりした記事が多いのは、「面白く読んでもらおう」という雑念とか、「見出しが立てやすい原稿」などいうことよりも、まず正確な情報提供ありきという、新聞本来の(はずの)記者教育を徹底しているのだろうかと推測してしまう。

追記
新聞の見出しで最後に「?」とあれば、これは、何か問題になった時に、「・・・という話もありますが」という意味でしたと言い逃れられるようにしてあるのであり、「!?」とあれば、「・・・という話もありますが、間違いかもしれません」という意味だそうである。
いかにも「・・・」が真実であるかのような印象を読者に与えながら、逃げを打つ・・・これが常識の新聞記事は、情報のとっかかりとし、主治医の話を聞いたりするのには良いかもしれないが、それに頼り信じるのは、少なくとも、がん治療のような自分の寿命という大事なものに対してはどうだろうか。

だから、この記事の見出しは、枝葉末節の一部(ひょっとすると単なるジョークかもしれない)かつ「私」ではなく「私たち」を主語とするものだから「謝罪!」ではなく「謝罪!?」なのである。

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